閑話:彼女の言い分
十五歳の頃に後宮に入れと父に言われて以来、ずっと。ニーナはずっとここにいる。
少女から大人の女性に変わる、人生の中であまりに長すぎる五年という歳月を費やして。
ニーナは、俗に言う北方のペトラ人派閥から、かなり早い段階で後宮に女官として送り込まれた娘の一人だった。
国王陛下に見向きもされない側室候補。
貴族社会のなんたるかも知らない成り上がりの娘。
色々言われていたが、彼女にとって後宮での暮らしは当初、さほどつらいものではなかった。
以前までの正妃、マルグリットは、ペトラ人女官には徹底的に無関心だったからだ。ニーナたちのような存在は彼女の高貴な目には映らなかった。
肝心の女王蜂にさえ睨まれなければ、外野がどれだけ騒ごうと大したことではない。
ペトラ人女官たちは、正妃やその配下の女官たちの専横を甘んじて受け入れつつ、余計な功名心を持たず生活してさえいれば良かった。
ニーナにとって、それは別に難しいことではなかった。
というよりも、十五歳だった彼女は、ここに入った当初は事の重大さをまだあまり理解していなかった。
日がな一日、読書や刺繍をして好きに時間を潰しても、誰にも怒られない。経済的に豊かな新興伯爵家で甘やかされて育った彼女は多趣味だったし、趣味に没頭して無限に時間を過ごしていれば、無意味な日々にも別に耐えられた。
色々な方面から邪魔にされて誰からも見向きされず、そもそも女官とは名ばかりで、上から実際的な雑務が降って来るわけもない。窓際女官という役職は単に、彼女にとって天職だった。
ずっとこの生活が続くというのなら、それはそれで構わないのではないだろうか。
ニーナをここに送り込んだ父からも、側室候補としての善戦は特に期待されていないようだった。第一、国王陛下とはろくに会ったことすらない。まがりなりにも後宮に五年住んでなお、陛下に個として認識されているかどうかすら怪しいと思っていた。
――我が国の国王陛下。三十を超えてなお若々しく美しい、まるで物語の中の王子さま。
あの陛下の目に映ることが叶ったら、どれだけ幸せだろうかとは考える。
けれど、陛下にとってニーナたちのような娘は、きっとものの数にも入らない。
ニーナは己の身の丈を察していた。その密かな、恋心のようなものが、決して褒められた陽の当たる思いではないということも。
後宮内の内情は、ここ最近まではわりと目まぐるしかった。
ベルタ・カシャという、南部から来た無位の豪族の娘。
彼女は第二妃という特別待遇で入内してきたかと思えば、あれよあれよという間にこの後宮の中心人物に収まった。
同じペトラ人とはいえ、南部のことはニーナにはよく分からない。
だから、ベルタ・カシャがニーナのような女官たちとは違って「妃殿下」と呼ばれ得る地位に収まった時は、王家にそこまでの譲歩をさせる南部の権威に驚かされた。
二重結婚という立場を取って、真正面から正妃マルグリットの対立軸に立った彼女だったが、意外なことに最初はとても大人しかった。
彼女はむしろ、第二妃投入によって勢いづくペトラ人派閥の不満を抑えて逸らすというような立場で、当初は事なかれ主義を貫いていたように思う。
けれど、ベルタ・カシャは子供を産んだ後になって突然それまでの態度を変えた。
彼女は、この後宮の絶対的な女主人であった正妃マルグリットに対してすら、時に対立も厭わないような不遜な振る舞いをし始めた。
自らが産んだ王子のためという大義名分に守られて。
そうして対立を煽ったくせに、そのくせ一度も己の手は汚さずに、正妃や保守派の自爆を虎視眈々と待った。
――身の処し方の上手で、……なんて狡猾な女。
ニーナの「同僚」たち、側室候補たちの中で功名心のある者は、強いベルタ・カシャに目敏く擦り寄り、取り巻きとなるために苦心していた。
彼女たちを理解できなかった。ニーナはずっとあの女が怖かった。
もっと言えば単純に、ベルタ・カシャのことが嫌いだった。
会った瞬間から、ああ、この人とは一生相容れないだろうなと漠然と感じる相性の悪い相手というのは、時折いる。
「……けれどなんだか、頭が良くて、馬鹿な人ね?」
ルイ王子の生母であり、駒を進めて先日ついに王妃として君臨した彼女のすること、言うことは、この閉鎖的な後宮内ではすべてが肯定される。
ベルタ・カシャはいつも、強い使命感と目的意識に裏打ちされた顔をしている。その頭の中にどんな高尚な意志が隠されているのか知らないが。
「せっかく女に、何もする必要のない身分に産まれておきながら、どうして自分から好き好んで背負い込むような真似をするの?」
女はただ守られていればいいし、政治も金儲けも駆け引きも、男同士にやらせておけばいい。
彼女ほどの立場であれば、ただ陛下に愛されて子供を産み育て、正妃マルグリットがそうしていたように下々の者は視界にすら入れず安楽に暮らしていけるだろうに。
このまま後宮で腐っていきたかったニーナの命運が、突然雲行きを怪しくしたのは、実のところあの女のせいではないかと疑っている。無駄を嫌う彼女の。
先日、ニーナは突然父に呼び出された。
父と顔を合わせて話をすること自体が数年ぶりだったが、呼び出された先の外朝の一室には国王陛下の姿もあった。
嫌な予感がした。陛下がこれまで見向きもしなかった後宮女官と面会するような理由なんて、ニーナは一つしか思い浮かばなかったからだ。
『ニーナ。陛下がこの頃、後宮女官を下賜の形を取って処分している話はおまえの耳にも入っているだろう』
処分、という強い言葉を父は使った。久しぶりに会う父はただ王国の家臣としての顔だけをしていた。
『ありがたいことに当家も、陛下から直々におまえの縁談の話をいただいた。これをお受けすることが名誉だと心得て、ヒメノ伯爵家の娘として恥じぬよう役目を果たせ』
ニーナは陛下の御前である手前、ただ跪いて粛々と父の言葉を聞いていた。
『当家が頂戴した縁は、――――』
けれど、次いで父の口から出たニーナの「下賜」される先を聞いて耐え切れなかった。
『――――いや!! 絶対に、わたくしは絶対に嫌です、父上』
父の驚いた、迷惑そうな、ニーナが拒絶を示すなどとは考えもしていなかったような顔を見て、ニーナはなりふり構わず泣き喚きたいような気持ちになった。
『……なんだってそんな遠くに。わた、わたくしが、いったい何をしたと言うのですか』
ニーナは世間知らずに育った娘だった。
ずっと、風下に置かれているということにすら無自覚だった。ただ無為に楽なほう、この後宮という場所の、非現実な日常に馴染んで流された。同い年の娘たちがとっくに嫁ぎ、既に子供を産んでいることも珍しくない中で、それと同じだけの時間を無駄にした。
もし自分が少女の時分に嫁がされていたのであれば、きっと同じ家格の家に縁づいて、生まれ育った環境と代わり映えのしないそれなりの暮らしをしていただろう。
そういう貴族の娘としての普通の結婚は、特段ニーナにとって魅力的とも思えなかったが、少なくともそうしていれば人並みには暮らせていた。
『私はここから出て行かないわ。このまま後宮にいさせてくださいませ! 陛下、へいか、どうか、私は……』
ニーナに当然あり得たはずの将来は、父に、そして何より国王陛下に、理不尽に奪われた。
(私も、私だって、幸せになれるはずだったわ。こんなところにいなければ!)
『ニーナ、やめなさい。陛下の御前をなんと心得る』
『嫌ですっ、陛下、』
『っニーナ!』
結局その日、ニーナは父に引きずられるようにして陛下の御前を辞した。
部屋から引きずり出される直前、室内で呆れたように座したままの陛下とわずかに目が合った。その呆れの表情の中には、ニーナに対する絶望的な無関心の色が浮かんでいた。
それは彼女にとっては、よく見覚えのある表情だった。
誰もニーナに興味を示さない。ニーナが何を考え、何をしようとどうだっていい。ただ薄い失望と嘲笑を向けられることだけに慣れた。
けれど、ニーナをこのような娘にしたのは誰だ。
伯爵家の娘として相応しい教育を与えないままに仕官させ、この歳になるまで放っておいた父。当時彼女に、父からの命令を拒否する権利など存在しなかった。
父に言われるまま後宮に入り、ろくに相手もされずに今日まで放っておいて、そんなニーナに今更せめてもの役に立て、家に生まれた義務を果たせと言うのか。
この後宮に入れられた時点で、内情はどうであれ、側室候補だった女官たちの純潔を証明するものは何もない。そんな状況で、条件の落ちたニーナに良い縁談など来るはずもなかった。
それこそ陛下からの、下賜という形を取って強引にまとめられるような縁に飛びつくしかないのだ。この後宮に入って初めて国王陛下から直々に賜った命令は、彼女にその理不尽を突きつけた。
――ましてや提示された下賜先は、彼女にとって未知の、一夫多妻などという野蛮な風習が成り立つ、いまだに貴族でもないような家柄だ。
(……私の人生を返して)
そして窮地に陥ったニーナは焦って混乱し、自棄を起こした。
彼女は敵陣の中心に特攻するように、正妻のもとへ不遜な直談判に走るという、あらゆる迷惑行為の中でも最悪に近い手段を選ぶ。
なんでも良かった。ただ、周囲の理不尽に対して一矢報いたかった。ただこのまま、流されるばかりで意思のない駒のように扱われるのが我慢がならなかった。
国王陛下。彼はもはやニーナにとって、叶うはずのない淡い恋心を向ける相手という存在ではなくなっていた。ニーナのような、後宮に打ち捨てられた小娘の人生など容易に踏みつけにする絶対的な権力者だ。
彼女の身柄を好き勝手に扱おうとする権力者たちにはもはや、反発と嫌悪感しか覚えない。
ただ、そうなってなお、ニーナは国王陛下の側室という立場には依然として強い憧れを向けた。
(けれど、もし)
……どうせ、嫁いだところで夫となる人の、たった一人の妻にすらなれないのだったら。
遠くの野蛮な地に嫁がされるよりも、たとえ正妻にはなれずとも、国王の公妾のような強い立場にのし上がれる万が一の可能性を思う。国王陛下の側室候補であるという、今現在の形骸化した己の身分を、彼女は思い出していた。
(たとえばベルタ・カシャのように)
彼女は結局正妻になったが、正妻になる前の第二妃時代から強かった。
ああいう強い椅子を手に入れることが叶えば、女だてらに爵位持ちの貴族相手にも立ち回れるようになる。誰にも尊厳を妨げられず、気ままに暮らしていけるかもしれない。
それは、人生に絶望した彼女にとって唯一の、甘く楽しい妄想のようなものだった。
*
ヴァウエラという町の視察において、ニーナは初日にベルタ・カシャに詰められて以来、気が気ではなかった。
流石にこれ以上、職務上のことで彼女に注意されたらもう後がない。
どういうわけかベルタ・カシャの酔狂な目こぼしにより、自分は侍女としてひとまず召抱えられているが、彼女がその気になればニーナなど片手で捻り潰されるだろう。
そう思ったニーナは、実に勤勉に王妃の付き人としての仕事をこなした。
けれど結局ベルタ・カシャは、ヴァウエラにいる間中、ニーナに関してなんら行動を起こしては来なかった。
彼女は見ているだけでもげんなりするほど多忙な日程をこなしていたし、おそらくニーナの相手どころではなく、普通に忘れているのだろう。
(何よ。仕事のし損だったわ)
これまで何もできないふりをして、先輩風を吹かせてくるあのフェリパとかいう侍女に大概の仕事を投げていたのだが、今回の視察でフェリパにも手口がばれてしまった。
帰ったらベルタ・カシャの宮の中で、今よりもっと孤立してしまうかもしれない。
王都への帰りの馬車の中。
ひとつの馬車に詰め込まれた王妃付きの侍女たちは、全員が無言だった。
きっとニーナのような余所者がいなければ、彼女たちは気楽なおしゃべりでもして帰路を楽しむのだろう。ニーナはどうでもよいという表情を作って、窓の外にだけ視線を向けて居心地の悪さを隠した。
そんなニーナに、突然前触れもなくフェリパは話しかけてきた。
「次のメサーロ視察にも、ベルタさまはニーナさんをお連れになるそうよ」
話しかけられたこと自体にびっくりし、そしてその内容は若干憂鬱で、少し遅れて頷きを返す。
「あ、はい。そうですか」
「私は次はお留守番。問題児のあなたをうまくいなせなかったものだからベルタさまはお怒りよ。お役御免ということね」
その名前が出て、ニーナは反射的にびくっと肩を跳ねさせた。
本当だろうか。ベルタ・カシャは厳しいが、まさか今回程度のことをフェリパの失態に数えるつもりだろうか。
「……フェリパさんのせいではありませんわ」
なんと言ったら良いものか迷いつつ遠慮がちに慰めると、フェリパはたまらなく癇に障ったという顔をした。
「当たり前じゃないの。それはあなたの言うべき台詞とお思い?」
「いえ、申し訳ありません」
(ものすごく怒るじゃないの……)
ニーナは小さくなって見せつつ、フェリパの顔色をうかがった。彼女は憤懣やるかたなしといった様子ではあったが、同乗する他の使用人たちにその怒りの同意を求めたり、一緒になってニーナを責め立てたりというようなことはしなかった。
「ふん。私の次にあなたのお世話係になる人は、私などよりよほど厳しいわよ。覚悟しておいでなさい」
大真面目に誰かの威を借る捨て台詞を吐いた彼女は、その後一転、生真面目な顔をした。
「……だからヴァウエラでちゃんとそうしていたように、ご自分でできるだけの仕事はきちんとなさい」
ニーナが返答に困っていると、他の彼女の同僚たちもフェリパと同じ顔をする。
「そうですよ、ニーナさん。あなたが頑張ってさえいれば、誰もあなたを責めないのだから」
「あなたを好意的に受け入れることがベルタさまのご意向なのだから、無下になさってはいけないわ」
彼女たちが持っている同じ顔。ひとつの共通の目的意識のようなものに、ニーナはどうしても馴染まない。
彼女たちはニーナがどうというよりも、ニーナがどんな人間であっても揉めないよう最大限の努力をするのだろう。
その団結は、ある種の陶酔のようにすら感じられた。馴染まない集団の中に入れられて、ニーナはだんだん委縮するような気持ちよりも、彼女たちに対する苛立ちのほうが大きくなってきていた。
「無下にもなにも」
好意的に受け入れろというお達しで、ニーナを仲間に混ぜてやれと彼女たちの主人は言っているのだ。そんな温情でお友だちができたって、なんの意味がある?
「みなさん私を、内心で疎んでいるか、それとも上から目線で同情的なだけじゃないのよ! ……ひ、妃殿下だって、ご自分の優位が揺らがないものだから、私のような者にも温情を示す余裕を、見せつけていらっしゃる」
これまで物静かに過ごして来たニーナが突然居直ったことに、馬車の中の女官たちは一様に驚いた顔をした。
どうせ彼女たちはニーナの主張を小馬鹿にしているのだ。陛下がニーナのような小娘を側室にするはずもないとたかを括っている。
「……わかりましたわ、割り振られた分の仕事はきちんといたします。ですから私に、必要以上に関わらないで。私のことはもう放っておいてくださいな!」
可哀想と思われて構われるのは、冷たく当たられるよりも余計に彼女の自尊心を傷付けた。
しばらく黙っていたフェリパは、結局いつもと同じ呆れ顔をした。
「ニーナさん。あなた、本当に子供みたい」
カッとなって思わず言い返しそうになったニーナは、けれどそういう態度のことを言われているのかと気がついて寸でのところで思い留まった。そうやって良いようにあしらわれている全てのことが癪だった。
「あなたを宮に入れようとした当初、ベルタさまは案外相性が悪くなさそうだとおっしゃったわ。……あの時はまたベルタさまの無茶ぶりが始まったわと思ったけれど」
彼女が無遠慮にニーナを見つめるので、ニーナは先ほどまでとは別の意味で居心地が悪くなる。
「な、なんです」
「少なくともニーナさんは、今日みたいにキャンキャン喚いているほうがうちの宮に馴染むわね」
フェリパは、何か楽しみを見つけた時のようにふふん、と鼻で笑った。




