109 悪女、投獄される
※かなりの鬱展開入りますので、苦手な方はご注意。
気づけば、私は暗く湿った場所に一人監禁されていた。
――ぴちょん、ぴちょん。
静かに反響するのは、岩に囲まれた天井や壁から滴り落ちる水音か。
今の私には、もうそれすらもどうでもいいことだけど。
「ほらよ、今日の飯だ」
鉄格子の隙間から、看守が面倒くさそうに夕食を差し出す。
カビが生えた固いパンが一切れ。
これが今の私に与えられる、全てだった。
「おー、こんな粗末なものは食べられないってか? さすが稀代の悪女様だ」
「自分の夫を殺したほどのタマだ。まともな神経はしていないだろうさ」
看守達は私を蔑み、次々と辛辣な言葉を投げかけた。
だけど私はもう反論する気も起きず、ただ牢屋のすみで膝を抱えて蹲る。
傍から見ればこの上なく陰気で、可愛げのない女に見えただろう。
「こいつの裁判っていつだっけ?」
「確か来週の日曜らしいぞ」
「夫殺しに麻薬密売の罪が重なったとなりゃあ、どう考えても死刑は免れないな」
そう言いながら、看守は自分の持ち場に戻っていく。
来週行われる裁判で、稀代の悪女・デボラ=デボビッチは死刑判決を受ける……か。
何から何までもが、ゲームで見たとおりの破滅EDだ。
この結末を避けるために、私は今まで散々動いてきたはずなのに。
「……ふ、ふふふふ………」
私は、笑った。
薄暗い牢獄の中で、気が触れたかのように笑った。
公爵が殺されたあの日に、私の心は再び壊れてしまった。
だからもう、どうでもいい。
死刑にしたいならすればいい。
そうしたらまた私はあの人に会えるはずだ。
カイン様。
私は一日でも早く死んで、天国であなたに会いたい。
「……うっ、……く」
そうしてあの皮肉気な微笑を思い浮かべれば、枯れたはずの涙がまた私の頬を派手に濡らす。
助けたかったのに、助けられなかった。
守りたかったのに、守れなかった。
ゲームが始まる前に公爵が死んでしまうと、私は確かに知っていたはずなのに。
その結果を知っていたからこそ、その未来を回避しようと誓ったはずなのに。
「結局、ゲーム設定どおりの未亡人になっちゃった……な」
ぼさぼさになった髪を直しもせず、私はただ暗闇だけを見据えていた。
四大公家の当主であるカイン=キール=デボビッチが殺されたというセンセーショナルなニュースは、もちろん王都中を駆け巡った。
そしてその犯人として逮捕されたのが――私・デボラ=デボビッチだったのだ。
後から聞いた話によると。
ハリエットに気絶させられた後、教会に駆け付けた警ら隊により私は発見された。
しかも私の手には公爵を殺害した凶器――つまり短銃が握られていた。
悪いことはさらに重なる。
あの教会内には密輸されたグレイス・コピーの在庫が大量に隠されていたのだ。
その密輸にマーティソン子爵家が関わっていたという書類も同時に発見され、私は窮地に立たされた。
なぜならイクセル叔父様が犯罪に加担していたのは事実であり、私が彼の姪であることもまた変えようがないから。
主犯格である叔父が亡くなった後は、姪の私が跡を引き継ぎ麻薬の密売を行っていた――
検察はそう主張し、逮捕された私を容赦なく糾弾した。
――どうやらアストレー公は君の友人と浮気したそうだね? そのことで夫への怒りが爆発し、殺意にすり替わったのではないかね?
――しかもアストレー公はクロヴィス殿下と共に麻薬密売組織を追っていた。自分がその犯人だとバレそうになって、夫殺しを決意したのでは?
私を執拗に尋問するのは、イグニアー家出身の検事だ。
いくら私が事実とは違う、真犯人にはめられたんだと主張しても聞く耳持たず。
それどころかセシルがでっち上げた証拠を次々と採用し、私を死刑台へと送る準備を着々と整えていた。
ああ、なるほどね。
公爵とルーナの浮気騒動は、夫殺しの動機をもっともらしく演出するためのフェイクだったのか……。
セシルの思惑に今さら気づいたところで、もう遅い。
私は小説や漫画でよくある『ざまぁ』される側の立場に回ってしまった。
グレイス・コピーを輸入していたという濡れ衣まで着せられ、いわゆる見事なスケープゴート。
これがセシルの言っていた『姉様を最大限の不幸に落としつつ、それでいて組織が今後も存続できるいい方法』なのだろう。
我が従弟ながら、ほんとうに悪知恵が働く子だ。
そういえば数日前だったか、そのセシルがわざわざ裏から手を回して、このヘレニューム監獄まで会いに来たことがあった。
「ねーえ様♪ どう? 元気してるっ?」
公爵が殺されてから一週間、ほとんどまともな食事もとらず不眠状態だった私の姿を見て、セシルは大げさに驚いた。
「うわっ、ひどい顔! まるで幽霊みたいじゃない。いくら重罪人と言っても女性なんだから、身だしなみには気をつけなくちゃだめだよ?」
「……何しに来たの」
可愛らしくおどけるセシルの仕草さえ、今の私にはうっとおしかった。
言いたいことだけさっさと言えと急かすと、セシルは唇を尖らせつつ用件を告げる。
「べっつにぃ。姉様の辛気臭い顔が見たかっただけだよ。どうせもうすぐ死刑になっちゃうしね!」
「……」
「あ、法廷で何を言おうと無駄だよ? 例えばマグノリア様の名を出そうもんなら、名誉棄損の罪で訴えられちゃうからね? 姉様だって、これ以上デボビッチ家の皆さんに迷惑をかけるのは嫌でしょう?」
「セシル、あなた……っ」
暗に、法廷で余計なことを喋れば、デボビッチ家の人々に危害を加える。それが嫌なら黙っていろと、セシルは脅しをかけに来たのだ。
悔しいけれどそう言われたら私は大人しく従うしかない。
ハロルドやヴェイン、エヴァ、レベッカ、ジルベールにコーリキ、ジョシュア……。
今頃みんなどうしているかな?
突然当主を失って、しかもその犯人として妻が捕まってしまったんだから、事態を収拾するのも大変よね。
……本当にごめんなさい。
でも今の私はその一言さえ、彼らに告げることができない。
――カーン、カーン……
するとどこからか、教会の鴨の音が響いた。
こんな薄暗い地下にまで鐘が届くのかと思っていたら、セシルが嬉しそうに尋ねる。
「ねぇ、あれ、何のための鐘の音だと思う?」
「………え?」
「あれは葬送の鐘の音だよ。カイン=キール=デボビッチを黄泉路へと送るための……ね」
「!」
そう言われて、私は再び耳を澄ました。
葬送の鐘の音……。これが……。
じゃあ今まさに公爵のお葬式が行われているの?
棺に納められた彼の姿を想像するだけで、私の情緒という情緒がぷつんと音を立てて切れてしまう。
「カイン様……。カイン、様……」
私は冷たい床の上に打ち伏せながら、ひたすら彼の名を呼び続けた。
本当はまだ心のどこかで奇跡を願ってた。
あの教会で心臓を撃たれた公爵が、何か超人的な治療を受けて回復しているんじゃないかって。
けれどそんな生ぬるい幻想を、低く響き渡る鐘の音が粉々に打ち砕く。
私の心に、また大きなひびが入った瞬間だった。
「もう、相変わらずうっとおしいなぁ。でもそれでこそデボラ姉様だよ。昔の姉様に戻ってくれて僕嬉しい!」
セシルはそう捨て台詞を吐くと、満足げに私の前から立ち去っていった。
もうその姿を恨んだり、憎んだりする気力もない。
ただ一刻も早く時間が過ぎてほしい。
もうこの世に生きていることさえ、今の私には億劫だ。
私は再び固い床の上に寝転がり、自分の吐く息で冷たい指先を温めた。
(寒い……)
王都がアストレーより気候的に暖かいと言っても、暦的にはまだ三月に入ったばかり。
暖房器具もない、それどころか不衛生でまともなベッドさえ置かれていない牢屋で過ごす一日は、若い女である私にはあまりに辛過ぎた。
でも大丈夫。
こんな待遇に私は慣れている。
皮肉にもマーティソン家で虐待されていた境遇が、今とそっくりだったのだから。
(カイン様、もうすぐ私もあなたのおそばに参ります……)
そうして私は、夢を見る。
とても波乱万丈で、でも唯一幸せを感じていた、あのアストレーでの日々を。
『………こんな女だったか?』
アストレーで初めて顔を合わせた時、あなたは別人のように変わり果てた私に驚いてましたね。
ごめんなさい。
思い込みが強い私のせいで、あなたを何度戸惑わせてしまったでしょう。
それでもあなたは私を優しく受け入れてくれた。
自分の夫を暗殺しようと目論む、間抜けで愚かな私を。
『――カイン』
『へ?』
『カインでいい。皆そう呼ぶ』
そうそう、図書室での突然の名前呼びイベントにも、本当にびっくりしました。
逆に私があなたを驚かすことも、たくさんありましたね。
あの直後、脚立から落ちる時に、まるで大きな翼のように広がった黒のコート。
あの時、私は確かにあなたに目を奪われた。
思えばあの瞬間から、私の本当の恋が始まったのかもしれません。
『膝貸して』
それから温室での膝枕イベントも、忘れられない思い出です。
私はノアレをあなたの愛人だと勘違いして、無意識に嫉妬していたりしました。
よく考えたらあの頃からあなたは私の記憶について、細心の注意を払ってくれていましたね。
ぶっきらぼうなあなたの優しさに気づけず、勘違いばかりを繰り返していた愚かな私。思い返せば思い返すほど、なんて滑稽な日々でしょう。
『――却下』
だけどあなたは私を決して見捨てないで、アストレー学園の建設という新しい目標を与えて下さった。
却下大魔王に対しては、今でも相当恨んでいますけどね?
でもあなたにぎゃふんと言わせたくて、みんなと一緒に一つの目標に向かってひた走るあの日々は本当に楽しかった。
結局ぎゃふんと言ったのは、私のほうだったけれど。
それでもあの輝かしい日々が私の新しい核となったのは、紛れもない事実なのです。
『形ばかりの妻……だと言ったな? ならば本物の妻にしてやろうか?』
うううう、ダメだ。やっぱりあの夜のことを思い出すと、今でも胸が苦しくて、切なくなる。
記憶を取り戻したかけた私をわざと怒らせるために、強引に口づけしてきたあなた。
私はあの時、無意識に気づいてしまった。
あのまま、あなたに愛されたいと願っている自分に。
その逞しい腕に、抱かれたいと思ってしまっている自分に。
体の芯が震えて、甘く疼いた。
もしもあの夜あなたに抱かれていたら……この悲しい運命は変わっていたでしょうか?
『忘れてなぞ、やらないぞ』
マルクの手の内から救われた直後、意識はぼんやりとしていたけれど、あなたの力強い言葉は今も胸の奥深くにしっかりと刻まれています。
『もしものことがあったら私のことは忘れてほしい』
アヴィーに頼んだ伝言に対する、それがあなたの答えだった。
あの時、私がどれほど嬉しかったか、そしてどれほど悔しかったか、あなたにはきっとわからないでしょう。
だってあれで私は、あなたに全面降伏したようなもの。
殺すはずだったあなたに救われて、本当に悔しくて悔しくて悔しくて……。
でもそれと同時に、あなたに対する気持ちが堰を切って溢れていくのを私は感じていました。
『よく見ろ。これがお前がアストレーで為してきたことだ、デボラ』
うん、最終的には、あれで完全にとどめを刺されました。
ずるい。
超ずるい。
あれで惚れるなって方が無理です。絶対無理。
記憶を取り戻した後、アストレーから去ろうとしていた私を引き留め、生きる場所を与えてくれたあなた。
そんなあなたを好きになるのはある意味、当たり前。
ああ、一体どこまで罪作りな人なんでしょう。
聞いていらっしゃいますか、カイン様!
お願いです、ちゃんと責任を取って下さいね。
あれで私の心はもう一生、あなたに深く囚われてしまったのですから。
「カイン様……」
そうしてまた、私は暗闇の中で愛しい人の名を――呼ぶ。
まるで壊れてしまったスピーカーのように。
馬鹿の一つ覚えのオウムのように。
もう体中の水分など流し尽くしてしまったはずなのに、公爵の名を呟けばあとからあとから涙が溢れ出る。
声が、聞きたい。
あなたの抑揚のない、でも優しさを秘めたあの声が。
……そう、最期に言われた言葉が、私の魂を呪縛する。
『愛している』
なぜ。
どうして。
あなたよりもっと先に、私からその言葉を伝えることができなかったのか。
あなたに庇護されることが当たり前で。
あなたの優しさに甘えるのが当たり前で。
勇気を出せない私は常に受け身で、あなたからのアクションを待つことを唯一の逃げ場としていた。
でももっとはっきり、私の方からあなたを好きだと伝えていれば。
例え振られても、拒絶されても、受け止められなくても。
それでも私の心は変わらないと、あなたにまっすぐ伝えられていたなら。
きっとこんな破滅ルートに踏み込んだりはしていなかった。
「好き……」
そうしてボロボロに干からびた唇から零れるのは、たった一つのすり切れた感情。
もう手遅れだとは知りながらも、私は告白せずにはいられない。
「カイン様、好き……好きです……。今までもこれからも、ずっとずっとあなただけを愛してる……」
息が凍るほど冷たい檻の中で、私はもう決して届かない独白を呟き続ける。
カイン様……カイン様……カイン様――
カインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカインカイン………
ああ、神様、お願いです。
どうかもういい加減、
私を、狂わせて下さい。




