52 カインという男9
「それでどうしてあの流れで口づけなさったんですか?」
「……………」
デボラが突然倒れた日の翌日、カインはまさに断頭台の上に立っていた。
不定期に行われるデボラに関しての報告会の場で、イルマの口から飛び出したのは、そんなあられもない質問。
ハロルドやマリアンナは、カインがデボラに口づけしたと聞いて「まぁまぁまぁまぁっ」と色めき立ち、ノアレはカインをからかう気満々でニヤニヤしている。
口元に両手を添え真っ赤になっているのは乙女なヴェインくらいなもので、カインは今すぐ逃げ出したい衝動に駆られた。
「………見てたのか」
「見えたんです。デボラ様を案じて隣の部屋に控えていたら、何やらお二人が口論なさっているようなので様子を見に」
「………」
「そうしたらカイン様がデボラ様を組み敷いて、乱暴なさっているじゃありませんか。もしあのまま無理やりな展開になっていたら、私ホウキを手に殴りこむところでした」
「……何だ、その俺の信用のなさは」
と言いつつも、カインは「あの時、踏みとどまっておいて本当に良かった」と思う。
デボラの色香に惑わされ完全に狼化していたら、イルマにボコボコにされるという悲惨な結末が待っていたのだ。一応この屋敷の主として、最低限の威厳だけは保っておきたい。
「あれはそういう色っぽいものではない。デボラの怒りを煽るためにやったことだ」
「デボラ様の怒り?」
「今のデボラにとって、記憶を取り戻すことは決してプラスにはならない」
カインは仏頂面のまま、自分の考えを述べる。
もしも今の状態でデボラが記憶を取り戻したなら、子爵家にいる頃の気弱なデボラに戻ってしまうだろうこと。
そうならないために、わざと彼女の復讐心を煽ったこと。
するとノアレが軽く肩をすくめ、苦笑いを浮かべた。
「やれやれ、いつも思いますが、カイン様は外見に似合わず相当なお人好しですねぇ。デボラ様のためとはいえ、やってもいない犯罪の犯人役を演じるとは」
「ほっとけ。それより専門家としてのおまえの意見はどうだ?」
「うーん……」
ノアレは眉間に皺を寄せながら、ついっと眼鏡のブリッジを中指で押し上げる。
「確かにカイン様の言うとおり、心の傷を克服しないまま記憶を取り戻しても意味はないかもしれません」
「だろう」
「ま、だからと言って、無理やり女性に口づけしていい理由にはなりませんけど」
「――」
――だからそのツッコミはもういい。
カインは唇を真一文字に引き結び、貝のように口を固く閉ざした。
「ですが私はカイン様の行動を支持します。私はデボラ様に、新たな核が必要だと考えています」
「新たな核?」
頭の回転が速いノアレは、素早くカインの意図を察して代弁する。
「そうです、例えばイルマ、あなたにヴェインがいたように。アイーシャにはお針子という転職があったように。ラウラ様には迎えに来てくれた幼馴染がいたように。人は生きるために心の核が必要となるのです。言い換えれば生き甲斐……みたいなものでしょうか。それが今のデボラ様にはありません」
「生き甲斐……ですか」
イルマやハロルド達は交互に視線を交わし、軽く首をひねっていた。
だがすぐにノアレの言葉の意味を咀嚼し、全員一致で頷く。
「畏まりました。つまりデボラ様が記憶を取り戻しても猶デボラ様であり続けられるよう、時が熟すのを待て、ということでございますわね?」
マリアンナの確認に、カインは沈黙をもって答える。
「カイン様のわざと恨みを買う……という方法は決して褒められたものじゃありませんが、デボラ様に対して効果があったことは事実です。実際今朝のデボラ様はいつもの強気なデボラ様に戻ってらっしゃいましたわ。カイン様に復讐する気満々のようです」
「……」
自分が仕向けたことなのに、デボラがやる気になっていると聞いて、カインは「そうか……」と軽く凹んだ。
「では私達は全力でデボラ様の学校作りをお手伝い致しましょう。デボラ様は何かと自分を卑下する傾向にありますが、自分の手で学校を作り上げ人の役に立てば、それが新たな自信に繋がるのではないかと思うのです」
ハロルドも心得たもので、カインが指示を出さなくとも何をすべきか悟っていた。
カインはただ一言、
「……皆、よろしく頼む」
と、言うだけでいい。
こうしてデボラの学校作りは、カインと、その部下達の手によって強力にサポートされることになった。
ただしカインとて決して仕事に手は抜かない。
自分に厳しく、また他人にも厳しい。それがカインの信条だからである。
「却下」
「却下」
「却下」
次の日からデボラが持ってきた事業計画書を、カインは容赦なく処断していった。
デボラの努力自体は認めてやらないこともないが、仕事に妥協は許されない。
デボラが素人だろうとそんなことは関係ない。
自分を納得させるだけの計画書を作ってこなければ、アストレー学園の立ち上げを許可することはできなかった。
デボラに『却下大魔王』という不本意なあだ名をつけられてもカインの信念は揺るがず、デボラに「却下」と申し渡すのが毎日の日課となった。
だが捨てる神あれば、拾う神あり。
ここ数カ月ですっかりデボラに絆されたデボビッチ家の面々は、頼まれてもいないのに我先にとデボラに協力を申し出た。
デボラが西に走ればみな西へ。東へ走ればみな東へ。
まるでよく躾けられた犬のように、怪しい商人さえデボラのために惜しみなく尽力した。
極めつけは、マリアンナが放った刺客である。デボラの事業計画書が20稿に差し掛かった頃、カインの弱点を容赦なく突いてきた。
カバスの視察から戻ると、なぜかデボビッチ家の玄関ホールでアイーシャと鉢合わせしたのである。
「ご無沙汰しております、カイン様。この度は私にまで声をかけて下さりありがとうございます」
「……」
カインはなんだかんだと言いながら、元妻達には弱い。
もしも元妻が困窮しているのならば迷わず手を差し伸べるくらいには、その存在を気にかけている。
聞けばアイーシャはマリアンナの推薦で、アストレー学園の制服製作に携わることになったようだ。
「……卑怯だぞ、マリアンナ」
カインが恨みがましく睨みつけると、マリアンナはしてやったりという風に微笑む。
「卑怯で結構。使えるものは何でも使うのがメイドの極意ですわ。まさかかつての妻の仕事を邪魔するほど、カイン様は狭量ではございませんわよね?」
「……」
「デボラ様が考案なさったアストレー学園の制服は、きっと各地で話題になるでしょう。そうすればメルツァー裁縫店も大儲け。デボラ様も幸せ。アイーシャも幸せ。アストレーの子供達も幸せ。みんなが幸せになれて、万々歳ではございませんか」
「……わかった。お前の狙いは、よぉく分かった」
マリアンナの策略に屈したカインは、潔く白旗を上げた。
マリアンナ曰く、そろそろ素直にデボラの努力を認めてやれと言うことなのだろう。
実際カイン自身、ムキになるデボラを見ているのが面白くて、わざと答えを焦らしていたというのもある。
ここ数週間、学園を立ち上げるために毎日忙しく駆けずり回っていたデボラ。
その必死な顔を思い浮かべて、カインは無意識に頬を緩ませた。
「カイン様、やはり少しお変わりになられましたね」
そんなカインの柔らかな変化に、アイーシャが気づかないはずはない。
アイーシャは少し寂しそうな、だけど納得したような笑顔をカインに返す。
「先ほどデボラ様にお会いしましたが、とても魅力的な奥様ですね。カイン様が愛されるのもわかりますわ」
「――」
――愛する?
アイーシャの口から自然と零れた言葉は、まるで打鐘のようにカインの脳を大きく揺らした。
最初はその意味を理解できず、こめかみに深い縦皺三本を浮かべてしまう。
頭の上に大量の疑問符を浮かべるカインを見て、アイーシャはクスクスと苦笑した。
「あら、ご自覚がなかったんですか。カイン様は、デボラ様を愛していらっしゃるんですよ」
「……」
「でなければ、これほどデボラ様という女性に執着なさるはずがございません。ようやくカイン様のお心を捕らえる方が現れて、私も安心致しました」
「………」
――いや、別にそういうんじゃないんだが。
カインはがっちりと両腕を組み、拗らせキャラの本領をここぞとばかりに発揮する。アイーシャの指摘に同意することもなく、ただひたすら口を閉ざし、悶々と自分の思考に没頭し始めた。
自分は愛している……のだろうか? デボラを。
突然アイーシャによって突き付けられた現実は、カインを軽く混乱させた。
愛するということなら、カインは今まで付き合ってきた女達もちゃんと愛してきたつもりだ。
だが女達に言わせると、それは本当の愛……ではないらしい。
体を重ねても心が重ならなければ意味がない。
そして肝心のカインには心を寄せ合う意思がない。
今までに散々女達から指摘され、非難されてきたことだ。
ならばデボラはどうか。
好ましい少女だと、そこまではカインも素直に認める。
彼女は強気で高飛車かと思いきや、不意に謙虚な態度を取ったり弱気な姿勢を見せたりする。迂闊で目を離せない幼気な行動をとることもあれば、こうと決めたら梃子でも動かず、周りを巻き込みながら邁進するという特性がある。
デボラのそんな曖昧で、矛盾するところを、カインは率直に面白いと思うし、いつまでも見てみたいと思う。
デボラはカインの庇護欲を掻き立て、だがある時にはカインの嗜虐心を刺激する。
憎しみという負の感情さえ、時にはまっすぐすぎて眩しい。
これが己にはない強さだ、と。
一種の尊敬の念を抱くほどには、デボラに興味を惹かれているのは事実だった。
(でもそれが愛なのかと問われれば、俺にはよくわからない。まぁ、一度くらいは抱いてみたいとは思うが……)
コキコキと首を鳴らすカインは、自分の中で複雑に絡み合う感情の正体を分析しきれずにいた。
明確なのは男としての即物的な欲望だけで、それ以外は視界を遮るような靄がかかっている。
――だがその靄が一気に晴れる事件が、その後勃発する。
フィオナの兄・マルクによってデボラが攫われた時、カインは生まれて初めて喪失の恐怖を感じることとなったのだった。




