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初恋の君へ  作者: ななえ
大学生編
92/127

サマーゲーム9

 その後、クラブの会長だという恰幅の良い男に、慟哭する中田を引き渡し、華耀子は自らの怪我を省みずに竜二に病院へ行くことを促した。彼女が血まみれの手に構わず、メモに記したクリニックはスポーツ外傷の名医がいる医院で、彼女は来るべき時に備えて、そういった病院を探していたのだろう。

 そこで竜二に下されたのは膝半月板損傷。去年と同じ診断だったが、今度は手術が必要だと言われた。半月板は自己治癒がほとんど望めない箇所なのだ。

 怪我だけでも致命的なのに、手術などしたら復帰はいつになるのだろう。危機感を抱きながらぼんやりと考えるが、次第に思考が減退していく。どうしてか上手く頭が働かない。華耀子に診断結果を報告しなければ、と思ったが、携帯が見当たらない。思えば、中田のナイフで切った華耀子の手を覆ったジャージのポケットに入れていたのかもしれなかった。

 濡れた衣服は脱いで、髪もタオルで拭いたはずなのに、体がびしょ濡れのように重い。今日は色々なことがあったが、そのひとつひとつに改めて向き合うだけの気力を今の竜二は持っていない。

 ただ、このままでは終われないという思いが胸の中で熾火のようにくすぶっていた。








 翌日は驚くほど、いい天気だった。

 その空の青さも、空気の暑さも、日射しの強さも認識はするものの、実感はしない。何だかずっと雨の中にいる気がする。自分の中に降る雨から、まだこのままでは終われないという思いが濡れて消えてしまわないように必死で守る。

 大会の翌日だったが、竜二は膝にサポーターを巻き、それを長ズボンのジャージで隠してクラブに赴いた。歩行にクリニックで勧められた松葉杖は使わない。

 クラブのコーチ室に顔を出すと、華耀子が負傷していない左手のみでパソコンのキーボードを扱っていた。いつもは頭の低い位置でひとつに結ばれている髪も、今は背に流されている。片手では髪をくくれないからだろう。

 その右手は包帯で五指の先まで覆われていた。無理もない。素手でナイフに対抗すればそうなる。

 その怪我が自分を庇ってついた怪我だということに、申し訳なさが募る。その感情のままに「コーチ」と呼びかけると、即座に「竜二」と反応が返ってきた。

 華耀子がデスクから離れ、戸口の竜二のもとへ寄ってくる。コーチ室に他の人影はない。

「あなた、怪我はどうなの」

 華耀子は竜二に携帯を返しながら尋ねる。やはり携帯は竜二のジャージのポケットに入っていたようだ。竜二は思わず華耀子の包帯の白さが目に痛い手に目を向けてしまった。包帯を悪目立ちさせないためか、彼女は長袖を着ていた。その視線に気づいてか、華耀子は心なしか目線を下げた。

「ごめんなさい。あなたのジャージは買って返すわ。どこのメーカーの――」

「んなもんどうでもいい! アンタやってその手の怪我!」

 竜二に言われて初めて気づいたように、華耀子は「ああ」と自身の手を見る。

「いいのよ、私は。あなたと違ってもう走るわけでもないんだから。それよりあなたの膝の状況を報告して」

 なおも竜二は何か言いたかったが、言うべきことが見つからない。無言のまま華耀子に誘われてコーチ室に入った。

 華耀子は竜二にデスクのチェアに座らせ、自身は腕を組みながら立って話を聞いていた。竜二の視界の端で、華耀子の長い髪の毛先が揺れる。

 膝半月板損傷という竜二の報告を華耀子は静かに聞いていた。すべて話し終えた後、しばらくふたりで口を閉ざした時間があり、室内には沈黙が落ちる。窓の横に植わっている木の影が、床に落ちて揺れている。

「竜二。前にあなたをみたいといっている人がいるという話をしたのを覚えているかしら?」

 竜二は華耀子の声に弾かれたように顔を上げる。忘れはしない。竜二が関東選手権前に走るフォームを変えないと華耀子と言い争った時に、そのトレーナーの名前は出てきた。選手を怪我から復帰させることを自らの売りとしているそのトレーナーに華耀子は竜二を預けようとしたのだった。

「昨夜、あなたの話をもう一度その方にしたら、怪我をしているのを承知した上で、あなたをみてもいいとおっしゃってくれたわ」

 華耀子の話を聞きながら、竜二は次第に自分の心が失望に染まっていくのを感じていた。華耀子の次の言葉を聞きたくないと体が身構える。

 だが、華耀子はそんな竜二には構わず、冷徹とすらいえる声音で告げた。

「竜二。あなたはその方のところへ行きなさい」

 目の前が暗くなる。竜二の意思を無視して、こんなにもはっきり華耀子が命令するのは初めてのことだった。

 アンタも、怪我をしたらオレをいらないって言うんか。しょせんはオレを捨てた大学の監督と一緒なんか。走れない自分に価値はないんか。どこまでいってもオレはやっぱり使い捨てなんか。言いたいことが胸の中で渦巻くのに、何ひとつとして言葉にならない。自分はやはり愕然とした顔をして華耀子を見ているだけだ。

 わなわなと震える唇からやっとひとつの言葉が出てきたのはずいぶん後のことだった。

「オレはまだ走れる」

「竜二」

 子供をなだめるような声で華耀子が竜二を呼ぶ。竜二はその声の静かな重さにはっとして華耀子の顔を見る。彼女の顔には迷いなどなかった。竜二を他所へやることはもう彼女の中で決定事項で、動かしようがないのだと知った。

 胸の中に重い何かが落ちる。オレはまだ走れるのに。次の大会では優勝してみせる。アンタのコーチの立場を守ってみせる――!

 内から突き上げる感情のままにデスクチェアから立ち上げる。華耀子が身を引き、デスクに手をついた。ペン立てが倒れて、中身が床に落ちる。最後のペンが落ちた時、竜二は華耀子の体を引き寄せていた。

 捕らえるように華耀子を抱いて、顔を近づける。噛みつくように唇を合わせた。

 華耀子の腰に腕を回して抱き締め、さらに深く唇をむさぼる。どうしてだろう。口づけているのに、抱きしめているのに、どこかから何かが漏れていく気がする。この手の中から華耀子が失われていくような気がする。違う。手離されるのは自分の方か。もうどこにも捨てられたくないのに。アンタにオレを必要として欲しいのに。

 竜二は強くなっていく喪失感に耐えきれず、唇を離した。自分の顔を見られたくなくて、すぐに華耀子の肩口に顔を埋め、よりきつくその体を抱き締め直した。

「アンタが好きや」

 やっとのことで絞り出したその言葉は、まったく幸せの色を帯びていない。竜二が今までしてきた恋とは違う。つらくて痛いだけだ。いや、今までしてきた方が恋とは違ったのだ。

 口づけでも、抱擁でも、華耀子との確たるつながりが作れなかった竜二は、最後にすがりつくように好きだという言葉に頼ったのだった。

 華耀子の肩越しに見える空は、悲しくなるくらい青い。

「竜二、離して。きちんと話をしましょう」

 竜二は「嫌や」と答える。我ながら子供のようだと思う。けれども、離せば華耀子と自分はもう接点を持てないかもしれない。もし彼女がこのクラブのコーチを辞めたなら、竜二と二度と接触しようとしないだろう。彼女が竜二と相対するのは教え子で陸上選手だからだ。それをのぞいたただの五十嵐 竜二とは関わる理由もない。むしろ変な期待を持たせないために避けるだろう。だって彼女は竜二自身に何の感情も抱いていないのだから。

 だから竜二は華耀子の側にいるために走り続けなければならなかった。

「竜二」

 もう一度名前を呼ばれて、竜二は意固地になって華耀子を抱く腕に力をこめた。

「竜二。離して」

 有無を言わさぬ強さで命令されて、絶対に離すもんかと思ったが、叶わなかった。今の竜二は華耀子に作られたようなものだ。自分は一度死んで、彼女によって生き返させられた。だから逆らえない。

 観念したように、ゆっくりと華耀子に回していた腕を解く。華耀子はいつも以上にといっていいくらい、冴々と冷静な顔で、自分の言葉は何ひとつとして彼女に影響を及ばさないことが悲しかった。

「座って」

 やわらかな手つきで竜二の肩を押し、華耀子が自分を再び椅子に座らせる。言われるがままに腰を下ろすと、自分は最後の賭けにも負けたのだと悟った。

 華耀子は後ろ手でデスクの縁に手をついて、おもむろに笑う。

「私の過去を調べたでしょう?」

 唐突に発せられたそのセリフに、竜二をとがめる響きはなかった。

「何も見つからなかったでしょう」

 それは確認だった。竜二はうなずく。ネットで調べた彼女の競技人としての過去は空白だった。

 視線を伏せて華耀子は語り始めた。

「中田とは大学で知り合ったわ。あの人はコーチ、私は部員。地方の体育大学で、私を含めて中途半端な選手が集まっていた」

 首都の名門体育大学には行けない。けれどもまったく才能がないとは言いきれない。それが華耀子の言う中途半端さなのだろう。

「中田は選手としてはまぎれもなく一流だった。ただ、指導者としては三流以下だった。あの人は自分のようにすべての選手ができると考えてしまっていたから」

 即座にそれは無茶な話だ、と竜二は思う。中田は稀有な才能を持っていた。非凡な彼自身を雛型として、他の選手にまで同じ水準を求めてしまってはその選手に酷だ。

 竜二の考えていることを察したのか、華耀子が皮肉げに笑う。

「名選手、名コーチあらずってところかしら。だからあの人のやり方には無理が生じて、部員とは頻繁に衝突を起こしていた。中田は指導者としての自信を失いかけていた」

 それで彼はたとえひとりとでも部員との確実なつながりを欲したのでしょうね、と華耀子は続ける。

「あの人に求められて、私は拒めなかった。当時の中田には奥さまも子供もいたけれど、そんなことが些細に思えるほど、選手としてのあの人に憧れていたわ」

「奥さんも子供もいたって……」

 竜二が思わず反駁すると、華耀子は少しも取りつくろいもせず、「ええ、不倫ね」と言った。

 世間一般からみれば、中田と華耀子の関係は後ろ指をさされ、非難されて当然の行為だ。けれども、アスリートである自分たちには常識が通用しないような独自の世界がある。中田はそこの王だった。努力ではどうにもならないゆえに、その一等星の輝きに狂おしく焦がれるのだ。

「あの人と関係を持つようになってから、私のタイムは飛躍的に上がって、私自身心身ともに成長したのだと思っていた。でも、それは大きな考え違いだった」

 彼女の自嘲の笑みはさらに陰りを帯びる。

「中田が私の食事にドーピング薬物を混ぜていたの」

 竜二は目を見開く。一般人にはにわかには信じがたいかもしれないが、指導者が選手をドーピング薬剤で日常的に漬けこむという事例はけっして少なくない。上には絶対服従という体育会系の気質がそうさせるというのもある。

 それでも竜二はどこか遠い場所のことだとそれを認識していた。そんなことを実際にするコーチがいるとは考えていなかった。

「彼の子を妊娠して流産して、私は初めて自身の体が薬に冒されていることを知ったわ。同時にその頃、過去の大会のひとつで、ドーピング検査の結果が明らかになって、私は記録を抹消された」

 妊娠、流産、ドーピング、記録の抹消。理解が追いつかない。何のリアクションもとれない竜二をよそに、華耀子は話し続ける。

「その後、中田の父親――このクラブの会長なのだけれど、その人からこの一連の事に関して中田は関与していないということにしてくれと言われたの。見返りはアメリカ留学の援助。私はそれを受け入れて、ドーピングはあくまでひとりでやったということにしたわ。当然、私の選手生命は断たれた」

「何、や……それ。何で」

 混乱しきった頭から、バラバラの言葉が出てきた。一番に頭を占めるのは、華耀子だけが罪を被るというのはおかしいということだった。竜二のその意見を読みとり、華耀子はすぐに答える。

「既婚者とつきあっていたことで親から勘当されて、路頭に迷っていたから、ここの会長の援助がなければどうしようもなかったのよ」

 それに、と言葉を継いで、華耀子は昏く笑う。

「私は薄々わかっていたのかもしれない。中田が私にドーピング薬剤を盛っていることを。あの人が私にドーピングをさせることで、指導者としての栄光を望んだことと同じで、私もまた自分の足りない才能を埋めたかった。選手としての栄光を望んでしまった。私は自分自身では何もしなかっただけで、ドーピングの誘惑に負けたの。だから同罪よ」

「そんなんちゃうわっ!」

 気がついた時には華耀子の言葉に反応して椅子から立ち上がって叫んでいた。

「“思う”のと実際に“する”のでは雲泥の差や! それに、中田が悪いんやろっ。指導者やのに――」

「そうね、『指導者なのに教え子に手を出す方』が悪いわ」

 竜二の言葉の先を引き取って、華耀子がこの上なく痛烈な一撃をかました。中田と華耀子の関係はそのまま自分たちに置き換えられるのだ。自分が放った言葉がそのまま跳ね返ってくる。

 華耀子は艶やかに微笑む。

「これですべて話したわ。向こうはあなたの怪我の状態をすぐにでも見たいと言っているの。あなたの決心がついたら言って」

 華耀子の言葉が右から左の耳に流れていく。彼女は竜二との師弟関係を解消する仕上げに、自身の話をしたのだろう。竜二に恋を諦めさせるためにとどめをさしたのだ。

 華耀子が部屋から出ていく。きっと誰かの練習時間なのだろう。竜二ではない、誰かの。

 もう動けない。こんなにも現実では原色の青い空が広がっているのに、自分の中に降る雨が強くなった気がする。闘志という炎が揺らめいて、消えそうになる。

 ひとつだけわかっていることは、竜二は競技場の中でだけ華耀子の目を惹き付けられるということだ。走れないただの男子大学生である自分では、街の雑踏に埋もれて、彼女は目にも留めないだろう。走るということは、何の変哲もない自分が輝ける唯一の方法なのだろう。そして走らない人がどうやって輝くのか竜二は知らなかった。知りたくもない。

 オレは走ることでしか輝けない。この期に及んでもそう思うのだった。

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