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初恋の君へ  作者: ななえ
大学生編
91/127

サマーゲーム8

サマーゲーム7と連続更新です。7からお読みください。

 関東選手権、準決勝。

 ちょうど雲の切れ間なのか、空からは弱い日が射していた。まんべんなく濡れた青いタータン舗装のグラウンドは浅い平面の海のように見える。その海の中で竜二は立っていた。

 水面の上を走る風は涼やかだ。夏にしては肌寒いような空気を吸い、肺を満たす。その際にかすかな膝のしびれを感じたが、無視した。

 一時間半前に行われた予選を通過してからは、華耀子に会わずに準決勝のスタートラインであるここまできた。さぞや華耀子はお腹立ちだろう。走り終わってコーチの元へアドバイスをもらいに行かない選手など、言語道断だ。

 だが、華耀子と顔を合わせてしまえば、彼女は一発で竜二の異変を見抜くだろう。膝に不安を抱えているとなれば、間違えなく出場を阻止する。

 こうして彼女から逃げ回ってる状況もどうかと思うが、どうとでも言い訳はできる。公園で疲れて寝ていただけだとでも言えばいい。向こうが信じるかどうかは別だが。

 竜二はスタート地点で名前のコールに応えて手を上げた。ぐるりと会場をさりげなく見回す。ここからでは観客の顔ひとりひとり見分けられはしないが、中田と思しき姿は見当たらない。

 あの男は具体的に何をしようというのだろう。一回りも違う教え子の華耀子に強い執着を示し、彼女を取り戻しに来たと言う。いったい誰から――オレから?

 笑いそうだ。そう思うとただのうぬぼれの勘違い野郎みたいな気がしてくる。彼女を取り戻さなければいけないのは、竜二からではなく陸上からなのだ。彼女は絶対に陸上という“公”の領域に“私”を混ぜない。

 だが、中田なら華耀子を陸上から取り戻せる気がする。いや、もうすでに彼女の“私”の領域は彼が占めているのかもしれない。今回は“公”の部分も取り戻しにきたのかもしれなかった。

「位置について」

 アナウンスがゆっくりと会場の緊張を高める。スターティングブロックに足をのせて、目をつむる。

「用意」

 体勢を上げ、スタート前の一瞬に思う。中田が今現在あれほどの執着を華耀子に抱くようなことが過去にあったとするならば、きっと華耀子も中田を愛しただろう。自分たちは一般の人たちよりも強く、その才能に惹きつけられる。選手だった頃の中田の輝きは、抗いようもない魅力となって自分たちを捕らえる。

 だから、と竜二は気を引き締めながら思った。だからこそ自分は走らなくてはいけない。中田の過去の輝きに負けないように、華耀子が見る選手としての竜二の側面を際立たせなくてはならないのだ。

 号砲が撃ち鳴らされた。

 足が地面をつかんでいる感覚があって、一気に加速した。後半型の竜二はスタートはそう速くない。地を蹴り、前を走る選手の背中を捉える。

 跳ねた水滴を足に感じ、竜二はくそっと心中で毒づく。足が重い。痛覚を切っても、全力で走ることに体が拒否反応を示す。力をセーブしてしまう。

 その枷を必死で外そうとして、恐怖がそれを押し止める。そうこうしているうちにレースは終盤を迎え、二十秒あまりの戦いは終わりを告げた。団子状でゴールに飛び込む。

 足にブレーキをかけながら、電光掲示板の速報に目をやる。オレンジ色の文字が灯り、タイムと順位を告げる。自分のゼッケンの番号を探すと、三位だった。

 準決勝は各組二位以上の選手と、三位以下からタイムで二人が拾ってもらえる。一位、二位とほぼ変わらないタイムだったのでおそらく拾ってもらえるだろうと長年の経験から確信に近い予想をするが、準決勝で三位など今シーズン初めてのことだった。

 足をひきずらないように気をつけながら、グラウンドを後にする。思った以上に体力を消耗している。精神の向く方を無視して、肉体を無理に解放しようというのは、心身ともに疲労するのだ。

 グラウンドと外を結ぶ通路まで来てほっとする。ここなら暗くて誰も竜二の表情まで見えない。これから直接戦うかもしれない他の選手に弱っている顔など見せたくない。

 気が抜けたせいか、膝が笑う。そのまま否応なしに膝が折れ、体が傾いだ。まずいスタミナ切れだ。

 体を支えるために壁に伸ばした手をとったのは、人の体温だった。そのまま脇に手を入れられ、もう片方の手で肩を支えられ、倒れる前に支えられた。

 完全に体の力が抜けていなかったせいで、何とか支えてくれた人物を潰さずに踏ん張ることができた。もっとも、支えてくれた人物が、竜二よりも細く、背も低かったから不安になったというのもある。性別差があるから無理もないが。

「……タイミング良すぎや」

 かすれた声が笑みの気配すら漂わせて喉を越えた。いつだって、何だってこの人は、竜二のピンチに何喰わぬ顔をして現れる。

「コーチ……」

 自分の声はどこか満足気だった。

 体を折っているせいで、竜二の顔の側には華耀子のうなじがある。端から見れば抱き合っているように見えるだろう。

 何だか、久しぶりに華耀子の存在をきちんと感じた気がする。怪我を悟られないために逃げ回っていたというのもあるし、例え外見上は彼女と顔を合わせていても気持ちの余裕がなくて、自分をとりまく外まで見るゆとりもなかった。

 それに、走っていて気持ちいいと最後に感じたのはいつだったのか。オレは、最近たくさんのものを見落として生きてるんやないか、急にそんな気になった。

 それでも今、勝ちたいのだ。元いた大学の部員、監督、水泳セクションのコーチたち、そして自分の弱さに打ち克つだけの力が欲しい。

 けれど、今この一時だけ。

 竜二は自分を支える華耀子の背に腕を回し、一瞬だけ抱き締めた。アンタがいてくれるだけでオレは次もきっと走れる。だから頼む。この人を誰もオレから奪わんといてくれ、と。

 竜二が回した腕をほどくと同時に、華耀子が「由貴也」と傍らに立っていた彼をうながした。

「そこの医務室へ運ぶわ」

 華耀子の言葉に由貴也は無言で竜二に肩を貸し、医務室へ自分を連れていく。

 意識の混濁がましになった頃には医務室のベットに横になっていた。ベットのそばには由貴也がお目付け役よろしく立っている。華耀子に言われたのだろう。

 肝心の華耀子の姿は見当たらなかった。そういえばもやのかかった頭の隅で彼女がクラブのトレーナーを呼びに行くと言っていた気がする。

 そこで寝ている場合ではないとはっとした。一気に意識が覚醒する。クラブのトレーナーに膝に触られたら怪我がばれてしまう。それ以上に、中田が華耀子に近づいて、害をなすかもしれない。

 竜二は重い体を叱咤して、上半身を無理やり起こす。シーツにもう一度身を沈めたいという欲求を押し込んで、ベットから勢いよく降りる。

 足に靴をつっかけて、医務室を飛び出す。後ろから由貴也が追ってくるが、構わなかった。

 クラブのテントが見える場所まで行き、そこにクラブのトレーナーと話す華耀子の姿を見て安堵する。まわりに中田の姿はない。

「何やってんの、アンタ」

 遅れて由貴也が追いついて、竜二の後ろに立った。竜二は肩で息をしているのに、由貴也は涼しい顔をしている。その差に自分の体力が底に近いことを痛感する。

「由貴也。コーチの側から離れんといてや」

 竜二は遠くから華耀子を見つめながら由貴也に言う。由貴也が華耀子の側にいれば、中田も下手なことはしないだろう。

「俺、コーチにアンタから目を離すなって言われてんだけど」

 と言いながらも、由貴也が使命感に燃えている様子はない。要は言われたことに何となく従っているだけで、これ以上付き人に向かない人物もいないと思う。

「今日由貴也はオレの付き人やろ。だったらオレの言うこと聞けや」

「何それ。横暴だね」

 口ほどには憤ってない様子で、由貴也は一応華耀子の方を見ていた。それを見届け、竜二は由貴也を置いてその場を離れる。

「アンタ、どっか悪いでしょ。膝?」

 不意に竜二の背中に、由貴也が声をかける。竜二は立ち止まるものの、振り向かなかった。

「コーチも気づいてるよ」

 だからさっきアンタを通路まで迎えにいったんだし、と由貴也は続けた。

 竜二はゆっくりと振り向いて、由貴也を瞳に捉える。

「今日さえもてばいいんや」

 たとえ体が万全な状態でも、華耀子がいない明日など何の意味がある。竜二は今度こそ振り返らずに由貴也の前から去った。

 スタジアムの外を歩いていると、弱々しかった太陽にさっと雲がかかり、にわかにまわりが暗くなる。また降りそうや、そう思ったのとどちらが早かったのか。案の定雨が降り始めた。

 レインコートも傘も、すべて置いてきてしまった。ジャージの上着さえ持っていない。体を冷やさないために、竜二はスタジアム外のバス停の待合い所に駆け込んだ。

 トタンの壁と屋根の粗末な造りだが、雨に当たらないだけでもいい。大柄でしっかりした体格の竜二が座ると壊れそうなベンチに腰かけると、集中力も虚勢も緊張も、何もかも切れた。

 ふっと体の強ばりが解けた瞬間、膝が鋭く痛み始めた。意識的にその痛みを抑え込むことも叶わず、ベンチの上で体を折って、膝の上に守るように手をのせ、その上に額をつけて痛みにひたすら耐えた。

 間断なく続く熱く、激しい痛みに、トタン屋根にうちつける雨の音さえよく聞こえない。一時間後にある決勝を走れるのかという焦りが胸に沸き上がってきたが、痛みの脇で走るしかないという結論にたどり着く。

 走れるとか、走れないとかの問題ではない。走るしかない。それ以外、走りの才に恵まれただけの、ただの二十歳の大学生である竜二に、華耀子をクラブに留まらせる方法が見つからない。

 華耀子はかつて竜二には、『あなたが倒れるときは私も倒れるわ』と言った。だが、その逆は、と考えずにはいられない。華耀子が倒れた時、自分はきっとともに倒れさせてはもらえないだろう。竜二が倒れたいと願っても、それを華耀子が許さない。

 だから、竜二は走る。華耀子を守るために。

 どれぐらいの時間をそうしていたのか。竜二は顔を上げる。そろそろ決勝に向けてアップを始めないといけない。

 膝の痛みに歯を食いしばりながら軽く体を動かし始める。コンクリートの地面はやわらかい反発力に欠けるため、膝に良くはない。だが、アップ用に解放されている小トラックにはいけない。華耀子に捕まるかもしれないからだ。

 もう膝のみならず足全体が痛いような気がする。でも、自分はまだ動ける。クラブの、華耀子の選手として走れる。

 まもなく二百メートル決勝出場選手の召集アナウンスが流れてきた。竜二は顔を引き締め、スタジアムへ歩き出す。これから戦う相手に弱味を見せるわけにはいかない。

「行かせない」

 スタジアムへ足を踏み入れようとした竜二の腕が背後からつかまれた。今日、ずっと警戒していた可能性が真実になったと告げる声だった。

 竜二は仕方なく足を止める。つかまれている腕の方へ、顔を向ける。

「頼むから離してくれへんか、コーチ」

 思ったよりも落ち着いた声が出たが、内心は切羽詰まっていた。華耀子と争いたくはない。

「そんな体で、行かせるわけないでしょう!」

 華耀子がめずらしく語気を荒げて竜二を怒鳴りつけた。腕をつかむ手はきつく、離す気はなさそうだ。

「私からも、クラブのトレーナーからも逃げ回って……膝が痛むんでしょう!」

 華耀子は竜二に答える暇も与えずに、次の言葉を継ぐ。

「棄権して、すぐに病院に行くわよ。これ以上走らせるわけにはいかない」

 スタジアムとは反対の方向に、華耀子は抱え込んだ竜二の腕を引く。

 棄権して、病院に行って、治療して、休養をとって、リハビリして、復帰して――その先に何がある。コーチを失う自分に何がある。華耀子も守れない自分に何がある。

「……棄権っ、せえへんっ!」

 口にした途端、怪我への恐怖が吹き飛んだ。コーチ、ごめん、と心中で謝り、華耀子につかまれている腕を渾身の力で振り払った。華耀子が体勢を崩し、その手が竜二の腕から離れていく。

 男の全力で振り払われた華耀子がさすがに大きくよろめく。その姿は、一年前に自分が手を振り払った元カノに重なり、いいようもない痛みが、竜二の一番弱い所を突いた。

 現実の華耀子と、元カノの残像と、どちらともいえずに胸の中で何度も謝りながら、竜二は華耀子の隙をついて駆け出す。再三、選手の召集のアナウンスが鳴っていた。

「竜!」

 後ろから声が追いかけてきたが、竜二はもう振り向かない。出場選手の集合場所であるテントまで一気に駆ける。

 苦しいのは息が切れているせいだけではない。胸に重石がつかえている。コーチ、そんな必死な声で呼ばんといてや。オレ、まだ走れる。まだ動ける。まだアンタの役に立てる――……。

 後ろ髪を引かれる気持ちを全力で断ち切って、テントにたどり着いた。息を切らした竜二を集合していた選手が怪訝そうな顔で見る。中にはわかりやすい軽侮の目を向ける者もいた。本番前に息切れをするほど体力を使うヤツなどとるに足らないと思われている。

 竜二はそんな視線をすべて受け流し、テントの中で粛々と準備をする。渡されたゼッケンをつけ、息と心を整える。トラックに立ち入れるのは選手だけだ。華耀子はここまで追ってこれない。

 思わず、華耀子を振り切って逃げてきた方を見たくなるが、こらえた。オレはまだ走れる。胸の中で何度も何度も唱えて、自分を強化していく。

 頭痛の波のように、膝が神経に障る痛みを発するが、そこに集中し、膝の痛みを無視する体勢を整える。思いっきり走るために、自らの体への気遣いは捨てなければならない。

 スタートラインへ向かう道すがら、自分の呼気がやけに大きく聞こえる。これ以上ない不調だ。だが、この体の不調は警告でもある。取り返しがつかなくなる前に、自身の体を守るために身体の機能を減退させている。

 だが、今回の勝利は、それを超えたところにある。不調という体の枷と、怪我への恐れという精神の鎖を引きちぎった時に限界を超えられるのだろう。

 スタジアムの歓声がひときわ大きく響く。花形である百メートル走には及ばずとも、二百メートル走もそこそこに人気種目である。しぶとく雨が降り続ける中、二百メートル走決勝を告げるアナウンスに観客は歓声で応えた。

 割れんばかりの歓声も、称賛も、栄誉も今はいらない。勝利だけが欲しい。

 位置について――用意。その流れを竜二はやり過ごすようにこなす。しんとスタジアムが静まり返る中、竜二は号砲音だけを待っていた。

 このスタートラインに並ぶ八人中、三位以内に入ること。それが二十数秒後、ゴールに入る時の条件だ。

 目をつぶり、すべての感覚を使って耳をすますと同時に、ピストル音がスタートを告げた。何も考えずに足がスターティングブロックから離れて飛び出す。

 体を起こす際、雨が顔に当たった。けれども顔をしかめるのは雨が不快だからではない。スタートから身を起こすという一連の動作でおそろしく膝に負荷がかかっているのがわかったからだ。本番では練習とは何もかもが違う。緊張という普段とは違う重力がかかる中、体を動かすのは普段の何倍もの負担がかかる。

 膝という体の連結部が、軋んで嫌な音を立てているのが体の中で聞こえる。走るという動きの中で膝が遅れている気がする。体が竜二の意思に反して、膝を庇おうとする。

 くそっ、庇うんやない――!

 胸の中で自らの防衛本能に叱咤する。竜二は奥歯を噛み、膝に力をこめた。途端に次の歩幅がぐんと伸びる。走りが軽快になる。

 風を感じた。自分の前に選手はいない。ただ、竜二と並走している選手が三人いる。

 もっと速く、速くと、鞭をくれるように自分の体へ命じる。自分から火花が出ているような気がした。限界だという叫びを、前へ進む気持ちでカバーしている。

 完全には横を走る選手を抜きされないまま、ゴールの白線をとらえる。死にそうに苦しいが、自分が半身、他の選手よりもリードしているのを感じる。

 あと少し、あと少し。このまま走れば日本選手権の切符を手にすることができる。

 ふっと華耀子の顔が脳裏に浮かんだ。オレはまだアンタとどこにも行ってない。日本選手権にも、インカレにも、世界陸上にもオリンピックにも行っていない。ふたりでそこまで走っていきたい。

 あと、ゴールまで数歩、と思った刹那、重力が数倍になったかのような重さに見舞われた。何だと疑問を持つよりも早く、体の関節に力が入らなくなる。“走る”という体の形が、バラバラにほどけていく。

 あと少し、あと少しやのに――!!

 あと一、二秒足が動けばいいだけなのに、膝ががくがくと震え、自らの体を支えることすらできなくなる。発するメッセージを無視し続けてきた体からの反逆に、歯を食いしばって抵抗するも、竜二はついに膝を追った。

 膝立ちになった竜二の両脇を、選手が走り抜けていく。彼らはそのまま勢いを殺さずにゴールへ飛び込んでいった。

 コース上には竜二だけが残される。自分は戦いに敗れ、そして永遠にゴールできない。糸が切れた操り人形のように、もう体が動かなかった。

 自分に何が起こったかわからず、呆然とするも、それ以上の思考を許さないかのように、痛みの大波が竜二をさらった。

「うあっ……!!」

 息ができない。すべての感覚が痛みに向かう。吐き気すらこみ上げてくる。

 膝を両手で抱え、青い地面にくず折れるように額をつける。濡れた地面は竜二の顔を汚す。

 チカチカと目の前が明滅し、モノクロの情景が竜二の前に表れた。あれは去年の梅雨の頃で、こうして濡れたグラウンドに横たわっていた。いや、地面に顔を押しつけられていた。

 部活の二軍の選手たちが竜二を取り囲んで、その中のひとりが竜二の頭を押さえつけていた。

『お前、一軍でこうやって膝壊されたんやってなぁ。今度は俺らがやったろうか』

 他の誰かが、地面に倒れる竜二の膝裏を靴先でつつく。恐怖に体が痙攣するように大きくひとつ震えた。その竜二の無様な怯えに、まわりの部員たちがわいた。屈辱だった。

 自分はあのどうしようもなく暗く陰惨な場所から脱したのだと思っていた。華耀子と出会って、日の当たる道をもう一度歩き始めたのだと思っていた。

 だが今、あの時の怪我がもとで行く手を阻まれた。そして悟る。この古傷は心身ともにこれからもついてまわるだろう。

 立ち直ったと思っていたのは自分だけで、あの膝を壊された時からずっと、自分は敗北と屈辱という汚泥の中に足をとられているのかもしれない。

 雨が降る。立ち上がろうともがくが、叶わなかった。







 由貴也に肩を借り、スタジアムの外に出ると、華耀子が当然ながら険しい顔をして待っていた。

「由貴也、ここで竜二と待っていて。すぐに車を回してくるから」

 由貴也に竜二の荷物とジャージを渡し、華耀子はすぐにきびすを返す。その背中に竜二は「コーチ」と呼びかけた。

「お説教は後。すぐに病院へ行くわよ」

 いつもより早口でそう言って、華耀子は竜二の返事など待たない。竜二はその背に無理やり声を割り込ませた。

「コーチ、オレまだ走れる」

 さすがの華耀子も足を止め、振り返った。面食らった顔をしている。

「あなた、何言ってるの」

「怪我なら平気や。次の大会ではこんなヘマはせえへん。表彰台にのってみせるわ」

 自分の声に必死さがにじんでいて、これではダメだと焦る。事実必死だった。雨で濡れた前髪から滴がたれて視界の邪魔をする。幾度もまばたきをして、華耀子を瞳の中にとらえ続けた。

 それでも雨水が瞳に入って華耀子の姿がにじむ。嫌だ。まだアンタとどこにも行けてへんのに。日本選手権にも、インカレにも、世界陸上にもオリンピックにも――……。

 華耀子はめずらしく感情が先行したように竜二の両肩をつかんだ。

「あなたはどこまで無茶をすれば気が済むの!」

 ずっと必死で、まわりが見えていなかった竜二は、自分のやっていたことが“無茶”だと、初めて知った気がした。

「これ以上やれば選手生命に関わる! どうしてそれが理解できないの!!」

 華耀子に感情に任せて体を揺さぶられながら、選手生命に関わるという言葉を胸の中でぼんやりと反駁していた。選手生命って何だろう。体が元気でも心が元気じゃなければきっと走れない。

 アンタ以外の指導者なんて、オレは大嫌いや、竜二は強くそう思う。華耀子を失って、新しい指導者の下について、信頼できないままに時を過ごす。そうして永らえた選手生命にどれほどの価値があるのだろうか。

 目の焦点が華耀子に上手く合わない。自分は一体どうしたのだろうと思った思考と視界の端で竜二は何かがひっかかって目を留める。目を凝らすとそれは人形になり、男の姿が浮かび上がった。――中田がじっとこちらを見ている。

 彼の手に光るものが握られているのに気づいた瞬間、竜二は叫んでいた。

「コーチっ!」

 中田がナイフをつき出して、鬼のような形相で突進してくる。竜二はとっさに華耀子を引き寄せ、自らの身を挺した。

 中田の足音が高く響く。竜二は自分の体にナイフが突き立てられる光景を思い浮かべ、その来る衝撃に身を固くする。

 足以外に刺され、と念じて、目を思いきりつぶるも、いつまでたっても痛みはこない。ゆっくりと瞼を開ける。

 驚愕に叫んだ。

「コーチ!」

 血がアスファルトの地面にたれる。ナイフの銀色の光は、華耀子の手の中にあった。

 ナイフは竜二の左胸――心臓に突き刺さる寸前で、華耀子の手によって止められていた。

 華耀子が中田の手からナイフをもぎ取り、地面に落ちたナイフを蹴り飛ばした。ナイフは血を撒き散らしながら遠くへ滑っていく。

「由貴也」

 彼女が硬質な声音で由貴也に呼びかけると、彼は「はい」と返事をして、落ちたナイフを拾いに行き、無造作に自分のジャージのポケットにしまっていた。あまりに冷静な一連の行動に、ここで刃傷沙汰があったと気づいている通行人はいないだろう。

「コーチ、血が……っ!」

 ナイフを素手でつかんだせいで、華耀子の手からは大量に出血していた。竜二は手に持っていた自分のジャージでその手をくるむ。黒いジャージに血の染みはできないが、血液を吸って重くなった気がする。

 かばおうとして、かばわれたのは竜二だった。心臓を狙ったことといい、中田は最初から竜二を狙っていたのだ。

 華耀子は自失して地べたに座りこむ中田から目を離さなかった。彼を静かに見下ろし続ける。

「コーチ」

 華耀子が中田へ落ち着いたトーンの声をかける。華耀子の“コーチ”であった中田が弾かれたように顔を上げる。

「華耀子! もう一度やり直さないか。もう一度僕と走ろう」

 立っている華耀子に中田が膝立ちになってすがりつく。

「君のしたことを僕だけは許す。僕らは共犯者だろう? 華耀子っ!」

 瞳に狂気を爛々と輝かせ、中田は言い募る。だが、華耀子は動かない。感情の欠片すら見当たらない無表情で中田を瞳に収めていた。

「いいえ。私はもう走りません」

 ただ必要なことをのせているという無感動な声で、中田がさらなる言葉を発するのを制するように華耀子は続ける。

「私に短距離走の才はありません。あなたが期待するものすべて、ドラッグが作った記録です」

 ドラッグ。その単語に竜二は心臓が大きくひとつ鼓動を打つのを感じた。華耀子の今の言葉は、ドーピングをしていたことが前提となって発せられたものだった。

「私が戦うのはもう指導者としてのみです。彼らを指導することが今の私にとって最も大切なことです」

「それは君自身が走ることよりも?」

 愕然とした顔で中田が華耀子を見上げる。

「一流の選手であったあなたには、私の指導者としての喜びは理解できないでしょう」

 中田の理解を得るのをあっさり放棄し、華耀子は答える。

「僕よりも君が指導している彼らの方が大事なのか」

 悲鳴めいた中田の問いかけに、華耀子は少しもぶれず、揺らがず、間髪入れずに答えた。

「はい」

 華耀子の言葉が発せられた瞬間、目には見えない中田の敗北が決まった瞬間だった。彼の体がくずおれ、華耀子の足元に伏す。

「君を愛してるんだ」

 中田は華耀子の靴先でうずくまって号泣した。華耀子はそんな彼を無機質な目ではじいて見ていた。かつて華耀子に中田は陸上よりも何よりも、一番愛されていたのかもしれない。だが今、華耀子の中で中田の存在位置はずっと後退している。中田は今現在の華耀子を陸上から取り戻すことはできなかったのだ。

「由貴也」

 かたわらの由貴也を呼ぶ華耀子の声は、固くはあるものの、些少の感情らしきものがこもっていた。中田に対するような、何もない無ではない。

「悪いんだけど、来賓席にいるクラブの会長を呼んできてくれない? 優さんが来てると言えばわかるから」

 華耀子と中田の込み入った話になど少しも興味がないと明後日の方向を向いていた由貴也が「はい」と答えて歩いていく。

 由貴也が去った後、華耀子は泣き続ける中田を見ているようでまったく見ていなかった。視線が中田がいないかのごとく、彼をすかして見ている。

 その後、クラブの会長だという人が来るまで、華耀子は中田に一言も声をかけなかった。

 雨が降る。それは中田と華耀子の間にある見えない壁のようだった。

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