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初恋の君へ  作者: ななえ
大学生編
95/127

願わくば、その時までに

『サマーゲーム』読了推奨。

華耀子視点の後日談。

 午後八時半。華耀子は車を飛ばして、閉店前のスポーツショップに駆け込んだ。営業時間は九時までなので、そう時間的猶予はない。

 駐車場に車を突っ込み、足早に自動ドアをくぐると、店内は閑散としていた。無理もない。この地方都市では午後九時には駅前すら人通りが絶える。スポーツショップにはテニスのラケットを見ている部活帰りと思しき高校生と、ゴルフクラブを見ているネクタイを緩めたサラリーマンしかいなかった。

 店員のいらっしゃいませ、という声を右から左に聞き流して、華耀子は迷わずメンズもののウェアコーナーへ一直線に向かう。いつもは眺める陸上のスパイクコーナーも今日は素通りする。

 量販店で売っているジャージとは違い、まがりなりにもスポーツショップのジャージだけあって有名ブランドがずらりと並ぶ。機能性、サイズ、通気性、保温性を主に確かめながら、すべてのジャージをすばやく眺めた。

 先日の関東選手権で中田の凶刃を阻んだ際に、負傷した手を竜二が彼のジャージで覆ってくれたのだが、当然血まみれになってしまった。そうなるとクリーニングだとか、洗濯だとかの問題ではない。きれいになったところで、一度自身の血液が付着したものを返すわけにもいかず、今日、華耀子は竜二に贈るジャージを選びに来ていた。

 頭に叩き込んである竜二の体格のデータを呼び起こす。身長百八十二センチ、体重が七十七キロ。BMIは二十二。体脂肪率は七パーセント。瞬時に浮かんできた彼の身体的プロフィールにLでは小さいわね、と思う。竜二はまだ線の細さが残る由貴也と違い、体が成熟してきている。肩幅も胸囲も腿周りも堂々たるものだ。どんなに低くても身長百七十、また上限が百九十といわれる短距離において、彼の体躯は理想的だった。

 OかXOかとサイズを悩みながら、ふと視線をすべらすと、店内のいたるところに飾ってあるアスリートのポスターのひとつに目が行った。青いウェアがハリのある褐色の肌に映えている。現役時代の中田だ。

 彼が活躍したのはもう二世代ほど前の話だが、今なおこうして日本を代表するアスリートとして挙げられるぐらい中田の存在感は陸上界で大きい。だが、こういうものを見てももう驚くぐらい自分の心は動かなくなった。彼をもう自身の近しい人物ではなく、一人の偉大な――それがたとえドラックで作られた偽りの栄光であろうとも――陸上選手として思う。

 彼が結婚したのは二十三の時だった。早く自分の生活の地盤を固め、競技生活の安定を図りたい男性アスリートの結婚は早い。加えて、彼はもうその歳で経済的にも社会的にも自立していて、結婚に際して問題となるものがなかった。やはり精神的支柱として、恋人、もっといえば妻の存在は運動選手にとって不可欠だ。

 由貴也にそういった存在がいることを知った時、華耀子は少なからず安堵した。と、同時に年齢的に二人はまだ若いので、由貴也のお守りはその彼女には荷が勝ちすぎているかもしれないと危惧した。事実由貴也は彼女かわいさに陸上を辞めかけたが、それを彼女の方が県選手権終了後に一喝し、思い留まらせていた。これは華耀子にとってうれしい誤算ともいえる出来事だった。彼女が気質が難しい由貴也を上手く支えて盛り立ててくれるのなら、二人の仲に口を出す気はない。むしろ恋愛を推奨する。

 華耀子はため息は嫌いだが、思わずつきそうになった。選手たちのプライベートに踏み込む気はさらさらないが、恋愛は別だ。ある意味怪我より怖い、アスリートの落とし穴だ。恋愛をして、のめりこみ、勝負師でなくなってしまう事例は女性アスリートの方が多いが、男性アスリートにもないわけではない。人の恋路を邪魔するやつは何とやら。馬に蹴られても選手の恋愛管理は指導者としての仕事のうちだ。

 手にとっていたジャージを思わず凝視した。自分はよかったと思うべきなのだろう。竜二が恋をあきらめると言ったことに。

 金色の髪を黒く染め、今まで見たこともない固い表情で、彼は言った。選手に徹する、と。

 アメリカで指導者としての基礎を学んでいるとき、有名な男性指導者は言った。「選手全員と恋愛するつもりでやっている」と。華耀子には男性アスリートを指導する女性コーチという先達がほぼいないので同性の例はわからないが、男性指導者と女性アスリートだと疑似恋愛に陥る可能性が高いそうだ。ある統計では男性指導者の実に十パーセント以上が女性アスリートとの恋愛関係に肯定的だった。事実その男性指導者は教え子と結婚と離婚をし、今は別の選手と婚姻を結んでいる。

 だが、自分にはそれがどうしてもできなかった。選手との恋愛をよしとすることができなかった。

「お客さま、何をお探しですか?」

 じっと手元を見ている華耀子を不審がってか、店員が愛想のいい笑顔を向けて尋ねてきた。「いえ……」とあいまいに答えてかわす。

 あらためて、持っているジャージを見ると、黒地に金のラインが入った今年の新作だった。派手好みなところがある彼には似合いそうだ。

 当たり前だが、こうして竜二の身につけるものを選んでいると、否応なしに彼のことを考えざるえない。その時間が今の華耀子には複雑な気分にさせる。――“複雑な気分”でとどめておかなければならない。それ以上のことを思うべきではない。

 指導者相手に本気の恋愛などすべきではなかった。その言葉は竜二だけでなく、主に昔の自分に向けられている。いくら指導者が私生活まで犠牲にして選手のためだけに日々を過ごしても、選手がいくら指導者を慕っても、行き着くところは疑似恋愛だ。ただひとりのためだけにコーチをやっていれば選手をより深く支える手段として疑似恋愛も大いに結構だろう。恋愛というのはそもそも疑似でも何でも錯覚から始まるものだというのが華耀子の持論だ。

 ただ、選手が複数人いる場合、選手の頭数で“分けられる”恋など恋ではない。疑似ですらない。自分のこういうところが青く、甘く、若いとわかっている。自分のこういう考えには中田との不倫体験が大いに影響していると思われるからだ。人は同時に複数人愛せるはずがない。

 それに、自分は疑似を竜二に与えたくなかった。

 思考の過熱を抑えるために息をつき、竜二が今手にとっているジャージを着たところを想像した。脳内で寸法が足りないところがないかを確認する。最終チェックを終えてレジへ向かった。

 レジ画面に表示された金額は二万近かったが、きちんとしたものを買おうと思えばこの金額は妥当だろう。万単位の出費は安月給である華耀子にとってきついものがあったが、それはさしたる問題ではなかった。

 竜二は自分の手から離れて、老トレーナーの元へ行く。だが、これを彼への別れの“餞別”にするわけにはいかないのだ。

 竜二が帰ってくるまでに自分は青くささを捨て、自分の立場を盤石にしておかなければならない。クラブの会長の意向ひとつでどうにかなるような心もとない立場から脱却しなければいけない。疑似恋愛を使わないなら使わないなりの指導法を確立しなければならない。そして、願わくば、彼の弱さを許容してくれる存在が現れるといい。自分は指導者ゆえ、彼の歳以上の強さはアスリートとして当然のものとして受け止めても、年相応の弱さをそれでいいとは言えはしないから。

 商品をスキャンし、会計の段になって、気がつくと「待ってください」という言葉が出ていた。

「はっ?」という顔をする店員に背を向け、メンズコーナーとウィメンズコーナーの真ん中にある小物コーナーから膝のサポーターを持ってきた。

「これもお願いします」

 一番高いものを持ってきたので、一気に合計金額がはね上がる。彼が愛用しているメーカーのものなので、体にも合うだろう。

 今はこんなことしかできやしない。彼の使い古したサポーターを新調することぐらいしか。

 スパイクでもウェアでもサポーターでも、彼はひとつのものを大事に大事に長く使っていた。それは陸上に必要なものであっても簡単には新調できない彼の家の経済事情からの行動だろう。さすがにバイトをし始めたりはしなかったが、深夜のコンビニの求人情報を真剣に凝視していたりした。

 ぽつりと「……兄貴が仕送りしてくれんのや。はようオレがどうにかならんと結婚もさせてあげられへん」とつぶやいていたこともあった。竜二ははっきりと言葉には出さなかったが、強化費が支給される陸上連盟の強化指定選手になることを目標としていたようだった。

 それをなげうたせた自分の愚かさを、華耀子はよく考えないといけない。一言も本人は口には出さなかったが、竜二がああも無理をしたのは明らかに華耀子のせいであった。彼が自分の一連の行動を華耀子のためにと言って正当化しなかったのは、彼なりのプライドなのだろう。歳下であっても、選手であっても、彼は確かに誇り高き“男”なのだった。

 すべてをかなぐりすてて、そうせざる得なかった竜二の心情を斟酌しなくてはいけない。そして、彼の犠牲に指導者として報いなければならない。

 スポーツショップのロゴが入った袋を下げ、閉店時間のお知らせというアナウンスが流れ始めた店内を後にする。

 車のキーを開けようとしたところで、コーチ、と呼ぶかすかな声が聞こえた気がした。だが、振り向いても、スポーツショップの駐車場には誰もいない。何台か停まる車は無機質で、動く気配はない。

 華耀子はしばらくその場にたたずむ。コーチ、と呼ぶ竜二の声が耳によみがえる。

 彼の帰ってくる日を待つ。だが、帰ってくる彼はもうかつて自分の見知った彼ではない。

 自分はあの快活に笑む大人と子供の狭間の彼を永遠に失ったのだと、今この時深く実感した。

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