第120話 聖なる軍を滅ぼすは我が雷火
「本当に、この世界は何もかもが上手くいかないわ……何をするにつけても無粋なものが混じるのだから、嫌になる」
高速に身を晒す機動戦闘の最中にあって、マルガレータは白い髪の毛先をいじっていた。
「きっと負け犬の造った箱庭だからなのね。土も水も空気も、全部が全部、いじけているのよね」
枝毛を見つけてそれを抜く。風に乗せ、それが吹き飛ばされていく様を愉快に思う。
「奇跡だってそうよ。勇者に与えられた三つの奇跡……どれもこれもが中途半端。記憶は気分が悪くなるくらいに煩わしいし、聖騎士は人の兵とさして変わらない。この右目だって効果があるのかないのかはっきりとしない。素直に期待した私が馬鹿ということかしら」
溜息を一つ、すぐ後にこの空間を通るだろう者へと置いて残す。
「結局、与えられたものなど総じて下らないのね。把握され、記録され、勇者であれば誰でも再現できることなんて……所詮は手垢のついた使い古しだもの。本当に素晴らしいものは誰かに教わることなんてできやしないの。だって、私にしか持つことの叶わないもののはずだから」
馬上に憩いつつ、赤色をもって追いすがる軽騎兵集団を見やる。この速度を受けて、旗も衣も何かを乱打するような音を連続させている。まさに燃え上がる火炎のようだ。ひと塊にまとまりつつも外周部は揺らぎ、跳ね、聖騎士を巻き込んではそれを壊していく。焼き捨てていくと言うべきか。
「貴方は私を求めている」
その熱量に当てられならば、マルガレータは断言した。
「口では何を言おうと、つれない素振りを見せようとも、私を欲するその本音を隠せていないわ。熱情が伝わってくるもの。貴方はずっと私を探している。ずっと私を追っている。そうせずにはいられないのよ」
微笑む。艶やかに。聖騎士の二百騎ほどを不意に攻め込ませた。指でつつくようにして。
健気にもそれを呑み込んで焼こうとするから、笑みを深めて二百騎を戻した。先ほどからこんなことを何度か繰り返している。怒らせないように少しは焼かせてあげることを忘れない。火へくべる薪を忘れないと言うべきか。
脳裏に聖杯騎士団の残数を数えた。すぐにもそれはわかる。二千四百三十三騎。初めの混乱で失った数が大きい。そこで戦列を破られ、数を減らされた。駆けてはいるが負傷している個体も多い。
「素敵ね。貴方はそうまでして私を望んでいるの。心ではなく身体を寄越せだなんて、求愛にしても少し野蛮に過ぎる気もするけれど」
彼を中核として機能する赤色の騎兵集団は、その数を殆ど減らしていない。精強なものだ。火撃という名がよく似合っている。マルガレータはその威勢の良さを愛おしく思った。情熱的だと感じるからだ。美しいと感じるからだ。
見渡す限りを埋め尽くしている、この貧相で寒々しい世界……みすぼらしく滅んでいくよりない世界……注目に値するものは大変に希少だ。
では、世界で最も美しく価値ある男とは誰か。マルコ・ハハトだ。
では、世界で最も美しく価値ある女とは誰か。己だ。己以外の誰がいる。
だから見たい。だから見る。彼を、彼だけを見る。
マルガレータには彼の様子が手に取るようにしてわかる。白と赤の騎馬を透過して、砂塵もないものとして、距離をも無視して彼を見ることができる。正面から、斜め前から、横の左右から、同時に彼を見つめることができる。彼が馬上に凛々しくある姿を観賞することができる。
聖騎士たちの視覚を思うがままとしたからだ。誰に説明されたこともない現象だ。“聖戦の絆”は、ここに既存を超えた不思議を発揮するに至っていた。
「一生懸命に追ってきなさい、マルコ・ハハト。もう少し……あと少しで、貴方を抱き締めてあげる」
脳裏に思い描く騎馬の配置があった。
誰も彼もが南へと馬首を向けて駆け行くこの野において、中央には彼の率いる赤い集団がいる。それに追われ、突破されそうな態で、白い集団は左右に分かれつつある。
マルガレータは小首を傾げ、思う。
彼もそろそろ気付いただろうか。包囲されつつあるこの状況を。
勇者たる己を狙うことは全く正しい。聖杯騎士団は勇者を失ったならば戦闘を停止するだろう。そうならないための予備としてギリーが同道していたのだが、傷ものになったがためにもう捨てた。彼の狙いはいよいよもって正解ということだ。一人を討つことで全体を破壊できるのだから。
しかし、それは執着だ。情熱が強さと共に分かちがたく併せ持つところの、弱さだ。彼の鋭利な聡明さを曇らせ、広大な視野を狭めているに違いない。たとえ一時的なものにせよ。
「恋は人を一目散にさせるの。初々しいわねぇ」
笑う。マルガレータは彼の可愛らしさを笑う。楽しくて堪らない。
「あら? 駄目よ、あと少しは待っていて?」
彼を中心とする火炎の中から一匹の蛇が出現した。五百騎ほどの騎馬集団だ。それは右方へ旋回して包囲の壁を破ろうと動いたが、槍が交わり激突することしばし、跳ね返されるようにして元の火炎の中に逃げ戻っていった。
次いで反対側にも五百騎ほどが出た。それも強く弾き返す。まるで夜の宴において腰にまわされた手をたしなめ払うかのようにして。
「ご自慢の騎兵が通用しなくて不思議かしら? そんなに厳しい顔をして……うふふ……本当は不思議なのでしょう?」
堪え切れず、顎を上げて笑った。そして言う。
「いいわ、これから何が起こるかをわかってもらうためにも、少しだけ見せてあげる……!」
十騎ほどの聖騎士を意識する。これまでのように攻撃命令を下すのではない。十騎がそれぞれの身体に蓄える力を捉えるのだ。それは潜在能力とでも言うべきものか、あるいは命の力そのものか。
いずれにせよ生物が存続するために秘されているのだろうそれを、ついと、暴いてやる。
「るおおおおお!!」
いきり立った十騎が猛然と駆けだした。槍を振り上げ、赤い集団の中に……燃え盛る炎の中に突入していく。すぐに何かが飛んだ。赤色だから火の欠片だろうか。違う。槍を持ったままの騎兵の上半身だ。他にも色々と飛ぶ。馬の首、血しぶき、四肢のどこかしら一部……今のものは聖騎士の首であったか。
十騎による試みで何騎を討ったろうかと思ったならば、千を超える視界から情報は精査されて、四十七騎分の人肉なり馬肉なりが生じたのだと知れた。
「また、そんな顔をして……驚いたのでしょう? 本当に素直じゃないわね、貴方は」
これもまた新たな奇跡の形だった。“聖戦の絆”と“感情感染”を併用し、より遠慮のない代物に仕上げたというのがマルガレータの印象だ。上手い名前はないものかと思案する。
「そうね……“狂いの舞踏”なんてどうかしら。使い捨ての命の利用法として、これ以上はないでしょう?」
笑う。マルガレータは笑う。ようやくとお気に入りの玩具を手に入れた気分だった。
「今のように一息に暴走させるとすぐに壊れてしまうけれど……その儚さも素敵だと思わない? ああ、大丈夫、大丈夫よ? まだ全部にはそれをしないわ。今貴方を囲んでいる聖騎士は、少しだけ感覚や筋力を強めているだけ……」
笑い過ぎたものか涙を生じた目を外套で拭った。視界がぼやけるのはいけない。彼のことは数多くの目で見つめているが、彼が見つめる瞳は己のこの二つきりなのだ。見苦しいことは許されない。
瞬きを二つ、世界を見る。白色が赤色を包む高速の壮麗を見る。
何と清く美しく崇高な風景だろうかと思う。
彼の炎のような情熱は、まさにその赤こそが相応しい。他の者が表わしたならば見苦しいだけの激情も唯一彼においてのみは素敵だ。それに寄り添う己には聖なる白色こそが相応しい。まるで神を前に誓いを立てる新婦のようにして。
白い髪、白い甲冑、白い軍馬、白、白、白……赤。
「あら……?」
己にも赤があった。外套の一部が赤く汚れていた。返り血などは浴びるわけもなく立ち回っている。無論のこと負傷などもしていない。それなのに赤い。鮮血の色をもって白い衣が汚れている。
目か。
もしやと思い右目の縁に触れたなら、はたしてそこには僅かながら血が溜まっていて、先ほどからの涙の正体が血液であることをマルガレータに教えた。思いついて口中に舌を遊ばせる。ぬるりと鉄の味がする。咄嗟に吐き出したくなるも、地に唾する下品を思い踏みとどまった。
「もうなの……随分と早いじゃない……」
布巾を出して目元を清めた。口の中のものは嚥下した。微笑む。最も美しいと自負する己を形作る。
「楽しさは瞬間ね。いやらしい世界だこと、本当に」
また一つ諦めを重ねて、マルガレータは彼を抱き締めることにした。華やかにして凄惨なる典礼を始めるのだ。そのための時間ならばまだ残されているはずだから。
彼が己の手勢をもって世界に示しているところの火炎……まずはそれを消火する。
普通のやり方では駄目だ。中途半端に水をかけても勢いが増すばかりという点は本物の火と同じだ。あの軍は攻めれば攻めるほどに勢いを増すに違いない。現に狂える十騎を突入させてからというもの盛んに左右へ抵抗の部隊を送り出し、叩かれてそれを戻すということを繰り返している。
かくも威勢がいいのだ。一気に大水をもって消火に当たらなければならない。そのための力は“狂いの舞踏”で用意できる。具体的には槍の二千本ほどで事足りるだろう。
槍を投ずるのだ。
東西南北全ての方角から狂える力で投げ槍を為し、直後に抜剣して突入させるのだ。
「大丈夫、貴方には当てないわ。突入も貴方が殺されない程度の数にするつもり。残りの聖騎士で燻る火の一つ一つを打ち消して……それで、最後には私と貴方が剣を交えるのよ?」
吐息した。期待の吐息だ。これから起こることは余りにも素敵だった。
「あら、嫌そうな顔。やっぱり聞こえていたのね……うふふふ……構わなくてよ。聞いているのならそれでいいの。睦言には返事などいらないのだから」
血の味の混じる唾を呑み込み、胸を高鳴らせて、マルガレータは火消しの挙式に臨もうとした。
しかし、できなかった。
既に包囲しているはずであった。彼の目を南のこちらに引き付けつつ、東西の最外周を北へ向け二百五十騎ずつの聖騎士に駆けさせてあった。回り込ませたのだ。北に蓋することを目的として。
北を塞げていない。
二百騎にも満たない火撃の騎兵が邪魔をしている。閉じようとする白い門の狭間で楔のように頑迷さを働いている。美しい儀式の遂行を妨害している。
「この……!」
彼にばかり注目していたことの油断に舌打ちし、マルガレータは左右から襲う聖騎士らに攻勢を強めるよう念じた。自壊してしまうほどの“狂い”はまだ使えない。それでも少数の邪魔物ならば訳もなく潰せるはずだ。
潰せない。それどころか逆に押し込まれた。左右同時にだ。
まさに閉じんとしていた門が開かれていく。己と彼とのために用意した会場が乱されていく。
「あ! どうして!?」
彼が去っていく。
馬首を南へ向けたままに、開いた門の方へと赤色の集団が退いていく。速度を減じて門を出ようとしている。門は閉じない。そこから出てしまう。マルガレータは何かを叫んだ。彼へと手を伸ばした。
駄目だった。出てしまった。彼は会場から退いてしまった。最高の式となるはずであった、この騎馬による式場から。
「また……こんな……こんな……」
口の端に何かが泡立った。視界が赤くぼやけた。
彼だけなのだ。
この惨めで哀れな敗北者のための世界において、彼だけが美しく存在していた。他の全ては醜かった。勇者となる前の己もだ。彼の美しさに打たれ、彼の前に立つ資格などない己を嫌悪し、それでもどうにかして彼を手に入れたいと思ったところへ聖定の打診があったのだ。
勇者になることの危険や代償など、考慮するまでもなかった。彼の前に立てるか否かだけが問題だった。それが生と死だった。勇者になれば彼の前に姿を現すことができる。ごく短期間に限られた生であっても、輝かしい在り様を示すことができる。断るはずがなかった。喜んで儀式に臨んだ。霊薬を飲み下した。
その結果が、これか。
相対して言葉を交わしてもすげなくされ、右目の奇跡を用いたところで通じず、彼の好む機動戦闘を共に躍っても逃げられる。
誰も彼も……いや、そんな有象無象はどうでもいい……彼だけは……唯一人と思い定めた彼ですらも、己を見捨て離れていくというのか。
マルガレータは歯を剥いて怒りを表わした。品性など念頭から消えた。顎に、頬に、熱く何かが溶け零れて落ちていっても、もうどうでもよかった。憤りしかなかった。もうそれしか残っていなかった。
「……こん……な…………世界ぃぃっ!!」
馬首を北に、彼の方へと転じた。減速などという生易しいものではない。一気に転進したのだ。強い反動を予期し身構えて為したことだが、それは実に呆気なく成功した。聖騎士はどの一騎も落馬することなく簡単に方向転換をしてのけた。
馬術の極みか? 違う。速度だ。気づかぬ間に南への進み方は相当に減速していたのだ。
彼だ。彼が原因としか考えられない。マルガレータは彼を包むことを目的として駆けていた。彼に追いつかれることも彼を置いていくこともないよう気をつけていた。常に一定の距離を保っていた。それで全体の速度が減じていたのなら、それは彼が徐々に速度を落としていたということである。
「だから……何なの! 何なのよ! ねえ!」
襲い掛かる。全聖騎士をある程度まで狂わせて、己もまた狂おしい衝動のままに、ただ彼のみを狙う。殺到する。もう形式にこだわるつもりなどはなかった。
「マルコ! マルコ・ハハトぉ!!」
逃げる。彼が逃げる。こちらの思いを知りもしないで、あるいは知っていて敢えてなのか、気に障る赤色を衣に旗にとはためかせて、軽騎兵の機動を発揮する。炎の矢のように駆けていく。
追う。逃しはしない。絶対に生かしては返さない。いや、殺した後も逃すものか。マルガレータは赤いものを零しながらも吠えた。声にもならなかったが、構わない。
お前は私のものだ。
お前の身も心も、殺して、手に入れる。
命を啜ってやる。心を取り込むように、肉の栄養を吸い取るように、お前の全てを私のものにしてやる。
言葉にはならずとも、マルガレータはそうと宣言したのだ。その旨覚悟せよと通知したのだ。荒々しく愛されることを受容すべしと威嚇したのだ。伝わったはずだ。伝わらないはずもない。これは刻限の迫った勇者による咆哮である。伝わらないでは済まされないのだ。
猛追する。届いた端から全ての火撃を殺し尽くすつもりで駆ける。絶対に追いつく。絶対に殺す。そのためだけの生だ。それだけは果たして死ななければ余りにも惨めではないか。
「な……にぃ……!?」
追いつけない。速い。火の色に加速するその集団は恐ろしく速い。見開いた眼を痛撃する高速の風の中で、空気などという壁は存在しないとばかりに疾走していく。どこまでも力強い。まるで天も地も彼らによって新たに拓かれていくかのようだ。
容赦なく巻き上がる土煙を浴びせられながら、マルガレータは炎の在り様に唸った。
届かない。とても届かない。どうして届かない?
マルガレータが真っ先に思ったのは馬の差だ。それは確かにある。この北方遠騎行のため方々に手を回させ、優秀な馬を揃えさせはした。実際に予想以上の良馬が集まったと思うが、それは尋常の内側で測った優良でしかなかった。
相手は彼だ。彼の率いる軽騎兵だ。兵の練度もさることながら、その馬が尋常の手段で入手できる軍馬であろうはずもない。急激に加速する未知の馬術を用いるように、何か特別な方法でもって、彼が運用するに足る馬を揃えているに違いない。マルガレータはそこに確信をすら持っていた。
それでも己の率いる五千騎を総軽騎兵とすることにこだわった。その意義は後付けにいくらも説明できるが、何よりも彼の軍に合わせることが目的だった。当然だ。彼以外のものは何もかもが下らないのだから。
この期に及んでその無理が出たものだろうか。それだけだろうか。それで十分に説明がつくだろうか。連戦の疲労をも考慮すれば、これが当然の結果なのだろうか。
いや、おかしい。それにしても差があり過ぎる。
あちらがああも全騎全力で高速を駆ける一方で、こちらは遅いばかりか馬列も乱れている。整然と従うはずの聖騎士らが縦に列を伸び切らせていて、大小様々な集団に分かれつつあるのだ。
まさかと思った。そして確かめた。遅れている聖騎士の視線を用いて、その跨る馬の様子を確認した。
傷つけられている。剣槍の傷もあれば、矢が突き立ったままという例もあった。聖騎士の方は無事であるのに、馬ばかりが手酷く痛めつけられている。いつだ。いつやられたものだ、それらは。
「あの……時か!」
マルガレータは記憶を探り、そこに彼の悪意を見るという苦痛に歯軋りした。まだ彼を包囲していた時だ。もうじきに北の退路も断てると過信していた時だ。十騎を狂わせて放ち、その後に血の涙を拭いて……それでも最高の幸せを思い描いていた時のことだ!
火撃の騎兵は激しく左右の白い壁に攻撃を仕掛けていた。何度跳ね返されても、何度でも再挑戦するという有り様で、囚われた獣にも似た活きの良さを晒していた……いや、そう見せていたのだ。必死な抵抗に見せかけて、実のところ馬を狙った陰湿な攻撃を繰り返していたに違いない。
聖騎士が新奇跡の影響で強化され、歯が立たなかったからか?
違う! 彼が軍を動かすその時に、無駄で非合理な行動のあった例がない。狙いがあってのことだ。思惑があってのことだ。そうに決まっている。
駆ける先に丘が見えてきて、マルガレータは思わず呟いていた。
「これが……これが、お前の戦か……!」
轟々と燃える炎が、今、雷鳴を伴って烈光と化したものだろうか。
圧倒的な速度でもって丘を駆け上がるなり、即座に反転、吶喊して逆落としが始まった。天地を両断するかのような物凄まじい勢いだ。しかも真直線ではない。左右へと揺れる機動がある。まさに落雷だ。いや、雷火と言うべきか。
殲滅の機動なのだ、それは。
切れ切れに長く伸びた聖杯騎士団の馬列……その白き先頭集団をば文字通りに吹き飛ばした。人と馬とが宙に舞った。多くが白色だが赤色も混じったようだ。馳せ違うつもりなどないのだ。体当たりに近い角度でぶつかってくる。
それでも角度はついているから、火撃の先頭集団……赤色の戦袍のみならず揃いの首巻をした小集団は向かって右方へと抜けた。しかし勢いをそのままに戻って来る。機動の揺れは変化を匂わせる牽制ではない。このためだ。再びに馬列へ突入するためなのだ。猛火の如き馬列が後に続く。
龍か。これは火龍というものか。
角と牙とに続いては爪と鱗とが威力を発揮する。徹底した破壊が行われている。
寸刻みにされるだけならばまだいい。この雷光の如き突撃は貫くだけでなく叩き壊し、斬り崩し、削り滅ぼす。機動の鋭利と速度の衝撃とを力に聖騎士を殺し尽くしていく。火花を撒き散らすようにして己が騎兵も損じてはいる。しかし相討ち目的でないことは明らかだ。
何という光景か!
聖杯騎士団が粉々にされていく!
マルガレータの血色の視界は、今、この世の終わりを映しているかのようだ。命を消し飛ばすほどの熱圧を放ちながら、恐るべき波が寄せて来る。白色の掃滅を目論む赤色の怒涛が、神聖にして無敵であるはずの軍勢を弾き、屠り、砕き、消し去って……とてつもない速度で迫り来るのだ。
「あああ!? あああああ!!」
叫んだ。マルガレータは激情のままに叫び声を上げた。恐怖ではない。そんなものは今更だ。死など既に決定事項だ。神聖なるものが踏み躙られていく様にも既視感しかない。どうでもいい。
彼だ。彼が見えなくなったのだ。
現時点で聖騎士を一千八百騎ほど失い、その分だけ視界を失ったからだろうか。それとも熱圧に当てられたせいか。あるいは血涙のためか。
右目をこすろうとして、そして気付いた。
ない。
眼球がない。右の眼窩には何ら固形物が存在していない。転げて落ちたか。溶けて流れたか。血塗れの半面をさすったところでわかろうはずもなかった。
声にもならない何かに喉を擦れさせながら、マルガレータは機動を転じた。僅かに八十騎ばかりが後に続いたろうか。それ以外は機動を変ずる間もなく蹴散らされた。火の色の激烈に呑まれ、滅ぼされたのだ。離脱は間一髪の行為だった。
あんまりだ。
どうして世界は己に対してかくも酷薄なのか。
右の穴からは血を、左目からは涙を流しながら、マルガレータは呼吸困難に陥っていた。もはや口中には唾液では洗い流せないほどに出血がある。それが喉に粘着き、息がつまるのだ。何度か血塊を吐いた。腰の皮袋を引っ張り出して水を吸った。飲みはしない。胃が受け付けない。口を濯ぎ、吐き捨てる。
どこで間違ったのだろうか。
どこから、いつから、世界はかくも辛酸に満ちたものとなったのか。
残余の聖騎士を束ねて駆ける。奇跡は未だ発動している。眼球なき右の目に妖しく灯る力がある。八十騎の視界を掌握し、強化し、火撃の様子を探らせた。目算で二千五百騎は未だに残すか。こちらの三十倍以上の兵力ということだ。初めは同数であったが。
マルガレータは血と体液に汚れた口元を拭いもせず、笑みの形を作った。
どうもこうも、ない。
どうあろうとも、これが現実だ。どこでもなく、ここが望んだ地だ。どこの誰に決められたのでもなく、このマルガレータが己の裁量でもって掴み得た機会……それが今この時である。
「私の生も、私の死も……全て私の物だ。私の勝利も、私の敗北も……私以外が記す歴史にどう書かれようとも、私の心を動かすことはない。私の評価は私が決めるからだ。私しか私を語れやしない……」
息を吐く。ただのそれだけで身中の力が大きく抜け出ていく感触がある。
「私……私だけが……私をわかる。この世界で唯独り、私だけが……私を愛しているのだから」
ともすれば崩れ落ちそうになる身体を細心の注意でもって馬上の凛然として維持している。背筋を伸ばすというただのそれだけのことが難しい。瞬間ごとに工夫がいる。
マルガレータは己の時間が終わりを迎えたことを悟った。もとより勇者の強大なる命は人一人の肉体に収めきれる代物ではないのだ。耐え切れず、内側から崩壊していく。奇跡の力を濫用すればそれが早まる。火勢を増したならば薪が早々と燃え尽きるようにして。
「どこまでも理不尽なるこの世界……優も劣も曖昧なるままの愚昧と酩酊……一等マシな場所は、ここ。戦場。ここだけは潔い。強と弱とでしっかりと結果が出るもの。私の負けね、マルコ・ハハト」
騎馬の進みは止めていた。馬蹄の振動が辛かったからだ。少しでも時を延ばすためにはそんな工夫すらが必要となっていた。周囲を固める八十騎には火撃の観察を続けさせている。
勇者とそれを護る八十騎を除いて、全ての聖騎士が討たれたようだ。火の色の旗が掲げられるばかりで、神の旗などはもうどこにも見えやしない。それはあるいはこの後の時代を象徴した光景なのかもしれないと思う。力強い時代が訪れるのかもしれない……これまでにないような、何かしら熱く速い時代が。
「ふふ……そこで投降を呼びかけず軍を動かすところは、とても貴方らしいわね」
八十騎へ向けて二千五百騎ほどの軍が整然と近寄って来る。槍持つ者は槍を、そうでない者は剣を、それぞれに構えていて物々しいことである。マルガレータは笑んだ。
「けれど……マルコ・ハハト……うふふ」
呼び掛ける。
見えたからだ。見つけたからだ。静かに寄せ来る騎兵団の中に、はっきりと一騎の存在を認めたからだ。マルコ・ハハトの馬上にある姿を確認したからだ。
「貴方、まだ少し優しいわ。それで神を殺せるのかしら?」
駆け出す。最後の奇跡を用いる。“狂いの舞踏”だ。七十八騎は今や狂猛なる獣と化した。その操作も放棄した。ごく短時間でそれらは自壊するだろう。しかしそれまでの間は誰にも止められない。二騎だけは残す。どうせ何か不都合が生じる。世界はそういうことをする。そのためだ。
無論、狙うはマルコ・ハハトである。
それと察して火色の戦列が組まれたが、無駄だ。先程とは逆の現象が起きた。白色が暴虐を働き、赤色が天に飛び散り地に撒き散る。すぐには速度も得られないのだから、もはやこれまでなのだ。
抗えない。逃げられない。
お前たちはマルコ・ハハトを護れない。
マルガレータは己の左目にマルコ・ハハトの姿を捉えた。そこへ至る道も開けている。狂える化け物兵らがいい具合に混乱を巻き起こしている。
最速をもって駆け込む。剣を抜く。刺突に特化した特注の片手剣だ。馬上に身を低くする。剣を腰だめに構える。もはや声もない。唇は引き結んでいる。最後の二騎を精密に操作して道を確保する。
そら、届く。
「舐めんな!! 届かせねえよ!!」
汚らしいものが視界を遮った。己と彼とを結ぶ道を遮断したから、これは排除しなければならないと思う。首に金の環を着けた野蛮なる男……見覚えがある……ああ、カリサルミ領都包囲戦の時かと思い至る。即座に二騎を狂わせた。ここで使い捨てる。この男は強者と知る。
たちまちに吹き荒ぶ血風を潜り抜けて、進む。
いた。目の前に。
マルコ・ハハトがそこにいた。
やはり見惚れるばかりに美しい。もっと早くに出会いたかったと思う一方で、きっとそうであったらこの美しさに気付かなかったろうとも思う。己の醜さを抱えたまま堂々と会見するには、この男の美は苛烈に過ぎる。結局は憎悪したのかもしれない。
だから、これでいいのだ。
彼が見事な速度で槍を繰り出し、それが己の身体を貫いても、マルガレータはまるで動じなかった。左手に槍の柄を掴んだ時、それが高速で回転していたことに少し驚いただけだ。そういう技なのだろう。ここにきて新たな彼を知った。それが嬉しい。
柄を引き寄せた。槍の穂先は背から突き出ただろう。構わない。そして逃さない。左手を素早く動かして彼の右手首を掴んだ。彼が驚いた顔をしている。それも嬉しく思う。右手に力を蓄えていた剣を、その切っ先を、彼の胸へと目がけて思い切り突き込んだ。
何も起きなかった。剣が見えなかった。
致命的な刺突を……この時のために練磨を重ねもした技を放ったつもりだったが、残念ながら右腕の肘から先が失われていたようだ。脇目にそれを確認した。
あの金環の男の仕業だ。
こちらを向き、獰猛な顔に得意げな笑みを浮かべている。身を乗り出して勇者の右腕を切断することをしてのけたのだ。マルガレータはそれを見事だと思った。決死も決死、捨て身も捨て身の一撃だからだ。
その男は胴体を半ば断ち切られていた。それはそうだ。狂える聖騎士を前にしてその姿勢、その隙……自殺行為である。そら、次には胸を刺し貫かれた。その勢いで落馬する。あれはもう助からない。
名くらいは聞いておいても良かったかもしれないと思う。その男が命を捨てても護りたかった人物を、マルガレータもまた同様に愛しているからだ。命を捨てても殺したいと願っている。
そのための手段は、まだ、ある。
身を投げ出し、同時に死力をもってマルコ・ハハトを引き寄せた。驚きに目を見開いたままの彼の顔が近づく。綺麗だ。この紫色の瞳は本当に綺麗だと思う。永遠に見つめていたいとすら。
唇を奪った。
接吻だ。
本当ならばこんな形ではなく行おうとしていたものだ。しかしこれもいい。いや、これがいい。この瞬間の何と幸せなことか……マルガレータは満ち足りた心で世界を見る……今や彼の瞳の紫色ばかりとなった世界を見る。
ああ……美しき哉。
死ぬに足る。
髪を掴まれた感触があった。無視する。目を閉じる。もうこれ以上はないのだから、もう何を見る必要もない。首に何かが冷たく触れ、そして衝撃があった。喉の詰まりが急に通った。そして急速に意識が遠のいていく。
あら、結局のところ、私の首が欲しかったのかしら?
首だけの身となってはそんな皮肉を言葉にすることもできない。少し惜しいと思う。もう口を開き舌を自由にできるのに……口に含んでおいた霊薬を、すっかり彼の口へと移し切った今となっては。
何にせよ、もはやこれまで。
マルガレータは命を手放した。思いがけず得た幸せな最期を……マルコ・ハハトの手の中で死ぬ幸福を味わいながら。




