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98 裏切りの時1




 公爵とあれやこれやがあった翌日の朝。

 私の気分は最悪だった。


 とっくのとうに太陽が真上近くまでのぼったというのに、私が寝室から出なかったせいで、使用人のみんなにも心配をかけてしまった。

 みんなを代表して私の様子を見に来てくれたのは、侍女頭のクローネだ。クローネはすっかり泣き疲れた私の姿を見て、おおよそのことを察してくれた。

 若いエヴァとレベッカには刺激が強すぎるからと、ソニアをはじめとする年長の侍女を呼び、朝の身支度を手伝ってくれた。

 私は破られたドレスを見て、また悲しい気持ちになる。

 昨夜強く掴まれたせいで手首にはうっすらと赤い痣も残っていて、それがまた私の心を沈ませた。


 どうしてこんなことになっちゃったんだろう?

 あのまま公爵に求められるがまま、抱かれればよかったのかな。


 そんな考えもふとよぎるけれど、過ぎ去ってしまった時間が戻るわけでもない。

 ましてや一人の人間の尊厳を無視した公爵のあの行動を、簡単に許していいはずがない。

 たった一言「愛してる」と言ってさえくれれば、私だってあそこまで抵抗しなかったのに……。


 いや、でもやっぱり私が悪い。

 いや、やっぱり公爵のブチ切れ度合いのほうがおかしい……とか。

 その日の私は堂々巡りばかりを繰り返して、ちっとも浮上することができなかった。






 それから数日の間、デボビッチ家での私の扱いは、まさに『腫物』だった。

 公爵とは当然あの夜以来顔を合わせていない。

 というか案の定、また王宮内での雑務に追われているようだ。

 唯一のいいニュースと言えば、ずっと昏睡状態が続いていたラヴィリナ皇女の意識がやっと回復したということだろう。

 よかった。これでひとまずクロヴィス殿下も安心したに違いないわ。








「カイン様はまだデボラ様に謝りに来ないだか? おら、今度という今度はカイン様を見損なっただ!」

「私も同意見です。デボラ様、我慢なんかしなくていいんですよ。この際こっちからカイン様に三下り半を叩きつけてやりましょうよ!」


 ある日の午後。お茶を飲みながらぼうっとしていた私を、レベッカとエヴァの二人が焚きつけた。

 あのねぇ、そんな簡単にカイン様と離婚なんかできるわけないでしょう、と私は二人を(たしな)める。二人の気持ちは、本当に嬉しいけれど。


 実際のところ、デボビッチ家内では私に同情してくれる者が多かった。

 まぁ、あの夜の公爵の尋常じゃない様子は、ほとんどの者が目撃しているしね……。

 でもその中で唯一、私に異論を唱えたのは年長の侍女・ソニアだった。


「本当に今回のことはカイン様だけが悪いのでしょうか。私には承服致しかねます」


 アストレーからついてきたみんなが私を甘やかす中、王都で長らく勤めているソニアの意見は一見厳しいようで、でも貴族社会の本質をついている。


「失礼ながらデボラ様は公爵家の奥方としての自覚に著しく欠けておられるように思います。夫が黒と言ったら白い物でも黒と言い、夫が従えと命令したなら、言われたままに従う。これが貴族の奥方の最低限の心得でございます。

ましてや一番大事なお務めであるはずの閨を拒否するなど……。たとえ夫婦の間に愛情がなくとも、公爵家の血を次世代に繋ぐために夜伽は必須でございます。むしろこの王都では愛情でつながらない夫婦のほうが多いほど。そこをはき違えられては困ります」


 ぐうの音がでないとは、まさにこのこと。

 完全にソニアに言い負かされて、私は本気で落ち込む。

 王都にやってきてから二カ月ほど経つけれど、結局ソニアとは打ち解けられていない。それは彼女が侍女としての役割をしっかり理解し、公爵に忠誠を誓っているからだ。彼女は私との馴れ合いを良しとはせず、あくまでも公爵の部下として私と接している。

 もちろんそれが悪いと言う訳じゃない。むしろそういうきっかり境界線を引ける人材は必要だと思う。

 けれど今の弱っている私にとって、ソニアの言葉はグサグサ心に刺さる。

 中でも究極に刺さったのが、これだ。


「失礼ながらカイン様との閨を今後も拒否されるということならば、カイン様が側室を娶られる可能性も視野に入れるべきかと存じます。もちろんデボラ様には否やを唱える権利はございません」


 ぐはぁっ!

 ここで側室と来ましたか。

 もちろんこの世界が一夫多妻制なのは知っていたけど、まさかあの公爵に限ってそんなことはないだろうと思い込んでいた。

 例えこの世界の常識だとしても、他の女性と公爵を共有しなきゃいけないのは…やっぱり嫌だ。それこそ他の女性との間に子供でも作られたりしたら、今度こそ本気で立ち直れない。


 だけど、あの公爵に限ってまさかね……と考えないようにしていた不安は、ものの見事に的中してしまう。

 しかも私が最も恐れていた、最悪な形で。





              ×   ×   ×





「こんにちは、デボラ様! その後元気になさってましたぁ?」

「………」


 ある日、何の前触れもなく、ルーナがデボビッチ家を訪れた。

 久しぶりに直に会うと、やっぱりキラキラヒロインオーラはすごい。彼女がその場にいるだけで、周りの空気が光属性に包まれる。あまりにも眩しすぎて、思わずその光を自家発電に利用できないかと考えてしまうほどだ。


「そう言うルーナこそ、体調を崩してたって聞いたけど大丈夫?」

「あー……、そうですねぇ。風邪だったのかなぁ? ご心配をおかけして、どうもすいませんでした」


 ルーナは自分が持ってきたクッキーを美味しそうに頬張った。

 けれどやっぱり、いつもと比べて彼女の様子が少しおかしい。

 いつもはこれでもかと思うほど私のそばにくっついてくるルーナが、会話を交わしてても不自然に視線を逸らしているのだ。


「ルーナ、本当に大丈夫? 何かあったの?」

「デボラ様……」


 本当にルーナってわかりやすい。素直で嘘がつけないというか。

 もちろん思ったことを無意識で口に出してしまう私も、人のこと言えた立場じゃないけれど。

 その後も根気強く話しかけ続けると、ルーナは一瞬瞳を陰らせた。


「本当に大丈夫です。ごめんなさい。わざわざデボラ様にお聞かせするほどの悩みじゃないんです」

「まぁ、言いたくないなら無理には聞かないけど……」

「へへっ、ありがとうございますっ。そういえばデボラ様もなんだか元気がありませんね。カイン様と何かありました?」


 ……ぐはぁぁっ!

 ルーナを心配したつもりが、逆に心の傷口に塩を塗り込まれてしまったわ。

 私は頬の筋肉を引き攣らせつつ、何とか笑みを浮かべる。


「ええ、私も大丈夫よ。大したことではないわ」


 大したことはないどころか、この世の終わりじゃないかと思うほど落ち込んでいるけれど、デボビッチ家の人達以外に夫婦の事情を知られたくない。しかもセクシュアルな問題ならなおさらだ。


「そうですか。ねぇデボラ様」


 そしてルーナは笑う。少し悲しげに。

 その声色はまるで、親からはぐれた迷子のようで。


「私達……、……………ですよね?」

「え? 何?」


 怯えたように呟かれた一つの質問は、あいにくとボリュームが小さすぎて私の耳には届かない。


「ううん、何でもないです。えへへっ」


 結局ルーナは笑ってごまかしたけれど。


『私達、何があっても友達……ですよね?』


 彼女がどんな気持ちでそう私に問いかけたのか、その時の私は知る由もなかった。 







 その後、ルーナは夕方まで私と他愛無いおしゃべりに花を咲かせていた。

 夕暮れが迫った時刻になって帰る素振りを見せたので、彼女を見送るために玄関ホールへと出る。


「あ」

「あ」

「あ」


 でもなんてことだろう。このタイミングで、私は屋敷に帰ってきたばかりの公爵とかち合ってしまった。

 まずい。顔が引きつるどころじゃない。

 公爵の姿を見ただけで、私は反射的に逃げ出したくなる。

 やっぱりこの前の夜の後遺症なのか、私の中にはまだ公爵に対する恐怖心が残っている。だから無意識に、桜エビのように腰が引けてしまったのだ。


「あー、カイン様! お久しぶりです。今夜会えるなんて超ラッキーですぅ!」


 そんな私とは打って変わり、ルーナは突然ハイテンションになり公爵の近くに駆け寄った。公爵は公爵でちらりと私の方を見るものの、すぐにルーナに視線を移してしまう。


「確かお前は……ロントルモン伯爵家のルーナ……だったな」

「はい、やっと名前を呼んで下さいましたね! 私、嬉しいです!」


 ルーナはさらにきゃあぁぁーーっ!と黄色い声を上げて、公爵相手にラブラブビームを発射した。今までの公爵なら、そのビームを華麗にオールスルーしていたはず……なんだけど。


「そうか。実は先日ロントルモン伯爵とお話しする機会があった。娘のことをどうぞよろしくと頼まれた」

「え? お父様が……?」


 なんと公爵からルーナの父親の名前が出て、場の空気ががらりと変わった。

 え? え? どういうこと? デボビッチ家とロントルモン伯爵家って何かつながりがあったっけ?

 会話の流れがつかめず、私の頭の上に大量のはてなマークが浮かぶ。


「ルーナ嬢。今日はもうお帰りか? できれば少し俺と話をしないか?」

「も、もちろん喜んで! きゃあぁぁ~っ、憧れのカイン様に誘われるなんて感激です!」


 しかもなんと公爵の方からルーナに声をかけ、ジルベールに彼女を自分の執務室に案内するように申し付けたのだ。


「あ、でもいいのかな。デボラ様がいらっしゃるのに……」


 ふとルーナは正妻である私の方を振り向いて、戸惑った仕草を見せる。

 けれど公爵はそんな彼女の背中に手を回し、率先してエスコートした。


「……問題ない。今俺が話をしたいのはルーナだ」

「カ、カイン様ぁ……」


 公爵に優しい言葉をかけられ、ルーナのすみれ瞳の色は熱く潤んだ。

 そんな二人の姿を見つめることしかできない私は、想像以上のショックを受ける。


 いや、ちょっと待って。

 それはないでしょ。

 なんでこうなるの。


 公爵は今までルーナのことを苦手に思って遠ざけてたはずなのに、信じられない、この突然の変わりよう。

 ルーナもルーナだ。なんで友人の夫の誘いにホイホイ乗っちゃうの。

 言ってやりたいことは山ほどあるのに、自分の立場が後ろめたい私はフリーズしてしまう。

 公爵とルーナ。

 どんな攻略キャラでも落としてしまうヒロインチート能力が、まさかこんな場面で発揮されるなんて……。


(痛い……)


 そうして私は玄関ホールから去っていく二人の背中を見送りながら、自分の胸元に手を当てた。


 ずきずきと痛む胸は、明らかな嫉妬だ。

 だけど公爵に「大嫌い」と言ってしまった手前、私の足は竦んでしまって自分から彼の後を追うことができない。


『失礼ながらカイン様との閨を今後も拒否されるということならば、カイン様が側室を娶られる可能性も視野に入れるべきかと存じます。もちろんデボラ様には否やを唱える権利はございません』


 さらに私の不安がトリガーになって、ソニアのあの言葉が再び脳内で再生された。

 ううん、公爵に限って、そんなことするはずない。

 あのルーナと今さら新しい恋に落ちるなんて……絶対にありえない。

 私は何度も何度も自分に強く言い聞かせるけれど、先ほどの公爵の態度はいかにも冷徹そのもので。


(さっきも全然私のこと、見てくれなかった。公爵、まだ私のこと怒ってるのかな……)


 まるで体中の血の気が引いたような感覚に襲われて、私はその場に立っているのがやっとだった。

 今人生の中で一番弱気になっている私は、一体どうしたら公爵と仲直りできるのかが本気でわからなくて――


 

 ぽつんと、夕暮れに一人。

 

 足元から延びる真っ黒な影法師を、無言のまま見つめることしかできなかった。






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