第36話 僕は征く先にあるものを
一艘の川船がゆっくりと水面を進んでいた。
まだ日に照らされて間もない大気はキリリと冷えていて、舳先に打ち砕ける水の音もどこかしら神妙な響きを持っている。澄み切った水面には小波も行儀よく控え目で、清新な青空を映してただただ青く透き通る。
「おはよう」
甲板に立った少女は誰に対して、何に対してそう挨拶したものか。小さく白い息をフッフと吐きつつ、川の流れゆく先を見据えて静かに佇んでいた。西へ面するその表情には喜びも憂いもない。頬が僅かに赤らんで彼女の幼さを示している。柔らかみもあった。
パウリーナ。
アスリア王国の第三王女は、12歳の秋を今朝も生きていた。
「パウリーナ様、お寒くありませんか?」
追いかけるように現れた女性が心配げに言葉をかけてきた。パウリーナの侍女武官であるヴィルマだ。金髪がキラキラと朝日を照り返している。その手に持っているのは暖かそうな肩掛けだ。パウリーナは首を横に振ってそれを断った。肌に触れる冷たさを綺麗なものだと感じていたからだ。
「どうしたの?」
「え? いえ、お寒いようでしたらこれをお掛けしようと……」
「何が怖いの?」
ヴィルマはギョッとしたようだった。急に身を起こしたものだから腰の細剣が金属音を立てた。カキリとしたその音はひどく不器用で、パウリーナは水面に揺られる心細さを聞いたように思った。ヴィルマは口を数度パクパクとさせ、しどもどと逡巡を見せた後、白く長く息を吐いて話し始めた。
「いつもながらパウリーナ様には驚かされます。我が身の未熟を恥じるばかりです……」
水気の多い風に浴しながら、パウリーナは吐露されるものを聞いた。
ヴィルマは動き出した運命に怯えているようだった。離宮における退屈な日々は、今年の春より劇的なものへと急変して今後も戻る様子がない。長閑な空を馬車に揺られて行った北方辺境……そこには小さな事件と大きな出会いとが待っていた。ヴィルマが運命の名前を口にした。
キコ村のマルコ。
その名を発音する時、ヴィルマの声色には小さく震えが混じっていた。いつものことだった。この半年間で、彼女が何度となく語った話がある。マルコのことだ。
月下に鬼を従える恐ろしの姿。微笑みの向こうに殺戮を潜ませる鬼気。
その光景は彼女にとって忘れたくとも忘れられないものとして魂に刻み込まれたようだ。武術を研鑽した心身であることが却って恐怖を助長したのかもしれないとパウリーナは思う。調理の仕方を知る者の方が、絶品の一皿に出会った時に心を動かされるものだから。
そんな彼とパウリーナは1つの約束によって結ばれている。
「僕は貴女を奉戴します。パウリーナ王女殿下」
大山の静けさを思わせる声だった。
「貴女は今夜、ここに弑逆されようとしていました。それを阻んだことを僕は功績と考えていません。何故なら、場合によってはそれを黙認することもあり得たからです。僕は貴女を試しました。そのことをまずは打ち明けます。謝罪ではなく事実として告げるのです。繰り返しますが、貴女は僕に試された。それをお怒りになりますか?」
それは質問ではなく確認だった。パウリーナはそれが分かっていたから、ただ首を横に振ったものだ。マルコもそれが分かっていたから、ただ首を縦に振った。言葉にしたのは周囲に聞かせるためだったのだろうとパウリーナは思う。
「大陸に再びの戦乱が訪れようとしています。それは歴史絵巻を現実に見聞きするようなものとなるでしょう。行禍原には軍旗がたなびき、将兵の血肉をもって戦功が行き来して、人々は疲弊したその顔で北の天境山脈を遠望することになります。恐らく今回は王国であれ帝国であれ、興国の興奮も亡国の絶望も味わうことがないでしょう。ただ人が死んでいくだけです。そういう戦乱がやってきます。もう間もなく……明日にでも」
予言だった。人は未来を語る時、そこに良きにつけ悪しきにつけ望みを混じらせるものだ。希望が混じったならば明日は輝かしく、絶望が混じったならば明日は薄暗く淀む。しかしマルコの言葉には何の望みも感じられなかった。パウリーナは練りあげるも放置してしまった麺生地を連想した。乾ききっていた。そうされたならば乾くことは当然で、事実としてただ淡々と受け止めるしかない……そんな話し方だったようにパウリーナは思い出す。
「僕はそれを壊そうと考えています」
防ぐでも護るでもなく、戦うでも抗うでもなく、その黒髪碧眼の人は破壊を宣言した。“それ”とは何か。何を壊すというのか。パウリーナはその何かを“歴史”であると受け止めた。人の歴史のことだと。
詳細を語る様子はなく、全てを話しきらないままに独り遥かな道を進もうとしているその人は、感情の色を欠片とて見せることはなかったが、しかし周囲へと熱を発していた。パウリーナはその熱さを感じた。外にあっては悠然として大いなるその山だが、内にあっては物凄まじい溶岩を秘めている……世界をどよもさずにはおかない程の熱量を、膨大な炎を抱えている。
綺麗だった。パウリーナは彼を綺麗だと感じた。内と外との乖離を微塵の揺らぎもなく一身で管理しきって、熱を放射しつつ世界と向かい合うその姿は輝かしく見えた。人は火を得ることによって様々な食を手に入れた。彼は火だった。彼が在ることで世界は多くを得るだろう。パウリーナは己もまた予言を得たことを知った。
「そのために、貴女を奉戴しようと思うのです。パウリーナ王女殿下」
大山が微かに鳴動し、その熱を仄かに放出することによって、それを見るパウリーナに覚悟を迫っていた。覚悟には2つあった。彼という火を受け入れる覚悟と、その火を世界へと放つ覚悟だ。もはやパウリーナと彼とは無関係ではなかった。彼女はそれを理解していた。本当の出会いは不可逆的なものだ。もう出会う以前に戻ることなどできはしない。受容するか拒絶するかしかないのだ。
「貴方は練麺が好き?」
それは運命に指先で触れる行為だった。パウリーナは何かを確認したかったわけではない。ただ触れたかった。それまでの人生で一度として起こらなかった出会いを前にして、その運命の感触を求めたのだ。
「好きになりました。もとより嫌いではありませんが、貴女の打った麺は見事なものでしたから」
「どこが好き?」
「喉越しですね。食べ方は様々にありますが、やはり練麺は麺の質が全てに影響します。麺が良ければどんな食べ方も味わい深いし、麺が不味ければどんな食べ方をしても味わえたものではありません」
「うん。人の歴史と同じ」
「ええ、その通りです。同じですね」
パウリーナは微笑み、マルコもまた微笑んでいた。素敵な感触だった。パウリーナはそれを楽しんだものだ。心身に響き渡る清澄な調べがあった。覚悟した者にとって世界の色彩は己の運命を測り占うものだ。それは素敵だった。
「私はどうするの?」
「幾久しく健やかであってください。そのために僕がいます」
「私が作る練麺を食べる?」
「それは望むところですね」
「“獣”のお話の続きは?」
「僕の続きはいずれ……貴女の続きについてはいつでもお聞きしますよ」
涼やかな音が連続して、パウリーナは自分の運命が動き始めたことを嬉しく思った。己の中に火が灯り、それが活力となっていることが分かった。そして自分が退屈していたことに気付いた。まるで初めて充分な食事を得た者が、己が餓えていた事実にようやく思い至ったかのように。
そしてパウリーナとマルコとは1つの約束を結んだのだ。マルコはパウリーナを奉戴し、パウリーナはマルコを世に放つ。選び選ばれた2人は、その結果として開けた未来に向かって運命を進ませていく。
マルコは己の予言を壊すために。
パウリーナは己の予言を迎えるために。
歴史は彼と彼女との前にその巨大な姿を露にしていて、しかし2人の足によって踏み固められることを待っているかのようでもあった。振り返れば既に踏み締めた軌跡があり、振り仰げば彼の足が正に踏みしめんと次の一歩を用意している。パウリーナはその力強さが気持ち良かった。
「……親衛団の戦果は常識の外にあります」
ヴィルマの話は続いている。川を進みつつ迎える朝は静穏な雰囲気に包まれていて、まだ朝餉の時間すらやってこない。パウリーナはこんな時間も好きだった。
「周囲は賞賛しつつもその幸運を口にします。多くの偶然が彼らに味方して、そのとてつもない戦果を与えたのだと。白流旗を幸運の旗として見る者も多いとか。初陣の御護りとして白い布巾を持つ者すらいると聞きます。そういう受け止め方をされているのです」
しかし、とヴィルマはどこか辛そうに言った。
「私は彼らよりも真実に近いところにいます。あの少年は……マルコという男は、偶然に頼って何かを成す人間ではありません。親衛団の戦果は間違いなく得るべくして得たものです。方法は皆目わかりませんが、それでも断言できます。彼はその存在そのものが常識の外にあるようで……私にはそれが……」
小さく、吐息混じりに、聞こえないような一言があった。パウリーナはそれをただ聞いていた。ポチャリと水音が跳ねて、それを切っ掛けに人の朝の営みが動き始めた。船員たちが動きを増やし、早め、それらの物音が風と水のそれを凌駕していく。水上の生活が始まるのだ。
「マルコは怖いね」
パウリーナの言葉は再びヴィルマを驚かせたようだ。肩掛けを皺になるほどに掴んでいるのが分かる。その手に己の手を乗せた。どちらも冷えていた。
「マルコはきっとそれを分かってる。だからいつも自分を隠してる。優しいね」
手と手が触れ合った場所が、どちらからともなく暖かみを生じはじめた。それを育てるようにして、パウリーナは手を小さく揺すった。
「怖がってもいいの。でも怯えちゃだめ。どんなに熱い汁物でも食べられるの。そしたらきっと美味しいよ? 湯気の向こうにどんなお料理があるか楽しみに思えば、フウフウするのは嬉しいことなの」
暖かさがヴィルマの強張りを柔らかくしていく。パウリーナはその感触を愛おしく思った。
「目の前に出されたお料理はね、運命なの。向かい合ったら、それを食べるの。以前に食べたものや、いつか食べたいと思うものは、大事じゃないのよ? 今食べるものが大事なの」
そう言い終えたならば、果たしてグウとお腹の鳴ったパウリーナである。朝餉の時間が近づいていた。水面に照り返す煌きは華やぎを増していて、俄かに漂いだした香ばしさに焼き魚の味を予断する。
「パウリーナ様のお腹はいつも正確ですね」
「うん。しっかり生きてるもの」
ヴィルマは笑顔になっていた。水面と同様に、その艶やかな金髪も光を増していた。パウリーナはその輝きを楽しんだ。一生懸命な彼女の事が好きだった。
「朝食が楽しみですね」
「うん。魚だね。もう口がその用意」
「マルコ……と会うことも楽しみですか?」
「うん。今から足がうずくもん」
踏み踏みとして見せるとヴィルマは更に笑顔になった。上等の軽麦粉を大量に持参しているから、今回は前回以上に練りに練るつもりのパウリーナである。滞在期間もそこそこにあるので安心だ。様々な味で楽しみ、様々な味で楽しませるつもりだった。
「楽しみですね」
ヴィルマの手はとても暖かになっていたから、それも気持ちが良くてパウリーナは揉み揉みとした。くすぐったげにするも逃げずにいるその手を、いつしか夢中になって揉みしだいていた。ヴィルマが堪えきれずに笑い声を上げた。パウリーナは嬉しかった。
「さあ、そろそろ支度が整ったようですよ。行きましょう」
導かれて船室へと降りる前に、パウリーナはもう一度川の流れる先へ、船の進む先へと視線を投げかけた。昇る日を背にしてキラキラと光る道が遠く遠く続いている。パウリーナが望むと望まざるとに関わらず、全てが在りのままに進んでいくのだ。先へ。その先へ。歴史は留まることを知らない。
「綺麗ね」
それは誰に聞かれることもない言葉だった。きっと誰にも聞こえない。しかしパウリーナは返事を聞いたように思った。それはここよりももう少し先の場所にいる者からの返事だ。思い当たる人間は1人しかいなかった。
ヴィルマが戸を開いたから、これはもう具体的な香りがパウリーナを誘った。口中に湧き出でるものがあった。元気な歩みでパウリーナは降りていく。川下りは朝が特に美味しいと思う。
船は行く。
パウリーナと親衛団とは実に半年ぶりの再会を果たそうとしていた。




