【33】適材
その頃、当然ながら王宮内は揺れていた。
正妃が身ごもった侍女と共に王宮から姿を消した。
更に、その一派に対し国王が捕縛の兵を差し向け、自身もそれを追いかけたという話は、翌朝には火をつけたように広まった。
国王陛下が兵を引き連れて出られた。何らかの理由で逃げた侍女や逃亡に加担した保守派に、もしくは正妃本人にすら、陛下自ら処断を下される。
保守派の権威が大きく削がれることはもはや明らかな局面で、騒然とする王宮内で唯一完全に勝ちを得たという見方をされたのは、第二妃カシャ妃だった。
諸問題に対し一切の反応を見せず黙殺を決め込んでいた彼女だが、国王陛下が派兵により不在にするという非常時にあってはついに重い腰を上げた。
彼女は後宮内に残された保守派の女官たちを、一部は生家の立場や職階に応じて自身の派閥に下らせたり、一部は謹慎処分という名目で監禁に追い込んだりした。
女官たちの捨て身の反撃を挫く意図での行動だったが、一方で権力の揺り返しを受ける王宮内で、保守派に取り残され切り捨てられた女たちの身を守るためでもあった。
後宮内にもまた、外朝と同じように保守派に恨みを募らせた新興のペトラ人女官たちが存在していたからだ。
彼女たちはベルタが引きこもっていたせいもあり、大きな派閥間の諍いの余波をもろに受けて苦境に立たされていた。そのこれまでの労を労いつつ、ベルタは適度に彼女たちの相手をして不満の噴出を抑えた。
それら一連の行動は、すべて彼女の台頭を印象付けるものだった。
結果だけを見れば、ベルタは最小の手間で後宮内を制圧し、落ちた正妃の権威に代わって人事を掌握したようにも見えた。
ただ本人の内心を除いては。
「あらまあ、酷いお顔ですこと。自ら後宮の頂点の座に手をかけておいてそれは、流石にお行儀が悪うございますよ」
カシャから主人に連れ添う腹心の侍女は、呆れまじりにそう苦言を呈した。
彼女たちの姫さま、ベルタの顔色は近頃酷い。
寝台の上でかろうじて身を起こした彼女は、頭痛でも起こしているのか片手で頭を押さえていた。明らかにろくに眠れていないという顔をしている。
もともと寝つきも寝起きも良くない困った姫さまだが、何か悩みごとを抱えると不眠に陥ってみるみる元気をなくしていくのは、古参の侍女たちにとっては馴染みのことだった。
「いよいよ姫さまは名実ともに王妃におなりなのですから、相応しい態度をお取りなさいませ」
侍女たちは、ごく私的な空間でのみ、今でも主人のことを姫さまと呼んでいる。
「わかってる。外ではちゃんとしてるでしょ」
「それは私たちの化粧の技術の賜物で、どうにかまともな顔色に見えているだけですわ」
「ご苦労さま。これからもくれぐれも研鑽を積んでちょうだい」
可愛くない言い方をする姫さまだ。彼女がこういう態度を取って不機嫌を取り繕えない時は、たいてい侍女に甘えている時だと知っている。
侍女はベルタの手を引いて寝台からおろし、鏡台の前に座らせると、寝癖で複雑に絡まった彼女の癖っ毛に慣れた手つきで櫛を入れ始めた。
「南部から戻られて、姫さまが常になく不安定でいらっしゃるようなので、実は私たちは密かにご懐妊を疑っておりましたのよ」
ベルタはまだ眠たそうな目を鏡越しに侍女に向け、微妙な顔をした。
「南部でも別に何もなかったわよ」
「お付きから聞いてはおりますけど、万一把握し切れていないということもありますし。ルイ王子の時も私たちにとってはまさかの事でしたわ。あの時は姫さまが、新しい環境に来たばかりで気を張っていらっしゃるのだと思って、随分発覚が遅れてしまいました。ですから気にしすぎるということはないのです」
ルイ王子を懐妊した初期も、やはりベルタは心身ともに調子を崩した。
しかし当時は、本来新婚の花嫁に仕える使用人が最も気にすべきことを彼女たちは失念していたのだ。
当事者たちはおろかこの縁組に関与した誰もが意識の外だったという事情はあるのだが、それはそれとして侍女は職務怠慢だったと未だに反省している。
「ないわ、何も。今までも、これからも」
そう言うベルタが、本気の不機嫌なのか照れ隠しなのか今ひとつ分かりかねて、侍女は反応に迷った。
「……今まではともかく、これからはどうでしょう」
即位当初から連れ添っていた正妃が消える後宮で、陛下が、長男の生母であるベルタを改めて重用しない理由はないだろう。
今回の偽りの懐妊騒動で陛下は、世継ぎ問題の危険性への認識を強められた。
この国の王族の少なさは中々緊急性のある課題だが、ルイ王子を立太子させる意志が陛下にある以上、おいそれと適当なところに産ませるわけにはいかない。
順当に考えれば、王室の次の男児もルイ王子の同母弟が望ましい。長く国内の中枢に巣食っていた保守派が衰弱し、内政の均衡が崩れかけている現状では、婚姻政策の要となる直系の女児もまた喉から手が出るほど欲しい存在だろう。
心身共にさほど丈夫ではない姫さまがそこまでの重責を負う立場に追い込まれるのは、ただ彼女を案じる侍女たちにとっては不服だが、そうも言っていられない。
彼女たちの姫さまは、そういう運命のもと王家に嫁いだ。
「私は、ジョハンナが羨ましい」
ベルタは突然、王子の乳母の名を口にした。
「困難な結婚に飛び込めた素直なあの子が、そうできるだけ夫と相愛のあの子が羨ましいわ」
あの能天気そうな年下の乳母に対して、ベルタがそう思っているというのは意外だった。
だが同時に、侍女にとっても得心がいく。ジョハンナの夫と彼女は親子ほども歳が離れていて、珍しいことではないとはいえ、結婚に踏み切るにはそれなりに勇気がいっただろう。単なる見合いではなく本人同士の意思で決めた話だというから尚更だ。
ジョハンナにとってはまだ、困難な選択だという自覚は薄いかもしれない。だがジョハンナからは、夫と共に歳を重ねられないことも、並みの夫婦よりも早くに別離が訪れることも、すべてを受け入れているような達観した雰囲気を時折感じる。
「これからですわ。姫さまも、陛下とこれから関係を築いていかれればよろしいのです」
ベルタは感情が込み上げて、けれど泣きたくはない時の、虚勢を張る顔をした。
「全部諦めて見ないふりをする方が楽よ。私は、困難に飛び込みたくはない。……陛下がいつ、どのくらいの瑕疵で、私やルイを切り捨ててしまうのかわからない。そんな相手を家族と思えるの。それとも家族と思ってはいけないの?」
結婚から二年以上が経過し、まだ始まってもいない二人。その複雑な心中を思えばすぐには返す言葉が出てこなかった。
本来であれば、南部での彼女は何一つ欠けるところのない完璧なお姫さまだった。
最大領主一族の総領姫として蝶よ花よと育てられ、彼女はやがて南部で誰と結婚したとして、上から嫁ぐことになっていただろう。
ベルタは元から自由意思で相手を選ぶことのできないお姫さまだが、彼女のような人たちは、政略的な婚姻によりあてがわれた男を愛することになるよう教育されている。
教えられた通りに夫を愛せば、彼女はきっと夫にも愛されて、寄り添い支え合う夫婦になれたはずだ。そうして信頼できる夫と二人、家や家族を守る将来が彼女にとっての健全な結婚像だった。
そこには荒れる国家の行く末だとか、血で血を洗う骨肉の争いは無縁のはずだった。
いつか政局によっては妻や実子すら切り捨てるかもしれない国家元首を、彼女の感覚でただ夫として見ることは難しいかもしれない。
「けれど、姫さまは飛び込む決意をなさっている途中なのですね」
だが、侍女は主人の心が向いている方向を不思議と理解できた。
「ここにお入りになった当初、姫さまの胸中にはいつもカシャのことがあって、すぐにお帰りになりたいと考えていらした。けれど、今はもう違うのですね」
少しずつ、ここにある選択を受け入れているような彼女の独白を、侍女は努めて何事もないように聞いていた。
「私はカシャのための結婚をして、弟を支えていく以外の将来を想像していなかった。王妃になる能力も覚悟もないのに」
「覚悟など。そうあるために覚悟が必要だと自覚している時点で、気概としては充分でございましょう」
それを言うのならば今までの正妃こそ、ベルタよりもその地位に相応しい覚悟を持っていたか甚だ疑問だ。
ただ王族として産まれついたから、その立場に疑いもなく生きていたに過ぎないマルグリットが本物だとされるのならば、確かにベルタは異なる環境から飛び込み、努力を重ねるしかない張りぼての偽物かもしれない。
これから彼女はきっと国内外で、事あるごとにマルグリットと比べられ、一部からは一段落ちの扱いを受けるのだろう。最初はそれでも仕方ない。その地位に就くときに、誰もが最初から地位に足りる能力を身に着けているわけではない。
「あなたは私に王妃として頑張ってほしいの?」
ベルタは鏡越しのまま目を丸くして、不思議そうな顔をした。
「おかしゅうございますか?」
「あなたたちは、私がそうしたいと言えば何でもいいのかと思ってた」
また甘ったれたことを言う。
「既にカシャに帰れそうにはない展開なのですから、姫さま自身も前向きのほうがよろしいに決まっています」
かなり前からそうだったと言えなくもないが、第二妃という地位が不安定だったせいもあり、ベルタは未だに王家に腰を据えかねていた。
「……それもそうね」
けれど彼女はまるで、今気が付いたというようにすとんと腑に落ちた顔をした。
「そういえば私は、ルイのためにとうに、ここに居続ける覚悟をしていた。あの時は自分が王族扱いを受ける覚悟まではなかったけれど」
ベルタは妻になることは諦められても、母であるという事実を切り離す選択肢を最初から持たなかった。
「どうせここにいるしかないのだから、不幸ぶっているより、不幸にならない努力をする方がいいに決まってる。結局私は私のすべきことをするだけ。……それってすごく普通のことよ。王だとか王妃だとかに関係のない」
なんだかよく分からないが、ベルタの気分が若干上向いたということだけは分かる。
「やはり私たちは、ただ姫さまが健やかに暮らしてくだされば何でもよろしいのです」
「そうね。だから守られて旨味を享受してばかりも、風下に立ち続けてばかりも不服だわ」
今のはそういう話だっただろうか。少し前まで、慣れない愛や恋やに悩む、情緒たっぷりの新妻の風情だった気がするのだが。
いや、案外そうなのかもしれない。彼女が後宮に押し込められて以来感じ続けている無力感も本をただせばそういうことだ。
結局彼女はうまく誰かに使われたいし、南部で総領姫を張っていた時のように能動的な動きがしたいのだろう。ルイ王子を産んだことすらベルタにとっては運のもので、自発的な功績ではないのかもしれない。
ベルタが王妃として立つ時、夫を心から信頼し、王家のため――引いては国家のために彼女が何の迷いもなくその能力を発揮することができれば、どんなに素晴らしいだろう。
萎れかけた花が水を得る時、彼女がこの王宮でどんな風に咲くのか、侍女はその日を想像した。




