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50 カインという男7



「カイン様!」


 脚立から足を踏み外し、空中に放り出された瞬間、自分を殺したいと望んでいるはずの少女はためらいなく両手を前に差し出した。

 顔面蒼白になりながら自分が巻き込まれる可能性さえ考えないまま、反射的に仇を助けようとするデボラという少女。

 その矛盾がおかしくて、カインはまた胸の奥がくすぐられるような感覚に囚われるのだった。











「カイン様、本当に大丈夫なのですか?」


 腰を抜かしたデボラを彼女の部屋まで送り届けた後、カインはヴェインと共に執務室に戻った。

 ヴェインはデボラから譲ってもらった本を小脇に抱きながら、顰め面をしている。

 カインが脚立から落ちたことを気にしているのだろう。確かにあれはデボラの策略ではあったけれど、カインにしてみれば可愛らしい悪戯程度のものだった。


「大丈夫だ。デボラの殺気は見え見えだった。それに結局俺を助けようと、こっちに向かって手を伸ばしていたからな」

「はぁ、それはまたなんとお人好しな……」


 ヴェインはカインの報告を聞き、暫し考え込んだ。今までカインの身を守ってきたヴェインからすれば、カインの命を狙うデボラは最も警戒すべき人物だ。しかしその行動からは元来の人の好さが透けて見える。


 何よりデボラと関わることで、主人であるカインに大きな変化が起こったように思えるのだ。デボラがこの屋敷に来てからまだ二日目であるが、カインがこれほど柔らかい表情をするのを、ヴェインは今まで見たことがない。

 あの令嬢の一体どこにそんな魅力があるのだろうと、ヴェインは不思議に思う。

 故にカインの言いつけ通り、デボラをわざと泳がす作戦に路線変更するのだった。








 ――いや、実際はカインやヴェインだけでなく。

 デボラという少女は、ゆっくりと、だが確実にデボビッチ家に変化の波をもたらした。

 カインが放置していた一週間ほどはそれなりに大人しくしていたようだが、カインの留守中になんとあのニール=ゼンと一戦交えたようだ。


「本当にデボラ様は面白い方です。ニール様をチョビ髭と呼んで、あの傲岸不遜な態度の前でも一歩も退かないんですもの」


 その時のことを、イルマは楽しそうにカインに報告した。

 そもそもカインと同じく表情に乏しいイルマが、こんな風に明るく笑うこと自体が珍しい。

 イルマ曰く、デボラの命令でニールを追い払うために玄関前で塩撒きをしたのだと言う。それはデボラから教わった東方のおまじないということだった。


「全くあの男め、性懲りもなく……。吾輩がいれば無言で追い返してやったものを」


 妻にちょっかいを出されたヴェインは不機嫌だったが、イルマの「デボラ様が私を守って下さったのよ」という言葉で怒りは若干おさまったようだ。

 ちなみにニールはイルマが既婚者だということを知らない。イルマの事情が事情なだけに、二人の婚姻は関係者のみが知るところなのだ。


 そして他に何か気がついたことはあるかとカインが尋ねると、イルマは少し沈んだ顔でこう言った。


「デボラ様自身はこのデボビッチ家でお健やかに過ごされています。ですがやはり、子爵家で受けていた虐待の痕跡がちらほら見受けられます。例えば手……」

「手?」

「デボラ様ご自身は意識しておられませんが、大層荒れておいでです。おそらく使用人同然の扱いを受けていたからでございましょう。元々華奢なはずの手は爪がひび割れ、皮膚の一部が硬くなっておりました。しっかり手入れさせて頂きましたが、あれは若い女性の手ではございません」

「……」


 イルマはキュッと唇を引き結ぶと「だからこそ当家にいる間はきっちりお世話させて頂きます」と、メイドとして100点の答えを出した。

 カインと離縁してより約二年、イルマはこのデボビッチ家には欠かせない優秀なメイドとして成長していたのである。

 

「ああ、よろしく頼む。イルマになら安心して任せることができる」

「はい、私も楽しゅうございます。デボラ様にはなんだかワクワクさせられるんですよねぇ」


 イルマは微笑みながらも、ちらちらと意味ありげにカインを横目で見た。その視線には「それになんだか今回はカイン様も、珍しくデボラ様にご興味があるようで」というからかいの意味も含まれていた。

 すっかりイルマに心を見透かされ、カインは憮然と黙り込む。

 そんなことはない。

 デボラのキャラが今までの妻達より多少立っているが故に、ちょっとちょっかいを出したくなるだけだ。

 そのちょっとが実は大きな変化なのだと、やはりカインは気づいていなかった。 









 次にデボラと遭遇したのは、グレイスを栽培している温室の中だった。

 デボラから温室の見学許可を求められた時から、彼女の意図は見え見えだった。おそらくカインを毒殺するための毒を手に入れたいのだろう。

 ノアレにどうしますかと尋ねられ、「構わないから見学させてやれ」と返すと、ノアレは「じゃうデボラ様にはとっておきの毒草をいくつかご紹介して差し上げましょう♪」とデボラに会う前からノリノリだった。

 この男、相変わらず性格悪いな……と、カインはひとりごちる。

 そしてデボラとノアレの初対面の場はどんなものなのかと、こっそり見に行くことにした。


「ねぇ、ノアレ、ここで菌糸類や土壌の研究はやってないの?」

「菌糸類……ですか?」

「平たく言うとカビね、カビ。グレイスの大量栽培が難しくても、カビならすぐに大量培養できるでしょう?」

「……」


 温室ではなぜかデボラとノアレがカビの話で盛り上がっていた。

 「デボラ様はたまに奇抜な事を仰います」とハロルドから報告を受けていたが、なるほど、確かに薬草の代わりにカビを使おうなどという発想は、普通出てこない。イルマから聞いた人払いの塩撒きと言い、デボラの知識の源は一体どこにあるのだろうかと、不思議に思った。


「カビの研究。――いいんじゃないか?」


 だから黙って盗み見ているだけのつもりが、ついつい横から口を出してしまった。

 カインが現れるなり、デボラの表情がまたまた仏頂面に切り替わる。

 あまりにわかりやすすぎるその変化に、カインは笑いを噛み殺した。


「デボラ」

「は、はいぃ!」


 そしてすぐ立ち去るはずの予定を変更して、カインはデボラに手招きをする。


「ん」

「は?」

「こっちこっち」

「そっち、とは?」

「ここ」

「?」

「ここ、硬くて眠れない」

「はい、だから?」

「膝貸して」

「っっっっっっっっ!?」


 膝枕を要求すると、デボラの顔は朱を散らしたようにぱっと赤く染まった。

 背後ではノアレが「純粋な少女をからかうなんて悪趣味な……」と、小声でぼやいている。


「申し訳ありません、デボラ様。カイン様は一度こうと言い出したら聞かないのです」

「いいのよ、ヴェイン。夫の要求に従うのは妻の役目。こんなこと何でもないわ、ホホ。ホホホホ……」


 なんだかんだと言いながら、デボラは笑顔を引き攣らせながらカインに膝枕してくれた。

 むっつりスケベのカインは下からデボラの顔を覗き込んで、思う。

 これはなかなかいい眺めだ。豊満なデボラの胸のラインが、この位置からだとよくわかる。後頭部に感じる太ももの柔らかさもちょうどよく、香水もつけていないはずなのにデボラの体からは甘い香りがした。


「カイン様、私などよりもノアレに膝枕して頂いては? どうぞ遠慮なさらずに」


 当のデボラは内心膝枕を嫌がって、代わりにノアレを推薦してくるが、なぜわざわざヤローに膝枕などしてもらわなければならないのか。

 カインはプイッと視線を逸らし、膝枕の交代を断固拒否する。


「はぁ、なんで私がこんな目に……」


 ノアレとヴェインが出ていき、温室で二人きりになった後。デボラは深いため息をつきながら、小声でぼやいた。

 それを耳にしたカインは「そんなに嫌がらなくても……」とちょっと自尊心が傷つく。


観自在(かんじーざい)菩薩(ぼーさつ) 行深般若(ぎょーじんはんにゃ)波羅蜜多時(はらみーたーじ) 色即是空(しきそくぜーくう) 空即是色(くうそくぜーしき)……」


 さらにデボラは目を閉じつつ、謎の呪文を口し出した。それを聞くのが二回目のカインは、思わずデボラの頬に手を伸ばす。


「顔、赤いぞ。熱でもあるのか」

「ご、ございませんっ!」

「それにまた、なんか訳のわからない呪文唱えてた。シキソクゼークー……?」

「………あら、やだ」


 デボラは自分の口を手で押さえて、困ったように眉尻を下げた。

 思考していたことを無意識に発声してしまうのは、私の悪い癖……と、これまた考えていたことを無意識に言葉に出してしまう。


()()?」

「ん?」

「私以前、公爵の前でお経を唱えたことありましたっけ?」


 そして会話の流れで、カインはデボラに初めて会った時のエピソードを語ることになった。しかし案の定、デボラはカインとの出会いを何一つ覚えていなかった。


「わかりました。私が覚えていないということは、つまりカイン様がどこかで私を盗み見見て、勝手に見染めた……と言うことでございますわね? ええ、でなければ説明がつきませんわ。私のほうはカイン様とお会いした記憶が一切ないんでございますもの」

「………」


 デボラの中では、カインがデボラを一方的に気に入り、強引に求婚したことになっていた。

 そういうのとはちょっと違うんだが……と思いながらも、詳しく説明することもできないので、カインは反論自体を放棄する。


 さらにデボラにグレイスを見たことがあるかと質問すると、全く見覚えがないという答えが返ってきた。

 ということはやはり、彼女は叔父のイクセルが行っていた一連の犯罪には関与していないのだろう。

 不自然な質問を繰り返してデボラの記憶が元に戻ってしまうより、いっそ全てを忘れたままのほうが、彼女にとっては幸せかもしれない。

 そう考えたカインは、慌てて口を噤んだ。


「カイン様?」

「……」

「あの、えーと、寝てしまいましたの?」

「……」


 以降、カインはデボラに話しかけられても寝たふりを通し、その柔らかい膝に頭を預け続けた。


 デボラの記憶がこのまま一生戻らなければ、カインは家族の仇として一生憎まれ続けることになるだろう。

 それは裏返せば、カインはこの先絶対に彼女に愛されないということをも意味する。


(そのほうがいい……のかもしれない。デボラの心の傷が癒えれば、いつか復讐自体が無意味なことだと悟り、俺の前から去っていくだろう。今までの妻と同じように、自らの力で幸せを見つけて……)


 そこまで考えた時、カインの胸に鈍い痛みが走った。

 これまでのカインは女達の幸せを願い、躊躇いなく彼女達との別れを受容してきた。

 だがデボラもまたいつか自分の許から去っていく女なのだと思うと、なぜか大量の砂を飲み込んでしまったかのような不快感を覚える。


 哀れなデボラの幸せを願い。

 だがその一方で、いつまでも自分を憎み続けていてほしいとも願う。


 そんな大きな矛盾が、カインの中に生まれていた。






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