第42話 戦争の夏に蛇を放つ者は
「話が見えないな……どうして俺の部隊が増員されることになる」
用兵の達人と言えど困惑すればこのように話すものか……バルセロの様子を見ながら、ドナルドはそれを興味深く思った。一人の武人としても、一軍の将としても、ドナルドはバルセロに及ばない。戦場で彼にこんな表情をさせられる男などいやしないだろう。いや、過去には一人だけいたものだが、もういない。
火の中に消えるとはどのような気分であるものか。ドナルドは焚き火の橙色の中にその答えを求めたが、風向きから煙を浴びてしまい、目に涙を浮かべることとなった。軽く頭を振って周囲を見渡す。無惨な有り様を見せる砦を傍らにして、幾つもの天幕が千人を超える軍人たちの住まいとなっている。
行禍原会戦に先立って焼き落とされた帝国軍前線砦。再建されないままに放置されたそれに寄り添う形で、テレンシオ・バルセロ帝軍中佐の軽騎兵大隊は駐屯していた。ここの守備につけば補給に色がつくという話だからそれが目的か。それとも、隊員が言っていたように、この焼け跡に何某か思うところがあるためか。ドナルドはゆっくりと思考しながら、その視線を稀有の実力を持つ軍人へと戻した。
「……説明はないのか」
「いや、すまん、少々呆けた。顔を暖められたからかな」
思考を飛ばしていた間が彼を焦らしてしまったらしい。ドナルドはゴワゴワと乾いた両手で顔を揉みしだき、こすった。仄かに眠気もあった。このところは大陸を狭く使っている。疲れもする。
「何、陛下もお主の実力は承知しているということだ。この危急の時にあって帝国軍の最精鋭とも目される軽騎兵を無為に遊ばせておく余裕などあるわけもなかろう」
「言ってくれるな。俺は充分に仕事をこなしている」
「剣角騎士団を封じ込めていることは確かに見事。しかしお主の本領を発揮しているわけでもあるまい。こうして老兵を相手に火など用意する余裕が証拠よ」
「……古馴染みだからと歓待してやれば、これだ。全く」
面白くもなさそうな顔でバルセロは火箸を用いた。火の中から鉄の閉じ箱を引きずり出し、それを箸先で器用に開いた。湯気を吐いた後に残ったのは芋と野菜である。そこへ壺から塩を振って、ズイとドナルドの足元へ押しやって来た。
ドナルドは木箸で赤剣根を切り分け、食んだ。素朴な根菜の旨みが口内に熱く広がる。肉でも酒でもなくこれを出してくる心情を慮った。くすぐったい暖かさだった。
「一先ずは五百騎を追加する。これまでは一個増強大隊という形であったが、これで二個大隊の扱いとなるから支給品の量と品目が増えるぞ。バルセロ騎兵連隊の誕生というわけだな」
「全て騎兵で揃えていいのか」
「無論だ。どうしてバルセロの武名を冠する部隊に歩兵を混ぜようか。軽騎兵としての兵装はもう用意させてある」
「馬は?」
「私の目利きだがとりあえず八百頭ほどを準備した。そこから選り抜くといい。残りについても替え馬として使うのならば引き渡す。お主の場合、ただ渡したのでは売り払われかねないからな。軍において十頭売って名馬一頭を得るなど常識的なことではないのだ」
困ったことだと首を振って見せれば、バルセロも伏せた顔の内に笑みを浮かべたようだ。そういう前科のある男である。吝嗇をもって生活の流儀とするくせに、自部隊の戦力向上のためにしばしば無茶な金の使い方をしては周囲を驚かせた。
「二千騎でどこまでやれる、バルセロ中佐」
「……剣角騎士団を討つことはできる。しかし損害は大きいものとなるだろう」
「では討たなくていい。今まで通りにあしらっておけば充分だ。しかし別の分かりやすい戦果がいる」
「それが増員の条件か」
「昇進の条件だ。お主はこの夏を駆けずり回って、秋には帝軍大佐の地位に戻らねばならん」
強い意思を込めた言葉はどう届き、どう響いたものか。バルセロはその面に光と影とを揺らせて身じろぎもなかった。戦場に敵対したならば恐るべきその眼差しは、この場にあっても研ぎ澄まされた刃のような迫力を感じさせる。ドナルドは息を整えつつそれを受け止め続けた。
「俺は……再び三千騎を率いることができるのか?」
「そうだ。そのために私が動いている」
言いつつ、ドナルドは野菜をとって口に放り込んだ。まだ充分に熱いまま食べてしまいたかった。額に汗が流れるが構わず次を食べる。そうやって顔を上げないままにしばらくを過ごした。バルセロからは何もない。言葉もなく、恐らくは眼差しも向けられていまい。ドナルドもバルセロを見ない。
一人の武将が十数年の時間を越えて思いを馳せるのならば、そこには余人の理解を超える様々が在って当然だ。そこには他人が覗いてはならぬ熱情が在って当然だ。それを慮ることもせずに、どうして武を語らうことができようか。
荒い塩気と野菜の水気と、そのどちらもに腹を満たされて、ドナルドは息を吐いた。おもむろに焚き火に枝を向ける。炎の形を整える。
あるいは火の前であったなら……そう思うものがあった。
人は火を前にすると本質が浮かび上がる。光と熱との捉えようもない連続は心の深奥へ働きかける魔力を持っている。ドナルドはそう信じていたし、教会がそれを“拝火”として特別視していることも知っていた。分かる話だった。
ドナルドが思い返したのは、チトガ大町に出会った元傭兵の男のことだった。緑色の頭巾を被り、静かな佇まいの裏に狂気を抱えた剣士だ。腕も立つだろうが、兵法家としての強い弱いとは別のところでドナルドは気圧されるものを感じたものだ。その正体を掴みきれなかったことが勧誘の失敗であったように思う。
緑巾の男が身にまとっていた虚無の気配……あの不気味さは何だったのだろうか。ドナルドは未だにそれが分からない。口をついて出るのは自虐的な言葉であったり、国家権力の軽視であったりしたが、根っこのところでは何もかもに価値を見出していない空虚さがあった。そのくせ奇妙に悦を秘める。騙す者の冷笑でも憤る者の嘲笑でもなく、ドナルドには理解できない何某かの笑みを持つに違いない。
ある種の化物にも思えた。裏社会に群を抜く存在とはそういった者なのだろうか。ドナルドは小さく震えを覚え、それが火熱に慰められることを感じていた。欠片の栄光もない世界は骨身が冷える、そう解してもドナルドの働きどころは変わらない。彼はまだ忠節を尽くしきっていない。
「我が帝国には良将が育ってきたが、それでも往年の力には及ばない。陛下もそれは理解しておいでだ。帝国軍は人材の面で脆弱と言わざるをえない」
頃合を見計らって、ドナルドは言葉を紡ぎはじめた。バルセロは静かに聞いているようだ。
「前哨戦における損害も痛い。この場で言うのも薄情なことだが、砦を焼失したことはさして問題ではない。人だ。帝国軍は長大な戦線を維持することがより困難になってしまった……」
ドナルドの言葉には溜息が混じった。軍の精鋭で全てを揃えられるわけもなし、前軍を支える後軍にはそれ相応の人材というものが配されている。それを無視できないほどに討たれてしまった上、王国の王族を冠する部隊に名を成さしめてしまったことは痛恨だった。
「先にも言ったが、お主ほどの男を遊ばせておく訳にはいかない。帝軍大佐への昇進は最低限のことだ。私はお主に可能な限り大きな兵権を持たせたいと考えている」
「……随分と見込まれたものだな」
「遊撃軍が必要なのだ。独自の判断で効果的に動くためには才能だけでなく経験が必須だが、それこそが新生帝国軍には最も欠けているものだ。会戦のための戦力は整っているのだが」
ドナルドは脳裏に一人の女性を思い浮かべた。帝国で最も有名な女性騎士であるところのベルタ・イグナシオだ。彼女とその指揮下にある黄金剣騎士団とは会戦のために用意された、会戦に特化した戦力である。大軍の中の華として、勝利の象徴として、戦意高揚の要として、命を燃やすような戦いを期待されている。
それはかつて皇太子と近衛軍が担った役割だ。今、その再現をすることは不可能である。帝国は皇帝唯一の子であるイスマエルを失う訳にはいかないし、そもそも彼には軍を率いる才は皆無だ。新生近衛軍については調練も進んでいるが、これは最後の切り札とされていた。今の段階で磨耗させる訳にはいかない戦力だった。
我ながら酷薄な事を考えているとドナルドは内心に自嘲する。皇帝と彼とが練りに練った侵攻作戦の中にあって、ベルタと黄金剣騎士団は完全な消耗品だ。特にベルタについては冷酷で、生死を問わず英雄として扱われることが決定事項となっている。生きて勝ち続けても良し、死んで象徴となっても良しということだ。彼女もそれは承知している。それでいてなお示される高潔には、偽りから生じた真実とでも言うべきか、真の英雄の精神があるとドナルドは感じていた。
見ればバルセロもまた誰かを思っている風である。あるいは同じ人物のことかもしれないとドナルドは思った。バルセロとベルタとの間には交友があると知っていた。
「……次の会戦は秋以降か」
「そうだ。しかしそこにお主は参加しない」
火の中に木が小さく弾けた。炎の形が変わるが、どちらもそれを整えようとしなかった。
「剣角騎士団をどうするつもりだ」
「どうともせんよ。会戦に出てくるならば何れかの部隊が相対すだろうし、出てこないようであれば引きずり出すこともない。いずれにせよ討つのがお主である必要はない。お主に討ってもらいたい相手は別にいるからだ」
視線が交差し、それはどこか刀剣の間合いにも似ていた。
「……聞こう」
「ユリハルシラ侯爵領領軍の全てだ」
バチリ、と今度は大きく火が鳴った。炎がばらけて土の焼ける臭いが漂った。俄かに明るさを増した中にあって二人は共に身動きをとることもない。バルセロの目が煌々と光を発していた。刃が刃先の鋭さを向けているかのようだ。ドナルドは歯を食いしばった。
「正気を疑う発言だな」
静かな声だった。しかしその内に秘められた何かがドナルドの胆を冷やす。刃が体を貫くような感触だった。見えない剣でも振るわれたのかもしれない。
「聞かなかったことにしよう」
「そうはいかんぞ、バルセロ中佐。これは必要なことなのだ」
グッと下腹に力を込めて、ドナルドは言葉を発した。戦いを挑む心持ちだった。
「お主が大佐に昇進するその時、帝国軍は新たに三千騎をお主に預けるだろう。その全てにお主は調練を施し、次の戦場へはその中から千騎を選んで連れて行くことになる」
バルセロの困惑が伝わってきた。ドナルドの言葉の意味をどう解釈したものか決めかねている様子が表情に見て取れる。細めた目が何かを見極めようとしている。ドナルドは口の端を笑みの形にしてやった。
「心配するな。その時点におけるお主の連隊を奪おうと言うのではない。ましてやそんなことをした上で千騎のみで戦えなどと言うわけがない。私はお主に充分な力を振るって欲しい。本領を発揮して欲しいと言っているだろう」
理解の色が広がっていくその顔に向かって、告げる。
「そうだ。ただの足し算だよ。バルセロ騎兵連隊二千騎に対し、新たなに三千騎を加えるだろうと言っている。大佐となったお主は三千騎を率いて戦場へ出るが、その後方には二千騎の予備兵を抱えることになるのだ。充分に調練を施した二千騎をな」
無茶なことを言っていた。しかしその無茶を通すために様々に動いているのがドナルドだった。皇帝ライムンドがバルセロという軍人に対して抱く名伏しがたい思いは、その煩悶は、もはや解消を期待できるものではない。それならばと苦心苦慮を重ねていた。
「……何故、そうも面妖な真似をする」
「年内にもお主を帝軍准将に昇進させたいからだ」
「何、だと……?」
「そうなれば五千騎を指揮することができる。そしてその五千騎は数だけ揃えればいいというものではない。即戦力でなければならない。大佐でいる期間はごく短いものとなるだろう。お主を必要とする戦場はすぐに訪れるからだ」
細められていたバルセロの目は、今や逆に大きく見開かれていた。ドナルドは奇妙な満足感を覚えた。用兵の達人にかくも多様な表情を生じさせたことは、目立った武功もないドナルドにとって勲章のように思えたのだ。これは彼にしかできない仕事だった。皇帝ライムンドの心情を深く知り、また、バルセロという男の軍才をも知る自分だけができる仕事だ。
偉大な男たちの間に立って、そのどちらもの力を発揮させるのだ。これほどに喜ばしい仕事が他にあるだろうか。そのためになら幾らでも汚泥の沼を泳ぐ覚悟があった。
「バルセロ騎兵旅団が生まれることを私は切望している」
熱い思いを込めてそう言い放った。
「そしてその旅団の任務こそが、ユリハルシラ領における独立遊撃戦なのだ。それを可能な将軍はお主しかいないと考えている。持てる能力の全てを発揮してもらいたい」
焚き火の熱量は減じていた。しかしドナルドは己の体が火照るのを感じていた。
夏が始まる。
この夏が両国の命運を占うものになることを、ドナルドは確信していた。




