イスマリア城
興奮冷めやらぬうちに村に帰った俺だが、ハンニバル将軍と会ったことは誰にも伝えなかった。
俺だけの秘密にしておきたかった、ということもあるが、歳三やジャンヌはハンニバルのことを知らないと思ったのだ。
ジャンヌは農民の娘、無学であろうし、歳三は日本人、ハンニバルの業績を知らないと思われた。
本当にすごい老人なのだが、彼の素晴らしさとその著書の価値は俺だけが知っていればいいことだった。
俺は村に帰るなり、ハンニバルにもらった著書を食い入るように読んだ。
朝食を食べるときも、村を旅立つときも、道中の馬の上でも。
ハンニバルがイベリア半島やローマで試した戦略と戦術の解説を食い入るように読みあさった。
ハンニバル将軍は圧倒的寡兵、圧倒的不利な状況で当時最強と謳われたローマ軍に対抗した。
前方に有能な敵の将軍、後背に無能な味方の政治家を抱えながら、戦史に残る勝利を築き上げた。
その秘訣がすべて彼の著書に書かれていると思うと、ページをめくる手が止まらない。馬上どころか、道中立ち寄った宿屋の風呂にまで持ち込もうとした俺の姿を見て、さすがにジャンヌが注意してくる。
「魔王は本の虫過ぎるの。そんなんじゃイスマリア伯爵との交渉に失敗するの」
ジャンヌに注意されるとは相当なことだった。しかも正論で。たしかに彼女の言うとおり、本にかまけていたら上手くいくものもいかなくなるかもしれない。
反省した俺は、魔法で鷹を呼ぶと、鷹の足に本をくくりつける。
本をアシュタロト城に送りつけて誘惑に打ち勝つことにしたのだ。
それを見てジャンヌは「潔いいの。魔王はだから好き」と言った。
歳三も「恋女房」を手放すとはやるね、と感心してくれた。
『ハンニバル戦記』を城の書斎に戻し、完全に意識を切り替えた俺は、イスマリア伯爵について考える。
「さて、すでにここはイスマリア領、そろそろ伯の城に着くはずだが」
「どこから入るの?」
「もちろん、正門から堂々と入る」
「堂々と入って堂々と捕縛されるのか」
「そうだな。それを持って開戦理由としたい」
「それなのだが、捕まったその場で斬られる可能性はないのか」
「ある」
即答するとジャンヌは「まじで!」という顔をした。
「ああ、だから伯爵の城に入るのは俺と歳三だけだ」
「私を置いていくなんてあんまりなの」
「その場で三人斬られたら困るだろう。もしも俺たちが討たれたら敵を討ってくれ」
冗談めかして言うが、ジャンヌは笑うような気分ではないようだ。
俺はすまないと頭を下げた上で訂正する。
「冗談だよ。いきなり斬られることはないだろう。イスマリア伯は俺を人質にした上で領土の割譲を迫るはず。それが一番効率がいいからな」
「ほんと?」
「ほんとさ。だが、捕縛はされるだろうから、捕縛されたあとに自由に動ける存在がほしい。ジャンヌは風魔の小太郎と一緒に俺を助けてくれ」
優しげな口調で言うと、ジャンヌは冗談めかし、小太郎の口調を真似る。
「承知」
と笑いながら言うと、俺たちはジャンヌと別れた。
歳三とふたりきりになると、今度は歳三が尋ねてきた。
「あの程度の別れでいいのかい。もしかしたら本当に死ぬかもしれないのに」
「本当に死ぬかもしれないからあれでいいんだよ」
「まあ、お嬢ちゃんごと死なれたら目覚めが悪いからな」
と歳三は他人事のように言うと、ふたりは馬に乗ったままイスマリア伯爵の支配する街に入った。
街には門番はいなかったが、すぐに衛兵がやってきた。
魔術師風の男と東洋人のサムライという組み合わせは彼らの職業意識を刺激してやまないのだろう。
衛兵たちは緊張した表情で誰何してくるが、俺たちはあっさりと身分を名乗った。
「俺の名は魔王アシュタロト、それにこいつは部下の土方歳三だ。我々はイスマリア伯爵に客人として招かれた。是非、城に案内してほしいのだが」
イスマリアの衛兵たちは伯爵の名を出すと急に態度を変えた。平和的になる。おそらく、俺たちがやってくることはあらかじめ知らせているのだろう。
俺たちは衛兵に案内され伯爵の城へおもむくが、伯爵の城の前に着くと沈黙する。
「…………」
沈黙したのは伯爵の城が思いのほか立派だったからだ。
歳三は「ひゅう、これは落とし甲斐がありそうだ」
と口笛を吹いた。
俺は城について説明する。
「人間の城は立派なのが多いと聞いていたが、イスマリア伯のはその中でも特筆のもののようだな」
「アシュタロト城が小城に見える」
「古城と言ってくれ。アンティークなだけで見た目より防御力はある」
それにしても、と俺は続ける。
「もしもこの城を攻めるときは攻城兵器が欠かせないだろうな。それ以前に街を囲む外壁も分厚かった」
カタパルトや破城槌も必要だろうな、と城攻めに必要な戦力を計算するが、それが捕らぬ狸の皮算用であると気が付く。
まだ捕まってもいなければ、脱出もしてない。さらにいえば自分の軍も展開させていなかった。今、攻城戦について考えるのは時期尚早だろう。
まずは見事に伯爵と面会し、見事に挨拶し、見事に捕縛されるところから始めなければならない。
そう思った俺は服の襟を正す。イヴが面会用に用意してくれた礼服であったから、綺麗にのり付けされている。しかし、着たのは俺だからどこか曲がっているかもしれない、と思った。
こんなときにイヴがいれば指摘し、直してくれるのだが、それを男の歳三に求めるのは酷だろう。
俺たちは互いに互いの格好を見つめると、そのまま伯爵の城に入った。




