ジャンヌの私室
謀略の成否を確かめ、いくさ支度を整えている間、俺はジャンヌに読み書きを教える。
文字はもう覚えたようなので、次はこの世界の文法を、と思ったが、その前に単語を教えなければならない。
この異世界のアルファベットは、ほぼ異世界のヨーロッパのアルファベットと同じ構造をしているが、単語も似ていた。
俺の研究成果によると、異世界のヨーロッパ、ラテン語系の言語に似ている。
なんらかの因果関係があるのだろうか。
考察していると、横で待機しているジャンヌが、ワクテカし、目を輝かせていることに気が付く。
一刻も早く単語を習いたいようだ。
ならば、と軍議の間で教えようかと思ったが、とあることに気が付く、
それは軍議の間の扉の隙間から、じいっとこちらを眺める影の存在だった。
彼女は、
「じいっ」という擬音が似合いそうな目つきでこちらを見つめていた。
ホワイトブリムがちらりと見える。
どうやら俺とジャンヌがふたりきりになるのが気に入らないらしい。
気に入らないのはいいのだが、「メイドさんは見た!」かのごとく、覗き込まれると集中できない、そう吐息を漏らすとジャンヌがこんな提案をしてきた。
「魔王、勉強は私の部屋でするの」
「ジャンヌの部屋?」
「そう、私の部屋。魔王が私にあてがってくれた私室」
「まあ、そこでもいいか」
「ならそこに行くの」
とジャンヌはノートと筆記用具をまとめる。
軍議の間を出て行く瞬間、ジャンヌはイヴに注意をする。
「これから魔王とふたりで勉強するの。メイドは仕事が山積のはずなの。さぼってるとあとで魔王が困るの」
イヴはその言葉にイラついているようだが、正論であることには変わりなく、
「わかりましたわ」
と大人しく、引き下がった。
ただ、途中で振り向くと、
「あとで『仕事』としてお茶を持って行くので、くれぐれも不埒なことを考えないように」
と釘を刺してくる。
ジャンヌは「っち」と舌打ちしたが、にこりと表情を作ると、
「ありがとうなの」
と言った。
なぜか、女の執念というか、確執のようなものを垣間見てしまったような気がするが、気にすることなく、ジャンヌの部屋に行く。
このアシュタロト城には、賓客や食客を宿泊させる部屋がいくつもあるが、さすがに男女の区分けはきっちりされている。
女性の指揮官級の将はジャンヌしかいないので、この広大な区画には彼女しか住んでいないらしい。
「あれ、そういえばイヴはどこに住んでいるんだ? 近所じゃないのか?」
ぶるんぶるん、と首を横に振るジャンヌ。
「メイドは使用人たちが住む一角に住んでいるの。そこで女中頭として暮らしているの」
「なるほど、イヴらしい」
イヴはこの城の実質的なナンバー2、望めばもっと豪華な個室に住めるだろうに。
あるいは間借りではなく、城下町に私邸すら構えられるだろうに。
それだけ俺の側にいたいということであろうが、もう少し、贅沢を覚えてもいいのではないか、と思った。
それを話すとイヴには無駄なの、と一刀両断。
「あのメイドはケチなの。他者にもだけど、自分にも。そんなお金の使い方はしないの」
「まあ、ちょっとシブいところはあるな」
「シブいどこじゃないの。ケチなの、ドケチなの」
「その言い方は酷いな。好きでケチなのではなく、金貨一枚も無駄にしない性格なだけだよ。財政を健全化させ、俺に天下を取らせたいんだ」
「それはなんとなく分かるけど……」
「それにケチは悪徳ではなく、美徳だぞ。昔な、山内一豊というあまり冴えない戦国武将がいたんだ」
「ふむふむ」
「彼は給料も安かったんだけど、その妻である千代は、倹約に励み、お金を貯めていてな」
「へそくりだ」
「そう、へそくりだ。ただ貯めるだけでなく、千代はそのお金をばあっとド派手に使った」
「ド派手?」
「そうだ。ある日、夫が主君の馬前に出ることになった。そこで夫は名馬を買おうと思ったのだが、お金がなかった。しかし、妻は今こそお金を使うときと、へそくりを差し出したそうな」
「へえ、気前がいいの」
「ああ、そのへそくりで名馬を買った山内一豊は、その馬が主君、織田信長の目にとまり、出世を果たしたんだ」
「メイドも同じことをしている?」
「へそくりをしているかは知らないが、まあ、彼女のお陰で収支が赤字になったことはない」
「すごいの。ちょっと尊敬する」
などとやりとりをしていると、ジャンヌの部屋の前まで到着。
そこには彼女が書いたと思わしき文字で「じゃんぬ」と書かれたプレートがあった。
なかなかに達筆であるが、数ヶ月前まで文盲だったと思うとなかなかの進化である。
ジャンヌもすごいでしょ、「えっへん!」と胸を突き出し、自慢してくる。
「ああ、すごいよ」
と頭を撫でると、彼女は嬉しそうにする。
「そういえばジャンヌは頭を撫でられるのが好きだな」
「うん、たぶん、私の前世は犬なの。それも大型犬」
「そういえばゴールデンレトリバーになんか似てるな」
「どこが?」
「金色の髪、優しい目、人なつこいところとか」
「なるほど、ならばいつかそのゴールデレトリバーとかいうのを飼うの」
と彼女は新たな目標を作り出すが、その前にこんなことを言った。
「私の前世は犬だけど、魔王の前世はきっと猫なの」
「猫? どうして?」
「猫は目を見るとそらすの。魔王もそらすから」
と、彼女は潤んだ瞳で目をつむり、唇を差し出す。
唇を尖らせている。
キスを迫っているようだ。
さすがはフランス娘であるが、たしかに俺は猫だった。
彼女を再び撫でると、キスは無視し、そのまま彼女の部屋に入った。
ちなみに扉は開けたままだ。
ジャンヌはどうして? と尋ねてくるが、こう説明する。
「未婚の男女が同じ部屋に入るときのマナーだよ」
「そんなのがあるの?」
「この世界だけでなく、フランスでもあったはずだけど」
「そういえばあったような」
すっとぼけた表情で言うと、彼女は嬉しそうに部屋に入った。




