【8】オットーの一人娘
「サラ」
自領の屋敷に戻るなり、レアンドロは出迎えた妻の名を呼んで抱き上げた。
「――きゃっ、」
まだ小さな体で、それと知っていればわかるくらいにはそろそろ目立ち始めた腹の膨らみに障らないよう、そっと抱き上げ、屋敷の奥にある彼女の自室へと足を向けた。
使用人たちは、いつも通り礼儀正しく見て見ぬふりをして主人たちを通した。しかし、普段ならば多少は照れ隠しの抵抗だってあるはずのサラが、今日はやたらと静かだ。
誰かが既に、レアンドロの王都行きを彼女にも伝えたのだろう。
「レアンドロさま」
彼女の自室で、すぐに二人きりになった。そっと彼女を長椅子の上におろして座らせれば、サラは潤んだ目でレアンドロを見上げていた。
「しばらく王都に行ってくるよ」
「……王都はこわいところですわ」
「心配しなくていい。必ず帰ってくるから」
必ず帰ってくる、という言葉はもはやほとんど嘘の約束だったが、サラはそういうレアンドロのずるさに気がつけるほどまだ大人ではなかった。
「父も、兄たちも、みんなそう言っていなくなってしまいました」
「おまえの兄上たちはまだ生きているだろう。きっとそのうち許されて、外にも出てくる。そうしたら一緒に暮らそう」
サラの父、元オットー子爵は既に政変の中で命を落としていたはずだ。
しかし彼女の兄たちは存命で、そのうち一人は逃亡して行方不明、もう一人は今もなお、中央で投獄されたままらしい。
レアンドロはそのあたり、詳しいことはよく知らなかった。
「レアンドロさま」
サラは、彼女の生家の没落に、他でもないカシャ一族出身の王妃が絡んでいるような政治的なからくりにはとことん無知だった。
けれど別に、それはそれでいい。
彼女の立場であれば、何も知らず、何も考えずにいたほうが遥かに幸せだ。
思えばサラは初めから、カシャの人間であるレアンドロに対しても隔意なく素直に懐いたし、その性情は下手に賢い女よりも気楽でよほど安らげた。
「……この子が産まれるまでには、お帰りになります?」
「心配だから、出産の前後までの間はカシャの本邸で面倒を見てもらえるように取り計らっていく。メセタには腕の立つ医者も多いからな」
暗に、産まれる頃にも戻っては来られないということを伝えたい意図は、さすがにサラにも通じたようだった。
「なにも心配しなくていい。安心して、今は無事に元気な子を産むことだけを考えていれば」
自分から望んで迎えた妻ではなかったが、そんなことはレアンドロにとっては些末なことだった。可愛い妻には違いない。彼女にも幸せになってもらいたいと思っている。
彼女がそのまま、レアンドロを待ち続けるというのなら構わないし、レアンドロが不在のうちに誰か別の男と再婚していたとしても、それはそれで許す気でいる。
サラ以外の妻は、別にレアンドロがしばらく戻らなくても、他で正妻を迎えても平気で待つだろうが、この少女にそれと同じ肝の据わり方を期待するのは無理だろうと思われた。
いずれにせよ、サラがこのまま無事にレアンドロの子を産むことは、彼女にとって良いことだろう。
寄る辺ないサラも、腹の子を通じてカシャ一族の一員として認められれば、一族の中で守られる権利を得る。
「……サラは。サラは、レアンドロさまをお慕いしております」
涙ながらにそう言われると、さすがに離れがたさも頭をよぎった。きっとあと数年もすればすっきりとした美人になるだろう。
手放すのは多少惜しい気がする、今はまだ幼さの印象が勝つだけの妻。
「俺も。愛してる」
南部の女と違って、中央貴族の娘は楚々として控えめだ。
どちらが良い悪いという話でもないが。今度の新たな妻――しかも、レアンドロの立場取りに深く関わる正妻となる、北部ペトラ人の娘は、どのような人だろうか。
サラの細い体を抱きしめながら、レアンドロは遠く王都の、ヒメノ伯爵家の娘のことを考えた。




