【4】姫さまって
外から求められる役割も増え、日々は何かと忙しなくなる一方だ。
しかし、この時期のベルタを最も悩ませたのは、実は仕事に関することではなかった。
「お母さま。ここどこ?」
なんと言っても、なかなか新しい暮らしに馴染めない王子様のご様子だった。
「新しいおうちよ」
三歳児にとってはそれも無理のないことで、生まれてからほとんどの時間を過ごしたダラゴの宮は、これまで彼の世界の全てだったのだ。
従来ベルタがルイと共に住んでいたのは、ダラゴの王城で慣習的に「後宮」と呼ばれていた区画だった。新たなエリウエラル宮は実際、今までとは何もかも勝手が異なった。
まず第一に、王家の人間が私生活を送る空間にしても、かなり開けているのだ。
広大な面積の宮殿が王と王妃、その一家のみが私生活を送る私宮として割り当てられ、住居部分すらも表と完全に隔絶された区画というわけではない。
これまで、ある意味では適度に閉鎖的な空間で暮らしてきたルイにとって、その住環境の変化は相当なショックだったようだ。
「お母さま。いっちゃ、や」
「ルイ」
「やあよ。ここにいて」
ルイは引っ越しに際してぐずったり、帰りたいと駄々をこねて見せたりすることはなかった。しかし、彼は新しい環境に馴染めず、黙り込んだまま体調を崩して寝込んだ。
ルイが寝込んだ途端、その情報はどう隠そうとしたところで王宮中に知れ渡ることになる。彼は国王ハロルドのたった一人の実子で、現状で唯一の直系王位継承者だった。その健康状態に人々は常に関心を寄せている。
新都ヴァウエラに居を移してすぐの頃、熱を出して寝込んだ彼のそばに、ベルタはしばらくかかり切りで付いていた。ルイに涙ながらに呼び止められてしまえば無碍にもできなかったし、彼を王宮内の余計な雑音から守る必要もあったからだ。
しかし、その結果、ルイは母親を独占できる簡単な方法があることに気がついてしまったようだった。
「……こういうの、どこで覚えるんだか」
彼はベルタに構われたくて不満が爆発すると、たびたび具合が悪いふりをするようになった。
「子供の悪知恵は案外馬鹿になりません」
「本当に。どうにかしませんとねえ」
様子を見つつ、乳母職に復帰したジョハンナや、ジョハンナの夫であるシュルデ子爵をルイの子守り役として活用して、どうにかお茶を濁して過ごしている。
「けれどまあ、姫さまの小さい頃にそっくりと言えばそっくりですわ」
「ええ。駄々をこねて最終的には本当にお熱を出されるところまで」
生家から付き従っている年長の侍女たちにとっては覚えのある展開らしく、ベルタはうっすらと我が身を顧みて反省した。
「ルイ王子にも何か、気を紛らわせるものがあればよろしいのですけれど」
「そうですわねえ。姫さまがお育ちになった環境には、周囲にたくさん同世代の子たちもいて、徐々にお母さまお母さまという感じでもなくなっていきましたけれど」
カシャでのびのび育ったベルタの環境と、現状の王宮での生活を比べることはあまり参考にはならないようだった。
「……でも、ルイに友人を作ってやるのはまだ難しいわね」
王宮に出仕できる子供の下限の年齢は、だいたい七、八歳くらいだという。いくら王子の遊び相手、あるいは学友というような立場で幼い子を集めるとしても、その子供たちは家柄や立場を背負ってルイと接することになる。
子供本人が最低限の礼節を弁えられる年齢まで待つことが、長い目で見れば互いのためになるのだろう。
結局、その日はその場で結論は出ずに、議論は堂々巡りをしたのだが、ベルタはその本題とは別に一点気になることがあった。
中央の女官たちが離席した際、彼女は古参の侍女たちに対して苦笑しながらそれを指摘した。
「それと、さすがにもう姫さまって歳でもないわ」
古い付き合いの侍女たちは、いまだに身内だけの場ではベルタのことを姫さまと呼ぶ。
これまではなあなあに許容してきたが、王宮の移転に伴って、今後は私生活も何かと人目につくだろう。
「ええっ?」
しかし、ベルタがそのことについてはっきり指摘したのは、その時が初めてだった。
侍女たちはベルタからの指摘に、心底驚いた顔をした。
「幾つになっても姫さまは私たちの姫さまであることに変わりはありません」
「よろしいではありませんの」
こちらこそ思っていたよりも強い反応が返ってきて驚く。主人に親しい呼びかけを許されているというのは、彼女たちにとってはよほど特別な権利であるようだった。
とはいえ、二十代半ばにもなっていまだに幼い頃のままの呼び方をされ続けるのもどうかと思う。人目についたら赤面ものだ。
ベルタは少し考えて、多少譲歩して折衷案を提示した。
「わかったわ。じゃあ、私が今後、女の子を産むまでにはやめるようにしてちょうだいね」
この手のことを言えば、周囲が黙ると知っていた。侍女たちは渋々といった様子で頷く。
「……まあ、そういうことでしたら」
「姫さまの御子さまを姫さまとお呼びするのも楽しみですね」
侍女たちがそれぞれ納得して下がっていく後ろで、腹心のエマだけがその場にとどまった。エマは明らかに、何かを言い淀むような間で黙り込んでいる。
「エマ?」
「……姫さまは、」
まったく彼女はいつも、気がついてほしい以上のことにも気がつく。エマがどういう趣旨のことを指摘しようとしているのか、ベルタもまた充分過ぎるほどわかっていて、だからこそ彼女の言葉を遮った。
「違うのよ。別に」
今のは確かにベルタが悪い。次に産むかもしれない子の話などを迂闊にするからだ。
「別に、気に病んでるわけじゃないの。いつまでも次の子に恵まれないこと」
「……まだ、いつまでも、などとおっしゃるような話ではありませんわ。ルイ王子もこれまで大病もなく元気にお育ちですし」
しかし、ルイを産んでからもう三年が経つ。
「そうは言ってもね」
第二妃として実質的にハロルドと没交渉だった頃ならばともかく、最近になって、周囲の貴族たちや廷臣の目が気になりだすのは仕方のないことだった。
……なまじルイの時は早かった分だけ、期待外れだとどこかで思っている人は、いったいどれくらいいるのだろうか。
「……保守派や外朝の口さがない者たちはよほどうるそうございますか?」
「それもあるけど」
王家に二人目三人目の子をもたらすことを期待する声は、必ずしも悪意があってのものばかりでもない。どちらかと言うと、ベルタにとっては無邪気に寄せられる期待のほうがよほど堪えている。
けれど、そうした重圧に今更傷つくのもお門違いだった。
「仕方のないことよ。――子を産めない女に周囲がどういう態度を取るのか、私はたくさん見てきたわ」
彼女はこの件に関し、別に感傷的ではなかった。
というよりも、感傷的になっていると親しい人々に思われ、真摯に慰められるような展開を避けたくて、努めて理性的な姿勢を貫いている。
ルイが今のところ元気に育っているとはいえ、幼い子供が無事に成人する一般的な確率を考えれば、誰もが現状に危機感をいだくのは当然のことだ。
あの子の身にもしものことがあった時、王家の嫡流存続は一気にまた白紙に戻る。後継問題によって国家が今度こそ暗礁に乗り上げる危険すらあった。
ルイの「予備」を欲することは、政治的な視点から見ても単に順当なことだった。
ベルタは知らずと重いため息を漏らしていた。
……男の子を一人、産んでいてさえこれだ。
「王太后さまも、ご自身では御子を産まれておりません」
エマが突然何を言い出すのかと、ベルタは目を丸くする。けれどエマは、慎重に進言を寄越す時の顔をしていた。
「けれど、この王宮の誰もが知る通り、王太后さまは紛れもなく王家の女主人でございました。世継ぎを挙げる挙げないだけが、王妃という立場の女に課せられる絶対的な評価ではありません。政治的な裁量こそが、むしろ何よりも重要であるという好例です」
王太后という女性の、その老練な生き方を考える時、ベルタは彼女の稀有な性情にいつも圧倒される。
嫡出であることのみを正統とする文化が強固な大陸社会の中で、先王が侍女に産ませた子であるハロルドに代を継がせるまでの流れは、王太后の強い信念と巧みな政治手腕なしにはあり得なかった。
「姫さまは、王太后さまのようになるべきです」
「そりゃあ、理想はそうだけど。道はまだまだ遠いわよ」
「いえ。功績の大小の話ではなく。方向性の話ですわ」
エマの言葉の意図を汲み取れず、ベルタは首を傾げた。
「――あまり、マルグリットさまの影に引きずられ過ぎないで下さい」
それは確かに、ベルタが自分でも意識し切れていなかったような、心の奥深くを見透かされた言葉だった。エマだから言えるようなことだ。
「……そうね」
気がつけば、その人のことを考える時間が無意識に増えているかもしれなかった。
「先」の王妃。ハロルドの前妻、マルグリットのことだ。先の、とはいえ、彼女は今もって不自然な形ではありながら、幽閉の身のままこの国のもう一人の王妃であり続けている。
かつて、同じ立場で、今のベルタとは比べものにならない重圧を受けていたであろう人。
ハロルドと彼女の間にあった関係、そして今もあるのかもしれない関係を、ベルタは知らない。知る必要もないことだ。
もしかしたら、聞けばハロルドは答えてくれるのかもしれないが、それを知らされたところで、ベルタは彼らの関係について何を思えばいいのかわからなかった。
――少なくともアウスタリアは既に、ロートラント出身の「王妃」を、政治の表舞台に返り咲かせる余地を残してはいなかった。




