天下の将軍
魔王アシュタロトがしびれを切らし、北部戦線に兵を投入した瞬間、ハンニバルは見計らっていたかのように精兵を出す。
温存しておいた主力部隊だ。羽根蟻と人間の精兵の混成部隊である。人間の部隊はハンニバル自ら鍛えた屈強の兵だった。
彼らを率いるのはハンニバル自身。
かつて大国ローマを震撼させた男が自ら前線に出るのだ。
出陣の際、アリーシアはハンニバルに問うた。
「ハンニバル将軍、どうしてわたしのような小娘のためにその力を捧げてくれるのですか」
ハンニバルは少女の問いにはなにも答えなかった。
ただ、彼女と出会った日のことを思い出す。
それはこの世界ではない世界の話だった。
かつてカルタゴという国のために戦ったハンニバル。圧倒的寡兵で大国ローマと戦えとカルタゴの政治家どもにいいようにされていた時代。
ハンニバルは最後まで国のために尽くしたが、結局、スキピオ率いるローマに負け、敗残の身をカルタゴに置いていた。
しかし、そこでなにもせずに人生を終えないのがハンニバル・バルカ。ハンニバルは無能だった政治家どもに成り代わり、国を指導すると、ローマに敗戦する前よりも豊かな国を作り上げることに成功する。
ただ、それは同時にローマ国内の有力政治家の警戒を買う。カルタゴ国内の嫉視を買う。
ハンニバルは同じ地中海世界のシリアと内通していると濡れ衣を着せられ、カルタゴを追放される。
そのシリアに逃げ込み、亡命者となる。さらにそのシリアからも追放されると、逃げ回るように地中海世界を放浪した。
最後は現地の王に捕まり、自害したということになっているが、死の直前、この世界に召喚された。
召喚したのはアリーシアという少女である。
アリオーシュの娘である彼女は、欠けた漂流物と自分の生命を捧げ、ハンニバルを召喚した。おかげで彼女の寿命は半分ほどになっている。
なぜ、そのような真似をしたかといえば、それはハンニバルのことが可哀想だからと言った。
あれほど、国に尽くしたのに。名誉のために戦い続けたのに、最後はその国に裏切られたハンニバルがあまりにも哀れだったから。
だからハンニバルを召喚したという。
もしかしたら、母親から疎まれる自分とハンニバルを重ねたのかもしれないが、ハンニバルは少女の優しさに触れてその生き方を変えた。
ローマに復讐することしか頭になかった自分が、初めて国のためでなく、名誉のためでもなく、『誰か』のために戦う決心をした。
以後、ハンニバルはアリオーシュの将軍をしながら、アリーシアに仕えていたのだ。
無論、そのような心の内を彼女に伝えたことはないが、ハンニバルは早く、彼女のために大帝国を築き上げたかった。
誰にも束縛されることのない国を。誰にも支配されることのない国を。誰にも裏切られない国を。
アリーシアという聖女が国の中心にいる世界を作りたかった。
ハンニバルは改めて未来の女王であるアリーシアを見ると、そのまま出陣をした。
アシュタロトの地下に入り、彼のコアを破壊するつもりだった。
ハンニバルは先頭に立ち、剣を振るう。
ハンニバルは天才軍略家であるが、同時に勇猛な将軍であった。
そうでなければ寡兵でローマに飛び込み、敵地で何十年も戦えなかっただろう。
ハンニバルがアシュタロトの兵を斬り殺すと、その隙を這うように彼の部下が前進する。
このままコアに一直線である。逡巡する理由はなにもなかったが、ハンニバルは後方に異常を感じる。
なにかおかしい。長年、駆け巡ってきた男の独特の嗅覚が働く。
ハンニバルは部下に前進を止めさせるが、それと同時に後方から爆音が聞こえる。
「ハンニバル将軍、後方から火の手が上がりました」
「なんだと? 罠か?」
「そのようです」
「あの小僧め、自分の城ごと破壊するつもりか」
アシュタロトはどうやら城に爆薬を設置していたようだ。ハンニバルを分断する気のようだ。
「しかし、この城にめぼしい指揮官はいない。英雄級の指揮官はいない。分断されたのは仕方ないが恐れることはない。前進を再開せよ」
そう言うと同時前方からも火柱が上がる。
「く、なんだこれは」
今度は部下ではなく、前方にいる魔王が報告する。
「ハンニバル将軍、今のは俺の魔法の炎です。たしかにこの城に英雄は残っていませんが、魔王ならばいます」
その声に一番驚いたのはハンニバルだったろう。
ハンニバルはアシュタロトが不在だからこの城を攻めたのである。
「どういうことだ――?」
ハンニバルは無骨に尋ねる。アシトは丁重に答える。
「俺が北方に送ったのはダミー部隊です。俺の部下には変身するのが得意なスライムがおりまして」
アシトはそう言うと映像を空中に映す。たしかに北方戦線に向かったのは、不特定で不確定な生き物、スライムだった。
それを見てハンニバルは自嘲気味に笑う。
「まったく、わしとしたことが。このような簡単な詐欺に引っかかるとは」
「謀略は簡単なほうが引っかかりやすいもの。この城が手薄になれば将軍は必ずやってくると思いました」
「まあな、我らの勝機はそこにしかない」
「ええ、俺と将軍の戦力、一見、互角に見えますが、蟻の軍隊は全力を出していない。いくつも分派しているようですね」
「ああ、今回の襲撃はほとんどアリーシア様の手のものだ」
「アリオーシュ女王はイスマリアに籠もり、その娘にこの城を攻めさせたのですね」
「ああ、この城を奪えばアリーシア様の拠点ができる。そしてそのままそれを奪ってアリーシア様に捧げるのだ」
「そのような面倒なことをしなくても将軍ならば謀反を起こせるのではないですか?」
アシトの疑問にハンニバルは答える。
「それは無理だな。女王アリオーシュを殺せば、そのまま蟻の軍団は消滅する。彼女の産んだ娘たちもな」
「なるほど、運命共同体なのか」
「ああ、だからわしにできるのはアリオーシュよりも強力な軍団を作り上げ、アリオーシュを幽閉すること。そして女王の権利を娘に譲らせること」
「そのためならばいくらでも戦う、というわけか」
「その通り!」
とハンニバルは腰の剣を振りかざす。アシトもロングソードで迎え撃つ。
「天下のハンニバル将軍と剣を交えることになるとは」
「剣ならばお前に勝てる」
「そうかもしれません」
素直に相手の技倆を褒めると、アシトは彼と距離を取る。
その間に部下が割り込む。
一騎打ちに卑怯かもしれないが、表裏比興のあだ名は伊達ではない。
それにアシトにハンニバルに勝るところがあるとすれば、数少ないひとつがこれだった。
多くの兵を指揮する能力はハンニバルには及ばない。
国を富ませ、強くするのもハンニバルには勝てない。
個人的武勇ですら、剣術は劣っている自覚があった。
ならばなになら勝てるだろうか。アシトはそう考え、熟考したが、ひとつの考えが浮かんだ。
それはアシトが卑怯者なところ。勝つためならなんでもするところだった。
アシトはハンニバル将軍とまともに戦わず、謀略に頼った、小賢しい方法で彼をおびき出した。
そして小賢しい方法で彼を倒す。彼よりも明確に勝っているもうひとつの長所で。
その長所とは己の体内にある圧倒的な魔力だった。
アシトは魔法によってハンニバルを倒すのだ。
アシトは呪文を詠唱すると、巨大な炎を作り上げ、それで彼の配下を焼き殺す。
蟻の兵と人間の兵、同時に焼き、駆逐する。
あらかじめ油をまき散らしていた城内は一気に燃え上がる。
「自分の城ごと俺の兵を燃やすか」
「それしか方法はなかったので」
真実だった。天才ハンニバルの上を行くには生半可な方法では駄目と思っていた。後先考えずに攻略するしかないと思っていた。
アシトはこのようにハンニバル将軍の虚を突き、相手を上回ったのである。




