御曹司と貴公子
王都を吹き抜ける風にも温みが感じられる頃、ルーカス・ユリハルシラは一人の貴公子を観察していた。
柔らかな金色の髪、透き通るような青い瞳、すっきりと整った顔立ち……絵画に見る勇者と比べても遜色のない美形である。ルーカスの相談衆であるところのダニエル・ハッキネン男爵だ。
音を立てない優美な茶の飲み方には物憂げな雰囲気がつきまとう。
疲れているのだろう。北方ヘルレヴィ伯爵領よりやってきた名高き男爵は、宛がわれた部屋の調度一つ整える間もないほどに多忙だ。社交界が熱烈に彼を求めているからである。
ルーカスはそれを気の毒に思っていた。煌びやかな世界がいかに精神力を削るものかを実体験として知るからだ。武人の忌避すべきところとすら考えている。
何にせよ体力だ。体力さえあれば挫けず真っ直ぐに生きていける。
しかしどこか線の細い印象のある彼のことだから、心を摩耗させ鬱屈としてしまうのだろう。
よって、ルーカスは提案する。誠意をこめて。
「先生。髭を生やしてみてはどうか」
「……聞き違えたようです。もう一度言っていただけますか?」
「髭を生やそう。雄々しい髭を蓄えるのだ」
「……意図、あるいは意味を説明してもらえますか?」
「先生には元気かつ朗らかでいてほしいのだ。そのためには形から入ることも重要だろう」
伝わっただろうか、と問う。返答は溜息だった。
「兵站について話していたはずですが……」
「軍にとっての兵站とは人における健康だろう」
「……不肖の身ゆえご心配をおかけしたようです。しかし以後はご無用に。侯爵家の未来へ思いを馳せることこそがこの時間の目的なのですから」
「うん? そこも誤っていないつもりだが……うむむ?」
ルーカスは首を傾げた。どうにも話が噛み合わない。
ユリハルシラ家にとって、ダニエル・ハッキネンは既に身内である。
それはルーカス個人の見解ではない。侯爵である父クラウスもまた同様のことを言っていた。見事な男であり、行く行くは大きな仕事も任せられると。そう考えればこそ、何かにつけ書斎に呼びつけ政務に関わらせているのだろう。
姉アマリアも彼を慕っている。もとより慈愛の人ではあるが、彼に対する態度からは家族と同等、あるいはそれ以上の愛情が感じられる。笑顔がより輝いている。
「む……そうか。愛か」
母親と死別したルーカスにとって姉とは敬愛の対象であり、安らぎの象徴であり、この世界で最も幸せになってほしい人間である。他の誰よりも元気に朗らかに生きてほしい。
それゆえに、彼女が頬を染めて見つめる先の人物にもまた元気でいてほしかった。姉が彼の体調を心配して笑顔を陰らせるようでは困る。
「先生にも愛情をもってほしいものだなぁ」
己が心情をしみじみと言葉にしたが、ルーカスの目には彼が怪訝な表情を浮かべた様子が映るばかりである。髭にか、という呟きが聞こえた。
「そも先生は忙し過ぎるな。最近はほとんど夕食を共にできていないではないか」
「心苦しく思っております」
「まあ、代わりに父上が家にいられる日が増えた。その意味がわからないほどに私は馬鹿ではない。仕事の役に立てるほどには利口でもないが」
「年齢の問題です。酒を飲めるか否かという下らない理由もあります。お気になさらず」
「先生が元気であれば気にしない」
ルーカスは吐息した。
「早く一人前になりたいが……時は早められないし、酒は姉上に叱られるからなぁ」
視線を曖昧に投げやって……ルーカスはふと思い出したことを口にした。
「そういえば、先生は例の護衛団に今も指示を出しているのだな」
「……ええ。私は団長ですから」
「物流を護ることで民の暮らしを支える武力集団か……やはり素敵だな。機会があれば私も仕事に参加したいくらいだ」
「人にはそれぞれに立場があり、立場に応じた仕事というものがあります。民を思うことと、民と肩を並べることとは、必ずしも一致するものではありません」
「うん。他のことならばいざしらず、剣槍をもって命を預かる仕事については物見遊山で参加などできない。本当にできないことばかりだな、私は」
己の不甲斐無さを嘆じたルーカスへ、真摯な声が届いた。
「どうか焦らずに。大事を為すと志したなら、何よりも運命を信ずることです。さもなくば惑い、迷う……闇夜に灯火もなくそぞろ歩くように」
普段にない声音が聞こえた気がして、ルーカスは姿勢を正した。内容を理解するより先に、聞き逃してはならないと直感する。
「足元ではなく、見上げる先に希望を見出すことです。それさえできれば……」
言葉尻は聞き取れなかった。どこか遠い所へと消えていった。ルーカスはそれを残念に思ったが、しかし尋ねることはしなかった。次の機会を待つことにした。
ダニエル・ハッキネンの瞳が強い輝きを放っている。
たとえその視界に己が映っていなくともルーカスは構わない。強靭さが見出せて、彼がまだまだ元気なのだと確認できたならそれでいい。
「眩いなぁ」
少々の羨ましさをこめて、ルーカスはそんなことを呟いた。茶杯に手を伸ばす。
先生を独占できる時間が終わろうとしていた。




