【番外編】語られなかった物語※
※The world of story.
南部に訪れるとても短い春のある日──息子が生まれてから五年目の日のこと。
妻が死んだ。
息子を産んでから、体調を崩した妻は起き上がっている時間がぐんと減った。
青白い顔で死んだように眠る彼女は、息があるだけで死んだも同然だった。
見舞う夫と幼い息子に、彼女が言う言葉は一貫して謝罪であった。
こんな妻で、母で、ごめんなさい。持参金が少なくてごめんなさい。役立たずでごめんなさい。醜くてごめんなさい。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
『ご、めん、な、さ……』
彼女は、ブランシェットに嫁いでからアラステアに一度も笑顔を見せたことはなかった。
それは息子にも同じだった。
『きっと喜びますよ』と言った使用人の言葉を信じ、花を持って見舞う息子に、構ってほしくて甘える息子に、母が恋しい息子に、一度も笑いかけたことはなかった。
◆
ブランシェット侯爵家には金がなかった。
金があったら、妻を助けることはできたかも知れない。
だけど、
本当にそうだったろうか?
真剣に妻を助ける努力をしただろうか?
そう聞かれたら、アラステアはきっと即答できない。
『役目は終わりました。なので、私のことは棄ててください』
妻の、二度目の願いだ。
一度目は、『お情けをいただけませんか』だった。
『私に、妻の務めを果たさせてください』
そう言う彼女の、前髪の隙間から見える儚く仄暗い薄鼠色の瞳が、可哀想で、可哀想で、アラステアは堪らなくなった。
だから魔が差したのかも知れない。
組み敷いた彼女は、身を固くして歯を食いしばって声の一つも上げなかった。
アラステアは、まるで自分のことを強姦魔のようだと思った。
犯罪者紛いの行為をしたくなくて、何度ももうやめようと言ったが、彼女はとても強情だった。
『お願いします。どうか、どうか……』
そう言って、アラステアに懇願した。
嫁いできた彼女への誤解は、すぐに解けた。
あの目は、あの態度は、虐げられ慣れた人間のものだと、気付かない者はブランシェット家にただの一人もいなかった。
執事やメイドにまでへりくだり、膝を折り地べたで食事も厭わない女を、アラステアは哀れに思い、持っていた怒りを全て消した。
いや、消えた。
だから、どんな我儘でも叶えてやるつもりでいた。
金はないが、彼女が望むなら結婚式を挙げてもいいと思った。
愛ではなかった。
同情心が湧いたのだ。
──だけど、一度でいいから、妻の笑った顔が見たかった。
アラステアは女の扱いが分からなかった。
士官学校は男社会で、卒業してからは父が死に、落ち着いたタイミングで戦争が起こった。
言い訳だとは分かっているが、アラステアは本当に分からなかった。
びくびくおどおどして、細くて弱い妻にどう接すればいいのか分からず……アラステアは、考えるのを放棄した。
そして、妻は死んだ。
ごめんなさいと言い残して死んだ。
笑顔はついぞ見せてはくれなかった。
妻の葬儀に、メルビル家からの参加はなかった。
手紙は四通送ってやっと、不参加を伝える文を返してきた。
その後、妻の義妹が痴情の縺れにより刺殺され、メルビル家はゆっくりと衰退していくのだが、これを聞いた時、天罰にしては生ぬるいと思った。
やはり、神などいないのだ。
──妻は生まれてきて、たったの一度でも幸せだと感じたことはあるのだろうか。
まだ幼い息子はアラステアに似て、感情の起伏の少ない子供で、母親が死んでからはそれが顕著になっていった。
似ているのは、性格だけではなかった。
外見も、ローガンはアラステアに似ていた。
横顔なんて、アラステアの幼少の頃そのものだと言ったのは父の代からブランシェットに仕える執事の男だ。
色も形も癖さえも、息子は自分のものを受け継いだ。
だけど、目元だけは、妻に似ていた。
アラステアのように冷たい印象ではない、少し垂れ気味の、笑うと柔らかい印象を与える目元は、妻から受け継いだ唯一のものだった。
……ああ、彼女が笑ったらきっとこんな風だったのだろう。
その時、初めて。アラステアは理解した──可哀想で、気の毒で、不憫で、痛々しくて。そして、哀れだと思っていた中に、ほんの少しだけ混じっていた感情の名を、アラステアはようやく知ったのだ。
──遅過ぎた。
何もかもが。
知った時には、すでに妻は死んでしまった後だった。
息子と恋仲の少女が見つけ、研究したハーブルは、ブランシェットに栄をもたらした。
領は未だかつてないほどに潤い、領民には笑顔が増えた。
天真爛漫で愛情深く心優しい少女により、息子の笑顔も増えた。
息子が笑うのを見る度に、アラステアは許された気がした。
同時に、切なくなった。
『もっと早く気付いていたら……』
妻は死なずに済み、豪華な式を挙げることができただろうか。
そうしたら、彼女は……いや、そんなことは詮無きことだ。
もしもなんて、ない。
存在しない。
◆
一人息子がブランシェット侯爵を継ぐ日、門前の前で、アラステアは感慨深い想いに耽っていた。
立派に育った息子に想いはひとしおだ。
と、同時に幼い頃より子供らしい我儘一つも言わなかった息子に、申し訳無さと後悔は拭えない。
生みの母とも再婚相手とも、良好であろうと努力してくれた息子に、アラステアが父親として、してあげられたことはあっただろうか。
結局、息子を邪険にした二度目の妻とは、一年も経たずに別れてしまった。
母親が必要かと思い、勧められるまま縁を結んでしまったことを、今は後悔している。
アラステアは、妻ではなく、息子の母親を探していたが、後妻は、息子の母親ではなく、妻になりたかったのだ。
そんな二人が上手くいくわけがない。
「──正直、母さんを恨んだことはあります」
母を恨んだことはあるか、とアラステアが数分前に息子に投げた問いの答えだ。
この時、母と指した人物はシェリー・ブランシェットである。
「……そうか」
少し前から、息子はシェリーのことを『母』と呼ぶようになった。
あの人、と囁くように小さく呼んでいた彼を、変えた出来事があったのだろう。
「はい。だけど、今はそんなことは思っていません。親の気持ちが分かったということもありますが、ようやく俺の母離れができたということでしょう。……今、心は穏やかです」
──アラステアは、そう言って振り向いた息子の照れくさそうな笑みの中に、彼女の面影を見た。
自分とは違う柔らかいその笑顔に、アラステアの視界が揺れた。
Thank you for reading this to the end.




