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初恋の君へ  作者: ななえ
大学生編
99/127

鎖4

「何しに来たの。帰ってよっ!」

 気がついた時には父親を目の前にして部屋の戸口で叫んでいた。アパートの廊下に、香代子の声が反響する。

「ずっと放っておいたくせに、何で今さら来るのよっ。母さんが今までどれほど――……」

 苦労したと思って。そう言おうとして、言葉がつまる。にぎった拳が震える。苦しい。色々な感情がごちゃまぜになって、適切な言葉が見つからない。自分の中の何かが爆発しそうで怖かった。

「帰ってっ! もう私たちに関わらないで!!」

 すべてを言いきったところで、廊下に並ぶドアの内のひとつが開いた。その音に香代子ははっと我に帰る。運悪く在宅していた二階に住む院生が何事かと顔を出している。

 それを見計らったように、父親が口を開く。

「香代子、俺が悪かった。謝るから話をしよう。なっ?」

 芝居がかった口調と瞳で香代子を見上げて、憐れみを誘う。観客は院生だ。ここで閉め出したら、香代子の方が悪者になる。

「父娘だろう、俺たち」

 だめ押しのように、父親は情感のこもった瞳で香代子を見上げる。院生は一度出した体をドアの内に引っ込めることもできないのか、こちらの様子を見続けている。

 そのどちらにも向かって止めてよ、と心中で叫ぶ。止めてよ、止めてよ。安っぽい三文芝居なら別のところでやってよ。私の生活を壊さないでよ。

 都合のいい時だけ父娘と言われて、胸の中は激しい嫌悪感が渦巻く。唇を噛みしめる。

 香代子の躊躇を読み取ってか、父親がおもむろに地面に膝をつく。そのまま勢いよく地面に頭を擦り付けた。

「この通りだ。許してくれ」

「やっ、止めてよ。こんなところで――」

 思わずそこにいる院生を見てしまう。彼は香代子同様驚いた顔でこちらを見ていた。

「いいからもう入って!」

 一歩たりとも部屋の中になど入れたくないのに、院生の奇異の視線にもう耐えられない。近所に変な噂を立てられたくない。今の生活を守りたい。香代子はやるせない思いで父親を部屋に引き入れた。院生の視線を遮るようにドアを閉める。

「へぇ、けっこうきれいなトコに住んでんだな」

 先ほどまで悲愴感を漂わせて土下座していたのが嘘のように、靴を脱ぎ、我が物顔で父親は部屋の中を闊歩する。父親が一歩踏み出す度に、自分の今の生活が汚されている気がする。その反面、物珍しそうに部屋を見回す姿が、無邪気な八歳下の弟に重なる。弟と似たたれ目に、自分と似た口元。この男と自分たちの相似はけっしてうれしいものではないはずなのに、妙な胸のざわつきを覚える。

 険しい顔つきの香代子に気づいて、父親は神妙な顔つきになった。

「……今まで悪かった」

「そんな簡単に……っ、謝らないでよ!!」

 香代子は怒り続けなければいけないと、必死で過去の情景を心の中で漁った。あんなにも母に手を上げ、何一つとして夫として父としての役目を果たそうとしなかった目の前の男。次々に幼い日の父親の仕打ちの記憶を自分の手で暴く。それはかなり心が消耗することだった。

 父と別れてから十二年。母は父の話を決してしなかったし、香代子も父のことを忘れたように振る舞ってきた。現に十歳にも満たなかった香代子は父の行動すべてを克明に覚えているわけではない。むしろ空白の方が長い。

 父はパチンコや競馬で勝った時などに気まぐれに香代子に菓子をくれることもあった。自分の父親を悪く思いたくない。父は自分のことを愛してくれていたに違いない――その一心から記憶は悪い行いよりも、ささやかな父の気まぐれの優しさを優先する。父の悪いところを思い出そうとしても、数少ないはずの良い時の記憶が邪魔をする。

 人を憎み続けるにはかなりのエネルギーが必要だ。幼少の香代子のおぼろげな記憶は、憎しみの炉にくべる薪にするには少なすぎた。そして月日が経ちすぎていた。

「……私に何の用があるの」

 語調を緩めて父に尋ねる。父は今のテーブルの前に座っていた。

 その弟によく似たおもざしに、ほだされてはダメだと自分を戒める。母の知らないところで父と会うなど、裏切りだ。罪悪感が胸に染みを作る。

 そこで、心の奥から声がした。母さんはもう再婚して好きにやってるんだからいいじゃない、と。

 その確かに自分のものである声に香代子は心臓をわしづかみにされたような衝撃を受けた。

 自分は結局、母が再婚したことがいまだに許せないだけなのだ。母が再婚すると言ったあの時、七年間、母の助けになろうとやってきた香代子よりも、義父の方を選んだ気がしたのだ。こんな思いは子供じみている。

 父は視線を柔らかくして口を開いた。

「俺も今まで好き勝手やってきたけどよ。人生の後半になってきて、ふと娘のことを思い出すようになってさ」

 そこで、父が懐から何かを取り出して差し出した。香代子は一瞬ためらった後、それを受けとる。くしゃくしゃの紙袋に入ったチョコレートのバーだった。

「お前、これ好きだろ?」

 子供のような笑顔は、ますます弟に似ていた。

「チョコバー、ひさしぶり……」

 包み紙を解きながら、なつかしい味が記憶によみがえってきた。シリアルがチョコレートで固められた安物のお菓子を見ながら、泣きそうになった。義父は香代子の好きなものを知らない。母ですら細かいところまで覚えているかどうかあやしい。全寮制の立志院に逃げ込んで自分で“家族”から離脱したくせに、香代子は家族のつながりを欲している。自分は矛盾した思いの中で、誰かからの揺るぎない愛情が欲しいと思っているのだろうか。

 こんなチョコバー一本で、帰省でナーバスになっているところにこられたからといって、父を許してはいけない。そうはわかっているのに、「今、そっちはどうしてるの」と尋ねていた。

「まあ何とかな。毎日をしのいでるだけだな」

「再婚は?」

「してねえよ」

 その答えに安堵する。父が所帯を持っているからといって、今の香代子に影響が及ぶわけではないのに、生理的に実の親の再婚を受け入れられない。思春期ならともかく、もう成人しているというのに、自分はおかしいのだろうか。いつまでたっても親に自分だけの親でいて欲しいだなんて。

「……お茶、一杯飲んだら帰って」

 甘えた考えから抜け出すように、父にそう言い放って、キッチンへ足を向けた。父が今さら娘との交流を欲したとしても、自分がそれに付き合ってやる義理はない。香代子の生活はもう父親がいなくとも回っている。そもそも最初から父親というものが香代子の毎日には欠けていた。必要だとも思わない。

 お茶を煎れるためにコンロにかけていたやかんから水蒸気が出る。それをぼんやり見つめながら思う。本当に父親を必要だと思わないの――?

 誰かに甘えたいと思ったことはないの。ずっと弟たちの母親代わりをする日々の中で、父親という大きな存在に守られたいと思ったことはないの。

 浮かび上がってきた感情を抑圧するように、機械的な手つきで、コンロからやかんを下ろし、ティーポットに熱湯を注ぎ込んだ。

 香代子は誰にも甘えずに育ってしまった。母はいつも疲れていたし、その中でも優先すべきは小さな弟たちだった。弟たちがある程度大きくなる頃には、香代子自身がもう思いっきり甘えられる年齢ではなかったし、母は再婚して、別の男性のものになってしまった。

 だからといって、いきなり現れた実父に甘えようとは露も思わない。それに二十歳過ぎて誰かに甘える甘えないなどと考えるのもバカバカしい。

 お盆にティーポットとカップと適当なお茶請けをのせて居間兼寝室へ向かう。

 父の前にお茶を注いだティーカップを置くと、「おっ、悪いな」と受け取った。香代子は複雑な気分になる。こんな人だったっけ。こんな気さくな人だった――?

 記憶との差異にとまどいつつも、自分は父を良く思いたがっているのだと思い知らされる。たったひとりの親だ。義父はやはり真実香代子の親ではない。家族か他人かといわれたら、他人の方に近い。かといって母はもう義父のものだ。

 気を許してはいけない、心を許してはだめだとわかっているのに、どうしてこんなに揺らぐ。お茶一杯の猶予をなぜ与えてしまったのだろう。

 父と向かい合って座りながら、居心地の悪い気分でティーカップに口をつける。心のどこかが親を慕う子供に戻ってしまったかのようだ。でも、年相応の部分も残っているから、父といることに理性が歯止めをかける。

「……もう、帰って」

 初めの強い口調が嘘のように、弱々しく香代子は父に言う。

 父は目だけで香代子を見たけれど、すぐにティーカップに視線を移して、お茶を一杯口に含んだ。

「……香代子。お前は今働いてんのか?」

 おもむろに問いかけられて、「う、ううん。そこの大学に通ってる」とどもりながら答える。父の顔がパッと華やいだ。

「学士さまじゃねえか。しかも国立。頭悪い俺の娘のくせに。お前、がんばったな」

「学士さまって……いつの時代の話?」

 大げさな父の驚きように、香代子は苦笑しようとしてできなかった。視界がぼやける。

 お前、がんばったな。その一言に涙腺がやられるなんて。相手が自分の親だというだけでそれだけの言葉にこんなにも威力があるものなのか。いや、違う。自分はずっと誰かにこう言って欲しかったのだと今、この瞬間に悟った。

「誰のせいで……苦労したと思ってんのよっ!」

 半分泣きながらも意地で怒ったところで、もうだめだった。涙腺が決壊して、泣きじゃくる。母が再婚しなかったら、きっと香代子は大学になどいけなかった。今の自分があるのは母と義父のおかげなのに、彼らに心を許せないのはなぜなのだろう。その埋め合わせを、自分は十数年来に会った父でしようとしている。もう半分父を許しかけているのだ。

 散々母を苦しめて、自分と弟たちを十数年間も放っておいた男を許してはいけない。わかっているのに、いまだに子供みたいに親の存在を求めている。今になって、親に甘えられなかったことが自分の楔となって現れるとは思わなかった。

 許してはいけない。でも許したい。矛盾した感情の板挟みにあって、香代子は父親の腕を引っ張り、立ち上がらせた。有無を言わさずその背を押して、部屋から追い出す。

「帰って。もう二度と来ないで」

 何だよ、と困惑する父親に取り合わず、玄関までその背を押して、外に放り出す。はだしのままの父親に履いてきたサンダルも放り投げる。

 唖然とする父親の顔をシャットアウトするように、玄関のドアを閉めた。鍵も閉める。ドアを挟んで香代子は室内、父親は室外に分かたれる。背後で父親が「香代子!」とドアを拳で叩きながら叫んでいたけれど、耳をふさいで、玄関の三和土の上に座り込んで、音を遮断した。

 最初からこうすればよかったのだ。今の香代子には哲士や根本、そして由貴也という大切な人たちがいて、親から与えられる感情がすべてではない。突然降って湧いたような父親よりも、すぐ顔を思い浮かべられる自分のそばにいる人たちの方が大事だ。そう頭ではわかっていても、感情のどこかが邪魔をする。

 “長女”の皮をかぶり続けた自分にはどこか一部成長の止まっている部分があるのかもしれない。でも、それを認めたくなくて、父親による乱暴なドアのノック音が消えるまで、香代子は目をつぶり、耳をふさぎ続けた。






 香代子が突然訪ねてきた父親の真意を知ったのは三日後のことだった。

 由貴也は父親が訪ねてきた日から忙しいのか、香代子の部屋に来ていない。来なくてよかったと思う。由貴也はあれで鋭いから、香代子の心が乱れていることを察するだろう。インカレに向かって邁進する由貴也に、余計なことを考えさせたくない。

 そもそも、と自嘲気味に思う。香代子の様子がおかしいと察したところで、心配して気遣う由貴也など想像できないけど。

 香代子は居間兼寝室のベットの下から箱を取り出す。通帳や銀行印が入っている香代子の“大事なもの入れ”だ。実家に帰省するにあたって、そうした貴重品を旅行鞄に詰めようと思ったのだ。

 何てことないもらいもののお菓子の箱を開けて、香代子は凍りついた。

 中身が空っぽだった。

「何でっ……!」

 半ばパニック状態になって箱を意味なく逆さにして振ってみる。当然ながら何も降ってこない。

 ベットの下に体を潜り込ませてくまなく探してみるけれども、何も見つからない。

 ベットの下から抜け出して、部屋の中の収納という収納、引き出しという引き出しを引っ張り出して、片っ端から漁る。通帳を多く持たない主義の香代子にとって、普通預金口座と定額預金が一体になっている総合口座の一冊しか持っていない。奨学金の振り込みもあったばかりだから、結構な額が通帳に入っているはずだ。

 一時間以上の無我夢中な捜索の後、泥棒が入ったかのような部屋の真ん中で香代子はへたりこむ。やはり通帳も銀行印もない。

 どこかに忘れてきたのかと、必死で頭を働かせて前に通帳を使った場面を思いだそうと努める。でも、定額預金は毎月普通口座からの自動引き落としだから銀行に行く必要もないし、銀行印なんてそんな大切なもの持ち出しもしない。普段、お金を引き落とすにはキャッシュカードで事足りる上、香代子は無駄遣いを防ぐために毎月一回決まった額しか引き出さない。

 とにかく、銀行に行って残高照会と、場合によっては口座の凍結をしなくてはならない。銀行印があれば、暗証番号がわからなくても預金を引き出せてしまう。香代子は身支度もそこそこに、いそいで銀行に向かった。

 銀行の自動ドアを全力疾走してきたので、息も切れ切れにくぐり、その勢いのまま窓口に駆け込もうとして、とどまった。まずはATMで残高照会が先だ。

 こんな時に限って、四台あるATMは全部ふさがっていた。お昼時なせいか、休憩中のサラリーマンやOLが占拠している。内面の動揺を押し隠して、香代子はおとなしく待った。

 待っている間、意図的に何も考えないようにした。通帳と銀行印が誰かに盗られたなんて考えてはいけない。自分が紛失した可能性もあるのだから。

 汗だくなはずなのに、寒い。きっと冷房に当たっているせいではない。香代子はあせりを押し隠して、空いたATMを震える指で操作した。

 手が震えているせいか、キャッシュカードがうまく入らず、暗証番号がよく思い出せない。何度か間違えて、後ろに並んでいる人のいらついた空気を感じながら、何とか残高照会画面まで行き着いた。

 その瞬間、頭が真っ白になる。残高の数字の前にマイナスの記号がついていた。

 いつもニコニコ現金払いがモットーの香代子は、借金はもちろん、ローンも分割払いもしたことがない。だからこのマイナス表記の意味がわからない。

 ATMの前で呆然としていると、ついに後ろのサラリーマンから「早くしろよ!」と怒鳴られて、香代子はふらふらとその場を離れた。

 とりあえず待ち合い室の椅子に腰を下ろす。頭がしびれて、どうしたらいいかわからない。長い間、ぼんやりとした後、やっと窓口に相談にいかなければいけないと思い立つ。

 おぼつかない足どりで窓口に行こうとすると、行員のお姉さんにやんわりと押し留められ、発券機から順番待ちの番号札を渡された。

 長い間待って呼ばれた窓口で香代子は銀行印と通帳を紛失してしまい、預金が誰かに引き出されてしまったと話した。通帳がマイナスになっていることを聞くと、窓口の女性行員は深刻そうな顔で、定期預金分を普通預金で引き出したので、マイナスになっているのだと話した。つまりこつこつ貯めた定額預金まで失い、香代子は一文無しになったということだ。

「警察にはお届けになりましたか?」と、聞かれたけれど、香代子は「いえ……」とあいまいに答える。複雑なこちらの表情を察してか、行員はそれ以上は言ってこず、香代子もすっからかんとはいえ一応口座を凍結し、定期預金を解約して、普通預金のマイナス分を支払い、銀行を後にした。

 アスファルトの地面が、午後の一日でもっとも強い日にあぶられて熱気を放っている。その上をゆらゆらと歩く自分の影を見ながら、繰り返し繰り返し考える。通帳を使ったのは夏休み前にATMで記帳をしたのが最後だ。その時には確かにベットの下の箱に戻した。それだけは言いきれる。なぜなら箱に通帳を戻した時、香代子はそこに一緒に入れてあった部屋のスペアキーを見て思い悩んだのだ。頻繁に部屋に来るようになった由貴也にこのスペアキーを渡そうかどうしようかと。だから印象的に通帳を箱に戻したことも覚えているのだ。

 そこまで思い出して、香代子はますますどうしていいかわからなくなる。そう、あの箱の中には結局由貴也に渡さなかった部屋のスペアキーも入っていたのだ。それまで通帳と一緒になくなっていた。

 どうしよう。どうしよう、と思いながら、自分は肝心なことを考えるのを避けている、と思う。“誰が”通帳を持っていったのか――。

 窓口でああ言ったけれど、香代子は通帳を紛失したわけではない。部屋のベットの下から通帳や銀行印がひとりでにいなくなるわけでもない。だとしたら、考えられることなどもうひとつしかないのだ。

 前に通帳があるのを確認してから、部屋に出入りしたのは、由貴也とあとひとりだ。由貴也はあり得ないことを考えると、通帳を持ち出したのはもうひとりしか考えられない。おまけに、通帳からお金が引き出されたのは、三日前――父親が来た日になっていた。

 自分の中から押し出されたように、涙があふれてきた。父親は、香代子に愛情も、親しみも、懐かしさすらなく、最初からお金を盗む気でやって来たのだろうか。娘の生活をめちゃくちゃにしてもいいと思ったのだろうか。そもそも、娘だとも思わずに、便利な道具だとでも思ったのだろうか。

 そう思ったら涙が止まらなくて、歩道にしゃがみこんで、真夏の太陽を痛いほど背に感じながら泣いた。父親に情を期待して、部屋に入れてしまった自分が馬鹿だった。十数年前に別れても、自分を気にしてくれていると思った自分が馬鹿だった。昔とは違って、おだやかな関係を築けるかもしれないと思ってしまった自分が馬鹿だった。三日前に父親の見せたあの顔は、“娘”に対するものではなく、騙すべき対象への演技だ。香代子を金づるだと思って見ていたのだ。

 父親の存在になどあこがれず、今ある生活だけを大切に生きていけばよかったのだ。断固として、父親を部屋に入れることを拒むべきだった。自分の弱さがこの事態を引き起こしたのだ。

「あの、大丈夫ですか? 具合悪いんですか?」

 聞きなれない声をかけられ、のろのろと涙をふいて顔を上げる。そこには赤ちゃんを抱いた若い母親と父親が心配そうに歩道にしゃがみこんでいる香代子を見ていた。

「……すみません。大丈夫です」

 香代子はよろよろと立ち上がって歩き始める。相変わらず気遣うような若夫婦の視線を背中に感じたけれど、かまわず歩き続ける。

 しばらく歩いたところで、背後を振り返った。香代子とは反対側へ行く夫婦の背中が見えた。妻を気遣うように、夫の腕が背中に軽く添えられている。幸せそうな家族の姿。香代子は知らず知らずのうちに唇を噛む。

 由貴也や哲士や根本や、陸上部の大事な面々がいても、香代子はやっぱり家族の愛が欲しかったのだ。ずっと、ずっと無意識のうちにそう思ってたからこそ、父親につけこまれたのだろう。

 泣きすぎて重い頭を揺らしながら、立ち止まって、由貴也のマンションのある方向を見る。顔が見たいと思う反面、会ってはだめだと思う。今の毎日の練習でいっぱいいっぱいの由貴也にこれ以上負担をかけるわけにはいかない。

 結局香代子は迷いを断ち切るように顔を正面に向けて、自分のアパートに帰った。

 アパートの外階段を上りきったところで、二階の自分の部屋のドアが少し開いていることに気づいた。まさか、と走り出す。父親は通帳とともにスペアキーも持っていった。

 勢いよくドアを開くと、キッチンの戸棚を漁っていた男の背中がびくりと揺れた。振り返った男の顔に、香代子は失望とともに冷々とした気持ちが胸の中に広がっていくのを感じていた。

「そんなところに何も隠してないよ。金目のものなんて学生なんだからそんなに持ってるわけないじゃない」

 疲れた、とその場に座りこみたくなる気分をこらえて、盗人そのものの浅ましい父親の姿を見据える。

「もうここに来たってムダなの。アンタが三日前に持ってったのが私の全財産なんだから」

 父親の顔は赤かった。お酒を飲んでいるのだろう。手当たり次第漁ったのか、戸棚に入っていたお皿のほとんどが床に落ちて割れている。その惨憺たる有様の中央に座る父親は家探しをしたということを隠す様子は微塵もないのか、へらへらと笑って、香代子の方へやって来る。

「香代子、お前、アイツにちょっくら金貸してもらえよ。再婚したんだろ、どうせ」

 親しげな様子で父親が香代子の肩を抱いてくる。酒臭い息を吐きながら、「ちょっと急に入り用になっちまってよ」と言っている。

 香代子の“新野”は新しい父親の名字だ。この男の名字ではない。貯金通帳に書いてある名前で、香代子の母親――父の言うアイツが再婚したことを知ったのだろう。この男は細かいところに嫌らしく目がつく。

 香代子は肩にまわる父親の手を振り払った。よろめいた父親は「何すんだ、てめえ!」と、激昂の気配を見せたけれど、構わなかった。

「警察に行く」

 香代子は毅然と言い放つ。父親は普段は気が弱いくらいの人なのに、ひとたびお酒を飲むと変わってしまう。そうなった父親に話が通じるとは思えない。

 その足で警察署に行こうと、香代子はきびすを返して玄関に向かった。

「行けよ」

 その背に、父親の声が追いかけてきた。

「お前が行くまでに、アイツんとこ行ってくっからよ。お前が貸してくんねえなら、アイツに借りるまでのことよ」

 そこで父親は「再婚相手にも金せびってくっかな」と嫌らしく大笑した。反射的に振り返った香代子に向かって、父親はひらひらと何かを振る。それは母親が香代子に宛てた手紙だった。実家に来る香代子宛ての郵便物を、母親は時おりこっちに郵送してくれるのだ。

 香代子は顔色がさっと青くなったのを自分でも自覚していた。あの封筒には、母親の今現在住んでいる住所が記されている。それをもとに父親は母のところに乗り込むつもりなのだ。

「止めてよっ! 母さんのところには行かないでっ」

 香代子は懇願する。この男が乗り込んでいったら、せっかく幸せを得た母の生活はめちゃくちゃになってしまう。それに実の父親のことを覚えていない弟たちに無用な衝撃を与えることになる。

 香代子の狼狽に、父は満足気に微笑んだ。

「俺だって、お前が金を調達してこれば、アイツのとこには行かねえよ」

 なあ、とふたたび父親は立ちすくむ香代子に寄り添う。

「お前は昔から親孝行な子供だったよな……?」

 密やかな父親の言葉に、香代子は逆らうすべを持たなかった。長い苦渋の末に、「……何とかするから少し待って」と弱い声で答えた。完全に父の方が上手だった。きっと郵便受けを壊したのも父だ。そうして母の現住所を手に入れ、香代子への脅しの材料に使った。母や弟に害を加えると言われては、自分は父からの呪縛に逃れられない。

 父親の細い笑い声と呼応するように、窓辺のカーテンが揺れる。香代子はそれを他人事のような遠さで眺める。由貴也とともに、床に転がって寝ていた、ついこの間の記憶が愛おしく、同時に遠かった。

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