大粒の涙
アシュタロトでの知恵比べを第一幕、地下での戦闘を第二幕、平原での激闘を第三幕とすれば、今が第四幕であろうか。
数日前から続いている激戦は、今、最高潮に達していた。
多くのものが傷付き、死んだこの一連の戦いが収束に向かう。
――無論、勝者は現実主義者の若者であった。
魔王アシュタロトがこのいくさに勝利した理由はいくつかある。
元々、いくさは攻める側よりも守る側が有利なこと。
立地的にも、時間的にも、戦略的にも、アシトは常に守りに徹すればいい状況を作り上げたこと。
そしてただ守っているだけでなく、その間、謀を多く巡らせたこと。
それら不断の努力によってアシトは勝利を収めた。いや、納めつつあった。
数が減ったハンニバルの軍勢に半包囲網を引くと、時間を掛け、攻め入る。
ここにきて拙速は不要とばかりにじっくりと追い詰めた。
別にサディストになったわけではない。もったいぶっているわけでもない。
ハンニバルという猛禽の反撃の一撃が怖かったにすぎない。
アシトは確実に将軍を討ち取るため、精鋭を選抜すると、自ら前線に出て、ハンニバルを狩ることにした。
戦場を見渡しながら、ハンニバル将軍はつぶやいた。
「……もはやここまでか」
無論、誰にも聞こえない音量であるが、いくつもの戦場を駆け巡った老将にはすでにこの勝負の帰結が見えていた。
幾百もの戦場を駆け巡り、ローマ人を恐怖の底に陥れたハンニバルもここが年貢の納めどきのようである。
ハンニバルは声を張り上げ、部下に宣言した。
「忠実にして勇敢な我が兵よ。よくぞここまで戦った。見事である」
兵たちは耳だけを将軍の声に傾け、戦闘を続ける。
「我らの戦略的な目的はアシュタロト城の奪取であったが、それは失敗した。だが、政略的な目的はアリーシア様の生存にある。それは成功したことだろう。永倉ならば必ず女王を救い出し、アリーシア様を次期女王にするはず」
ハンニバルは続ける。
「しかし、わしはそれを見届けることできない。口惜しいことであるが、それも天命。もう十分生きたし、後悔はないが……」
ただ、と続ける。
「貴君らはそうではない。異形の蟻も、人間の傭兵もだ。貴君らはよく戦った。十分すぎるほど戦った。もう、よい。これ以上、傷付かないでよい。これ以上、死なずともよい。貴君らは降伏せよ、魔王アシュタロトは戦場の勇者を遇する道を知っている。諸君らを手厚く迎え入れてくれるだろう」
その言葉に嘘はなかった。ハンニバルはもう負けを悟った。そしてアシトは敗者に重ねて罰を下すことはないだろうと思っていた。
ただ、兵士たちは戦うのをやめない。
不審に思ったハンニバルは側近に尋ねる。
「彼らはなぜ俺の命令を聞かない」
側近は当然のように答える。
「彼らは将軍の命に常に従い、数々の勝利を重ねてきましたが、それでも最後の瞬間くらいは自分の意思で選びます。彼らは将軍とともに死ぬことを選んだのです。どうか、その選択を尊重してください」
その言葉を聞いたハンニバルは、
「……馬鹿者どもめ」
と漏らすと、自ら剣を取った。
「ならばその心意気に答えるまで。我らも突撃するぞ」
「御意。どちら方向に」
「無論、魔王アシュタロトの首がある方向に!」
ハンニバルがそう叫ぶと、残された兵は雄叫びを叫びながら、アシトのいる方向へと向かった。
こうしてハンニバル軍最後の突撃が始まる。
するとそれまで優勢を保っていたアシュタロト軍が嘘のように押し戻され始める。
勝利を確信していた兵たちが浮き足立つ。
イヴは悔しそうに言う。
「そんな、もう少しで勝てるのに」
「もう少しで勝てるからさ。勝ちいくさで命を懸けたくはないものさ」
アシトは冷静に返答すると、イヴが質問をする。
「このままではハンニバルの兵がここにやってきます。御主人様が討たれるかも。下がってください」
「それはできないな。前にも言ったが、俺のような若輩に兵が従ってくれているのは、俺が常に前線にあり、兵と苦楽をともにしているからだ。兵士と同じものを食い、同じ苦労を分かち合い、同じ場所で死ぬからだ。今さらその大原則を崩せば、俺の名は卑怯者の代名詞となろう」
「……御主人様」
イヴは大きく溜め息を漏らすと、懐から短刀を取り出す。
どうやら戦う気のようだが、彼女のような細腕のメイドさんに出張ってもらうのは忍びなかった。
だからアシトは謀略を駆使する。
兵たちにわざとアシトの陣への道を空けさせると、そこにハンニバル将軍を招待する。
もはやアシトの首を取るしかないハンニバルは、まっすぐにそこにやってくるだろう。
そこを狡猾に攻めるつもりだった。
その策を話すとイヴは、顔をほころばせるが、話したほうは浮かない顔をしていた。
今さら卑怯だの、汚いなどと言ったことばで傷付くアシトではなかったが、それでも地中海世界最強の将軍を殺すというのは道義に反するような気がしたのだ。
「血塗られた魔王の歴史書に悪行が記載されることになるな」
しかもその箇所の記述はとても厚く、真っ赤な文字で書かれることになるだろう。
血で書かれた真っ赤文字だ。
それは表裏比興な魔王にふさわしいような気がした。
ハンニバル軍はアシュタロトの首を目掛け、突撃を重ねるが、自分たちが罠に誘い出されたことを知っていた。
知っていてあえてそこに飛び込んだのである。
もはや寡兵敵しえず。ハンニバルの残された兵力ではまともに戦うことが出来なかった。
もしもわずかでも勝機があるとすれば、それは魔王の罠を逆用し、彼を仕留めることであった。
ただ、問題なのは魔王アシュタロトの策略に一分の隙もないということだった。
アシトはわざと空けた道の両脇に弓兵を配置すると、ハンニバルの部隊に弓を射かけた。
ハンニバルの決死隊は強者そろい。士気も高く、白兵戦では無敵を誇ったが、それでも多くは普通の人間だ。生物だった。
両脇から同時に、大量の弓を射られたら、どうにもならない。
傭兵やハイブ・ワーカーたちは次々と倒れていく。
とある兵がハンニバルの身代わりとなり、死ぬ。
ハンニバルはそのことを悲しむ暇もなく、第二射に襲われる。それによって多くの部下が死ぬ。
第三射もくるが、それをかいくぐった部下たちももはや数えるほどしかいなかった。
皆、ハンニバルを守り、死んでいった。
死んでいった彼らにとって唯一の救いがあるとすれば、ハンニバルがまだ生きていることだが、それも強いて言えばであった。
ハンニバルはたしかに生きているが、全身に数十近い矢が刺さっていた。なぜ、生きているのだろうか。敵兵はもちろん、味方も不思議でならなかった。
ハンニバルは鉛のように重いからだを引きずりながら、アシトの本陣を目指したが、それもここまでのようだった。気力はまだまだ続いていたが、身体のほうが持たない。
大量に失血した身体はもはや言うことを聞かなくなっていた。
死が迫っているのである。
口惜しいことは魔王アシトの首を取れなかったことであるが、嬉しいこともある。それは魔王アシトによって殺されることだ。
魔王アシュタロト。彼はこの先、大陸の端から端までその名を轟かせるだろう。
グロリュースと呼ばれる大陸で、その名を知らぬものはいない存在となるだろう。
この大陸を支配する大魔王となるべき存在、それが魔王アシュタロトだった。
そのような王に殺されたことは嬉しいことであった、後世の歴史家がさぞ羨むことだろう。
そう思ったハンニバルは死を迎える。
本当は魔王アシトがやってくるまで生きているつもりであったが、彼は遅すぎた。
「……まったく、最近の若者は年寄りに対する礼儀がなっていない」
それが名将ハンニバルの残した最後の言葉であるが、それを聞き取ったものは誰もいなかった。
彼の率いる部隊は全滅したからである。
その姿を見て、アシュタロト軍のオークは驚いたという。
彼は語る。
人間はもちろん、蟻の兵までもハンニバル将軍を守るために戦った。
意思を持たないと思われた蟻までもが将軍のために命を捨て、最後まで戦ったんだ。
俺は仲間が死んだとき、悲しみはしたが、泣きはしなかった。
だが、ハンニバル将軍を見たとき、彼を守るため、多くの兵士が彼の横で倒れている光景を見たとき、俺は泣いた。
初めて戦場で泣いた。
彼らのために大粒の涙を流した。




