77 そうして救いの神は現れる【ロクサーヌ視点】
ロクサーヌ=スチュアートは、その日朝から不機嫌だった。
できれば見ていたくない顔が、自分のテリトリーであるスチュアート商会の店舗に居座っていたからである。
「この上等の酒はもらっていくぜ、ロクサーヌ! 未来の旦那様への貢ぎ物だから構わないよなぁ!?」
そう数本のワインを握って居丈高に叫んでいるのは、ロクサーヌの婚約者・イグナーツ=ザイフェルトだ。朝からすっかり酔っぱらっているこの男が自分の婚約者だなんて、本当に情けなさすぎる。
「我が商会は、あなたのための便利屋ではございませんけど」
「あーん? 何か言ったかぁ?」
嫌悪感を隠しもせず皮肉を言っても、イグナーツには通じない。スチュアート家の弱みを握っていると豪語して憚らない男は、どこまでも傲慢になっているのだ。
「本当に相変わらず可愛くない女だな、ロクサーヌ。お前を娶るような物好き、俺以外にはいないぞ?」
「いっそ誰にも見初められないほうがどれだけ幸せだったことか。とにかく代金も支払わず、我が商会の商品を大量に持ち出すのはおやめ下さい。もちろん後でお代はまとめて請求させて頂きますので」
「なにぃ?」
イグナーツは端正な顔つきを歪めて、ロクサーヌを睨めつけた。この男、黙っていればそこそこ美しい男なのに、とにかくその性根が腐り過ぎている。
「まぁいい。強気なことを言っていられるのも今の内だ。お前は近いうちに俺の妻になるんだからな」
「……」
「その際は実家への顔出しは全面禁止だ。ザイフェルトの屋敷の奥で大人しく籠もっていろ。大体女が熱心に商売するなんて生意気なんだよ!」
「……………」
イグナーツは暴言を吐きつつ、友人に商品を数点強奪させてから店舗を去っていった。
彼との婚約が決まってからというものの、この手の横暴ぶりが日常茶飯事となっている。ロクサーヌはそれが悔しくて悔しくて仕方ない。
「もーっ! 何なのよ、あいつ! もーっ、本当に許せないっ!! あんな男の妻になるなんてお断りだわっ!! もーっ! もーーーっ!!」
イグナーツが帰った後、ロクサーヌは両手を振り上げて、奥の事務所で一人荒ぶっていた。その傍らではスチュアート商会の会長である従兄弟・テリーと妻ミルテがひたすら申し訳なさそうな顔をしている。
「本当にすまない、ロクサーヌ。こんな不幸な婚約をさせてしまったのは我が家の落ち度だ」
「なんと言って謝ったらいいかわからないわ。今からでも、何か理由をつけてもう一度婚約破棄に持ち込めればいいのだけれど……」
「……」
従兄弟夫婦の意気消沈ぶりを見て、ロクサーヌの心に痛みが走った。
今回の件については、実家の誰も悪くない。イグナーツの策略に、まんまとはまってしまっただけなのだ。
「絶対イグナーツと貿易監査局はグルよ! でなきゃ武器密輸なんて濡れ衣、着せられるはずがないわ!」
ロクサーヌはイグナーツが持参金目当てで自分との再婚約を望み、今回の事件を画策していると見破っていた。そもそもスチュアート商会の貿易船から密輸品が見つかるなんてあり得ない。スチュアート商会を立ち上げたのは三代前の当主だが、裏稼業には一切手を染めず、まっとうな商売しか行ってこなかったのだから。
「それでも監査局立会いの下、うちの荷から密輸品である剣や槍が見つかってしまった事実は覆しようがない。おそらく裏で人夫達を買収していたんだろう」
「もーっ、全く腹立たしいわっ!!」
ロクサーヌは事務所の壁に掲げられた歴代会長の肖像画を見ながら強く歯噛みする。
元々スチュアート男爵家は領地を持たず、王宮でも末端の役職にしかつけない弱小貴族であった。だが三代前の当主が銀山開発の投資に成功し、一代で巨大な富を築くことができたのだ。
それ以後は王都・シェルマリアで商会を立ち上げ、様々な商いで成功してきた。
現在ロクサーヌの兄がスチュアート男爵の名を継ぎ、文科省の役人として勤めている。
一方商才がある従兄弟が商会を継ぎ、日常雑貨の販売や他国との貿易を行っている。
特にロクサーヌが尊敬しているのは、スチュアート商会を継いだ二代目の大叔父だ。この大叔父はロクサーヌが女であるという理由で商売から遠ざけたりはせず、むしろ積極的に幼いロクサーヌの意見を聞いてくれた。
「世の客の大半は女性であり、その女性達を相手に我々は戦略を練る必要がある。また女性の多くは子育て中心に生活しており、子供の嗜好品は立派な商品となりうる。ロクサーヌ、女だから商売に向いていないということはない。むしろ女・子供ならではの視点だからこそ、新しい商機を見出すことだってあるだろう」
大叔父の言葉は幼いロクサーヌの心に深く刻まれ、生きる指標ともなった。
ヴァルバンダ王国では貴族の女性が職を持つことは奨励されておらず、むしろ異端であるとさえ言える。
それでもロクサーヌは商売が好きであったし、時には自分の企画を実際に商品化することもあった。庶民にも手に入りやすい価格で発売した化粧水などがそのいい具体例。ロクサーヌ発案の化粧水は爆発的にヒットし、今ではスチュアート商会の看板商品にまでなっている。
つまりロクサーヌは貴族の奥方なんて安定した地位におさまるよりも、本当は好きな商売を死ぬまで続けていたいのだ。そのせいで結婚できず生涯独身であったとしても、全く構わないと思っている。
(もー、それなのに、なんでこんなことになっちゃったのかしら? よりにもよってあのイグナーツと結婚しなければならないなんて……)
そもそもイグナーツとの婚約は、ザイフェルト伯爵家からの申し出から実現したものだった。ザイフェルト家は家格こそスチュアート家より上なものの、現在の当主は凡庸。3年前に領地が大規模な干ばつにあったことで、領地運営の資金繰りに苦労していた。
そこで男爵でありながら裕福なスチュアート家がターゲットにされたのだ。現在スチュアート家に適齢期の女性はロクサーヌしかおらず、また格上のザイフェルト家からの婚約の申し出を断ることもできず、いったんはイグナーツとの婚約が決まった。
そしてこのイグナーツ、伯爵家の三男とは思えないほど無能な男で、早々にロクサーヌを幻滅させた。さらに下町の看板女優に入れ込み、一方的に婚約破棄を申し渡された時は、あまりの愉快さでロクサーヌは大笑いしたものだ。
あんな愚かな男の妻にならずに済んで本当に良かった……と。
そう安心していたはずなのに、なぜか武器密輸事件をでっちあげられ、さらにはイグナーツと貿易監査局の役人の両方から恐喝され、結局また婚約を結び直された。
もちろんこのような不当な犯罪が許されるはずもなく、スチュアート家としては冤罪の証拠を集めて何とか己の潔白を証明したいところだ。
けれど貿易監査局の腐敗は思った以上に進行しており、未だ突破口は見えない。そもそも役所がらみの犯罪を追求できるほどの力が、スチュアート男爵家にはないのだ。元々の家格の低さが、今回は完全に仇になってしまっていた。
(結局不幸な結婚をするのが私の運命なのかしら? スチュアート商会を救うには、全て諦めなければならないのかもしれないけれど……)
憂鬱な気分になりながら、ふとロクサーヌは先日社交サロンで出会った某公爵夫人のことを思い出す。
夫の名誉を守るために、ドピング伯爵と舌戦を繰り広げた美しい黒髪の公爵夫人。彼女は心から夫のことを愛しているようだった。
元々恋愛ごとに興味のないロクサーヌの目にも、夫のために戦う彼女の姿はとても美しく映った。
素直に羨ましい……と思う。
そこまで愛せる人に出会えた公爵夫人は、きっと自分よりも幸せだ。
ロクサーヌはそっと目を閉じ、かの公爵夫人と自分の立場を比べて、その落差の激しさに絶望するのだった。
しかしそんなロクサーヌの許に思わぬ一報が飛び込んできたのは、ある快晴の朝のことだった。
いつものようにスチュアート商会の事務所に顔を出したところ、テリーが興奮した様子でロクサーヌを出迎えたのだ。
「聞いてくれ、ロクサーヌ! 昨夜、イグナーツと貿易管理局のブルーノが検察審査会に逮捕された!」
「えっ!?」
そう顔を紅潮させるテリーは、とても興奮した様子だった。
ロクサーヌもまさかの報告に虚を突かれ、思わず数秒動きを止める。
逮捕された? あのイグナーツが……。
俄かに判じられない事実に、ロクサーヌの頭は軽くパニックになった。
「い、一体どういうことなの、テリー? どうして急に逮捕だなんて……」
「それが昨日港で作業していたうちの従業員によると、たまたま港に居合わせたアストレー公爵がイグナーツ達の密輸現場を発見したそうだ」
「み、密輸現場!?」
「ああ、例の武器の密輸だよ! やっぱりあれはあいつらの仕業だったんだ!」
さらにテリーの報告は続く。
王都・シェルマリアの南にはアストレーほどではないが、それなりに大きな港がある。そこでイグナーツ達はスチュアート家の時と同様の手口で、別の商会の荷に密輸品紛れ込ませていたのだ。
けれどそこに偶然、アストレー公爵が自領の貿易船の見回りに来ており、これまた偶然怪しい動きをしている船に気づいて、急遽船の中を調べることになった。
するとなぜかその日に限って密輸現場にイグナーツとブルーノが揃っており、二人は公爵から直々に取り調べを受けることになった。さらになぜか現場にいた人夫の一人がイグナーツ達に買収されたと突然自供を始めたのだ。
事態を重く見たアストレー公爵は貿易監査局ではなく検察審査会を召集し、事件の全容と貿易監査局の腐敗を明るみにした。
その結果、イグナーツは武器密輸事件の主犯格として逮捕され、また恐喝の共犯としてブルーノをはじめとする貿易監査局の役人数人も身柄を拘束されたのだ。
そこまで聞いて、ロクサーヌは誰もが思うであろう疑問を口にする。
「なんか偶然に偶然が重なり過ぎててて、逆に疑わしいんだけど……」
「そうだな。あまりにもアストレー公爵の手際が良すぎる。だが彼がイグナーツ達の不正を暴いてくれたことに違いはない」
テリーはニッと笑い、未だ呆然としているロクサーヌの肩をポンポンと優しく叩く。
「ちなみに俺もこれからアストレー公爵から呼び出しを受けて、取り調べを受ける予定だ。イグナーツ達はオレ達を恐喝した件で味をしめて、同じ手口でいくつかの商会を罠にはめていたみたいなんだ」
「ま、まぁ……」
「アストレー公爵としては被害者からの証言を取りたい様子だった。いや、さすが四大公爵家。腐敗していた貿易監査局を抑えた上で、上級機関を引っ張り出してきたのはさすがだよ。ここまで徹底的に叩かれれば、イグナーツ達も言い逃れはできまい」
「………」
テリーの説明を聞くうちに、最初は驚きしかなかった脳内に『安堵』という二文字がじわじわと広がっていった。気づけばロクサーヌの瞳は潤み、胸に熱くこみ上げてくるものがある。
「それじゃ私の婚約は……」
「その件だが今朝方、ザイフェルト家から婚約破棄の申し出が届いている。これまた偶然なのか故意なのか、ザイフェルト家は昨日の時点で三男のイグナーツを除籍したそうだ。おそらくザイフェルト伯爵家に火の粉がかからないための緊急の策だろうね。おそらく根回ししたのはアストレー公爵だ」
「……」
まるでスチュアート家の窮状を救う神のように、アストレー公爵は様々な策を講じてくれたようだ。
けれどどうしてスチュアート家のためにそこまで?
浮かんでくる疑問と共に脳内で重なったのは、某公爵夫人の心配げな面影だ。
『以前婚約破棄してた方をよりを戻すって……。ロクサーヌ様は本当にそれでいいんですの?』
初対面であったにも関わらず、ロクサーヌの境遇を心から心配してくれた公爵夫人。
もしかして彼女が自分の窮状を夫である公爵に話し、裏から手を打ってくれたのだろうか?
(ああ、本当にありがとうございます、アストレー公爵閣下! そしてデボラ様……!)
ロクサーヌは自分の胸元で両手を組み、神に祈るような気持ちで感謝した。
真実がどうかなんて、本当のところはわからない。
けれど暗闇しかなかった絶望の日々を、アストレー公爵とその夫人が変えてくれたことだけは確かだ。
(ありがとうございます、これでまた私、好きなだけ金儲けができる……! 結婚しなくてよくなったんだから、これからもバリバリ稼いでやるわぁぁぁーーー!!)
こうしてロクサーヌはゲーム本来の強欲キャラに見事プレイバック。
デボラの思惑通り、最強の取り巻きキャラへと変貌したのだった。




