Si Vis Pacem, Para Bellum
執務に写本、それに治安維持活動などをしながら、一ヶ月ほど過ごすと、街の修復は終わり、大衆浴場も完成のときを迎える。
修復はともかく、大衆浴場がこんなにも早く完成したのは望外であった。
これもドワーフ族とその長ゴッドリーブの活躍のおかげであるが、どうしてこのように早く完成したのだろうか、尋ねてみる。
「理由は簡単じゃ。早く魔王殿の跡取りの顔がみたい」
「どういうことですか?」
と聞いてみると、アシュタロトの温泉の効能に「子宝」という項目があるらしい。安産の効果もあるとのこと。
「…………」
まったくもって不要な効果であるが、ゴッドリーブは他にも余計なことをしてくれる。
「市民に披露する前に魔王様の試浴の機会を設けた。イヴの嬢ちゃんには伝えてあるから、観念して一緒に入るように」
イヴもその約束を覚えていたようで、朝から上機嫌だった。心なしか薄化粧をしているようにも見える。
そのようなテンションでいられると断りづらい。
それにここで思春期の少年のように恥ずかしがれば、魔王の器量を疑われるだろう。
そう思った俺はイヴと大衆浴場に向かった。
途中、イヴが指を絡めたそうに小指を当ててきたが、さすがに恥ずかしいので手を握ることはできなかった。
大衆浴場はもちろん、男女別々であるが、今日は関係者のみの試湯の場、大きな浴場をふたり占めしていいらしい。
なので脱衣場には誰もいない。イヴに先に服を脱ぎ、入るように命じる。
俺は軽く施設を見学してから脱衣場に向かう。
数分遅れで湯船に向かうが、大衆浴場の奥からカポンという音が聞こえる。
蒸気が辺りを包み、視界が悪いが、この奥にイヴがいるかと思うと緊張してしまう。
しかし、何度も言うが、後に大魔王になる男がこのような場所で怖じけ付いていれば後世の笑いものとなるだろう。
覚悟を決め、湯船に入る。もちろん、湯船に入る前に身体を清め、イヴに対しては互いに背中越しになるように配慮する。
幸いとイヴはジャンヌのように積極的ではないから前を向けなどと言ってこないが、互いに背中を預けるほうが余計に意識してしまう。
イヴは痩身であるがとても艶めかしく、美しい存在なのだ。
改めてそのことを思い出した俺は、言葉の選択肢に困る。
「…………」
消去法でしばしの沈黙を選択すると、イヴから声を掛けてきた。
「……あの、お背中をお流ししましょうか」
「……ありがとう」
と素直に好意を受け取る。
湯船から出ると、海綿で背中を洗ってもらった。
なかなかに心地いいが、あまりイヴを意識せず、空を見上げる。大衆浴場のひとつは野外になっていた。
おれは大衆浴場建設の目的を彼女の話す。
「こことは違う世界、ローマと呼ばれる国には、大衆浴場があった。皇帝や元老院は大衆浴場を作ることによって、市民の満足度と衛生状態を向上させたんだ」
「素晴らしき案にございます。このアシュタロトの街もローマと呼ばれる国と同じように世界帝国へと発展していくでしょう」
「だといいがな」
「必ず実現します」
自信満々のイヴ。根拠は魔王が俺だからだそうだ。
「まあ、必ず実現させないとな。この世界を平和なものにしたい」
「平和なものですか」
「ああ、矛盾しているかもしれないが、この世界から戦争を無くすために戦争をしている。異世界にはパラベラムという言葉がある」
「どのような意味でしょうか」
「Si Vis Pacem, Para Bellum――ラテン語と呼ばれている言語で意味は、平和を望むならば戦いに備えよ、という言葉だ」
「なるほど、この大衆浴場の語源はそれなんですね」
「ああ、洒落ているだろう」
「洒落ています」
「愛が世界を救うなんて綺麗事は言わない。結局、世界を救うのは武力なんだ。ただ、武力はそれを持つものを腐らせる作用を持った劇薬だ。だから俺はなるべく腐食せずに武力を持ちたい。だから、贅沢を戒め、市民のために金を使うようにしている」
「素晴らしい心がけです」
「ありがとう。金で幸せが買えると思ったら、大間違いだ。ただ、金で他人を幸せにすることができる。そう信じて俺は戦っている」
俺はそう言うと、しばらく沈黙をし、イヴに願い出た。
「――イヴ、これからも俺のためにその忠誠を捧げてくれるか? その優しさと思慮で俺を支えてくれるか?」
イヴはわずかの間もなく、逡巡もなく、答えた。
「もちろんでございます」
彼女はそう言うと俺の背中を強く抱きしめた。
彼女が俺の身体と融合し、身体の一部になったような気持ちを味わった。物語ならばこのままふたりは――となる展開であるが、それを邪魔する人物が現れる。
金髪の聖女様である。
彼女は大声を張り上げながら、やってくる。全裸で。
「魔王! ふたりでお風呂にくるなんてずるいの! なぜ、私を誘わないの?」
それは聖女様の声がうるさく、デリカシーがないからです、とは言えないので、彼女を迎え入れる。
イヴは俺の背中を半分、ジャンヌに譲るとごしごしと背中を洗われる。イヴのような繊細さはなかったが、垢はよく落ちそうだった。
その後、ふたりの娘と浴槽に入ると、俺たちはのぼせるまで湯を堪能した。
三人は風呂を出ると、俺が考案した牛乳を飲む。
氷精霊によってきんきんに冷やされた牛乳を売店に置いてあるのだ。瓶に紙の蓋を付けたやつである。
あれをごきゅごきゅと飲むまでが大衆浴場である。
というのが俺のポリシーであった。
俺はコーヒー牛乳、イヴは普通の牛乳、ジャンヌはイチゴ牛乳を飲むと、そのまま着替えて大衆浴場を出た。
ジャンヌは、
「気持ちよかったの。ゴッドリーブにお礼を言いに行くの」
と言う。珍しく気が利くが、それはあとにしてもらう。
城に帰る前にやることがあるのだ。
湯上がり卵肌の少女をふたり引き連れ、城下を歩く。
ジャンヌはこの道に覚えがあるようだ。
「もしかして、本屋に行くの?」
「正解だ」
「また本を買うの?」
「それは不正解」
「ならばなにをしに?」
「本屋は本を買いに行く意外にも利用法はある」
ジャンヌとのやりとりにイヴが入ってくる。
「御主人様、もしかして、本を売りに行くのですか」
「正解」
この世界の本屋は、多くが新書と中古を扱っている。
読み終わった本は売ることができるのだ。紙が貴重な世界では珍しいことではなかった。
「しかし、本好きの御主人様が本を売るなんて、よほどお気に召さなかったのですか?」
「まさか、その逆だよ。とても気に入ったから、売りに行くんだ。最近、俺が写本を作っているのを知っているだろう?」
「はい。執務のあとになにか書いていますね」
言ってくださればそのような作業、配下に任せますのに、とイヴは言う。
「あれは俺の趣味だからな。写本自体が好きなんだよ。ましてや名著を写すのは気持ちいい。作者がどのように考えてこの箇所を書いたのか、どのような経緯でこの結論を導いたのか、推察しながら写すんだ」
事実、と俺は続ける。
「この本を書き写していた時間は俺にとって至高の時間だよ」
と三冊の本を取り出す。
「すでに三冊も写本されたのですか」
「手元の予備を入れたら4冊だ」
「まあ、すごい。そのように熱心に写される本です。どのような内容か気になります」
「これは世界一の名将が俺に送ってくれたものだ」
俺はそう言うと、本屋に入り、その本を店主に渡すとその台詞を口する。
「店主よ、というわけでこの本を買い取ってくれ。値段は言い値でいい。内容を読み、貴殿がふさわしいと思った値段で買い取ってくれ」
眼鏡を掛けた気難しそうな店主は、胡散臭そうに俺たちを見ると、本を開く。
ぱらぱらと5分ほど捲ると、目の前に金貨を100枚ほど置かれた。
「き、金貨、100枚はすごいの! 中に宝石でも埋め込まれているの?」
「まさか、そんなものはないよ。ただ、店主は分かってくれたのだろう。この本の価値を。この本はハンニバル戦記。古代ローマ最大の敵にして、魔王アシュタロトをもっとも苦しめた宿敵のすべてが詰まった本だ。これくらいの価値はある」
俺が断言すると、店主は「ハンニバル戦記」をカウンターの後ろ、本屋で一番の特等席に置いた。
背表紙に書かれた「ハンニバル戦記」の文字は、金色に輝いていた。
俺はハンニバルの思想、戦術をより多くの人に広めたく、写本を作ったわけだが、さて、この本はどのような人物が買ってくれるだろうか。
その人物はどのようにこの本を活用するだろうか。
もしかしたらこの本が俺の敵に渡り、ハンニバルの兵法によって俺が倒される可能性もあったが、それもまた一興であった。
名将の魂が後世に引き継がれないよりも何倍もましである。
そう思った俺はわずかに頬を緩ませると、その顔を周囲のものに見せないように彼女たちに背を向けた。
城に帰るのである。
俺たちはハンニバル戦記に背を向けると、それを書いた老人に別れを告げた。




