サマーゲーム6
翌日、膝の痛みはとりあえず治まっていた。
竜二は安堵のあまり、しばらく寮の自室のベットから起き上がれなかった。天井に差し込む朝日を眺めながら息をつく。
安堵の反面、竜二は恐怖に囚われていた。昨日感じたあの膝の痛みは、おそらく気のせいではない。膝が悲鳴を上げる予兆なのだ。
自分がこんなにもやわな体になっていたことに絶望する。少しの無理もきかない。
上体を起こして、何気なく窓の外を見る。カーテンの隙間から見える朝の街は、生まれたての日に照らされ暖められていた。
依然として外の風景を見ながら、トップアスリートというのは、と思う。トップアスリートというのは怪我と成長の紙一重に立っている。怪我をも辞しない覚悟で練習を重ね、限界を引き出す。無理ができないアスリートに臨界点は超えられない。
ベットから下り、無地の赤いタンクトップと、ランニング用のタイツを床に散らばっている洗濯済みの衣服の山から取り出す。竜二は少し考えて、タイツをミドル丈のものからタンスにしまってあったくるぶしまであるロング丈のものに変えた。太ももまでしか丈のないミドル丈のタイツで、膝を露出するのが嫌だ。
衣服を手早く身につけて、安っぽいプラスティックのシューズラックに行儀よく並べているいくつかのスパイクの内、ジョギング用のシューズを手に取る。陸上選手は用途によって何足ものシューズを使い分ける。試合用、練習用、トレーニング用、ジョギング用。もちろんすべて自分の足に合わせたオーダーメイドだ。
姿勢を正しく導く着圧タイツ、重心移動に優れたシューズ。もっというのなら、完璧にバランスのとれた日々の献立、快適な睡眠をとるための特注のマットレス。自分たちは着るものひとつ、食べるもの、身の回りのものすべてが走るためにある。
竜二はシューズを手に持ち、部屋を後にする。共同の洗面所で顔を洗い、寮を後にした。
夏の朝は早い。もう五時前には明るく、早起きのご老人たちが犬を連れて散歩している。竜二の練習場はそんなのどかな住宅地の坂道だ。
住宅地の真ん中にあるので、急勾配ではないが、適度に距離がある。夕方に練習をしていると、おもしろがって自転車のブレーキをかけずに下ってくる子供たちによく遭遇する。そしてブレーキがかかりきらなくて「助けてぇー!」と半泣きになっている悪ガキの自転車の荷台をつかんで急ブレーキをかけるのも日常茶飯事だ。
さすがに早朝ではそんな子供たちの姿はなく、竜二は思う存分坂道での負荷をかけた練習をするはずだった。が、そびえ立つ坂道を前にして、体が動かない。膝に負担をかけるのが恐ろしい。
そこで気づく。無理ができなくなっているのは体だけではない。心もだ。
立ちすくむ竜二に、後ろから「お兄さん、どうしたのー?」と声がかけられる。振り返ると、毎朝会う犬の散歩の中年女性で、繋がれたコーギーがあいさつ代わりに可愛く吠えた。
竜二はあいまいに微笑んで、くりくりした目を向けるコーギーをなでた。気持ち良さそうに目を細める犬と別れ、坂を上った。
フォームを意識し、余計な力がかからないように走る。傾斜走は筋力アップもさることながら、フォームの矯正ができる。正しいフォームで走れば、意外なほど登坂に力を使わない。
忸怩たる思いは、汗で流そうと思った。走り方を変えないと言ったときから、膝の故障のリスクは承知していたはずだ。その危惧が現実になったところで今さら何を惑う。
止まるな、迷うな、振り返るな。自分にそう言い聞かせながら走った。悩んでいる時間に走らなくては。
――中田は、オレの歳にはもう日本王者になっていた。
その事実は一層竜二を駆り立てた。日本選手権の予選、関東選手権まであと十日になっていた。
異変が起こったのは、関東選手権まで三日をきった頃だった。選手権に向けて軽めの練習になり、やっと時間が空いたので、竜二は電車とバスを乗り継いで遠くの病院まで膝を診てもらいに行った。近くの病院だとクラブにバレる可能性があるし、ちょうど片道一時間のところにスポーツ外来を掲げている医院があったのだ。
竜二が熱中症を起こした以後、華耀子は不気味なほど静かだった。だがそれは竜二にフォームを変えさせることをあきらめたからではない。むしろ逆で、竜二を静かに観察し、不審な点を見つけ、攻勢をかけようと狙っているようだ。
病院の待合室で竜二は祈るような気分で膝に触れた。頼むからもってくれ、と願う。膝の違和感は日毎増していく。けれども目をつぶるならつぶれるほどの違和感だ。
だが、スポーツ選手にとって違和感というのはすでに怪我だ。そもそも痛みというのは体が発する最終警告だ。その前段階が違和感である。このまま体を酷使することをし続ければ、やがて痛みがやって来る。
案の定、医者にはこれ以上激しい運動はしない方がいいと言われた。それは去年壊された膝の部位で、竜二ははいともいいえとも答えずにそのクリニックを出た。
自動ドアをくぐった瞬間、暑さが凶暴な塊となって竜二を包んだ。蒸した外気にさらされてたちまち体温が上がる。それなのに指先が細かく震えていた。
この震えは体温や気温のせいではない。恐怖だ。自分の膝は他の選手よりも弱いだろうという漠然とした不安が、確たる事実に変わった恐ろしさを鼻先に突きつけられた。
震えを押し込むように拳を握る。今さら何を怖じ気づく。走り方を変えないと決めた時に怪我の可能性だって考えたはずだ。それでも関東選手権で結果を出すことを求めたから、即戦力である現状のフォームのままで突き進んだのだ。怪我を危惧してでも勝ちが欲しかった。膝を壊された一年前の悔しさを、むなしさを、悲しみを、ロスした時間を埋めたかった。
立ち止まったら、今まで冒してきたリスクが水の泡になる。怪我までいかないといえども、この違和感を養生できるだけの時間があれば竜二は迷わずそうしただろう。けれども今、そんな時間はないのだ。躊躇している間に華耀子の馘首か辞任が確定してしまう。
陸上選手としての次元を超えた感情が、心が言う。あの人を失いたくない、と。
その刹那、現実を思い知らせるように、膝の裏の固い感覚を思い出した。一年以上も前のあの春の夕方、倒れた自分にのしかかった相手の、膝頭の固さがよみがえる。次いで膝に体重をかけられる感触が生々しく竜二を刺激する。
過去にとらわれてなるもんか、と竜二は早足で歩き続けようとする。けれども、耳の奥でまるで張りつめられた糸が奏でるような、甲高い音が響く。それは竜二にとっての不協和音だった。
歩き続けていた足を止める。心拍数がにわかに上がり、息が乱れる。自分の体の内部が何者かに引っ掻き回されている気がする。突如として襲った不快感に、「うっ……あ!」とうめいた。
自分の出した声が遠ざかる。その代わりに何かが急速に近づく。次の瞬間、竜二の頭に膨大な映像が流れ込んできた。
『お前が弱いからだ』
監督の声がする。一年前までの竜二の神。
お前が弱いからだ。お前が弱いからだ。繰り返し誰かがそう言う。怪我から立ち直れないのは竜二のせいだと言う。教えを乞う手は振り払われる。
場面が変わった。地元の公園の噴水が見えた。竜二の通っていた高校にほど近いその場所で、自分は小柄な女の子と言い争いをしている。去年つきあっていた歳下の女の子だった。彼女から心配そうに差し出された手を、今度は竜二が振り払う。竜二よりずっと小さな彼女はよろめいてしりもちをついた。自分が手を振り払ったというのに、振り払われたように指先が痛かった。
振り払う手、振り払われた手。どんどんいろんなシーンがとめどなく流込んでくる。それはすべて去年一年に起こった出来事だった。
記憶が、戻ってくる。
今まで、竜二は低迷し続けた去年の記憶を断片的にしか持っていなかった。そうでもしなければ情けなくて、つらくて生きていけなかったから、みじめな姿は後々まで竜二を苦しめるから。
その最低限の自己防衛が崩れる。鮮明な記憶の奔流は、竜二にもう一度闇を見せようとする。
固く目をつぶる。思い出したくない。嫌だ。嫌だ。誰か。誰か、誰か――……。
助けを求める中、不意に、ある後ろ姿が脳裏に浮かんだ。コーチ、と竜二は小さくつぶやく。その存在を、胸の中で握りしめる。気分の悪さが少しだけ治まった。
それでも記憶の再生は続いていく。竜二は耐えかねてクリニックの外にあるベンチに腰を下ろした。すぐに姿勢を保っていられなくなり、上体を倒し、ベンチに預ける。
次々とあふれだす記憶が、欠けた屈辱を完全なものとしてよみがえらせる。膝を負傷し、一軍から二軍へ移ったとき、嫌がらせは激化した。二軍。三軍ほどプライドを捨て、諦めることもできず、一軍になるのには何かが足りない者たち。監督からもコーチ陣からも、先輩からも見放され、一軍から落ちてきた竜二は彼らの格好の餌食だった。
――速くても意味ないんやな。こうやって落ちてきてんやから。
耳の奥で二軍の部員の声がする。無邪気さを装って、彼は続ける。
やけど、アンタには過去の栄光があるんやっけな。いいなぁ。いつまでも思い出して悦に入っていられるやん。
順調にこの国の陸上界の中枢まで伸びている道から竜二は転げ落ちた。その転落の惨めさを、二軍の選手たちは笑う。お前なんか過去の栄光があるだけだという。一軍の選手たちは竜二を落として、そのままもう省みることをしない。竜二がいなくなって空いた場所に誰が入るかに必死だ。けれども、それすらできない二軍の選手たちはひたすら竜二を笑うのだ。
思い出したくないのに、向けられる嘲笑の声が頭の中で鳴り止まない。
コーチ、と胸の中で呼ぶ。何度も何度もその姿を思い起こして、少しだけその存在に救われる。アンタが来てくれて、もう一度「あなたをひとりで走らせはしない」と言ってくれれば竜二は何度でも立ち上がれる気がする。でも、そんなことはあり得ないのだとわかっていた。
今はきっと違う誰かの指導時間だ。平等を掲げる華耀子が来れるはずがないのだ。
あの人は自分ひとりのものではない。その事実にこれほど打ちのめされるのは、今この瞬間の他になかった。
誰かとぶつかり、竜二は我に帰った。ハッと顔を上げると、夕焼けを背負った見慣れた顔がそこにある。
「由貴也……」
目の前に由貴也がいることにも、どこか茫洋とした響きの自分の声にも驚く。いつのまにか竜二はクリニックからクラブの近くの寮にまで帰ってきていた。人間、打ちのめされていても案外普通に生活できるのか、と新たに発見する。
ちょうどクラブでの練習を終え、帰る途中だったと思しき由貴也は、数秒竜二に視線を合わせていたかと思いきや、無言で後ずさり、そのまま背を向け逃げ始めた。思いもよらぬ行動をとられて、竜二は思わず追いかける。
荷物を持っている由貴也と手ぶらの竜二ではどう考えても竜二の方に軍配が上がる。間もなく追いついて、由貴也の首根っこをつかんだ。
「何で逃げんねん!」
リードをつかまれた犬のような由貴也はさすがに逃亡はあきらめたらしく、ぼそぼそと「アンタにつかまると面倒そうじゃん」と言った。
「別にとって食うわけじゃあらへんやん」
そう言いながらも、実際には由貴也をとっ捕まえた。見知った顔にほっとしたのだ。こうして誰かと話していれば、普通に戻れるのかもしれないと思ってしまう。
そんな竜二の淡い期待を裏切るように、さっと視界が暗くなった。
――みっともないなぁ。
唐突に耳の奥から声がする。目の前の由貴也の顔がぐにゃりと歪む。夕焼けの朱が濃くなる。
怪我が治っても走れない竜二を見て、二軍の選手が笑う。自分たちの才能が足りないから、彼らが望むのは才能のある選手の破滅だ。彼らは竜二を自分と同じ、いや自分たちより下へ沈めようとする。沈む。足がつかないところへ。誰の助けの手も届かないところへ――……。
「竜……?」
由貴也の怪訝な声が幻影を破る。竜二に腕をつかまれて、顔を凝視されていた由貴也は竜二の様子を一瞬だけ探った後、ふいっと顔を反らした。
「手、離してくんない? 痛いんだけど」
「あ……」
竜二は「ごめん」と言って由貴也の腕を離す。けれども、由貴也がさっさとその場に竜二を置いて帰ろうとするので、再びその腕をつかんでしまった。
「由貴也……今日、アンタの部屋に泊めてくれへん?」
竜二の申し出を聞いたとたん、由貴也はほらやっぱり面倒なことになった、という顔をして息をついた。
由貴也との押し問答の末、彼への貢ぎ物であるアイスを山ほど買わされ、やっと竜二はその部屋に踏み込むことができた。
由貴也の部屋は高層とかタワーマンションとかいうほど高くないが、この地方都市では十二分に高い建物だといえるマンションの最上階だった。セキュリティのためだろう。変わった形をした鍵を穴に差し込み、ドアを開けたその先には、学生には不釣り合いなほど広く、快適そうな住まいがあった。
白い壁や天井には染みひとつなく、新しいもの独特のにおいがした。
竜二が放心したようにはーっと部屋を眺めていると、由貴也は竜二の手からコンビニで買ったアイスを強奪し、ビニール袋に入ったまま冷凍室に突っ込んだ。おおざっぱにもほどがある。冷蔵庫の扉がビニール袋を噛んでいるのに見かねて、竜二はアイスをきちんと袋から出して冷凍室に入れ直した。
由貴也はそんなかいがいしい竜二を尻目に、部屋の隅に山を築いている洗濯物から必要なものを出し、バスルームに向かってしまった。客人、といっても招かれざる客に近い竜二は、部屋の主を失い、所在なさげに部屋に佇んでいるしかなかった。
カーテンが開いたままの南向きの窓から、夏の夜空が見えた。遮るものがないので、遠くまで見渡せる。地平線はまだ夕刻の赤さを残していたが、上天には星が瞬いている。
窓から室内に視線を戻す。由貴也の部屋はあまり物はなかったが、ないなりに雑然としていた。それでもここがかなりいい物件だというのはわかる。
由貴也が裕福な家庭に育ったというのは何となくわかっていた。彼はお金の使い方に力が入っていない。竜二がスパイクを新調するたびに親に感じる申し訳なさを、彼は感じたことはないのだろう。
竜二の家は決して余裕があるわけではない。練習費に、ウェアや靴などの消耗品代、遠征費に大学の授業料などは親と歳の離れた兄が青色吐息で払ってくれていた。
竜の走る姿が好きなんや。そう笑う六つ上の兄を思う。いつまでも竜二に送金を続けていたら、結婚だってままならない。
次の日本選手権でいい成績を残せば、陸上連盟の強化指定選手になれる。そうすれば、強化費としていくらかの金銭と補助をもらえる。そうすれば、家を少し楽にできる。
――アイツはもう使えへん。
耳の奥で監督の声がする。記憶の蓋がとれてから、竜二が望みや希望を胸に灯すたび、それを潰すように過去の記憶が出てくる。
出てくんな、と竜二は壁に背を預けて座りこんだ。膝を立てて、そこに額をつけると、安堵する。外敵から身を守るように体を丸めて、自分ひとりの鼓動を感じる。
耳に、バスルームからかすかな水音が届いた。ここにいればこれ以上思い出さずに済む。自分の他に誰かの気配を感じるのは結構な安心をもたらすものだ。
竜二はうつむいたまま苦笑いする。こんな時に頼るのが男の家というのがしょっぱい。悲しいやら情けないやらだ。
竜二が顔を上げると同時に、暗闇の中で軽快な歌が流れた。唐突すぎるポップスに、驚いて肩を震わせ、次いで音源を探す。暗闇の中で、フローリングの床に無造作に放置された由貴也のスマートフォンが元気よく光っていた。
竜二はそのお菓子のCMソングを流し続ける携帯を両手に捧げ持ち、いそいでバスルームに向かう。扉の外から「由貴也、電話やで!」と声をかけた。
「出といて」
水音に混じって由貴也の無茶な要求が聞こえてきた。「自分で出ろや」と言い返す。
「じゃあほっといて」
「んな、ほっとくって……」
竜二が困惑ぎみに光続ける由貴也の携帯を見ると、広い画面には『着信 新野 香代子』と出ていた。
「電話、香代子ちゃんからやで!」
ほとんど怒鳴るように言うと、まもなく由貴也がドアを細く開け、腕だけ出してきた。携帯を渡すにもその手がぬれているのでためらい、いそいで部屋の隅の洗濯物の山からタオルを引っ張り出してきて、由貴也の手をふき、その上にやっと携帯を置いた。
世話のやけるやっちゃな、と竜二が息をつくと、バスルームのドアが開かれた。石鹸のにおい混じりの湿気が流れてくる。
Tシャツにやわらかそうな素材のハーフパンツを着た由貴也が、竜二の横を抜け、玄関に向かう。
「出かけるんか?」
竜二の問いかけには答えず、由貴也はサンダルをつっかける。濡れた髪からぽたぽたと水滴が垂れているのが見え、竜二はあわてて手に持ったタオルを由貴也の頭に「風邪ひくで」と被せる。それと同時に由貴也が玄関のドアをくぐって出ていった。
香代子ちゃんに会いに行ったんかな、と考える。いいな、と思った自分がいたことは深く考えないようにする。もし、由貴也が今の竜二と同じ状況なら、香代子の膝に頭を預けて休むのだろう。
竜二の予想に反して由貴也は二十分ほどで帰ってきた。手に紙袋を提げている。
「何やそれ」
竜二が紙袋を指さすと、由貴也は「持たされた」と答える。「香代子ちゃんに?」と聞くと、無言でうなずく。
「竜二と食べろって」
由貴也が床に置いた紙袋をのぞきこむ。中にはおかずやご飯が詰まったタッパーがたくさん入っていた。
タッパーを開けてみると、カレーピラフやサラダ、細かく刻んだ野菜を混ぜた卵焼きが入っていた。おまけに水筒には味噌汁まで入っている。
雑多な料理だが、これがなかなかおいしくて、由貴也と床にタッパーを広げ、直接箸でつついて食べた。
「それにしても、香代子ちゃん、由貴也のおふくろみたいやな」
一宿一飯の礼で、タッパーを洗いながら竜二がからかうと、由貴也はとたんに憮然とした顔で黙りこんだ。ご機嫌を損ねてしまったみたいや、と竜二は苦笑する。
運動選手の彼女なんて、半分母ちゃん見たいじゃないとやってられへんで、と竜二は胸の中で言う。だって今、俺、あの人と会ったら情けない顔するし、べそかくかもしれんもん、と。
運動選手なんて、外でかっこつけてる分、内実はこの上なくかっこ悪いのだ。
竜二は洗い物が済んで、空になったシンクに目を落とした。甘えられる香代子と由貴也の関係を羨ましく思いながら、そう思う自分を叱咤した。華耀子は竜二を生き返らせた。導いて、諭し、惜しみなく与える。そして同じものを見て、走っていける。これ以上ないことだった。
与えられるだけ、受けとるだけ。このまま漫然としているわけにはいかないのだ。華耀子に少しでも何かを返したい。そのために突き進むと決めたのだ。思い悩んでいる暇などない。
入浴を済ませ出てくると、由貴也が暗い部屋の中でベットに横たわり、携帯ゲームをしていた。竜二に視線を向けることもなく、「布団そこ」と部屋に備えつけの収納を指さした。わかってはいたが、由貴也に客にベットを譲るどころか、布団を出しておくという親切さすらない。
収納から客用と思しき布団をとりだし、床を延べる。しばらく干されていない布団は湿っぽかったが、それが気にならないくらい竜二は疲れていた。
しばらくして、由貴也が携帯ゲームの電源を消す。部屋は暗闇に包まれた。
天井を眺める。夜が更けるにつれ、雲が空を覆ったらしく、月明かりは射していなかった。
闇がざわついている気がする。暗がりに隠れているのは過去のあらゆる負の感情か。胸が騒ぐ。
自分の中に起きたこのさざなみが、どこまで波及するのか、今の時点では何もわからなかった。




