血路
遠方からアシュタロト軍の動きを観察するハンニバル。
アシュタロト軍は縦深陣形を選択したようだ。
「当然かな」
という感想が漏れ出る。
この期に及んでは彼らは時間を稼げばいいのだ。別働隊が女王アリオーシュを倒せばすべては解決するのである。
もしも自分がアシュタロトならば同じ戦法をとるだろう。だから腹立ちはしないが、それでも焦燥感を覚える。
アリーシアの母親、アリオーシュはいつ討たれてもおかしくなかった。
この瞬間、絶命し、軍団が崩壊してもおかしくないのだ。
それは困る。ハンニバルはこの異形の部下たちに不思議なほど親近感を持っていたし、(アリオーシュの直属部隊とは違ってハンニバルの蟻は人間を食わない)アリオーシュの娘であるアリーシアは娘のように思っていた。
アリオーシュが死ねば両者が消え去るかと思うと、胸が打たれる。
なんとしてもそれを防ぎたいが、肝心のアリオーシュが無能すぎた。彼女は強欲にも周辺の全勢力に喧嘩を吹きかけ、交戦中だった。
「なんと浅ましく、無能な女王か」
あのような強欲な女王から、アリーシアのような聖女が生まれたことは奇蹟である。
見れば彼女は自分の部下である蟻の手当てをしていた。魔力を使い、回復魔法を掛けていた。
昨日から寝ずにである。いや、この戦いの最中、ずっとだ。彼女は地下で静観などせず常に救護班の指揮を執っていた。
しかも、蟻、人間は問わないのはもちろんなこと、降伏した敵軍の兵にまで慈悲をかける。敵味方関係なく、重篤なものから順に手当していた。
その心根の優しさは、歳を取って感性を鈍くなった老人の心を震わせるに十分だった。
ハンニバルはアリーシアを実の孫のように見つめると、彼女と出逢ったときのことを思い出す。
彼女がハンニバルを命懸けで召喚した日のことだ。あの日の彼女もハンニバルを賢明に看病してくれた。ハンニバルが召喚されたのは、元の世界で敵兵に槍を突きつけられた瞬間だった。今、まさにとどめの一撃をもらう瞬間に呼び出されたのだ。
故郷の味方に裏切られ、異国の王に売られたハンニバルは生きる気力を失っていたのだが、そんなハンニバルをアリーシアは優しく包んでくれたのだ。
ハンニバルはそのときのことを生涯忘れることはできない。昨日のように思い出せる。だからこのように命懸けに戦っているのだ。
改めて戦う理由を思い出すと、横にいる老人に語りかけた。
老人はキツネ面をかぶっている。この男もハンニバルと同じ世界の住人だが、ついぞ仮面の下を見ることはなかった。名前さえ知らない。
しかし、この老人は誰よりも信頼できた。この老人もまたアリーシアの魅力に惹かれて剣を振るっているからだ。
いわば同志であった。
その同志に語りかける。小声で、誰にも聞こえないように。
「おそらくはこのいくさ負ける」
「…………」
キツネ面の老人は意外そう声を上げなかった。不満も漏らさない。ただ、仮面越しにハンニバルを見つめる。
「このままだとアリオーシュは討たれるだろう」
「……しかし、そうはさせないのだろう。貴殿は」
「ああ、今から最後の特攻を掛ける。俺が前線に出てあの縦深陣形を突破する」
「それは不可能だ。あの縦型の防御陣形はどんな名将も突破できない」
「ハンニバル・バルカ以外の将ならばな。わしを誰だと思っている」
にやりと悪戯小僧のように笑うハンニバル。
「いいか、俺が血路を開くから、その間、お前がアリーシア様を引き連れて北上しろ。アリオーシュを助け、命を助けてやれ。いったん、地下に籠もり、戦力を回復したら、今度こそは王権を奪い、アリーシア様を女王にするのだ。さすれば地下で平和に暮らせよう」
「なんだ、その物言いは、まるで後事を託すかのようではないか」
「託すのだよ、わしはここで死ぬ。あのアシュタロトとかいう小僧を出し抜くには命を懸けるしかない」
「あんなひよっこに負けるものか」
「ひよっこはひよっこでも竜の雛だよ、あいつは。この先、どれほどの将に育つのか、見当も付かない」
「ならばそれを見届けよ」
「それはお前の仕事だ。さて、ここで議論する時間も惜しい。これ以上、減らず口を叩くのならば、返礼に足を切り落とすぞ」
ハンニバルは冗談めかすが、キツネ面の老人も他に選択肢がないことを分かっているようだ。
「分かった」
と一言だけいうと、最後にキツネ面を取る。
そして自分の名を伝える。
「おれの名は永倉――永倉新八だ。ヒノモトの蝦夷という場所で生まれた。しがない侍だ。短い間だったが、お前の指揮で戦えたことを誇りに思う」
「わしもお前のような部下を持てて誇りに思う」
ハンニバルは感慨を込めてそう言うと、握手を交わした。
それが最初にして最後の握手となる。
永倉新八は、ハンニバルに背を向けると、アリーシアを説得し、北上することを説明した。
永倉が北上するためにハンニバルは血路を切りひらく、部隊を鋒矢状に展開させると、アシュタロトの縦深陣形に突撃させる。
縦深陣形は鋒矢陣形のような攻撃型の陣形に強い。陣形によって生まれた突撃力をすべて奪ってしまうのだ。
しかし、ハンニバルはそのような定石を無視し、突撃を繰り返した。
日に五度、決死の突撃を繰り返すと、さすがのアシュタロト軍も浮き足立ち、陣が割れる。そこに永倉率いる騎馬部隊が割って入ると、北上に成功した。
それを見ていたアシュタロトはハンニバルの采配にうなり声を上げるが、ただ見惚れている暇はなかった。ハンニバルの意図が明白だったからだ。
「将軍は部隊を北上させ、アリオーシュを救援する気だ。一部隊が北上したところでなにも変わらない――とは言い切れないのが将軍の恐ろしいところ。歳三、部隊を割いて追撃してくれ」
「承知」
歳三は嬉々として部隊を割く。騎馬部隊の前列に旧知の顔を見つけたからだ。先日、一緒に酒を飲んだ老人、かつて一緒に薩長の犬どもと戦った男だ。
歳三がアシュタロト軍から騎馬部隊を抜き出し、編成すると、そのまま追撃を買って出る。
残された俺は英雄の助力なしでハンニバルと戦わなければならない。生まれたばかりの頃に戻った気分だ。
そのことをイヴに伝えると、
「ならばきっと勝ちましょう。生まれたばかりの赤子と、死が定まった老人、神はきっと前者に味方します」
と微笑んだ。
「だといいのだがな」
曖昧な返答をしたが、もちろん、負ける気はなかった。向こうは強引な突撃で疲弊していた。今こそこちらから攻勢を仕掛けるべきであった。




