【28】女官の品格
陛下は、視察から戻った数日後から継続的に第二妃の宮に足を運んでいた。
彼が昼間に少しルイ王子の顔を見に来るのは、さほど珍しいことでもなかったが、今の外朝の状況を鑑みれば周囲の女官にとっては意外な事態だった。
特に、南方への視察の旅に同行していなかった女官たちは色々と想像を膨らませた。
彼女たちは二ヶ月の間、主不在の宮の留守を守って、ただでさえ不利な後宮で正妃派閥が押し込んでくるのをひたすら耐え忍んでいた。
鬱憤を溜めたまま主の帰還を待ちわびていたのに、当のベルタは彼女たちの話を聞いてあっさり静観を決め込んでしまった。口には出さないまでもそれに拍子抜けしていたのだ。
「ジョハンナさん、視察の間に、もしや陛下とベルタさまに何かあったの?」
「何かって?」
大半の女官たちより年若い乳母は、王子の乳母という要職でありながら、この宮の者たちにはどこか末っ子のような扱いを受けている。
話しかけた時、多少彼女が会話に乗り気ではなさそうでも女官たちは気にしない。
「つまり、ご夫婦としての進展のような何かよ」
「視察の道中、お二人は幾晩もひとつ屋根の下で過ごされたのでしょう?恋人同士でなくとも間違いが起きるような状況だわ、ましてお二人は神に許されたご夫婦なのだから」
ジョハンナは、一人だけ酔いが覚めているような白けた顔をした。
「お二人は道中で、移動の時間を長く同じ馬車で過ごされ、深い対話の時間を持たれました。これは今までになかったことよ。南部において陛下が、現地に通じたベルタさまを頼られて絆が深まったことは間違いがないわ」
固すぎる回答に、女官たちはかわされたと思ったらしく同じく白けた顔をするが、ジョハンナにしてみれば真摯に答えたつもりだった。
「あら、本当よ。むしろ安易に励まれて二人目が期待できるような状況より、ご夫婦の関係の進展としては実りある旅だったと私は思うわ」
「あなた結構すごいこと言っているわよ」
というより、ジョハンナはこの旅に同行してほぼ初めて、夫婦の個人的な対話を間近に見た。
ちょっとどうかと思うほど他人行儀で、最初は人目に遠慮してそうしているのかと疑ったほどだった。
しかし、日程が進むにつれて二人は次第に、普通に会話を重ねるようになっていったので、この人たち本気なのねと流石に気がついた。
少し前までジョハンナ自身も、女官たちと同じ大いなる誤解をしていた。
長年子宝に恵まれなかった王家の高貴な血筋だ。夫婦がルイ王子を得るまでには、お二人の大変な努力があったに違いない。
実際、ジョハンナがそう認識しているのも無理はなく、関係各所にとって予想外だった第一子懐妊までの事情は、後宮内でもあまり知られていなかった。
ジョハンナの、女官としてのキャリアの全てをかけてお世話するルイ王子が、まさか偶然の産物程度の扱いで産まれていたとは。これは確かに、彼女のように後々気がついた人間も大っぴらに話題にするようなことではないだろう。
不都合には適度に耳目を塞いでおくものだ。
まして、当初の事情はどうであれ、結果としてルイ王子がとても愛情に恵まれて育っているのは明らかだ。
よくもまあ、上流階級の赤子がここまで生母に懐いたものだと思う。ベルタが自ら乳をやってまで育てているせいだろうか。だが、それもきっと理由の一つに過ぎない。
ルイ王子が泣いてむずがれば、彼女はずっと腕に抱いてあやしてやっていたし、王子が体調を崩せば、昼も夜もなく付き添った。
傍から見れば乳母の職務怠慢と取られても仕方のない状況だが、ベルタ本人は、母親は自分なのだからと気にもしていない。
もともとジョハンナは、子供にあまり懐かれるたちではなかったし、自らの子の母としての経歴も浅い。
ジョハンナは一人目の子を産んですぐに次の妊娠をしたし、二人目を産んだ直後からは仕官に向けて動き出している。特別なはからいによって、息子たちには定期的に会うことができているが、育てているのは夫や姑だという感覚が強い。
要するに乳母として役に立っているのは乳が出ることくらいで、ルイ王子が一番懐いているのは生母だし、赤子をあやすのも南部出身の侍女たちのほうがよほど場数を踏んでいる。
『あなたを乳母に選んだのは私だし、人選は適切だったわ。ルイが赤子でいるのは一瞬のことよ、あの子が大きくなって王宮で立ち回るようになれば、あなたの出番はもっと多くなる』
自分は全然役に立っていないと落ち込んだジョハンナに気がついて、ベルタは以前、彼女にそう言った。
ジョハンナの主人は、乳母を単なる子守役としては捉えていなかった。むしろ乳母という特別な絆を持つ、ルイ王子付きの最古参の女官の一人として、ジョハンナが仕官を志願した当初に想定していたよりも重大な役を与えようとしていた。
ジョハンナは主人の期待に応えなければならない。
つまり、今ベルタが何やら大量に悩み事を抱えていることは察しているが、ジョハンナの役割は簡単なものだ。
何があっても、ベルタが何を選択したとしてもルイ王子のそばにある。彼女や、成長したのちの王子にとって、最も信頼の置ける臣下の一人となる。
元々世渡りの素養のない夫や、そんな夫に甘い姑たちはジョハンナの女官としてのその態度を責めることはないだろう。その点、ジョハンナは愛する夫や、日陰で元々の婚家に感謝している。
視界の端では、全く話に乗ってこないジョハンナを無視して女官たちが噂話を進展させていた。
「なあんだ、それじゃあ、正妃派閥の鼻を明かせるような事件は起きていないのね」
「ベルタさま、そりゃああの正妃さまと比べてしまえば美人とは言い難いかも知れないけれど、よく見れば整った目鼻立ちをしているし」
「細身だけど同性の私たちから見たって時々妙に色気があるわ」
「陛下も見る目ないわよね」
元々女官たちは、主人やお目付け役の目がない時は結構言いたい放題に言う。
彼女たちは、ベルタが気楽に構えていろと言った通りに、本当に外朝の様子など気にもかけずに呑気なものだ。
だが、主人がそうしろと言うのだから、その反応こそが正しいのかもしれない。
ジョハンナは、帰りの道中の悪天候の日の話を持ち出した。
「それよ!私たちはそういう話を聞きたかったの、ジョハンナさん」
「惜しいあと一歩じゃないの」
「他には?」
「さあ。私もずっとお二人に付き従っていたわけではありませんし。侍女の方々ならもっと何か知っているかも」
「聞きに行きましょう」
「そうしましょう」
きっと女官たちも全員が全員、ただはしゃいでいるというわけではない。一歩宮の外に目を向ければ、日に日に警護は物々しくなる。宮の使用人たちは統制され、外との連絡手段も制限されつつあった。
それでも、第二妃の宮はこの状況下にあって、有閑な後宮の日常という雰囲気を決して手放さなかった。




