39 デボラ、敵前逃亡す
私が瑞花宮を退院して、自室に戻ったのは、目覚めてからさらに一週間後のことだった。
幸い私のグレイス・コピー急性中毒は、初めてだったこともあり後遺症もなかった。ノアレも「ここまで回復すれば、もう大丈夫でしょう」と太鼓判を押してくれたほどだ。
私が帰るなり、エヴァやレベッカが、瞳を潤ませながら私を出迎えた。
「おかえりなさいませ、デボラ様!」
「具合はもうよろしいだか? 少しでも苦しいことがあったら、おら達に何でもお申しつけくだせぇ!」
「ええ、ありがとう。でも本当に大丈夫よ」
私は頷きながら、エヴァやレベッカ達に笑顔を返す。
だけど心の中は、まだ戸惑っている。
私はこんなに慕われるほどの人間じゃない。むしろメイドのエヴァやレベッカよりも格下の人間なのに……。
「………」
「イルマさん?」
「どうしただか?」
そんな中、イルマだけは特別高揚するわけでもなく、冷静に私のことを見つめていた。その視線が何だか居心地が悪くて、私は身を固くする。
「おかえりなさいませ、デボラ様」
「は、はい……」
「ではお茶の用意でも致しましょう」
「………」
ありがとう、と口にするものの以前とは違い、どうしても私の態度はぎこちないものになってしまう。
強気で、高飛車で、復讐に燃えていたデボラ=デボビッチという幻は、消えてしまったから。
「デ、デボラ様、食器の後片付けなんかしなくてもいいですだ!」
「そうです、それは私達の仕事ですよ!」
「あ、でも申し訳ないから……」
その後も、ティーカップを片付けようとしたら、エヴァやレベッカに諫められた。
でもマーティソン家で使用人同然の暮らしをしていた私は、ついつい体が勝手に動いてしまう。素の私は周りに傅かれることに、慣れていないのだ。
「あの、みんなの仕事を邪魔してごめんなさい……」
「いや、責めたわけじゃないですだ……」
「デボラ様、一体どうしちゃったんですか? もしかしてまだ体が本調子じゃないんじゃ……」
「……」
そのせいで、またまたエヴァ達には心配をかけてしまった。
けれど身に染み込んだ劣等感は、すぐに消え去るものじゃない。
胸が、苦しかった。
あなた達が慕っていたデボラ=デボビッチはもうどこにもいない。
ここいるのはその抜け殻――何の役にも立たないつまらない女だと。
そう告白する勇気もなく、私は一人項垂れる。
唯一の救いは、目覚めたあの時以来、公爵と会わずに済んでいることだ。
なんでもマルクを逮捕して以来、芋づる式にグレイス・コピーの密輸業者が次々と摘発されているらしい。
ハロルド曰く、領主の公爵はしばらく忙しくて身動きが取れない。だからしばらく私のことはまた放置になってしまうが、どうかご容赦ください、と。
むしろ公爵と顔を合わさずに済んで、私はホッとしている。
本当なら謝罪と、それと約束を守って私を救い出してくれたことに関してお礼を言わなければならないけど、今さら公爵と顔を合わせるのは気まずすぎる。
なによりとんだ勘違いで公爵の命を狙い続けてきたことについては、厳重に罰せられても文句は言えない。
でも多分、公爵はそんなことはしないだろう。
というか、元々公爵は私が命を狙っていたことに気づいていたっぽい節がある。
気づいていて、私のやることなすことスルーしてた。
うん、さすがと言うしかない。ぐうの音も出ないとはこのことだ。
(くっそう、私ってばとんだピエロじゃないの。まさにお釈迦の掌で踊らされてた孫悟空みたいなもんよ。ああ。恥ずかしい……)
そしてそんな私が今できることと言えば――あれしかない。
私はとうとう覚悟を決め、目覚めた直後から考えていたある計画を実行することにしたのだった。
「さぁ、今日は久しぶりに鍋パーティーを開くわよ! みんなに心配をかけてしまったせめてものお礼!」
翌日、私はかつての強気なデボラを演じながら、デボビッチ家総出による鍋パーティーを開催した。いつものようにチェン・ツェイから必要な食材を買い、ホールにみんなを集めて、いくつもの鍋を並べる。
「デボラ様がお元気になられて本当に良かった。今日は私も腕を振るいますよ!」
「わー、このチーズ・フォンデュとか言う鍋、すごく斬新で美味しい! デボラ様は本当に物知りですね!」
「お、おらはこっちのチョコ・フォンデュに感動しただ! 孤児院のみんなにも食べさせてやりてぇ……」
「ええ、いつか食べさせてあげてちょうだい!」
様々な鍋を並べたパーティーは、大好評だった。
屋敷の留守番を任されているハロルドも、おでんをホフホフと嬉しそうに頬張っている。
「それにしても残念です。これほど美味しい鍋ならば、外出中のカイン様やヴェイン、コーリキ達にも食べさせてあげたかったですなぁ」
「そ、そうね。それはまた今度の機会にでも。ホホホホ……」
心の中で、「そんな日は来ないけどね……」と私は一人自嘲する。
だってこれは、私なりのみんなとのお別れパーティーなのだ。
もちろんそんなことは一言も言わない。言ったらみんなを悲しませるだけだとわかっているから。
私はパーティーが開かれている間、ずっとにこにこと笑っていた。そして嬉しそうなみんなの笑顔も、記憶にしっかりと焼き付ける。
エヴァ、レベッカ、ハロルド、ケストラン、マリアンナ……そしてイルマ。
今までこんな私に仕えてくれてありがとう。
ひどい後ろめたさを感じながらも、私からみんなに向けた感謝の気持ちだけは本物だった。
× × ×
「さて、これで良し……と」
深夜。屋敷の誰もが寝静まった頃。
私はこの屋敷に初めてやってきたと同じ、質素なワンピースに身を包んでいた。
手に持っているのは、こじんまりとしたトランクバスケット一つだけ。私の所有物だと言えるのは、元々これっぽっちしかない。
この屋敷で与えられた美しいドレスも宝石も全部置いていく。なぜならこれから私は、身一つで生きていかねばならないのだから。
元々公爵とは形だけの夫婦だった。だから正式な妻でもなんでもない私は、例え塵一つでもデボビッチ家から持ち出すわけにはいかなかった。
「アストレーにやってきて約三カ月……か。その短い間に、いろんなことがあったわね……」
私はランプ一つだけが灯る薄暗い室内を、ぐるりと見渡す。
改めて見ると、やはりここは私には身に余るほど贅沢な部屋だった。みんなには分不相応な接待をさせてしまって申し訳なく思う。
でもそれも今日で終わりだ。
デボビッチ家に相応しくない偽物の正妻である私は、今日限りここから姿を消すのだ。
(……そう、卑怯と言われても構わない。私は逃げる。敵前逃亡するわ! これ以上公爵やみんなの厚意に甘えるわけにはいかないの! だって私はそこまでの価値のある人間じゃないんだもの!)
私は握り拳を作り、自分に気合を入れた。
ともすれば後ろ髪を引かれて、ここから動き出せそうにない自分がいる。けれど今まで自分が犯してきた間違いを一つ一つ思い出しながら、私は錘のように重い足を持ち上げて、何とか部屋を出た。
すでに慣れ親しんだデボビッチ家の邸宅。あっという間に、裏口から裏門へと出ることができた。
(ふぅ、ここまでくればもう大丈夫ね。誰にも気づかれなくてよかった……)
私は裏門近くの茂みの中にしゃがみながら、一息つく。
今は午前2時ちょっと過ぎ。裏門には当然衛兵が立っているが、実はこのちょっと先の壁際に、大きな木が生えている。その木に上れば、衛兵にも見つからないで塀を超えることが可能なのだ。
「ん、しょ……んしょ……っ」
そして深夜に木登りする奇っ怪な女が一人。デボビッチ家の庭の片隅で、必死に逃亡を試みていた。
けれど雪が積もっているせいか、足元がつるつるして覚束ない。枝にも雪がかかっていて、素手で握ると手がかじかむ。
私は仕方なく一度幹から降りて、はぁと真っ赤な手に息を吹きかけた。
「うぐっ……冷たい……手袋持ってくればよかったなぁ……」
「まぁ、私のでよかったらお貸ししますよ?」
「あら、ありがとう、助かるわ」
ポンと横から手袋を手渡され、私は笑顔で受け取った。
……ん? あれ?
なんで私以外の声がするのかな?
刹那、ダラダラと冷や汗が流れる。
まるで壊れたブリキのおもちゃのように、首がギギギと嫌な音を立てた。
気づけばいつの間にか私の背後にはランプを持ったイルマが立ち、アルカイックスマイルを浮かべていた。
私の体は――完全に硬直する。
「デボラ様、こんな深夜にどちらにお出かけで?」
「……」
ぎゃあぁぁぁーーーっ!
イルマってば千里眼ーーーー!!
私はとっさに逃げようと踵を返した。
けど、
――がしっ。
「一体、ど・こ・に・お・行・き・に・な・る・お・つ・も・り・で?」
「……」
めっちゃ強い力で肩を掴まれ、その指が私の肩に食い込んだ。
うわっ、痛い痛いイルマ!
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!
私はマジ泣きした。
というか、今晩のイルマは怖すぎる。
どうしてここまで静かに怒るイルマに逆らえようか。
いや、逆らえるはずがない。
こうしてこの後、リアルムンクになった私は、イルマにある場所に強制連行されることになったのだった。
「申し訳ありませんが、こちらの部屋のほうが落ち着いて話ができると思いますので。今温かいお茶をお淹れしますね」
「ご、ごめんなさい……」
その後、私はほとんど力ずくでイルマに暮雪宮に連れていかれた。
案内されたのは暮雪宮の中でも、離れに当たる場所だ。なんでもここは夫婦であるヴェインとイルマのために用意された、夫婦用の寮らしい。
ちなみに今夜ヴェインは公爵の護衛についていて留守にしている。
そしてここに住んでいるのは、イルマ達夫婦だけではなかった。
「ワンワンッ」
「フシャーーーッ!」
「うわっ!」
「こら、ミルクにリボン、デボラ様に失礼をしてはだめよ」
イルマ達の部屋には三匹の犬と二匹の猫が飼われていた。
あいにくと私はにゃんこちゃん達には思いっきり警戒されて、毛を逆立てられたけど。
「申し訳ありません、冬の間はこの子達は室内飼いしているのです」
「問題ないわ。外で病気に罹る可能性を考えれば、むしろ室内飼いのほうがいいわよね。えーと、ミルクちゃんにリボンちゃん?」
私が頭を撫でると、ミルクという名の白い犬は、ぶんぶんと尻尾を振って甘えてきた。
うーん、もふもふ最高! こんなかわいい子達を飼ってるなら、もっと早く教えてくれればよかったのにぃ!
「可愛いわね。この子達はイルマが拾ってきたの?」
「いいえ、拾ってきたのは主にヴェイン殿です。ちなみにこの子達の名前を付けたのもヴェイン殿です」
――ブフォォォォッ!!
私は思わず茶を噴いた。
いや、これは爆笑するしかないでしょ。
ミ、ミルクちゃんにリボンちゃん? さらに聞いたところによると他の子の名前も、マロンちゃん、キャンディちゃんと、まさに女の子が付けそうな名前のオンパレードだ。
それが全部ヴェインのセンスだというのだから、笑わずにいろと言うのが無理な話だ。
「……デボラ様」
「わ、笑ってない。笑ってないわよ。ただちょっと、ヴェインにしては意外だなーって……ぶふぉっ!」
イルマに睨まれても私は笑いを堪えきれず、椅子に座りながらお腹を抱えた。するとイルマの眼差しがふんわりと柔らかくなる。
「よかった。少しはいつもの調子が戻ってきたようですね」
「あ……」
指摘され、私は再びしゅんとした私に戻った。
まずいまずい。ヴェインの意外性にやられて、つい緊張感がなくなってしまってたわ。
私はマグカップを机に置き、改めてイルマと向き直る。
「えーと、イルマはどうして私がこの屋敷を出ていくつもりだとわかったの?」
「そうですね。デボラ様の気持ちが、痛いほどわかるからでしょうか」
「え?」
驚く私の膝に、イルマはあたたかいストールをかけてくれた
その優しさは、まるで聖母マリアのよう。
「自分はこの公爵家の妻としてふさわしくない。夫であるカイン様に愛されているわけでもなく、社交界で役に立てるわけでもない。なのにどうして公爵夫人として、この屋敷にい続けられるだろう。私はそんなに図太くも、恥知らずでもない……」
「――」
私は絶句した。
だってイルマが語るのは、まさに今の私の気持ちそのものだったから。
「まぁ、おそらくデボラ様は、今そんな心境ではないでしょうか。だから一人で姿を消そうとした。……違いますか?」
「ど、どうして……」
私の体は小刻みに震え、イルマのまっすぐな視線から逃げ出すことができずにいた。
イルマはふと椅子から立ち上がり、私に向かって深々と頭を下げる。
「デボラ様、実は今まであなたに隠し続けていた秘密があります」
「――え?」
「私の本当の名はセリーヌ。セリーヌ=ワインバーグと申します」
「セ、セリーヌ?」
「今は捨てた名前です」
イルマは少しバツが悪そうに微笑み、遠くを見るような眼をした。
えーと、つまりイルマのほうが偽名っていうこと?
でもどうしてそんなことになったのだろう?
私の頭の上には、大量の疑問符が浮かぶ。
「私、セリーヌは元々ワインバーグ男爵の義理の娘でした。そして二年ほど前――このデボビッチ家に嫁ぎました」
「――は?」
「実は私がカイン様の、二番目の妻なのでございます」
「……………………」
――はぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーっ!?
私の絶叫は暮雪宮中に響き渡り、寝ていたメイド達を叩き起こした。
え?
え?
え?
えぇぇぇええええぇぇーーーっ!?
さすがにこの展開は私も予想してないっ!
まさかまさかのイルマの告白に、私の脳はあっさりとショートするのだった。




