82 王都の嵐1【カイン視点】&【デボラ視点】
まずカインの視点で始まり途中でデボラ視点に切り替わるため、一人称と三人称が混在します。ご了承ください。
その日、カイン=キール=デボビッチは自邸の執務室でジルベールから報告書を受け取り、それに目を通していた。報告書の中身は、以前頼んでいたデボラの素行調査である。
「ふむ、仮面舞踏会……か」
カインは眉間に皺を寄せつつ軽く肩を竦めた。
……なるほど、デボラが言葉を濁していた理由がようやくわかった。
まさか自分に黙って、そんないかがわしい場所に出入りしていたなんて。
「申し訳ありません。奥様がロントルモン伯爵家にお泊りになると聞いて、その言葉を信じてしまい確認を怠りました」
カインの前で深々と頭を下げているのは、デボラの専属メイドであるソニアだ。
元々表情の硬い彼女の顔が、今日はさらに暗く沈み込んでいる。
「お前が責任を感じることない、ソニア。お前はよくやってくれている。デボラが規格外すぎるんだ」
カインから慰めの言葉をかけられ、ソニアは恐る恐る頭を上げた。主人の信用を失ったわけではないとわかり、ホッとしているらしい。
一方ジルベールは、噂以上のデボラの活躍に苦笑せざるを得なかった。
「それにしても、デボラ様の行動力には恐れ入りますね。おそらくスチュアート家のご友人を助けるためだったとは思いますが」
「確かイグナーツの元恋人が、仮面舞踏会に出入りしていたんだったな。例の情報の出所は、その女ということか」
カインは調査報告書を読み終えた後、ばさりと机の上に放り投げた。
デボラに嘘をつかれたことは腹立たしいが、彼女の無茶のおかげで貿易監査局の腐敗を暴くことが出来た。これでグレイス・コピーを密輸する黒幕にも、大打撃を与えることができただろう。
しかも今回の事件で、デボラはあのスチュアート商会まで味方に付けた。
これぞまさに大手柄、大金星と言っていい成果だ。
「そう言えばここ数週間ほど、デボラ様はロクサーヌ嬢とルーナ嬢と共に、洋菓子店やルビーネ国際市場に出かけられておられました」
「また何か厄介事に片足突っ込んでいるんじゃないだろうな?」
「そちらの調べも、今日明日中につくかと存じます」
「……」
次から次へと出てくるデボラの奇怪調査報告に、カインは少なからず頭を痛めた。アストレーにいた頃は、予想のつかない彼女の行動を面白がったものだが、何せこの王都には危険が多すぎる。
「それと一つ、不可解な点があります」
ジルベールはさらに、もう一通の報告書を差し出す。
そこに書かれているのは例の新聞記者、ハリエット=コルヴォの名前。
「社交サロンに出入りしているというこの記者の、身元の確認が取れません」
「……なんだと」
「ハリエットが勤めているというフィナンシャル・ポスト社は実在しませんでした。一部の貴族の間で名が知られ始めたのはここ一年程。デボラ様を仮面舞踏会に誘導したのも、この正体不明の記者のようです」
「あからさまに怪しいな」
今度こそカインの表情が険しくなり、室内にピンとした空気が張り詰めた。
デボラがここにいれば「ええ、そりゃ見るからに胡散臭いおっさんです!」とフォローしそうではあるが、残念ながらデボラはここにはいない。
カインはすぐさま決断する。
この王都で素性不明の人間を、デボラに近づけるべきではない。
「……すぐにコーリキとジョシュアに情報共有を。今まで以上に監視を強くするように」
「畏まりました」
「それと近日中にハリエットを俺の前に連れてこい」
「そちらもできる限り迅速に手配することに致しましょう」
ジルベールは家令として、いかんなくその手腕を発揮した。
対するカインは、どうやったらデボラの安全確保ができるのかというその一点のみに全神経を注いでいる。
「それにしてもカイン様は本当にデボラ様が大切なのですね」
「……あ?」
語尾に(怒)をつけながら、カインは凄む。
けれどジルベールは怯むことなく、にっこりと微笑んだ。
「カイン様、先日申しました通り、我ら使用人一同は心よりカイン様とデボラ様が本当の夫婦になられることを望んでいます。カイン様がデボラ様を大切になさるのは、とても良いことだと思います。ですが……」
「ですが?」
ジルベールはいったん言葉を止め、ちらりとカインを盗み見た。わざとらしくもったいぶられて、カインの機嫌は急降下する。
「あまり過保護過ぎてデボラ様に嫌われませんようお気をつけ下さい。その辺りの加減、ちゃんとわかってます? 束縛しすぎる男は逆にうっとおしがられますよ。カイン様、自分が粘着質だという自覚、おありですか?」
「……………」
暗に、おまえストーカー気質あるよと指摘され、カインは憮然となった。
どうして自分の周りには、ノアレといいジルベールといい主人を主人と思わぬ者ばかりが集まるのか。いや、むしろそういった手合いばかりを選んで重用してきたのは、他ならぬカイン自身なのだが。
「ジルベール、さすがにカイン様に対して失礼よ」
「おっと、申し訳ない」
そして今まで静かに横に控えていたソニアが、もう黙っていられないとばかりに口を出す。
ジルベールと違い、ソニアはカインに心酔している。それがどれほど親しい同僚だとしても、カインに軽口をたたく者を彼女は決して許さないのだ。
「とにかくこれからもデボラの監視を頼む。ソニア、おまえにも面倒かけるな」
「いいえ、カイン様のご命令とあれば、どんなことでも喜んで」
ソニアはやや頬を赤く染め、主人の言いつけに唯々諾々と従った。
従順なその態度に満足して、カインはほんの少しだけ機嫌を直す。
こうしてこの夜、デボビッチ家の綿密な調査により、デボラの行動はほぼカインに筒抜けになった。
――けれどデボラにとってラッキーだったのは、件の仮面舞踏会で果たしたエルハルドとの再会がバレなかったこと。
この一点だけで、何とかデボラの首の皮は、ぎりぎり一枚繋がったのである。
◇◆◇
「ぶえっくしょおおおいっ!!」
「デボラ様!?」
「これまたお見事な勇ましいくしゃみだべ!」
あら、今何かすっごい寒気がしたのだけれど……。
気のせいかしら?
気のせいよね?
気のせいだってば、気のせい!
お風呂から上がったばかりの私は、レベッカにタオルで髪を吹いてもらいながら、正体不明の悪寒に震える。
いやだわ、今頃誰か私の噂をしているのかしら?
でももしそうだとしたなら、きっと碌な噂じゃないわね。
だって見て、この鳥肌。自分で見てもこのぶつぶつが気持ち悪いわ!
「そう言えばソニアの姿が見えないわね」
「ソニアさんはカイン様の執務室に呼ばれています」
「そう言えばジルベールさんがカイン様の執務室に入っていくのも見たべ」
「………」
二人の目撃証言から、私は何となく噂の発生源を察する。
ま、まさか公爵にバレてないよね~?
大丈夫だよね~?
仮面舞踏会やアリッツ王子との、その他諸々!
自業自得と言えばそれまでだけど、あまりに後ろ暗いことが多すぎて、さすがの私もブルっちゃうわ。
「それにしても今日はやたら風が強いですねー」
「あら、ホント」
私の手に保湿クリームを塗りこみながら、エヴァが不安そうに窓の外を見た。
時間は21時を少し過ぎた頃。
ここ二、三日、首都・シェルマリアの上空には低気圧が停滞しているのか、少し強めの長雨が降り続いている。
こーゆー時、現代の天気予報の技術がいかに偉大か実感する。
明日の天気が分かるってだけのことが、どれほど素晴らしいことなのかって。
「そう言えば明日はドルイユ伯爵夫人のお茶会に参加なさるんですよね?」
「ええ、その予定よ。久しぶりにマノン嬢と会えるのも楽しみだわ」
「着々と人脈を広げられているようで、何よりですだ。明日は晴れるといいべな~♪」
この時の私は侍女二人に囲まれ、のほほんとしていた。
いつもどおりの平和な毎日が、当たり前のように続いていく。
けれどそれは所詮錯覚なのだと、人はある日突然気づかされる。
私が何かおかしい……と思ったのは、深夜屋敷内で遠い悲鳴を聞いた時だった。
「きゃああぁぁぁーーーっ!」
「みんな落ち着いて! ジルベール、カイン様が急遽参内される。馬車の用意を」
「はい、父さん!」
深夜12時を少し過ぎた頃。外はいつの間にかただの嵐から大嵐に変わっていた。
廊下からは何やらバタバタと使用人達の声が聞こえてくる。
しかも頑丈なはずの屋敷がガタガタと大きく揺れて、布団とズッ友でいたい私も、さすがにベッドから飛び起きた。
「うわ、雨と風、すご……」
まさに横殴り……といった表現がふさわしいほどの強い風雨が、容赦なく窓辺に吹き付ける。
ううん、それだけじゃない。ピシャン、ピシャンと激しい雷がいくつもいくつも街中に落ちていた。貴族街の中央に建つデボビッチ家からだと、眼下の街の様子がよく見通せるのだ。
「あ、デボラ様、今は屋敷内を歩いたらまずいっス! 今夜は自室でお控え下さい!」
一人不安になっていると、護衛のジョシュアがランプを持って私のもとに駆けつけてくれた。
しばらく待ってみるものの、屋敷内の騒ぎが収まる気配はない。いつもは私の傍にいるエヴァやレベッカ、ソニア達侍女も多くが出払っているようだ。
一体何が起きているのかわからず、私は少なからず恐怖を覚える。
「嵐がひどいみたいだけど、みんなが騒いでいるのはそのせい?」
「そうっスね、実は強い風のせいで邸内の窓がいくつか割れました。それに城下町では運河が氾濫して、浸水の被害が出ているらしいっス」
「た、大変じゃない! 大丈夫なの、それ!?」
私は慌ててもう一度窓の外に視線をやる。
まるで槍が降っているかのような、激しい雨。
幸いにも、私は前世で災害被害に遭うことはなかった。
そんな私でも何となく感じる。
もしかしてこの嵐は、ただごとじゃないんじゃないか……って。
――カーン、カンカンカンカン………
「何? この音……」
「多分教会の鐘の音っスね……」
さらに遠くからは、不気味な鐘の音が鳴り響き始めた。
最初は一つだけだったそれが、いつの間にか東から、西から、北から……と至る所で鳴り響くようになり、私達は再度窓の外に目を凝らす。
「あ、火よ。あそこ、街のずっと外側で炎が上がってない!?」
「げっ、本当っス!」
そして私は指さした。
暗闇の中、地平線すれすれで上がった真っ赤な炎を。
鳴り響く鐘はおそらく地域の住民達に危険を告げるサイレン――警鐘だ。
「まずい、下町で火事っスよ。下町はごちゃごちゃしてて、防火設備もないから、もしかしたらすごい大火事になるかもしれないっス!」
「………っ!」
焦るジョシュアの声でようやく我に返って、私は事の重大さに気づく。
――思いがけぬ嵐と大火事の襲来。
それは私やデボビッチ家だけでなく、王都・シェルマリアに住まう全ての人々にとって、大きな被害をもたらすことになったのだ。




