伯爵の過去
魔王アシュタロトが視界から消えると、後ろに控えていた老騎士が口を開いた。
「伯爵様も魔王殿と逃げて下さればいいものを……」
老騎士はそう言うとブロード・ソードでハイブ・ワーカーを斬り捨てる。
伯爵は説明する。
「この傷だ。もはや助かるまい。ならばこの城の主らしく、主の間で果てるのが先祖に対する義理だろう」
……それに、と続ける。
「おれのような人間のために屍になってくれた部下にも報いたい。お前たちの主は蟻などには屈しなかった勇者であると天上で自慢してもらいたい」
「…………」
老騎士は沈黙する。感動しているようだ。
ならば、と、さらにハイブ・ワーカーに襲いかかり、次々と蟻を斬り殺していく。
その間、怪我をし、大量に血を失ったイスマリア伯爵は、もたれかかるように玉座に座った。
懐から小さな肖像画を出す。血塗られているが、美しい娘が書かれていた。ジェシカに似ているが、ジェシカではない。その母親だ。
イスマリア伯爵はその人物の名前を口にする。
「ベアトリーチェ……」
彼女の名は亡くなった自分の妻、ジェシカの母の名だった。
彼女はジェシカを産んだときになくなった。とても身体の弱い女だったのだ。
元々、出産に向いてはおらず。子供は産ませない予定であったが、気が付いたときには妻は妊娠しており、子供を産むことになった。
結果、妻は死ぬことになったが、後悔はない。ただ、妻の忘れ形見とジェシカを甘やかしすぎたのが後悔といえば後悔だろうか。
「――まあ、過ぎたことだが」
自嘲気味に漏らすと、妻と出会ったときのことを思い出す。
妻は隣国の貴族の娘だった。家柄的には同格であったが、問題は先代の当主同士が仲が悪いということだった。伯爵はあるパーティーで彼女に恋に落ちたが、犬猿の仲の両家でどうやって恋を成就させるか悩んだものだった。
伯爵には魔王アシュタロトのような謀略の力はないが、そのときばかりは謀で頭をいっぱいにしたものだ。
普通の方法では駄目だろうと、周囲の結婚適齢期の貴族の悪い噂を流言飛語として流させたり、占い師に金を渡し、遠回しに伯爵を薦めさせたり、色々だ。
あらゆる手段を尽くして手に入れた妻だが、それだけの価値はあった。彼女と結婚してからの日々は、まさしく黄金時代であった。
伯爵の人生の仲で一番光り輝いていたのだ。
――ただ、他人から見ればその黄金の輝きも虚飾、ということになるのだろうが。
ある日、妻は伯爵の前で土下座をする。
「実はわたくしのお腹の中には赤子がいます」
なんだ、なぜ、そのようなことで謝る。吉報ではないか、最初そう思ったが、妻は身体を震わせながら言う。
「あなたの子供ではありません」
その言葉にはショックだったが、すぐに誰の子か察しが付いた。
妻は実は他の貴族と婚約が内定していた。伯爵はその貴族から強引に貰い受ける形で妻を譲り受けたのだ。その貴族は結婚前に妻に手を出したのだろう。
悲しみに満ちた瞳で告白する妻。伯爵は不思議なほど心が穏やかだった。
「――勇気のある告白だ。命を無駄にするようなことはするなよ。お前も、腹の中の子も」
「――この子は不義の子です。お腹の子はともかく、わたくしを手打ちにしてくださいませ」
「自分の妻を手打ちにする領主がどこにいようか。おれはお前を愛している。もしも、その子が生まれたら大切に育てよう。男の子ならば家督も継がせるし、女の子ならば世界一の男に嫁がせる」
「……伯爵様」
妻はその後、伯爵の胸で泣き続けた。以後、伯爵はそのことに一切触れたことがない。妻が生きていたときも、死んだあともである。
知っているのは目の前で剣を振るっている老騎士くらいであろうか。
彼はその秘事を誰にも漏らさず、今日まで伯爵家に仕えてくれた。そして最後の最後まで伯爵を守ってくれた。
忠臣の中の忠臣であった。もしも来世というものがあればまた彼のような騎士を得たいものである。
さて、そのように過去と邂逅していると、伯爵のそのときが訪れる。どうやら血を失いすぎたようだ。視界が揺らぐ。
「妻との約束を果たしたかったが……」
約束とはジェシカに最高の男を見つけるというものであった。最初、魔王アシトならば妻も喜ぶのでは、と思ったが、それは大きな間違いだったようだ。
喜ぶのでは? ではなく、もはやアシトしかジェシカの夫はいないと思っていた。
冷静で的確な判断力、常にはかりごとを巡らす明晰な頭脳、魔術師としても、戦士としても、軍政家としても一流を極める男。
そしてなにより誰よりも優しい魔王。慈悲深い王であった。
騙し討ちを仕掛けた伯爵を許し、危険を顧みず救い出してくれた。そして今、彼は蟻と懸命に戦い、娘を安全な場所に運んでくれている。
彼のような偉大な男の妻になれば、ジェシカの幸せは約束されたようなものだろう。
そう思ったが、ジェシカとアシュタロトが結婚する様を見れないのが残念であった。
伯爵は大きな吐息を漏らすと、その吐息に魂を乗せ、体外に排出した。
こうしてイスマリア家の当主は死んだ。
享年47歳である。太く短い人生であったが、本人も周囲の人間も、彼が幸せに生きたことを否定することはなかった。
最後に生き残った彼の配下である老騎士は、主の死を確認すると、一筋の涙を流し、こう言った。
「……伯爵様。いえ、若、よくぞこの戦乱の世を生きられました。さぞ、お辛かったことでしょう。ですが、もう楽にしてください。天上から我らのことをご照覧あれ」
老騎士はそう言うと、伯爵の懐から遺言状を取り出し、自分の懐に入れる。
そして剣を振り上げ、伯爵の首を撥ねる。
ハイブ・ワーカーに主の首を取られたくなかったからだ。蟻ごときに主の首を取られるわけにはいかなかった。
老騎士は主の首をマントで丁重に包むと、背中にくくりつける。そのまま主の間を駆け出す。
脱出し、主の遺言を果たすのである。
その遺言とはジェシカの幸せを見届けることであった。
主が死んだ今、老木である自分が死ぬことは許されなくなった。あと、数十年は生きてジェシカが幸せに暮らしているところを見届けなければならない。
それが伯爵に仕えた騎士としての務めであった。
もはや伯爵の城は異形の蟻のものとなってしまったが、伯爵に仕えた最後の騎士を屈服させることは出来なかった。
「わしがある限り、姫様が生きておられる限り、そこがイスマリア城だ。いいか、化け物どもよ、おのが首を洗って待っていろよ。いつかこの城を取り戻して見せるからな」
老騎士は決意を燃やすと、10匹ほどの蟻の群れに突っ込んだ。
――血煙が舞った




