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第115話 北の地に一筋の戦線を引け

 甲冑に心身を引き締められて地の影を強く踏む。ともすれば力む下腹を宥めるようにして呼吸は遅く深くを意識する。


 前方に東龍河北方支流が左方より右方へと流れゆく様を遠望して……ヨウシア・ペテリウスは黒い軍装の身を生温かな風に晒していた。


 夕暮れ前である。川向う、南の地平を遠く眺めやれる時間はそろそろ終いだ。日が暮れたならば灯火の列として迫り来るものを見つけることになるだろう。それとも聖性の白色は月光を強く照り返すものだろうか。あるいは色も音もなく川をも越えてこようか。


 ヨウシアは口元に手をやり、髭を指先で整えた。父に倣って生やしたそれは未だ十分な質感に至っていない。それでも同じように撫でたなら、父と同じような鋭利を少しは発揮できないものかと思う。


 勇者と聖杯騎士団が来る。


 それが味方としてならば大変に頼もしかろう。大陸無双の力が困難を一掃する様を思うだろう。しかしそれが敵として迫り来るのだから衝撃的だ。この世界のどこに平然として待ち構えられる者がいるだろうか。


「風が丁度よく暖かですね」


 穏やかな声に振り返ったならば白面の貴公子が柔らかく微笑みを浮かべていた。腰までの長さの杖をつき、その佇まいには一切の力みも感じられない。


「日暮れにかけて天候が崩れなければ、過ごしやすく眠りやすい夜になりそうです。英気を養うにはやはりそれが一番に大事なところ。私のような者には特にそうです。情けない話ではありますが」


 寸鉄も帯びぬ身に静かな決意を湛えて……ダニエル・ハッキネン子爵である。


 かつては世間から隠れていたと聞くものの、今や王国貴族で彼という人物を念頭に置かず生きる者などいはしない。ヘルレヴィ伯爵領にあっては私設の戦闘集団を組織して馬賊を討伐し、王都へ上ってはユリハルシラ侯爵家に入って信任を得て、侯爵の名代としてユリハルシラ領軍を率いることをまでした男だ。


 彼は戦傷を受けて一時は生死の境を彷徨い、死神の腕からは逃れるも軍人としての健康を失った。それほどの大怪我だったのだ。


 しかしもとより軍事によってのみ能力を認められていた人物ではない。むしろ本質的には内治の人なのだろう。その後も人と人を繋ぐようにして多くを働き、今はペテリウス領とサルマント領との西境に生まれた新町を治めている。


 そしてヨウシアが何よりも重要と考えるのは、彼がマルコ・ハハトに身命を捧げているという事実だ。そう表明されたわけではないが、暗黙の了解としてヨウシアはそれを承知している。


 どうして、とは思わない。そんな疑問を今更に抱くことはない。納得もするし、王権への忠誠を疑うこともしない。今の王国でマルコ・ハハト以上に王権を援けている人間はいないのだから。


 いつから、とだけ思う。彼はいつからマルコ・ハハトの臣として生きてきたのだろうか。少々と言わず羨ましさを伴って、そんなことをヨウシアは思う。


 彼はまるで殉教者のような清らかな覚悟でもってマルコ・ハハトを主君としている。その意志には一切の迷いも曇りもない。それでいて視野狭窄や思考放棄といった狂える臭いもない。ただただ美しい在り様だ。しかも強い。こういう強さもあるのだと知り、ヨウシアは感じ入るばかりだ。


「情けないのは私の方です。物見台、弓射台、馬防柵、乾掘、油壺、火矢、網……見えないところでは浅瀬や草むらの罠などもありますが……あらゆる準備を整えてなお少しも気が休まりません」


 それは嘘偽りもない本音だった。どんなにか敵に備えたところで、常識の内側でしかないそれらでもって勇者という非常識にどこまで通用するものだろうか。ヨウシアにはその判断がつかないのだ。


 現在、ペテリウス領軍は一万の兵力でもって東龍河北方支流の北岸に布陣している。ヨウシア率いる五千を中央とし、東西に二千五百ずつを配することで南岸を広く警戒する構えだ。南方より迫る脅威に対して可能な限りの防御陣地を築いている。


 決戦のためではない。場合によってはそうなることもあろうが、あくまでも決戦の場を補助する目的でもって構築された防衛線である。実のところ出番のやってこないことが理想的だ。


 勇者と対決するのは龍将軍である。


 既に三度の戦闘が行われたが、基本的には領軍も国軍も手出しをしない方針だ。やはり国を挙げて戦うことには問題があるからだ。


 そもそも新王は国軍を動かせない。動かせばその瞬間に教会の定めた厳法を破ったこととなり、それは国家として異端の道を選んだことを意味する。一つの選択肢ではあろうが、その後に巻き起こるだろう大混乱を思えば易々と選択できるものではない。


 領軍にしても、領内における行動と裁量に大きな権限を認められているとはいえ、神聖の旗に刃を向けることはいかにも大それている。たとえその旗が無辜の民を殺める暴虐の軍勢により掲げられていようとも、王権の名の下に勇者が否定されないその限りにおいては、四侯六伯の立場にある者が戦闘を命じることを避けなければならない。政治とはそういうものだ。


 また、純粋に戦力としての問題もある。大陸無双の名をほしいままにする聖杯騎士団の武威たるや、現実の外側から攻め来たるかのように妖しく、そしてどこまでも物凄まじい。ヨウシアの知る戦の道理がまるで通じない。


 カリサルミ領軍即応遊撃隊九百五十人の全滅に始まり、ユリハルシラ領軍が一千兵力でもって駐屯する砦の壊滅、そしてユリハルシラ領軍五千および剣角騎士団三千の手酷い敗走……どれ一つをとってもあってはならない戦闘であると同時に、どれもが何一つとして理解できない奇怪な大敗ばかりだ。


「勝ち目がない……そう思いますか?」


 問われてギョッとした。それはまさにヨウシアが口には出すまいと堪えていた言葉だった。


「異常な力により何もかもを破壊する聖なる軍勢……我らの尋常の武では抗い難いと考えているのでしょうか」


 責められているのだろうか。ヨウシアには反論するための言葉がなかった。まったくもってそれは図星だった。言い様のない無力感に囚われたまま、ヨウシアはここに立っていたのである。

 

 勝利の未来を思い描けないのだ。


 勇者と聖杯騎士団は北上を続けている。進路上にあるユリハルシラ領の各村、各町は住民総出で避難した。尚武の土地柄で知られる民が物資を運び出すこともなく逃げたのだ。中央よりそう指示されてのこととはいえ、その事実がヨウシアの心胆を寒からしめる。


 敵対するものを鎧袖一触し、カリサルミ領もユリハルシラ領も縦断して、天の矢の如くに飛来する神威の軍勢……その数は四千五百騎余り。些かも勢いを減じることがない。


 もしも龍将軍が敗れ、その災厄がこの北方支流にまで到来したのなら、ヨウシアは自領と新町とを防衛する最後の壁として戦うことになる。それは想定する内でも最悪に近い未来である。


「例えるならば、悪夢の中で手足が思うようならない時のように……閣下は焦燥に駆られているのでしょうか。あるいは溺れるかのようにですか? それとも崖の端に立つかのように?」


 嗤われているのだろうか。全ての言葉がヨウシアの心に突き刺さる。焦りも、苦しさも、不安も……どれもこれもが冷たくヨウシアの心身を苛んでいるからだ。


 もしもヨウシアが敗北したのなら、それは北部に始まった新時代の芽吹きが無残にも踏み潰されることを意味する。あるいはそれ以上の悲惨も吹き荒れるのかもしれない。想像を絶すると言っていい。


 後背にはもはや大兵力が存在しないのだ。


 いわゆる前線二領であるところのサルマント、ペテリウス両領軍は常に一万五千の兵力を維持するよう領政を営んでいる。しかしサルマント領軍が一万兵力でもってカリサルミ領へ進駐し、行禍原開拓に二千五百ずつを出している現在、王国北部にはそれぞれの領都に一千と、新町に一千ずつが駐屯するのみだ。


 負けるわけにはいかない。しかしどのようにしたなら勝てるのか、それがまるでわからない。この期に及んで、である。


 一方では葛藤もあった。勝たねば全てを失うが、勝ったとしても失うものがある。教会の権威は依然として王国のそれを凌駕しているのだ。勇者と聖杯騎士団に対して向けた剣槍の数だけ、勝利の後には不穏さが、敗北の後には過酷さが増すだろう。それが現実だ。この世界の理なのだ。


 心は揺れて、身体は震える。甲冑の重みという枷がなければ傍目にもそれとわかるだろう。噛み締める力を抜いたならば奥歯の鳴る音も響くだろう。それが三十歳となったヨウシア・ペテリウスの内実であった。


 いつしか地面を見ていたヨウシアの視界に、今、一筋の線が引かれた。杖だ。草の影濃き地面をついている。堅木を削り出したものだろうか。乳白色の色合いの中で木目が滑らかに流れていき、音もなく、細く優美な手の内へしっとりと収まる。自ずから顎が上がっていって、ヨウシアは莞爾とした笑みを見るのだ。


「それでも我らは戦いましょう。我らならば戦えましょう。必ずに」


 ああ……今ここには勇者を静かに待ち受ける男がいる。恐るべき災厄の到来を認識していながら、剣の一本も握れぬ身で微笑む優美がここに在る。


 ダニエル・ハッキネンとはかくも美しく大きな人物であったか。


 神々しくすらある姿の向こう側に、ヨウシアは巨大な炎のようなものを幻視した。心を熱く励ます何かが吹き付けてきていた。それはダニエル・ハッキネンという人物を通じて届いている。


 聖職者とはかくの如く在る者を表わす言葉ではあるまいか……そんなことを思う。


「憧れます」


 覚えずそんな言葉を口にしてしまって、ヨウシアは苦く笑った。思い詰めていた己を自覚したからだ。もはや恥じ入るまでもない。己の器が伯爵という立場に足らないものであることは百も承知だった。


 だが、それに気付かないほどの愚鈍ではないのだ。責務がわからないほどの無知でもなければ、不貞腐れるほどの無恥でもない。


 この立場は見事な人物と出会うことのできる立場でもある。己の足らざるを補い、あるいは伸ばす光ともなる文言をば人に尋ねて人より読むべし。それがヨウシアの生き方だ。そうやって少しずつでも前進していくのなら、前進しているその間だけは、至らない己を認めることができる。


「私も子爵のように揺るがぬ己でいたいと願っているのですが……これがどうしても難しい。正直なところを吐露するなら、こうしている今も恐くて恐くて堪りません。叫び出したいほどです。震えも止まらない」


 構えることをしないで赤心を表わした。そうしたいと願ったし、そうさせる雰囲気をまとってハッキネン子爵は側に立っている。まるでそのためにこそここへ来たとでも言うように。


「何も持たない者は何も恐れません。きっと、人は得ることを喜び失うことを恐れる生き物なのでしょう」


 言葉がしっとりと風に乗る。慰撫するようにしてヨウシアの耳に届く。


「最たるものは命でしょうか。それが証拠に、命を放棄した者は俄かに万夫不当の態度を見せるものです。しかしそれは勇気ではなく、無欲を根拠とした無謀でしかない……絶望、虚無、狂気……人間を辞めさせるそれらは、どれもが勇気とは相容れない心情でしょうから」


 戦場に命を失いかけてなお生還した男の言葉だった。傷病に苛まれてなお再起した男の言葉だった。


「何を所有し、大事に思い、護らんと欲するのか……つまるところ人間の正体とはそこにあるのかもしれません。誰もが恐れを抱えて生きています。そして恐れを抱く者にのみ勇気の機会は訪れる……」 


 ゆっくりと紡がれる言葉をヨウシアは聴く。心に染み込んでいく何かがあった。


「勇気とは不動の性質ではなく、不断の努力を背景とした現象なのだと思います。勇気があるから恐れに負けないというのではなく、恐れに負けまいと歯を食いしばる姿勢そのものが勇気なのではないでしょうか。そしてその困難さは恐れの大きさに比例する……何を護ろうとするかによって、人間の勇気は偉大な輝きをも放つに至る……」


 覚悟に澄み切った顔がヨウシアに向けられた。誰かに似ていた。顔かたちの話ではない。ハッキネン子爵は口髭を生やしていない。それでも似ている。そう……ヨウシアの亡き父に似ているのだ。


 帝国の大軍に対して領都籠城を決め、ヨウシアらを送り出した際に父が見せた表情に……あの時のあの眼差しに似ている。心に差し迫る透明さがある。


「閣下が恐れを抱くのは、それほどに大きな何かを護りたいと願っているからに他なりません。ですから、その震えは何ら恥じるべきものではありません。誇るべきです。その上で己の力量以上の成果を期待するといいでしょう。ある程度の楽観もまた勇気ですよ。悲観することは誰にでもできる上に、ひどく陶酔的ですから」


 微笑みに仄かな茶目っ気が薫った。どんな実体験が彼にそれを語らせ、そう微笑ませたものだろうか。人一人の来歴にはどんな書にも書き込み切れないほどの深さがある。


「勇気、ですか……それこそまさに私の希求するものなのかもしれません」


 そう答えて、ヨウシアは小さく吐息した。胸に渦巻くものがあって息苦しかった。顔だ。幾つもの顔が勇気の名の下に想起される。父ばかりではない。男ばかりでもない。実に多くの眼差しを目撃してきた。美しく、気高く、清澄な……あれらはまさに勇気の光であった。


 見上げたなら、空は西日に白けて雲の影が濃い。やがて避けがたく落日が迫って、世界はまず朱色に染まるだろう。そして夜が来る。不安を誘う暗闇……それは星々の瞬きにより飾られて、朝日への希望を繋ぐものとなる。


「私も誇らしく在りたい」


 青の褪せつつある天空に昼間の星を探して、ヨウシアは言った。


「雄々しく、猛々しく、勇気を奮って……見事な在り様を示したい。父と父に従った一万将兵に恥じないように……誰よりも早く勇猛を働いたセヴェリ・カリサルミに笑われないように」


 返答は少し遠かった。それもまた空へ向かって奉じられた言葉であるからだ。


「私もです。この戦いは王国の新時代を護るためのものであるのと同時に、我が子の生きる未来を護るための戦いでもあります」


 小さく吐息が聞こえた。ふと体調が慮られて見やったならば、そこには緊張に青褪めつつも強い意志でもって引き締まる横顔があった。


 同じだ。この見事な人物もまた勇気を奮っている。努力を支払うことで光を放っている。


「義弟ルーカスは勇者を相手取り奮戦して、そして生還しました。それは軍令違反であるし、大変な犠牲を生む敗戦ではありましたが……実のところ、私は嬉しくも感じたのです。よくぞ奔ってくれたとすら思いました。彼の心意気は清新な風のようです。きっとマルコの援けとなる……あるいは友にすらも」


 終わりにかけて切なげに響いた声は、最後に小さな笑いを一つ咲かせて、そしておどけたような笑顔をヨウシアの方へと向けさせた。


「私も閣下も共に三十代。十九歳の彼らからすればそれなり以上に年嵩でしょうからね」

「……十代への執着心は持ち合わせていませんが、はい、彼らは良き友となり得ると思います」


 ぶすっとした表情を作ってみせて、ヨウシアもまた笑った。


「カリサルミ領都包囲戦の際にそれと感じました。果物片の乗った茶菓子が陣中に用意されていたのですが、龍将軍はそれの果物片ばかりを取って食べ、ルーカス殿は台のみとなった焼き菓子を引き受けていました。どちらも笑顔でしたね。私は菓子など喉も通らない有り様でしたが」


 思えば状況はあの時と似る。セヴェリ・カリサルミ、ルーカス・ユリハルシラ、マルガレータ、そしてマルコ・ハハト。そこにヨウシアも加わったなら、それはまさにカリサルミ領都を巡り戦った当時のままである。


 ならば勝てようか。あの日あの夜に炎の矢が領都を一周して敵のことごとくを打ち破ったように、今この時もまた勝てるだろうか。南より飛来する破滅的な光の矢に対し、日輪の昇る東より炎の矢が一撃するものだろうか。想像を絶する戦いを再びに体感することになるのだろうか。


 いつからのことか、ヨウシアは身を震わせるものがその質を変えていることに気付いた。熱い。寒気のようでもあった先刻の震えとはまるで違う。


「子爵、龍将軍は勇者に勝てましょうか」

「そう信じればこそ、ここにいます。そうでない未来を否定しているからこそ、ここで閣下の軍と共に南を睨んでいます。杖をつきながらではありますが、私はそうやってこの戦いに参加しているのです」


 力強い言葉だった。ダニエル・ハッキネンは見間違いようもなく一人の戦士としてそこにいる。命を燃やし、勇敢なる立ち姿を表わしているのだ。


「なるほど……確かに風が暖かですね。星空を仰ぐ時分が待ち遠しくも思います」


 大きく大きく呼吸して、ヨウシアは南を眺めやった。


 対岸にはユリハルシラ領北部の風景が広がっている。そこは今、英雄が駆ける決戦の地だ。勇者と龍将軍との対決……それはアスリア王国の今後を決するのみならず、恐らくは大陸の未来をも左右するに違いない。


 己もまた、ここに在ることでもってその決戦に参加している。


 鼓動の高まりを感じて、ヨウシアはもう一度深く息を吸った。暮れゆく空に朱色が滲み始めたところで、もう何を慄く必要があろうか、ゆっくりと息を吐いていけばいい。腹の底に戦意を溜めていけばそれでいい。南を睨んで勇気を養っていけば、それでいいのだ。


 ペテリウス領軍が一万兵力でもって王国北部に確かな存在感を示す。


 そのことが大きな意味を持つと言ったマルコ・ハハトの言葉を今こそ信じて、ヨウシアは飽くこともなしに南を見続けるのだった。

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