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55 カインという男12~風雲急~



 カインは言葉で何かを伝えることが苦手だ。

 元々無口で、喋り方は威圧感が強く、表情が乏しいせいで他人に誤解されることも多い。

 それでいて自らを取り繕うのも得意ではなかったから、できれば必要なこと以外は話したくないと思っている。


 ――それでも。


 言葉とは語れば語るほど空々しく感じられるものだが、時にはその言葉でしか伝えられないことがある。

 だからカインはデボラに向かってこう言うのだ。

 その瞳をしっかり開いて、自分を見ろ。

 過去ではなく、現在の自分自身を見つめてみろ――と。




          ×   ×   ×




「ぎゃあぁぁぁーっ! カイン様、何するんですかぁぁーーーー!?」


 デボラがデボビッチ家からの出奔を図った翌日、カインはその当人を連れアストレー学園に訪れた。

 デボラが発起人となったアストレー学園は完成間近で、園内には関係者や生徒となる子供達が多く集まっている。


「あ、デボラお姉ちゃん!」

「デボラ様だー!」


「ごきげんよう、カイン様、デボラ様。まだ全員分ではありませんが、制服が数着仕上がりましたので、試着がてらお持ちしました」

「あ、ありがとう……」


「お初にお目にかかります。今日までご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした。ケストラン師匠からご紹介を受け、こちらで働かせて頂けるようになったヘルムートでございます」

「ああ、確かカバスから来た」

「はい!」


「まぁ、デボラ様。体調を崩されているとお聞きしましたが、もう大丈夫なのですか? 職員一同、心配しておりましたのよ」

「ベリンダさん!」


 デボラの姿を見るや否や、多くの人間が彼女の周りに集まってきた。その誰も彼もが笑顔である。

 中でも制服を着たアヴィーが目の前に現れると、デボラの心は強く突き動かされたようだった。


「何よ……何なのよ。こんなの反則じゃない……」

「な、なんで急に泣き出すんだよ、バカ女! な、泣くなよ! お前に泣かれたら、オレが困るじゃねーか!!」


 デボラの目が潤んだのを見て、アヴィーはかわいそうなくらい慌てていた。

 カインは今が頃合いだと、デボラの背後に立ってその肩を両手で支える。


「よく見ろ。これがお前がアストレーで為してきたことだ、デボラ」

「!」


 カインはどうかデボラの心に届きますようにと、祈りながら言葉を紡ぐ。

 自分という人間の存在価値に気づかず、常に否定的なデボラ。

 だけどこのアストレーで過ごした日々は決して無駄ではなかったのだと、今こそ彼女に伝えたい。


「お前がこのアストレーに来なければ、子供達の未来は暗く閉ざされたままだったろう。お前がいなければ、カバスの復興支援としての雇用も生まれず、女性の社会進出の足掛かりもできなかっただろう」


 デボラはそんなことはないと謙遜するが、全てはデボラがいたからこそ実現してきたことだ。カイン一人では時間がかかり到底成しえなかったことが、デボラのおかげで早期達成できたのだから。

 それにな……と、カインは自分でも信じられないほど、いつになく饒舌になる。


「お前がアストレーからいなくなったら、一体誰が元気をなくしたイルマやエヴァやレベッカを励ますんだ。一体誰が落ち込んだハロルドをやる気にさせるんだ。ケストランだって、まだまだお前に未知のレシピを教えてほしいそうだ。マリアンナは暮雪宮の改装をお前に頼みたいと言っている」

「………」

「ノアレも例のカビの研究について、助言が欲しいと言っていた。コーリキやジョシュアも、今度こそお前を危険な目に遭わせまいと剣の稽古に勤しんでいる。あのヴェインでさえ、お前のために筋肉体操の新メニューを嬉しそうに考えているんだ。それらを俺一人でどう捌けと言うんだ? 俺はごめんだ、そんなこと」

「――」


 そして心の中でカインは、大体お前がいなくなったら俺は……と、そっとつぶやく。その先にどんな言葉を続けたらいいか、具体的にはわからなかったけれど。


「デボラお姉ちゃん、もしかしてどこかに行っちゃうの?」

「……」

「やだ……そんなのやだよ! デボラお姉ちゃん、どこにも行かないで! リリはデボラお姉ちゃんが大好きだよ!!」

「ぼ、僕も!」

「あたしも!」

「バ、バカ女、てめーふざけんな! こんなにオレ達を振り回しといて、今さらどっかに逃げよーなんて許さねーからなっ! オレ達がこの学校を卒業するまで、ちゃんと責任取って見守れよ!」


 そして気づけば周りの人間はカインの言葉からデボラがアストレーから去ろうとしていることに気づいたようだ。子供達をはじめ、みんながみんな必死にデボラを引き留め始める。


「デボラ様、ずっとこのアストレーにいて下さいまし」

「そうですよ、デボラ様はこの学園の創立者、これからも子供達の成長を見守って下さい」

「大体どうしてデボラ様がアストレーからいなくなる必要があるんですか!?」


 周りの人間から温かい言葉をかけられ、とうとうデボラの瞳から大粒の涙が零れた。

 カインはそれを素直に美しいと思う。


「いい……のかな? こんな私でも、ずっとここに……アストレーのみんなと一緒にいていいのかな?」


 デボラはまたいつものように、思ったこと全部を口に出していた。

 カインはそんなデボラに、当たり前だろう……と答える。

 デボラの心が大きく動いたことを確信したカインは、ようやくホッと息をつく。


「う……」

「………」

「うっ。ううぅぅーー………っ、あっ、ああああーー!!」


 そしてデボラは泣いた。

 子供のように大声で泣いた。

 カインはそんなデボラの無垢で純真なところを、素直に可愛らしいと思う。

 こんなに手が焼けて面倒な女、普段の自分なら即敬遠しているはずなのに、今はなぜか積極的に関わりたいとさえ思う。


「ああ、泣け。今だけは存分に泣け、デボラ。おまえにはその資格がある」

「……っ!」


 その華奢な体を背後から引き寄せれば、デボラはすんなりとカインの腕の中に納まってくれた。

 デボラの号泣は、言い換えれば産声だ。

 デボラは本当の意味で今日、新しく生まれ変わった。

 記憶が戻っても猶、決して絶望せず、前に進むことも諦めず。

 デボラはデボラとして、このアストレーに留まることを自分自身に許した。

 それは自分自身を否定し続けてきた少女にとって、革新的な一歩となっただろう。


(よかった、これでデボラもアストレーから逃げ出そうとは思わなくなるだろう)

 

 カインはデボラを抱きしめつつ、ニヤリと口角を上げる。

 それは今までの優しさとは打って変わり、狙った獲物を逃がさない――そんな獰猛な捕獲者を彷彿とさせる、独善的な笑みでもあった。





          ×   ×   ×




 ――自分はなぜここまでデボラに執着しているのだろう?


 さすがのカインもデボラを強く引き留めた時点である程度自分の気持ちを自覚していた。

 以前、アイーシャにもデボラを愛しているのだろうと指摘されたことがあったが、しかしそれをわざわざ言葉に出すのは躊躇われた。

 なぜならカインは、今まで一人の女とちゃんと向き合ったことがない、文字通りの恋愛不適合者であったから。

 デボラの記憶が戻った後に自分達の関係がどう変化するのか、カインは不安を感じずにはいられなかった。


(むしろ今まで通り、勘違いで憎まれていたほうが気楽だったかもしれない……)


 カインがそんな頓珍漢なほうに考えを巡らせていると、デボラのほうからカインに接触してきた。

 昼下がりの温室の中。デボラは今までの言動を素直に謝罪してきたのだ。


「今日までお礼が遅れて申し訳ありません。あの日の約束を守ってくださり、本当にありがとうございました」

「……」


 粛々と頭を垂れるデボラは、己の愚行を心から反省しているようだ。

 けれどその愚行を楽しませてもらったカインとしては、謝られること自体に違和感を覚える。


「……なんか、違う」

「は? 違うと申しますと……」

「そう、それ」

「?」


 だが口下手なカインは、この感情を表現する術を知らない。だからデボラが「もっとわかりやすく仰って下さい」と言い出した時も、口より先に手が出てしまったのだ。


「デボラ」

「!」


 ぷんすかと怒っているデボラの手首を引き寄せて、強引に口づけすればデボラの動きはピタリと止まる。

 カインはデボラの反撃を予想した。

 けれどいつまで経ってもデボラはカインに抵抗せず、むしろ顔を真っ赤に染めて硬直したままだ。


「……デボラ」

「……はい」

「なぜ抵抗しない?」

「はい?」

「この前の時は、こうガリッと唇を強く噛まれた」

「………」

「抵抗されないと……なんか調子狂う……」

「……………………」


 だから不思議に思って素直に尋ねただけなのに、なぜかまたまたデボラに怒られる羽目になってしまった。


「最初から私の勘違いに気づいてたなら、そう言って下さればよかったんです! 私の家族を殺してなんかない! 自分を殺そうとするのはお門違いだって!!」

「いやー、でもなんかムキになってるデボラ、面白かったから……」

「面白かったんかーい!」


 スパーンと平手で突っ込まれ、カインは思わず笑ってしまった。

 そうそう、このノリ。

 こんな風にデボラと一緒にいるだけで、カインの心はなぜか喜びに沸き立つのだ。


「私、全てを思い出して本当に落ち込んだんです。恩人であるカイン様になんてことをしたんだろうって。ええ、それこそあと百万年くらいは、墓穴に入ったまま眠っていたかったんです。なのにカイン様が私の名前を呼ぶから……」

「名前?」

「夢の中で、カイン様の声を聞いて……帰りたくないと思う気持ちとは裏腹に、カイン様にもう一度会いたいと思っている自分がいて……。そう思ったら、寝てなんかいられなかった。もう一度あなたにお会いしたかった。ただそれだけで……」

「………」


 しかもデボラの口から飛び出したのは、カインが予想できなかったいじらしい言葉。

 この時、カインは自分の理性の糸がぷつんと切れるのを自覚した。

 デボラはカインに背を向けているが、その両耳までもが真っ赤になっている。


 ――もしかしてこれは……もしかするんだろうか?


 恋愛事に鈍いカインも、さすがにデボラから自分へと向けられる気持ちが敵意ではなく好意なのではないかと察することができた。

 今まで自分を憎んでいたはずの少女が、一転して自分を慕ってくれている。

 そう分かった時の破壊力は、天地を揺るがすほどのものである。


「……デボラ」

「お願い、今話しかけないで。カイン様に話しかけられると、私はおかしくなってしまうんです」

「………」


 そう言われれば言われるほど、カインの胸の鼓動は早さを増した。

 デボラに触れたい。

 もっと近づきたい。

 そう願ってしまうのは、男としての性なのか。


「そうだな、確かにおかしい……な」

「………」

「お前と一緒にいると、俺もおかしくなる」

「――え?」

「ならば一緒におかしくなるか、デボラ」

「え?」

「おかしくなればいい」

「!」


 だからこの時、カインは己の欲望に忠実に動いた。

 再びデボラを強く抱きしめると、今度こそ容赦なくその唇を奪う。

 あ、とデボラが驚きの声を漏らした途端、肉食獣の荒々しさでぽってりとした唇を食んだ。まるで砂漠の放浪者が水を求めるような激しい口づけに、デボラの息はすぐに上がる。けれど到底手加減するつもりにはなれなくて、カインはさらに強くデボラを抱きしめた。


(よし、今日こそこのままデボラを寝室に連れ込もう。後のことは何とでもなる……)


 デボラの体のラインをゆっくりとなぞりながら、カインはそんな不埒なことを考えていた。

 恋は盲目。一気に視界が狭まり、想い人のことしか見えなくなる。

 そんな甘い陶酔感に、カインは生まれて初めて溺れていたのだ。


 震えながらいやいやと苦しそうに首を振るデボラの仕草も、今はカインを煽る媚態にしか見えない。

 頭の中が、一気に薔薇色に染まった気分だった。全ての血液が赤い色をたぎらせて急流になり、その血を押し出す心臓は、どくどくと激しく脈打っていた。




「カイン様、大変です! 王都より火急の知らせが!! 


………………………あ」




 だからヴェインが突然温室に乱入してきた時、カインは本気の殺意を覚えた。

 これからがいい所だったのに……という欲望と、いや、やはりこのまま突き進まなくて正解だという理性がこれでもかというほどに激しくせめぎ合う。そして最終的に勝ったのは、やはり理性のほうだった。


「も、申し訳ありません! 吾輩、出直して参ります!」

「……いい。お前が場も弁えず駆け込んでくるということは、よっぽど重要な知らせだろう。見せろ」

「はっ」


 さらにヴェインが届けに来た書簡が、カインを再び正気に立ち戻す。

 デボラを再びベンチに座らせ、カインは王家からの書簡を開いた。そこには見慣れたルイの文字はなく、彼の妹姫の切実な願いが綴られていた。





『拝啓、アストレー公爵殿。

 あなたを兄上の親友と見込んで、急ぎ手紙をしたためています。


 もしも可能ならば、できるだけ早く王都へ戻って来てはいただけませんでしょうか?

 先日、クロヴィスお兄様が王都郊外の御用邸でお過ごしの際、食事に毒を盛られる事案が発生しました。

 お兄様は新婚のアストレー公爵にわざわざ知らせるほどの事ではないと仰っていましたが、先日別の狩猟会でも兄上は落馬事故に遭われています。

 これが全て偶然とは、私にはとても思えません。


 また我が父・ゴンウォール王も突然体調を崩し、ここ数カ月政務が滞りがちです。

 すっかり気弱になった王は、いよいよ退位を考え始めたようにも見受けられます。

 もしも退位が現実味を帯びたとしたなら、水面下で繰り広げられる王位争奪戦もより激しさを増すでしょう。

 

 どうかアストレー公爵には、クロヴィスお兄様の力になって頂きたいのです。

 王都への帰還をご検討下さいますよう、心よりお願い申し上げます。

 

 

           ラヴィリナ=ディ=ヴァルバンダ』



 ラヴィリナ王女からの連絡に、カインは思わず眉間の皺を深めた。


 ――ルイの奴め。また一人で無茶しているんじゃないだろうな。


 ある程度予想していたこととはいえ、王都の情勢はめまぐるしく変化しているようだ。そして王位第一継承権を持つクロヴィスの命は、明らかに何者かに狙われている。


「王都でルイ……クロヴィス殿下の暗殺未遂事件が発生した。ヴェイン、急ぎ王都に戻るぞ」


 だからこそカインはすぐに王都への帰還を決めた。

 それは友であるクロヴィスを支援するためであり、延いてはこの国・ヴァルバンダのためでもある。


 だが全ての混沌の先に待つのが『アストレー公爵の死』であるという事実を――この時のカインは、まだ知らずにいた。








カイン編はこれにて終わりです。

次回からまたデボラ視点に戻ります!

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