第104話 生きることの豊かさをなど
冷やし練麺である。
純白色のそれは見目も涼やかに束ねられ、折り畳まれている。竹細工の容器は目が粗く編み込まれていて、枯色と薄草色とが交差する様には軽快な佇まいがある。さりとてごく淡い色調であろうに、そこに盛られた練麺はどこまでも純白に清楚を際立たせている。
奥歯に食感を思わされつつ一口分量を目に計る。欲に駆られている。さもあらん。箸でつまめばしどけない。宙に運べば艶やかだ。期待がいや増す。鼓動が速まる。
迎える器は白地の磁器だ。外には濃い青で流水が彩色されていて、内には深茶色の出汁が薬味を隠して寂と待つ。器を持つ手を動かせば、軽重濃淡入り混じる滋養の香りがふわりと漂う。舌は自ずから湿る。もう準備は万端だ。今この瞬間ならば火災に見舞われても避難しない。それどころではない。
今、純白色と深茶色とが出会うのだ。柔肌の半身をのみ浸し、風味に浴して、若々しくもなまめかしいその麺は口中へと至るのだ。
いざや、愉悦は満ち満ちる。世界は幸いの色に華やいだ。食す。ひたすらに。
「大変に美味しゅうございました」
沈黙の内に三皿を平らげて、ハンナマリは御礼を言上したのだった。椅子の背もたれに触れず背筋を伸ばしたままに、柔らかく目を閉じた。余韻を楽しむ。身体に行き渡る豊かさがある。
幸せとはここにある。満足を吐息に漏らして、正面に座る己の娘へと評価を伝えた。
「見事です、パウリーナ」
「うん。コツを掴んだから」
今年で十八歳となったパウリーナは、常と変らない落ち着きでもって茶杯、茶菓子を前にしている。幼さを残すその面立ちにはどこか見慣れない気配もあるように思う。
それも道理かと思う。己が娘は今やこの国の王として生きている。
「私の焼いた小皿焼きはどうですか?」
「とても美味しい。粉は北部産?」
「ええ。貴方の麺もそうでしょう?」
「うん。滋味がしっかりしてて好き」
茶を飲む。人の物音は遠く鳥の小声が近い。ここは王都王城の奥まった所にある貴賓室だ。
爽やかな風に誘われて窓を見やれば、中庭には草花の緑色が鮮やかに煌めいている。元は窮屈な整備をされていた様子だが、やはり内乱の三年間には手もかけられなかったものか、方々で奔放な伸び行きを見せている。
離宮を思う。焼け崩れたそこは人の手の再建よりも先に草木が立ち上がっていた。ハンナマリはそれを不思議には思わない。
滅びとは終わりではないと知るからだ。むしろ始まりだ。万物は興りて滅ぶを繰り返す。天地は生命を育む大事業を常態として成している。
人もまたそれに参加している。しかし身を委ねる安逸とはまるで違う。鎌と鋏とをもって庭の草木を整え、何がしかの目的に適うよう手を加えないではいられない。自力による進歩と発展を希求せずにはいられない。己が内に理を創れるが故の運命だ。ハンナマリの胸の内にもそれはある。
さても人為には成功と失敗とがつきまとう。さすれば人技には努力と工夫が求められる。分野を問わず情熱を傾けて切磋琢磨することこそが文化の躍動というものなのかもしれない。
「時に、パウリーナ」
だからハンナマリは問うのだ。真摯に。
「貴女の上達ぶりには新境地の広がりをすら感じました。既に熟達の域にあったものを、この上どのようなコツを掴んだのか……私に教えてもらえますか?」
文化とは人間の宝だ。それが食文化に関するものならばなお価値がある。ハンナマリはそう確信している。生物は食べることなしに生きられないからだ。どうして他の文化に劣ろうか。
パウリーナは小首を傾げてあらぬ方向へ視線を放っている。それは幼い頃から変わらない仕草だが、どうしたものか、やはり馴染みのないものが薫る。
可愛い子ではある。しかしこの子はこんなにも綺麗だったろうか?
ハンナマリはそう思ったから、霧が晴れるようにして真実を感得するに至った。目を見張った。息を呑んだ。空には雲が流れたものか、日差しは増して部屋はより明るくなっていく。
「ん……いつも美味しく食べたくて作ってたけど」
パウリーナの目はここを見ていない。彼女の心は狭い部屋の中にはない。
「それでもいいのだけど。でも、これくらいでいいって納得もしてて……」
言葉を探しているものか、視線がゆっくりと卓の上を横断していく。髪が揺れ解ける様にも注目せずにはいられない。何かの奇跡のように思えてならない。
「自分のためだと、もう十分だったの。十分に美味しかったの。でも……」
その瞳には煌めきが宿っている。万緑を照らし、億万の水面にも等しく輝き、何ものにも「これは己がための恵みである」と慢心することを許す……大いなる日輪のような光だ。ハンナマリは震えた。
「誰かのために作ると、凄いの。もっともっとって思うの。しかも楽しいね。夢中になるのとは少し違うの。だって練る時も茹でる時も、私、笑うもの。前はそんなことなかった。真面目な顔してたと思う」
そう言い微笑むパウリーナは美しかった。心洗われるような美しさだ。ハンナマリは己が母であることも、臣下であることも、女であることすらも忘れた。今この瞬間は陽光を浴びる一つの生命であると思った。中庭に健やかな草花と同等の一つだ。
「……それがコツ。そういう風に練ると、びっくりするくらい美味しくなるの」
溜息を吐いたのはどちらが先であったか、互いに清新な風を胸に吸い直したなら、再びの静けさが部屋に染み渡っていった。ハンナマリは心をそれに寄り掛からせた。感動を反芻するようにして憩う。
世界の微音を耳に遊ばせることしばし、ハンナマリは茶をひと啜りして、返答した。
「貴女はとても大切なことを知ったのですね」
「うん。お母さんは知ってた?」
「貴女ほどには知りませんでした。それはきっと……」
その先を口にせず、ハンナマリは立ち上がって窓辺へと寄った。王城の中に切り取られた小自然が生命の光に燃えている。蔦草の向こうには東屋が覗いている。この庭の前の主、エレオノーラはそこでよく茶を飲んでいたという。更にその前の主、ハンナマリの亡夫は……花壇を愛でる暇もなかったに違いない。
王者の在り様に思いを馳せる。ここはまさに人間社会の東の頂きである。
「パウリーナ、提案があります」
十八歳にしてこの庭を継いだ娘を見る。その小さくも偉大な存在へ、ハンナマリは他の誰にもできないことを為そうと思い立ったのだ。己にしかできないことを企図したのだ。
「宴を催しましょう」
ふん、と荒ぶる胸の内が鼻孔から漏れた。
パウリーナは小さく小首を傾げ、そして時を問うた。
「汝、思うたならば間を置かず行うべし……今晩です」
ハンナマリは手を構えた。卓上に軽麦粉を練るための構えである。聞こえてきた靴音は、それを見たパウリーナが卓の下に足を構えたからに違いない。言葉を介さずに通じるものがあった。
かくして王都の夜に突発的な宴席が設けられることとなった。
幾つかの仕掛けを施して……である。
「今宵はお招きをいただき、ありがとうございます」
尋常な挨拶をもって登場したその黒髪の青年を、ハンナマリは威儀も堂々として真正面から見据えた。
「よく来てくれました。王城もこの辺りとなると人の出入りも少なく入り組み方も独特です。迷惑だったのではないですか?」
「確かに、女官の案内がなければ迷ったかもしれません。しかし王族の居所とはそうあるべきものでしょう」
マルコ・ハハト……肩書や戦歴については軍事に詳しくない身にいかなる批評もできようはずがなく、ハンナマリとしてはただその常勝無敗と深謀遠慮を聞き知るのみだ。当代無双にして古今未曾有の英雄であるともいう。世評はこの青年に天井知らずの評価と名声とを許している。
しかし世の風聞ほど軽佻浮薄の代物もない。ヒルトゥラ家の人間であればそう実感しない者の一人としていない。ハンナマリもまたその例に漏れないから、ただ己の感得をもって青年の人物を計ろうと考えていた。
今は礼節をまとって取り澄ましている。慇懃さはない。しかし赤心からの誠実さもまた、ない。それは智に生きる者に概ね見られる傾向である。マルコ・ハハトとは武勇を要としていないようだ。
「急に招いた理由については、わかっていますね?」
「何も食べずに来いとのことでしたので、そのようには」
正解できるはずもない質問に対して、答えられる範囲でもって即答した。やはり智の者だ。動揺もなければ衒気もない。些かの隙も無く落ち着いている。
「私の我儘に付きあわせますが、腕に縒りを掛けますから許してくださいね」
「焼き菓子についてはハッキネン子爵から聞いています。思いもよらず機会を得られました。感謝しこそすれ何の不満を持ちましょうか」
「不思議なことを言いますね。ご希望とあれば小皿焼きもこさえますが、それは食後のこと。今から私たちが食するのは練麺ですよ。娘が万端に用意しています」
一つ目の仕掛けを解き放ったなら、果たして智者の心にさざ波が生じたようだ。
「女王陛下が……でしょうか?」
「私は子を一人しか産んでいません」
「それは存じていますが……」
そこで言い淀むことはむしろさすがと言うべきか。ハンナマリは目の前の端正な青年が己の娘を正しく理解していることに一定の満足を覚えた。
パウリーナは己の練った麺を己以外の者に茹でさせない。また、食べ時を何よりも優先する。つまりは今宵この宴で厨房に立つということだ。内々の夕食会を思わせて招いたのだから不意打ちだろう。だから、心の波間に水面の下が覗ける。沈着冷静に隠されたものが窺える。
冷徹さだった。それに鎧われて感情の色はまだ見えない。つまりは常在戦場の心構えが徹底されているということだ。マルコ・ハハトは智をもって不断不休の戦いを続けているようだ。
「そう警戒せずともよいでしょう。ヴィルマは側を離れず、ヤルッコ殿もいます。王城には近衛兵の巡回もありますし、王軍についても警備兵として用いるについては何の制約もありません。見えざるところでは貴方の配下たるあの者らも動いているのでしょうね」
ハンナマリは離宮炎上の夜について真相を知っている。火除け蔵に身を隠し護られつつも、遠く剣戟の音をすら聞いたと記憶している。闇を知らずには闇を払えぬが故に、凶手を要撃する者もまた凶手である……それは誰の言葉であったか。何にせよマルコ・ハハトは陰謀に長けるということだ。
「この国の王は、心安らかに食事を楽しむことのできる日々を生きている……違いますか?」
「違いません」
微笑んでいる。早い。もはや戦いの気配などは微塵も感じさせず、穏やかな礼容をのみ示している。それは智が柔軟性を保持していることを意味する。機に臨み変に応じることができるということだ。
「その上でも万一に危険が訪れたとして、今宵同伴した者たちがいれば絶対の安全をお約束できます」
智に生きる者が“絶対”を口にする時、それが己を根拠としていたのならば危ういものだ。いかなる才智をもってしても自己を完全に把握できるわけがないからだ。避けがたく陶酔が臭う。
しかし、他者を根拠としていたのならば……それは幸いだ。周囲にとっても本人にとっても潤いだろう。ハンナマリもまた微笑んだ。
「頼もしいことです。同伴者についても無理を言いました」
「いえ、全員の都合がついたわけではありません。アーネル将軍は近衛兵団について急務があり来られませんし、僕の副官も軍務で王都を離れています。秘書官については別件で呼び出されてはいますが、王都内でのことです。無理に呼び戻すこともできたのですが……」
「それには及びません。先約を邪魔されてはサルマント家の娘も面白くないでしょうから」
「……噂になっていますか?」
「ふふ、どちらも王都の男性諸氏に人気がありますからね。さあ、立ち話はこれまでにして中へ。外で待つ者らも呼んでくださいな。私が案内しましょう。さあさあ」
ハンナマリは有無を言わさずに急きたてた。時に強引さとは周到さを煙に巻くと知る。
うっかりと二つ目の仕掛けが露見しそうになったからである。
「わっかんねぇ。正直、訳わっかんねぇ。何で俺、今、王様の作った麺を食ってんだろ。旨ぇけど。そりゃもう、すんげぇ旨ぇけど」
素直過ぎる感想を漏らしているのは首に金環をつけた男だ。名をクスター。“火撃”の武名を代表する人物であり、マルコ・ハハトの配下にあっては副官ジキルローザと並んで軽騎兵部隊を率いている。あのレオ・サルマント伯爵をして「勝てぬ」と言わしめたと聞く。
「俺もわかんねぇなあ。まあ、旨ぇもん食わしてもらってんだし、文句もねぇけどよ? 役得ってやつなら随分とありがてぇ。ありがてぇ話だよ」
こちらも明け透けな物言いだ。見事な体格の大男である。名をオイヴァ・オタラ。先の内乱においてペテリウス伯爵の名代として一騎打ちに勝利し、武人としての名声を得ている。マルコ・ハハトとの関係は長いものだという。春の軍人事で新生近衛兵団の歩兵隊長に就任した。
「いや、あの、二人とも……その言葉遣いはどうなんだろう! その……どうなんだろうなぁ!?」
引き攣った笑顔でもって発言したのは龍将軍の参謀室長ラウリだ。元は行商人ということだが、ハッキネン護衛団の経営においてその手腕を大いに発揮し、王国北部の復興開発においても多大な功績があったという。その有能ぶりは父ヘンリッキからも聞いていた。
「今宵この宴は私の我儘によって開かれたものです。食事を楽しむことが全てです。料理に対して礼を持てばそれでよいのですよ。漫然と食べず、しっかりと味わうということです」
追加の料理を運びそれを各自に取り分けつつ、ハンナマリはニコリと笑んだ。パウリーナ、ヴィルマと三人息を合わせて厨房に働くことは慣れたものである。しかし参謀室長には緊張を強いてしまっているようだ。次の仕掛けを思えばあまり気を遣わせたくはないところだった。
「料理に対しての礼ってな、いいな! 旨いもん様が日に三度も四度もお出でなすったら、俺ぁ、大歓迎しちまうぜ。頭下げるし、お祈りもすっかもしんねぇ。旨いもん様、旨いもん様、次は辛いやつで」
「そうだなあ。俺としちゃ一回ごとの量も大事なところだな。旨けりゃどんどん食いたくなるしよ」
「あのさ、二人ともさ、それ催促してるからね!? ああ、そんなキラキラした目しちゃって……ま、マルコ……じゃなくて龍将軍! 閣下!」
「この場はマルコでいいと思いますよ」
「じゃあマルコ、どうしよう? どうにかしな……くてもいいの?」
「残さず食べればいいと思いますよ」
皿が気持ちよく平らげられていく。ハンナマリは腕まくりして厨房に作業した。食文化とは生産と消費が基本である。どんなにか上質を追求したところで、満腹するという大目的に適わなければ意味がない。負けるわけにはいかなかった。
そして戦いに勝利して……仕掛けの時間が始まる。
食後の茶は温熱と微香で人を優しく包み込む。膨れた腹は思考を緩ませる。舌を楽しませた時間は、それが終わった後にも長く心身をまどろませる。微かな眠気を伴う幸福感が漂っている。
四人の男たちがそれぞれに満足の面持ちで座り、ハンナマリとパウリーナも席についた。感謝や感想のやり取りをさらりと流したなら、ようやくここに場が整ったのである。
「食卓を知れば人間を知ると言います。社会とは人間の集合体ですから、畢竟、豊かな社会とは豊かな食卓により約束されるというもの。政治を語ることは私の領分ではありませんが、しかし、食卓を通じて貴方に問いましょう」
そう前置きし、標的に対して一撃を放つ。
「龍将軍。貴方は家庭についてどう考えていますか?」
「家庭……ですか」
「家族と言っても構いません。貴方の囲う食卓が豊かであることを、私は願っているのです」
四者四様の困惑が見られた。しかし警戒にまでは至らない。至らせないための満腹と眠気だ。それはまさに隙というものである。標的の周囲に首を揃えている仕掛けを発動させるべく、ハンナマリは言葉を放つ。
「参謀室長」
「え、あ、はい」
「先の帝国侵攻で夫を失った方をお世話しているそうですね。大変に仲睦まじい様子であると評判ですよ」
「え、ええ!? 評判!?」
「親子三人で買い物する姿は幸せの色に満ち満ちているとか」
「え、や、親子だなんて、そんな……あはは……何か凄く照れちゃいますね。ミルカ君がとても懐いてくれて、その、私もそんな気になっちゃってたりしまして」
「大丈夫ですよ。食卓を共にし、満たされる姿を笑顔で見守り合えたなら、それはもう家族の姿なのです」
身をよじるようにする参謀室長に笑みを送り、次いで大男へと顔を向けた。
「オタラ隊長」
「んお? お、俺も?」
「城下の小料理屋に足繁く通っているそうですね。実は私、そこの女主人と親交があるのです」
「そりゃあ、何とも奇遇というか、奇縁というか」
「先日久しぶりにお会いしたところ、随分と惚気られました。貴方のことを随分と頼りにしているようですね」
「最近はちょいと乱暴な輩が増えてるって話だからなあ……戦続きっちゃ戦続きだし……まあ、俺がいることで少しでも安心できるなら、いいな。凄く、いいなあ」
「大丈夫ですよ。食卓に思いを込めた料理を並べることは喜びです。喜びとは人に希望を抱かせるに最たるものです」
そうだといいなあ、と嬉しげに宙を見る大男を微笑ましく見守った。ここでは伝えなかったが、女主人は恐らく子を宿している。その兆候が既にあった。彼女がそれを打ち明ける日を思うと胸が暖かくなる。
「何だ、この流れ……もしかしなくても、次は……」
「クスター殿」
「げ、やっぱりか」
露骨に嫌そうな顔をするその精悍なる男へ、ハンナマリはまず一言をお見舞いした。
「種馬」
「はぁ!?」
「……とは言いませんが、玩具を大量に買い占めて北行きの輸送隊に預けた真意を聞きたいものです」
「げぇっ!? な、何でそれを知って……」
「きちんと梱包しなかったでしょう。半分近くが破損していて、しかも散らかって他の荷に紛れ込んでいました。ハッキネン子爵が扱いに困っていましたよ」
「そ、そいつぁ……」
「見かねた私とアマリアとで新しい玩具を見繕ったのです。ものはついでですから、調理器具も数を揃えて同封しておきました。詳細は聞きませんが、貴方の仕送り、少々偏っているようですからね」
「うへぇ……何で俺、今、王様の母親に叱られてんだ……?」
里の女たちみてぇだ、とぶつくさ言う姿には奇妙な愛嬌があって憎めない。箱一杯の玩具を思い出す。それらは幼児の小太鼓から少年の木剣まで幅広く取り揃えられていて、この男が郷里へ寄せる愛情の深さが伝わってきたものだ。代わりを市に買い求めることは素敵だった。
そして……ハンナマリは標的を見る。
マルコは微笑のままに、一度きり、ゆっくりと瞬きをした。
もはや言葉は必要なかった。その瞳には深い深い青紫色が夜の海のように揺らめいていて、今、水底に沈む色合いを仄めかしている。全てが見えるわけではない。しかしそれとよく似たものをハンナマリは知っていた。
亡き夫、先王ヴィルヘルムが長く瞳に宿していた色だ。それがある。それが見える。
哀の色だ。
自嘲の甘みでも厭世の傾きでもなく、悲観の滞りや自棄の荒ぶりでもない。深く深く沈降する哀傷と、心身を痛め苛む悲嘆とが、何の悲惨か、二十歳にも満たない青年の心の奥に根を張っているのだ。
ああ……この青年の威とは、かくも深刻な絶望を根拠としていたのか!
ハンナマリは震えた。再びの瞬きによってそれは隠れたものの、一度感知したのならばもはや忘れようもない。あの哀しみは受け止めきれない。それ故に身が震える。
ハンナマリは己の失敗を悟った。浅慮であったとは思わない。どうしてこれが予見できようか。
「マルコは私の麺を食べればいい。そういう約束」
パウリーナだった。
真っ直ぐな瞳でマルコ・ハハトを見ている。僅かな揺らぎもない。
「そうですね。約束通り、健やかに過ごしてもらっています」
彼は小さく笑った。それは苦笑だったかもしれない。しかし綺麗な笑い声だった。鈴の音の響きにも似て聞こえ、鳥の羽根の軽やかさを心に感じさせる。ハンナマリは聞き入った。見れば男たちも同じ様子である。
「獣の話も、する?」
「いえ……僕の考える続きについては、いずれ誰もが自ずから知るところとなるでしょう」
「楽しみにすればいい?」
「さぁ……それはどうでしょうね。貴女には寿いでもらいたいと思いますが」
二人だけの会話が聞こえている。誰もそれに加わることなどできはしない。遥かな高みから玲瓏として響くようなそれは……まるで天地の光熱のようだ。それは振り仰ぎ身に浴するものだ。邪魔をするなど。
「マルコはお料理しないの?」
「食べられるようにすることはできます。しかし美味しくすることは別ですね」
「もっと欲張りになればいいのに」
「……難しいことを言いますね、貴女は」
ただ聞く。二人が響かせるものを聞く。いつしかハンナマリは祈っていた。
香よ、薄まるな。湯よ、冷めるな。茶を楽しむこの時よ、続け。いつまでも。
金銀細粒の時の砂が流れていく。今から零れて遠く過ぎ去っていく。
得難く、それ故に惜しまれた。ハンナマリは祈り続けていた。




