【19】夜会
王都に帰ってからでは遅いのだということを、結局セルヒオは妃殿下に伝えられないまま、彼らはそれぞれに忙しない日々を過ごした。
そう、王都へ戻ってからでは遅い。
なぜならハロルドはここメサーロで、今回の争点に決着をつけていくつもりだからだ。
『王都に戻ってからの根回しより、手間が省ける』
ハロルドがそう提示した時、側近たちの反応は賛否半々といった様子だった。
『メサーロ太守や、近隣の諸侯から相当の反発が予想されます。彼らに関しては、ある程度強硬に押し切らなければなりません』
『ですがそれも致し方ないかと。不承不承であっても現地からの承認が得られているというのは議会で大きな説得力になり得ます』
そうした流れで、メサーロ視察の日程も大詰めを迎えたある晩。
ハロルドがそのために用意した舞台は、国王夫妻が主宰となって滞在中の館で催された、小規模ながら豪勢な晩餐会だった。
新都の案でメサーロを捨て、北の都市ヴァウエラに一本化することを、ここに宣言するための場だ。
彼の部下であるセルヒオらは、この日のために色々と下準備を進めていたし、事前に面倒な貴族の抱き込みは済んでいる。本格的な裁可は王都に帰った後の議会で下されることになるが、その根回しも含め、既に舞台は整っていた。
ただ、セルヒオにとっては大きな不安材料がひとつ、手付かずのまま残されていた。
『陛下。主だった貴族連中の抱き込みはもちろんですが、事前に妃殿下の合意も得られたほうがよろしいかと存じます』
進言しながらも、それがハロルドに届く可能性が低いことは察していた。
王妃であると同時に、ベルタ・カシャは南部の頭領の娘でもある。今回の真意を知った彼女がどういう行動に出るかは、セルヒオら中央の官吏の視点からも未知数だ。
『そうしたいのは山々だが』
彼は苦々しくそう呟いて、結局何も明言しなかった。
手堅く保守的な陛下にとっては尚更、彼女に伝えるべき機会は見つからないことだろう。あと少しでヴァウエラ案に押し込めそうな展開の今、南部から余計な横槍が入る可能性を彼は最も警戒していた。
結局、妃殿下は裁可のことも何も知らされず、今日という日を迎えている。
臣下から見て、国王夫妻の夫婦仲は決して悪くないように思う。
むしろ前年の南部視察のことも覚えている護衛や側近の面々からすれば、晴れて向き合うことを躊躇わなくなった二人の関係性の変化は、いっそ目を見張るほどだ。
けれど、そうして個人的な彼らが良好な関係を築きつつあるからこそ逆に浮き彫りになる。
彼ら王侯貴族の婚姻の性質は、根本的に政略だ。
互いに来し方にあるものを切り捨てた立場は取れないし、それは責められるものではない。陛下も、もちろん妃殿下も。
和やかに進む晩餐会の中、陛下も妃殿下もそれぞれ近くの席の貴族たちと楽しげな時間を過ごされた。
「今度輸送船にも乗ってみたいわ」
「まあ、妃殿下の好奇心には驚かされてばかりですわ」
「大きな船には乗ったことがなくて。興味があるの」
「是非いらしてくださいませ。当家所有の輸送船は船体も大きく、安全です」
宴もたけなわという頃を選んで、ハロルドは上座に設けられた席からおもむろに立ち上がった。
わずかな挙動で、彼は会場の目を一斉に集める。人々も陛下にならって思い思いの会話を止め、素直に陛下の次の言動を待った。
「――エンリケ公をはじめとした多くの者がこの視察に同行し、知見を得た。メサーロの者たちのもてなしも申し分ない。大義であった」
衆目の中で口を開いたハロルドを、ベルタは王妃の席、近い位置で見上げている。彼女もまた全ての動作を止め、彼の言葉を聞いていた。
ベルタがすぐに動けない着座ではなく、彼にならって立ち上がってしまっていることがセルヒオは気にかかる。
「二つの都への視察を終えて、我らはひとつの結論を得た」
彼女にとってこの場の流れは不可解で、さぞ違和感を誘うものだろう。
(その上、陛下は今「我ら」という言葉を使われた)
ハロルドに体ごと意識を向けた王妃の横顔が、それと知られず鋭く、懇談のものから瞬時に切り替わる。
けれどハロルドはそれを視界に入れていなかった。黒曜の目が明確な険を帯びるよりも、次ぐハロルドの言葉のほうが早かった。
「我らは新たな王都を、ヴァウエラに移すことに決定した」
国王陛下が発言している限り、人々は派手な反応を許されない。彼らは視線だけを忙しなく見合わせた。
無音の室内には、盛装をした人々の衣擦れの音だけが響く。
「無論、当該都市メサーロがヴァウエラに劣るというわけではない」
ハロルドは、彼が君主として臣下の前に立つ時は常にそうであるように、貼り付けた無表情、淀みのない声で言葉を重ねる。
「この街はこの先も絶えず発展していく。王都としてではなくとも、我が国の要の都市のひとつになろう。メサーロへの措置も重ねて次の議会で話し合う」
「――陛下」
彼の言葉を遮れる女は、この場では彼女しかいなかった。
ベルタは大きく数歩進み出て、ハロルドの視界に入った。
そうして彼が作り上げた舞台に躊躇いもなく足を踏み入れる。
視線が一気に自分に向くことを気を留める様子もない。彼女はただ背筋を伸ばし堂々とハロルドを見据えていた。
「わたくしは何も聞いておりません」
陛下の突然の宣言に加え、彼女のこの発言にはさすがに人々も多少の騒めきを漏らした。
(……まあ、そりゃそうなるよな)
端に控えて会場全体を見渡していたセルヒオは、もっともな展開に頭を抱えたくもなる。
ベルタの思わぬ主張に、晩餐会の出席者の誰よりもハロルド本人が一番対応に困っているようだ。
(いや、貴方は多少は想定しておいてくださいよ)
ベルタが、怒るべきところで瞬発的にその選択を取れる人物だということを、彼だって知らないわけでもないだろうに。
「王妃、」
「陛下のおっしゃる『我ら』とは、どちらの方々のことでしょう。無論、その中にわたくしが含まれていないということはご存じのことでしょうが」
憤りをあらわにする彼女の声が、じわじわと場の空気すら締め上げていくようだった。
「王妃。それは今ここで話すことか?」
「何も今、陛下に遷都案そのものについての議論を挑むつもりもありません」
冷たく退けようとするハロルドに対し、ベルタもまた頑として厳しい顔を崩さなかった。
なぜなら彼女の怒りは、感情論というより理性的だ。
「――ただ、何も聞かされていなかったことに関し、陛下はまるでそれがわたくしの意思でもあるかのような発言をなさいます。この地の者たちが『王妃』を信頼し、わたくしへの奏上を通じて国策へ願い出た懇願のすべてを、陛下はにべもなく切り捨ててしまわれる」
にこやかで穏やかな、親しみのある新しい妃殿下。これまでそうした印象しか見ていなかった人々の衝撃は如何ばかりだろうか。
ベルタは視察の間中ずっと、模範的で玉虫色な態度を取り続けた。
それは遷都案が固まっておらず、色々見て考慮するという王妃の姿勢としては決して間違ったものではなかった。
だが、もし仮に彼女がヴァウエラ遷都の前提を知って動いていたのなら、もっと違ったやり方もあっただろう。
ましてやこのように、後ろ足で砂をかけて現地から帰る強硬策に打って出るのなら。メサーロの有力者たちに中途半端に期待を持たせるような真似も、立場上避けたかったはずだ。
「陛下はわたくしを軽んじられることで、わたくしを信頼する者たちの忠誠心も軽んじられました」
「そのようなことではない」
彼女が怒ってみせるのは、言うなればパフォーマンスの一種に過ぎない。
ハロルドの仕組んだ演出を台無しにすること、周囲に国王との不仲を印象付けてしまうこと、それでも自身の、王妃としての求心力を維持すること。
「わたくしに何も知らせず、この場でも黙っていよと仰せならば、何のために『王妃』は今ここにいるのです?」
瞬時に天秤にかけ、後者を選び取ってハロルドを正面から殴りに行った彼女は、既にそう腹を据えている。
「王族としての公務を求めず、ただ国王の妻であるという役目に甘んじろとおおせなら、王妃とは王宮の奥深くにあって子を守り育てるだけの女で良うございましょう」
不格好な言い訳を避けたいハロルドが一方的に不利な状況だ。
ハロルドに助け舟を出すために、セルヒオは半身進み出て妃殿下の視界に入った。……個人的な感慨はどうあれ、セルヒオとしては彼の肩を持つべき局面だった。
「妃殿下……」
この辺りで勘弁してくださいと祈るような気持ちを視線で切々と訴える。
「陛下。このことについては、後ほど確かに話し合いの時間を設けてくださいませ」
ベルタは、誰にもわからない程度の仕草で周囲に視線をめぐらし、引き際を心得た。
凍り付いた会場の雰囲気の一切に無視を決め込んで、いち早くハロルドに辞去の挨拶を述べて席を立つ。
「――それでは皆様。今宵は失礼いたしますわ」
普段彼女は、場の空気というものにとても気を配る。だが今夜ばかりは潔く放棄を選択するらしい。
「楽しい夜でした」
普段から目立つことを嫌うかのような、静かで従たる姿勢を取り続けてきた王妃。
その彼女が国王陛下相手に一歩も引かないという強い態度を見せたことに、出席者たちは動揺を隠せないまま礼をとり、後ろ姿を見送った。




