表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
142/148

第133話 然る後に世界を発つ、北へと

 寸時に刻めば絵画。延々と流せば歴史。


 世界はゆかしくそこに在る。


 夕映えの王都には炊煙が盛んに立ち昇り、どこもかしこも柔らかさに覆われている。灯火の出る間際の賑々しさ、温かな食事を求める人の歩み、街路を通る涼やかな風、時を告げる鐘の残響……何もかもが薄雲の下の出来事だ。どの場所にも、どの瞬間にも、きっと美しい光景があるに違いない。


 見上げる此方から地平の彼方にまでたなびく雲の連なりは、壮大なれど緩やかで、どこかしらぼんやりとした様子で漂っている。それは遠く思いを馳せる者の横顔にも似る。あるいは赤色の沈みゆく様を見送ってでもいるのかもしれない。


 間もなく夜が来る。眩かったものが消えて去る。


 しかしそれは終わりを意味しない。朝が来る。強く光り輝くものが昇る。必ず。


 王城の尖塔の一つに身を囚われて、細い窓から外を眺めながら、ヨアキム・ベックはそんなことを考えていた。身動ぎをしたなら手足を繋ぐ鎖が鳴るから、僅かも動かず、食事もせずに。



 コツリ、コツリ、コツリ。



 聞こえてきたその音は落陽への時を数えるものか……それとも靴音であろうか。ベックはその音を忙しないと感じるも、何故か邪険には思えないで、窓から扉へと視線を転じた。登り来る何者かを待つためだ。そうさせるだけの音をしていた。


 迎え入れよう。せめてもの威儀をもって。


 居住まいを正したから、鎖が迷惑そうに音を立てた。ベックは小さく吐息した。これはただの鎖ではない。“冷鉄”という特殊な金属でできている。魔力封じの効果を持っている。


 無意味だ。ベックには不思議な力などは何もない。


 それでもこれで繋がれる。教会特製のこれを王都へと持ち込んだのは他ならぬベックであり、使い慣れた品ではあるが、繋がれる側となったのは初めてのことだった。以前までは専ら繋ぐ側だった。稀に現れる異能の者を調査する際に使用した。教会に利するならば解き、害するならばそのままに殺めた。


 仕事だった。世界の秩序を保ち、世界の崩壊を遠ざけるための。


 だから、時には異能などない者にも鎖を巻いて、殺した。残酷なる方法で。


 意識を過去へと向けたならば、昨日のことのように生々しく、あの日の鎖の感触が思い出される。忌まわしき火刑の夜……聖炎の祝祭の日に、ベックは一人の英雄を魔人であるとして縛り上げた。狂える群衆の前に晒した。猛る炎の中に殺した。


 そうすることが必要だった。そうしなければならなかった。


 そうすることで友を失った。そうしたいはずがなかった。


 サロモン。


 小憎らしいほどの澄まし顔で万事を解決していく男だった。彼は困難を切り裂き、障害を貫き穿ち、絶望を叩き潰した。己と敵対する者を容赦なく滅ぼした。行動を起こしたならば徹底的だった。


 では世間一般に言われるように冷酷かつ残虐な男で、誰からも恐れられていたのかといえば……違う。


 彼は公私の区別もまた徹底的であったから、一度仕事を離れればまるで別人だった。義理人情に厚く世話好きで、下手なくせに絵や歌を趣味とし、飲食や色事では軽はずみな挑戦をして失敗することも多かった。


 彼の周りはいつも賑やかだった。見ていて飽きない男だった。


 商人であった頃も軍人となってからも、サロモンは何ら変わることなくサロモンだった。変わったのは周囲だ。激しさを増す戦争が彼を傑物として際立たせていった。


 彼は日増しに注目を集めていった。


 老若男女や身分の貴賤、敵味方といった区別なしに、誰もが彼を無視できなくなった。心に彼を受け止めざるを得なくなった。それが好き嫌いまでの感情で済むのならばよし、愛するか憎むかのどちらかにまで心染められた者たちは大変だ。当時の勇者はそれがために心乱し、戦死したのだろうとベックは思う。


 そして、サロモンも死んだ。死んでしまった。殺された。ベックが殺した。


 しかしベックはこうも思うのだ。己が火という手段をもって彼を殺したように、巨大なる意思がベックという代表者をもって彼を殺したのではないかと。


 王国が。帝国が。教会が。


 この世界を生きる人間の全てが、彼の死を望んでいたのではないだろうか。


 積極的に殺せと叫んだ者とやむを得ないと目を瞑った者との間にさしたる違いはない。火刑を見物し狂喜した者と火刑から目を背け悲嘆に暮れた者との間にも微々たる差しかない。大いに関わり事を実行した者とまるで関わらず知りもしなかった者とて同じだ。赤子も胎児も例外にはならない。


 なぜなら聖炎の祝祭とは万人に平穏なる日常をもたらすためにこそ執り行われたのだから。


 観念的な話ではない。厳然たる事実だ。彼の死をもって世界は均衡を取り戻した。そのためにこそ火刑が必要だった。狂気に満ち満ちたあの夜が。


 軍事においては王国の逆襲的侵攻を踏み止まらせ、政治においても東西両国の落としどころとなった。勇者に敵対しそれを討った帝国も、勇者を混乱させそれを討たれた王国も、どちらの邪悪も魔人の陰謀であったのならば仕方がない……教会がそう認めることで、両国は諸共に信仰の正道へと立ち返ることができた。


 国や組織の理屈に関してのことばかりではない。哲学や道徳、個人の精神においても火刑は必要だった。魔人が必要だった。そうと意識せずとも求められていた。


 たとえば口汚く狂猛に殺人を奨励していた舌が急に博愛の詩を詠じたとしても、何らおかしなことではなくなった。誰かの子を残酷に殺めた者が己の子を笑顔で抱き締めることも、人間の血肉を吸った土に育った作物で食卓を囲うことも、何ら疚しいことではなくなった。全てが罪悪の汚れを免れた。


 戦時の狂気や罪科は全て魔人の負うところのものとなったからだ。


 魔人の呪いと企みによって惑わされたのであれば仕方がないという理屈だ。免罪の便法だ。誰もが群がった。人々は身を清めるための手拭いを得て、それを用い、使い捨てにしたということだ。


 ベックは人間の浅ましさに慄然としつつ、強い悲哀もまた感じずにはいられない。


 二つきりの国家の内の一つが滅びかけるほどに激化し、聖定の勇者すらが命を落とす戦争……それはどちらの国の人間にとっても悪夢以外の何ものでもなく、救いが必要だった。希求されていた。


 悪夢から覚めるために、薪を燃べよ。


 非日常から脱却するために、火を燃やせ。


 健やかで安定した暮らしへと回帰するために、炎よ、燃え上がれ。


 教会が魔人と認定したその男を消し炭とすることをもって、我ら人間を善なる朝へと救い上げ給え。


 豪華なるお立ち台の上で火炙りを指揮し、熱狂を煽り立てながら、ベックは人間の弱さと罪深さとに打ちのめされていた。己もまた焼かれているかのような気分だった。その時の熱さも痛さも哀しさも、もはや心身に焼き付いてしまっていて、二十年の時を経た今もベックを苦しめ続けている。


 かくして戦争の悲惨はあらゆる意味で過去のものとなり、誰もが復興の時代を生きることとなった。誰もが何かを許されて、平和に穏やかに、幸せの時を過ごすことができた。


 しかし、ベックは知ってしまったのだ。


 司教以上の位階の聖職者しか知り得ない、教会の秘中の秘を。世界の残酷なる真実を。


 平穏などは小休止の類でしかない。幸福などは収獲を前に撒かれた肥料でしかない。誰も彼も許されもせず罪人のまま生かされているに過ぎない。何も知らずに呆けた様を晒しているに過ぎない。


 言わば、一人一人の命なぞは世界を維持するために支払う貨幣の一枚一枚でしかないのだ。


 しかも、どんなにか支払いを続けたところで世界が人間のものになることなどはないのだ。


 人類は滅亡するのだ。その未来は確定しているのだ。延命を図ること以外に術がないのだ。


 そんな絶望的な真実を、ベックは知りたくなどなかった。知らなければ、己が殺した友との約束を守れたかもしれない。理想に邁進し、この世界から惨めな戦争をなくすべく働けたかもしれない。


 エレオノーラを誑かして王権の掌握を目論んだことも、マルガレータを唆して国王の暗殺を謀ったことも、勇者伝説の流布も、帝国と王国の軍事力の調整も……ありとあらゆる策動は全て戦争を制御下におくためだった。定期的に戦争を起こす必要があるのだから、せめて安定的に終わらせられるようにしたかった。


 それは、教会の真の目的のために誰よりも熱心に働いたということである。


 そして、友の期待に応えず友を裏切ったということである。


 火刑後の世界を司教として生きたベックは、友から託された戦いに命を懸けなかった。語り合った理想を追求することに挫け、認めがたい現実に抗うことも放棄し、己の志を変じてしまったのである。


 だから、この音を聞く。



 コツリ、コツリ……カツリ。



 靴音は扉の前で止まった。心を炙る熱量が扉の向こうから届いている。ベックはそれを浴び、身体の内と外から焼かれる幻覚を味わいながら、ふと銀髪紅眼の女の言葉を思い出していた。


「あの人は死んでしまった。けれどまだいる……また生きる」


 それは傷心の余りに発せられたものだろうか。違う。命を暴き命を量るという神秘の瞳には絶望の色など欠片もなかった。尋常を超えた何かを見据えていた。だからベックは彼女を逃がした。


 友情のためではなく、罪滅ぼしのためでもない。


 悲劇的に終わった友へ向けて、何か人知の及ばない力が発揮されることを期待したのである。


 果たしてそれは起こった。ベックの予想に反し、南からではなく北の地からだ。新たなる戦乱の風に乗って不思議な少年が王国に現れた。少年は苛烈に戦い、勝ちに勝って、帝国の軍勢を完膚なきまでに打ち払った。その結果として大陸に知らぬ者とていない英雄にまで成り上がった。


 心が震えた。


 少年が帝国皇帝へと振るった弁舌には神秘の見識が散りばめられていたからだ。直接には言わずとも、教会の秘密を知る者にとっては聞き逃しにできない内容であった。


 よもやと思った。あるいはまさかと思った。


 しかし……それはあるまいと首を横に振った。己の愚かさに溜息を吐いた。ベックは胸にときめいたものをすぐにも捨てて、その少年の現実的な利用方法を考えることにした。


 慣れてしまっていたからだ。諦めることに。


 やり方を忘れてしまっていたからだ。夢を見ることの。


 厚遇して取り込み、王国の力を集約するための駒とすべし。その方針をもって旗騎士トピアスに指示を下した。エレオノーラを操り特別な将軍位を用意させた。それで十分だと思った。それが現実というものなのだと、味わい慣れた暗鬱を咀嚼した。


 違った。


 全く違った。


 ベックが死ぬまでを過ごすはずだった灰色の世界は鮮やかに切り裂かれて、天地を焼き尽くさんばかりの灼熱の火炎が立ち現れた。心身に冷たく降り積もっていた青灰色の諦観は一息に焼き払われて、露になった己の罪深さと脆弱さとに震え慄きながら、ベックは殺したはずの友と再会したのである。


 マルコと名乗ったその少年は、サロモンだった。


 生物としては別の個体であろうが、サロモンだった。


 帝国軍の撃退を祝い、多くの者にとってこの上なき栄光の舞台となるべく支度された表彰式典……それが始まるよりも前のことだ。紅の瞳に神秘の力を宿す女に呼ばれ、案内されて、ベックは少年と会った。言葉を交わした。


「久しいね、ヨアキム。司教への昇階おめでとう。僕を焼いた功績によって袖を通す祭服とはどのような着心地かな?」


 そう挨拶された。嫌味のようでいて嫌味にならない素っ気なさで。


「また随分と顔色が悪いね。教えてあげる。怠惰と妥協が原因さ。君はよく楽がしたい楽がしたいとぼやいていたけれど、それは本当に楽をしたなら苦しむことになるとわかった上での冗談だったはずだ。全く、何をしているのやら……破戒僧の君が、誰よりも聖杯島のために働くなんて」


 そう非難された。呆れたというよりは興味が失せたという風にして。


「行禍原に吹く南風の意味を僕は知る。君も司教であるからには知っている。惨めにしておぞましい、この世界の真実の姿……教会は長く長くひた隠しにしてきたけれど、僕はその秘密を大陸全土へと暴露する用意がある。事と次第によっては、まるで瘴気の風のように、天境山脈の方角からそれは流布されていくよ。良馬の駆ける速度でね。そして世界は悲惨なことになるだろう。人類の終わり方はひどく足早なものになるだろう。君はそれを望んでいないのだから、この後の式典では大人しくしておくことだ」


 そう脅迫された。とてつもないことを言葉にしながらもまるで猛りのない口調で。


「ヨアキム……僕はいずれ、君を無残に殺すだろう。勿論だけれど復讐のためではないよ。君の死が必要となるからさ。かつて世界があの火刑を必要としたようにね。僕は僕の目的のために世界を改めるから、その過程で沢山の死を踏んでいくことになる。君のものは最後の方だ。その日までを……僕に殺されるまでの日々を真面目に勤め上げるといい。それぐらいのことはできるだろう? できないのならば、ただ意味もなく死ぬことになるだけだ。僕の敵にすらもなれないままで」


 そう予言された。凄まじの未来を冷徹に。宣戦の布告というよりは死刑の宣告のようにして。


 それは神の奇跡か悪魔の呪詛か。いずれにせよ尋常の外側には違いないだろう何かが作用したに違いない。火刑の夜から十数年の時を越えて、その時、少年の形をしたサロモンがベックを追い詰めたのである。避けようも耐えようもなく、心を一息に攻め崩してきたのである。


 その少年はサロモンだった。間違いなく。


 しかし……ああ……何と無残なるサロモンであったことか!


 強烈なる存在感は、思わず注目してしまうという意味ではかつてと変わらない。しかしそれは巨大になり過ぎていて周囲と和するところがなかった。迫力にしてもそうだ。どうあっても揺るがないという頑なさを伴っていて自縄自縛に陥っているように感じられた。何事をも徹底していくという意思の圧力は他の誰よりも己自身へと向けられていて、常軌を逸したところにまで心を研ぎ澄ましているようだった。


 僅かも休息する気配がなかった。欠片の幸福も求めていなかった。微塵の迷いも見られなかった。


 それは人間の人間らしい在り様ではなかった。


 冷酷な言動の裏には限度を超えた憤怒があった。鮮烈な印象の裏には想像を絶する覚悟があった。


 それもまた人間の在り様を超えていて、勇者の如き霊威を感じさせつつも魔人とはこういうものかと思わせるところがあった。


 つまりは見るに堪えないほどだったのだ。


 少年はベックの知るサロモンの成れの果てのようだった。凄まじい才を持つもあくまで人間であった……人間でしかなかった……人間でいられた男は、やはり死んだらしかった。人間らしさを削ぎ落とされてしまっていた。甘い曖昧も温かい汚穢も許さず、許されず、残酷なまでの眩さを放っていた。


 幻を見た。火炙りの幻影だ。


 縛られた一人を芯として世界を焼き滅ぼさんばかりに燃え上がる火炎……紅蓮の中心にいるのはサロモンだ。世界の都合で、人間の総意で、おぞましき火刑に処されたというのになお滅びず直立するサロモンだ。あるいは一度滅びたる後に再び立ち上がったサロモンだ。断固たる眼差しを世界と人間とに向けていた。


 そしてベックは己が大罪人であることを自覚した。裏切り者であり、怠け者であり、臆病者であると心底から納得した。酷く後悔もした。一部の人間に嫉妬もした。心を八つ裂きにされた上に炒められてでもいるかのようだった。


 だから、せめて勤勉なる敵であろうとベックは思った。


 火刑後のこれまでによって、己は友に大きく失望された。この上更にということになっては死ぬに死ねない。愚かなりにも苦痛と煩悶を抱えて生きてはきたのだ。その終わり方が友に軽蔑され忘却されてのものでは余りに惨めだ。少なくともヨアキム・ベックという名前のついた死を踏んでいってほしかった。


 それは実に難儀な仕事ではあった。


 それでもしっかりとやり遂げたようにベックは思う。


 それ故に、心穏やかに待つことができる。己が身を拘束する鎖が音を立てぬよう気をつけてまで耳を澄ますことができる。恐らくは己の死を踏みにきたに違いないその人物を迎えることができる。


 

 ガチャリ。



 鍵を挿す音もなしに、扉の錠前が開く音がした。小さな予想外は不思議の予兆だ。ベックは息を吸い込み扉に相対した。瞬きもしない。もはや吸った息を吐くこともできない。


「やあ、ヨアキム」


 果たして姿を現したのは、ベックの待ち望んでいた彼だった。闇の色の外套を身にまとって人相風体を隠してはいてもその正体は明らかである。被ったままの頭巾の奥から黒髪が零れて出ている。


「随分と遅かったではないか。もう私の処刑日は明日の朝だぞ」

「随分と嬉しそうに言うね。さすがに魔人であると自白した人間は肝が据わっている」


 入室した彼はすぐにも椅子に腰かけた。足を組みつつ、腰に帯びていた短剣を机の上に置く。無造作なものだ。この世界に二つとない霊妙なる短剣を扱うにしては。


「手配はしてあった。島へ渡ることに支障はなかったろう」

「教皇に会ってきた。やはり天の女神と同一人物だったよ」

「人外の者であったか」

「エルフの女だった」


 とんでもないことをあっさりと言って、彼は小さく笑った。


「会ってすぐに一つの疑問の答えを得たよ。神の像とは実物を見て作られたことが始まりらしい。つまりは地の男神とやらもあんな風なドワーフということさ。魔女はハーフエルフだそうだから、これで残るは小人族かな? 寓話を解釈するなら、人と混じりあって消え去ったのかもしれないけれど……それともどこかに隠れ住んでいるのかな? ダークエルフの血が少数民族として今に残るように」


 常識を逸脱した話題である。そうにもかかわらず素朴な響きで聞こえてくるから、ベックはしみじみと思うのだ。世界のありのままの姿をば、教会がどれほどに歪めてきたのだろうかと。


「まるで絵物語だな……この世界には人間きりでないなどと」

「何もかも残照さ。遥かな昔には人間と共に在っただろう、夢や理想のね。教会の創作した天使や妖精の類と本質は変わらない。理性という焦点をぼかしたなら、世界はたちまち万華鏡の如くに煌めき出す。それに幻惑されることをして祝福というのかもしれない」

「ふむ……詩に聞こえるが」

「古の真実とは詩的だからさ。余りにも遠いから理解よりも先に情感が届く。永遠ならざる僕らには、詩をおいては他に、永遠なるものを語る術がないということだね」


 わかるようなわからないようなことを言い、彼はヒラリヒラリと手を振った。


「女神との対話は上手くいったよ」


 彼は窓の方へと顔を向けたから、頭巾の包む影の奥に黄金の色が閃いた。


「行禍原を狩場とし、紫雲海を煮鍋とし、聖杯島から大氷原へと向けて吹く異常の風……大氷原を維持するために人の命を魔力として送り込む南風……即ち“魂風”の大奇跡」


 口に出すことも憚られる秘密が言葉にされたから、ベックは戦慄に息を呑んだ。


 それだ。


 正にそれこそが世界の真実であり、教会の存在する最大の理由である。


 神々は魔王とその軍勢を氷雪の下に封じたが、その奇跡の力は永続するものではないから、定期的に命の力を供給する必要がある。それをせずには大氷原は融け崩れてしまう。魔王とその軍勢が絶望的な力でもって蘇ってしまう。世界が滅ぼされてしまう。


 ベックはそれが迷信や過剰な恐怖でないことを承知している。大陸を見渡せばわかることだ。


 天境山脈を越えて漏れ来たる瘴気の風……生命を蝕み人間に仇為す忌まわしのそれの正体は、封じられた魔王の息吹に他ならない。その呪わしい力は農作物の不作などにはとどまらず、そら、大陸の方々に魔境を育んでいるではないか。神々の封印はその点においても不完全なのだ。


 それでも人類はすがるよりあるまい。命を支払い続けるよりあるまい。


 ベックはそう考えたから、今、こうして鉄鎖の束縛を受けている。全く逆に考えた者へと処刑前夜の姿を晒している。


「もう、あの風は吹かない」


 聞く。耳から入って命を一撃する、その恐るべき言葉を。


「素敵な夕暮れだろう? もはや世界は延命することを止めているんだ。僕が止めさせた。三つの戦争を手段とすることによって」


 聞く。遥かなる高みから届くようなその声を。


「まずは帝国と戦ったが、あれは教会の失敗の尻拭いでもあった。君たちは柔軟性を欠いているばかりか油断し過ぎていた。今回は少しばかり帝国側に勝たせておこうなどと考えていたのだろう? それでまたしても王国滅亡の危機を招いた。これは馬鹿の所業だ」


 反論などできるわけもなく、さりとて糾弾されている心地もなく、ベックはただ静かに聞くばかりだ。


「いざとなればまた勇者をという考えが透けて見えていた。教化にも利用できて都合がいいと? 全く馬鹿な発想さ。傍観者を気取り過ぎていて、闘争の本質がまるでわかっていない。奇跡など使えない者たちの方が余程に緻密さや執念深さを発揮するというのに……」


 小さく吐息して、彼はどこか憮然とした風に言った。


「僕は計画を早めることにした。魔女にも女神にも大量の命を支払い、国家間戦争の起こらない期間を買い取ってから、君に会った。次なる戦争を王国内で戦うためにね」


 ベックとしても憮然とするよりなかった。初めて会った時の衝撃と、表彰式典の顛末とが思い出されたからだ。随分と無理矢理に踊らされたものだと思う。


「教会に甘やかされた王国の世情たるや、実に酷いものと成り果てていた。特に南部だね。人心の一新は急務だった。少し焦ったよ。このままでは僕の思い描く未来に国を支えられない、わけもなく滅びてしまう、とね。荒療治でも闘争の洗礼が必要だった。南北対立の構図は経済構造の改革にも利用できたから、もう少し戦っていてもよかったのかもしれない。南部の窮状を見ての判断だったけれど、少し決着を急いた気もするな……」


 頭巾を被ったままに小首を傾げて、彼は束の間思案する素振りを見せた。


「……お前が全部の面倒を見なくともいいだろう」


 ベックがそう言ってやると、小さく笑い声が返ってきた。


「はは……そうだね。悪い癖だ。君とは正反対に、僕は楽をすることが苦手なんだ」

「まだそれを言うか。お前の考える楽の基準がおかしいのだ。私はしっかりと働いたぞ。お前の言う三つの戦争の内の、最後の一つ……お前と教会との戦争は、私の演出によるところも大きかったではないか」

「確かにそうだね。勇者をああいった形で寄越してくれたことには感謝するよ。何しろ想定以上の威力を持つ勇者だったから……ああも孤立していなかったら、補殺するためにもっと犠牲が出ていたろう」


 彼の手が己の首元へと持ち上がり、そこに曲線を描く金の首環に触れた。


「クスターか……両親については?」

「島で母親から聞いた。驚かされたよ」

「妄言ではなかったか」

「この身においては覚えがないけれど、心には妖しく思い出される記憶がある。事実だろう」

「不思議な言い様だな」

「不思議が極まって僕がいる。呪いを呼吸して周囲に死を振り撒く、血も涙もない僕がね。今こそ火刑に処されるべきだろうに……」

 

 彼は物憂げな溜息を吐いて、そしてベックの方へと身を乗り出してきた。


「……残念ながら、今回は君の番だ。戦乱の罪は君が一身に負うことになる」


 何を残念とするのかはベックの知るところではないが、しかしその金色の眼光を強くして、彼は問うてきた。


「どうして釘刑を選んだんだい? 樽を使う処刑法は苦痛が長く惨たらしいというのに」


 責めているのだろうか。ベックは鼻を鳴らしてそれに応じた。


「ちょっとした誤算だ。私が上手く収まる樽なぞ、そう容易くは用意できまいと高を括ったのだ。困らせるつもりが見事に用意されてしまった。今更に喚いて無様を踊るのもいいが……まあ、もう十分だろうよ。さっきの今ではないが、最期くらいは踊らぬ楽をさせてもらう。私は樽でいい」

「……四ツ目鎖蛇の毒を入手したんだ。釘に塗るよう手配しておく」

「好きにしてくれ。お前には私の死を自由にする権利がある」


 強く言いきったから、そこでぼんやりと沈黙が生じた。思いが淀んで鼻先をむず痒くさせた。腕を組んだから鎖が音を立てた。遠く、夜を告げる鐘の音が王都の空に響き渡っている。


「それで?」


 ベックは彼の方を見もせずに問うた。


「マルガレータはどうするのだ?」

「魔人ヨアキム・ベックの詐術によって立てられた偽りの勇者……つまりは魔女として処刑される。そういう事実を残す。身体は残っていないから、空の棺を紫雲海へ流してお終いだ。水刑だね」

「旗騎士の連中は?」

「聖杯騎士団は罪に問われない。強いて言うなら、魔人と魔女によって騙された未熟を叱責されるという儀式があるかな。それだけさ。もっとも、東方教会の所属では誰も生き残ってはいないけれど」


 言う方も聞く方も、その視線を机の上の短剣へと向けていたようだ。ベックはそれに気づいたが何も言わなかった。代わりに瞑目した。仮面の男の在りし日の姿を偲んだ。粗末な食事でも残さず綺麗に飲食する男だった。


「誰も彼もが死んでいくな……命を空に飛ばして」


 そう呟いたのはベックだった。


「王国の側だけ見ても酷いものだ。お前が数えた三度の戦争と、それ以前の戦乱と……四侯六伯の内ではレオ・サルマントとマティアス・ヘルレヴィくらいか。生き残ったのは」


 他にもたくさんの人物の面影が、瞼の裏に次々と映像を結んでいく。貴族、騎士、軍人、商人と様々だ。老いも若きもいる。男も女もいる。その顔という顔の全てが、今もう肉体を失っているばかりか、奇跡の風に乗って天境山脈を越えてしまったのかもしれないと思う。ベックは震えた。


「無駄……ではなかったはずだ。少なくとも」

「無駄ではないさ。無様で、僕には到底認め難いけれど」


 感じたばかりの寒気が数歩の距離からの熱に掻き消されたから、ベックは見る。彼を見る。今や見目にも魔人のようでしかないその男へ、命を懸けた問いを発するために。


「かつてはサロモンであり、今はマルコであるお前に問う。この世界を生きた一人の人間として」


 答えは得られそうだ。未だ顔を見せることはなくとも、彼はその居住まいを正したのだから。


「お前は世界をどうするつもりなのだ」

「取り戻すつもりだ。人間を誇るために」


 即答には火炎の威力があった。ベックは頬に火傷の痛みをすら覚えた。


「わからんな。大奇跡を止めたからには、魔境の拡張は早まる。瘴気の風は酷くなる。それだけでも世界は滅ぶだろうに……いずれ魔王すらが蘇るのだぞ」


 ベックは食い下がった。口を開き舌を動かすそれだけで、喉が焼かれ腹が焦がされるかのような感覚があった。しかし怖気づくわけにはいかない。震える暇などはない。


「滅びを招く源を絶つ」


 答えは黄金の輝きを伴ってベックへ放たれた。


「特別な軍を組織し、人間世界を後方拠点として、大氷原へと進軍する」


 何を言い出したのか。必死に聞く。決死の思いで受け止める。


「僕は征くんだ、ヨアキム。眠る神々を叩き起こし、世界の存亡をかけた戦いを再びのものとするために! 魔王とその軍勢を打倒し、絶望の病苦を祓うために! 抗うために! 生きるために! 戦うために! 拓くために! 僕は! 僕は征く!! そのためだけに僕は在る!!」


 これが魔人か。


 これが魔人というものか。


 ベックは火刑を体験していた。肉こそ焼けぬものの命が焼かれている。己が消し飛ばされそうな猛火に晒されている。火刑だ。これが火刑でなくて何だと言うのか。


「誰も逃がさない……誰も逃げられないように、僕は世界を整えたから」


 火勢は一挙に静まった。代わって妖気が立ち込める。ベックは己が炎の檻の中に囚われていることを幻想した。

 

「滅亡したくないのなら、もう、僕に協力するよりない……ふふ……どこまでも無体な話さ。僕は誰の意見も聞くつもりがない。何しろ一度ああも理不尽に殺された身だからね。何も斟酌する必要を感じないんだ。僕は止まらないし、誰も僕を止められない……」


 それは偶然か。それとも奇跡か。


 その時、細い窓から突如として月明かりが差して、頭巾の内側のものをベックに見せた。


「……僕はね、ヨアキム」


 ベックは言葉もない。


「僕を焼いた世界の全てを巻き添えにして、人間であることを生来の当然の権利と夢見る万人を巻き込んで、僕が納得するというただそのためだけに戦争をするつもりなんだよ」


 ただ聞く。一心に。明日には果てる己が命に彼の言葉を刻みつけるために。


「ふふ……月華の間での君の批判は的を射ていたね。僕がいるだけで人は死に、世界は大きな危機を迎えたのだから。正に魔人さ。何しろ魔女の協力も取り付けている。知っているかい? 魔女は己の分身を得た。塵夢森と幻魔森とに同時に居る気だ、あのハーフエルフは。ところで魔女の分身とは人間を材料としていて、魔力を媒介するため杖とも呼ばれる。それがどうにも不思議で、どこかで見たような顔をしているんだ。声を聞けば誰なのか思い当たったのかもしれないけれど……杖は話さないからね」


 尋常の裏側の出来事が語られている。これでもかというほどに魔人の在り様を示されている。多弁だ。ベックは途中からそれを音楽のように聞くしかなかった。神秘的に過ぎて理解を超えたからだ。それでもしばらくは聞いていたかった。彼の時間と己の時間とを重ねておきたかった。


「眠いかい、ヨアキム」

「ああ、眠いな。そろそろ横になりたいが」

「わかった。では征くよ」

「ああ、征け。武運長久を祈っているぞ」

「……ありがとう。どうか安らかに」


 夜は更け、その闇に溶けていくようにして彼は去った。


 夢だ、これは。覚めるには惜しい。


 そう思ったから、ベックは寝台へは向かわなかった。窓辺に膝を着いて夜空を仰ぎ見る。遠く遥かな希望のようにして星が瞬いている。人間の理想のようにして気高く輝いている。


「……つまりは、あれをとろうというのだな。お前は」


 呟く。祈るように。


「勇者だな。私には想像もつかん」


 笑う。これもまた祈るようにして。


「神々よ、あの男に祝福を。人間の世界より理想を追って黄金色の日輪が参ります。どうか、どうか祝福を。人間の世界を背負って艱難辛苦し、月下にすら涙を堪えるあの男に、どうか……どうか……!」


 祈る。ベックは命を捧げるようにして祈る。頬を伝う涙も、喉を鳴らす嗚咽も、歯軋りも、冷鉄の鎖も、何もかもを忘却して祈り続ける。己に残された時の全てを費やして。


 そんな夜を独り過ごした果てに……東方司教ヨアキム・ベックは、魔人として処刑されたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ