異世界の辞書
聖女ジャンヌ様の私室に入る。
彼女の部屋は想定よりも小さかった。
もっと大きな部屋をあてがってくれるとイヴは言ったそうだが、大きな部屋は落ち着かないと辞退したようだ。
特に衣装持ちでも、趣味があるわけでもなく、神に祈りを捧げられ、雨露しのげればどんな部屋でもいいそうだ。
さすがは聖女様、神の使徒は贅沢に興味がないようだ。
ただ、そんな中にも女性らしさはある。
まずは良い香りがする。
花の匂いと女性特有の匂いが混じり合った香り。
男ならば汗臭いの一言で切り捨てられるが、ジャンヌ様の汗はどうやら柑橘系の匂いがするらしく、とても心落ち着く。
それがイヴが毎朝、活けている花と交わり、ジャンヌ独特の匂いを作っているのだろう。
また彼女の髪から発する香油の匂いも女性らしくてとてもよい。
(……匂いばかりに言及しているな)
まるで匂いフェチのように嗅いでしまったので、自粛すると、部屋を見る。
部屋で目立つものは剣飾りと机とベッドくらいだろうか。
それ以外はなにもない。
奥に衣装ケースがあるが、小さなもので、本当に最小限の衣服しか持っていないようだ。
「神に仕えるものが、物欲に溺れてどうするの?」
とはジャンヌの弁であるが、質素倹約、自分を律する、という意味ではイヴと双璧かもしれない。ただし、ジャンヌの場合は物欲はなくても食欲は旺盛のようだが。
与えている給金のほとんどは食費にしているようで、城下町の旨い店を食べ歩くのが趣味らしい。
そのことを指摘すると、
彼女は神に祈りを捧げながら、
「神はお腹いっぱい食べるのは健康な証拠、とおっしゃったの」
と言い切った。
目が泳いでいたのでたぶん嘘であろうが、指摘せず、当初の目的を果たす。
「さて、そろそろジャンヌには単語を教える」
「ありがたいの。ところで単語ってなに?」
「文字が集まってできた言葉だよ。CとAとTが集まるとなんになる?」
「かっと?」
「惜しい。キャットだ。つまり猫」
「おお、猫か。猫は好き。魔王は猫に似ているから」
にゃあ、と鳴く。
「じゃあ、DとOとGではなんだ?」
「うーん、ドッグ?」
「正解」
「おお、当たった!!」
喜びはしゃぐジャンヌ。
「このように単語をいっぱい読めるようになると、この異世界の本も読めるようになるはず。文法はラテン語とほぼ同じだ。ラテン語とフランス語は似ている」
「じゃあ、単語をいっぱい覚えればいいんだね」
「そうだ。そこでジャンヌにプレゼント」
俺はあらかじめ用意しておいた、この世界の辞書を取り出す。
「あ、それはこの前、メイドが読んでいたやつ」
「そうだよ。これにはこの国の単語とその意味がいっぱい載っている。取りあえず簡単な単語だけでも覚えるんだ」
と彼女に手渡すと、彼女は「じーん」という擬音が似合いそうなほど嬉しそうに辞書を抱きしめる。
「この辞書、魔王だと思って一生大切にするの!」
「まあ、思うのは自由だが、辞書は引いてこそだから、毎日、気になる単語、あるいは本を読んでいて分からない単語があったら調べるんだ」
「分かった。さっそく気になる単語を引くの」
とパラパラと辞書をめくる。
ちなみにその辞書には「不可能」という文字はない。
ジャンヌはフランス人だから、という理由だけで、かのナポレオンが持っていたとされる架空の辞書を作ってみたのだが、ジャンヌにこのユーモアは通じただろうか。
そんなことを考えたが、彼女はさっそくなにか間違いを見つけたようだ。
もしかして不可能がないことを指摘されるかと思ったが違った。
彼女は『ア』の項目、つまり俺の名を見つけると間違いを指摘する。
「ここにアシュタロトとあるけど、説明が間違っているの?」
「どこがだ?」
「うんとね」
と彼女は指を指す。
魔王歴6547年生まれ、72柱いる魔王のひとりであるが、生まれたばかりで最弱の勢力である。
と書いてあった。
「真実しか書かれていないけど?」
「そこじゃないの。その下」
「その下?」
一応見ると、そこには未婚、と一言だけ書かれていた。
「俺は未婚だが?」
「でも、婚約者はいるの」
そんなのがどこにいるのだろう、と思ったが、その婚約者とはジャンヌのことのようだ。
彼女は再び目を閉じ、唇を無防備にする。
一瞬、ドキリとしてしまった。
彼女は先とは違い、とても穏やかな表情をしていたからだ。
己の身を神に捧げる聖女のような気高さを感じた。
このままでは聖女様に籠絡されてしまう。
そう思ったが、それは防がれた。
イヴが開きっぱなしになっているジャンヌの部屋の扉を二回、叩いたからだ。
「お取り込み中失礼します」
最初は皮肉かと思ったが、どうやら違うようだ。
それを証拠にお茶などは持っていない。なにか急用があってきたのだろう。
彼女はひときわ慎重な表情で報告してくる。
「御主人様、御主人様の謀略は成功しました。魔王デカラビアは御主人様の用意した偽金貨を満載した隊商の馬車を襲い強奪しました。もくろみ通り、その金貨で傭兵を雇い始めています」
「迅速なことで。俺が宣戦布告してくること前提で奪ったのかな」
「おそらくは」
「ならば出陣は早そうだな。さっそく、使者を出し、金貨の返還、それと賠償を要求しろ」
「おそらくは追い返されるか、使者は斬られるかもしれませんね」
「だろうな。だから使者は罪人にするんだ。無事、帰ってこられたら罪を軽くしてやると伝えろ」
「御意」
と手配に入るイヴ。
事態が動き、きびきびと動き出すイヴに触発されたのだろうか。
ジャンヌも真剣な表情になると、いくさ支度を始めた。
こうして俺のつかの間の休暇は終る。
なかなかに充実した時間であったが、気持ちを入れ替え、玉座の間に向かう。
それに付き従うは、メイドのイヴ、それに聖女ジャンヌ。
彼女たちはそれぞれの表情を取り戻していた。
イヴは俺の忠実なメイド、ジャンヌは勇猛果敢な戦士。
このふたりは対極のような存在であるが、日常と戦場の違いをわきまえる様はとてもよく似ている。
――お互い絶対にそれを認めることはないであろうが。




