サマーゲーム1
サマーゲーム。その名の通り毎年夏に開かれるトラックアンドフィールドに重点を置いた大会である。
とかく駅伝などに代表される日本の長距離偏重の風潮を戒めるために開催される大会であり、協賛には冬の箱根駅伝のスポンサーとなっている企業が名を連ねている。
歴史が浅いゆえに知名度は低いが、国内トップレベルの大会だといっても過言ではない。なぜなら出場選手が全員招待選手だからだ。学生選手権など名だたる大会で活躍したことが招待の条件に挙げられており、大会自体が実力ありきで構成されているのだ。
しかし、今回のサマーゲームはいつもと趣を異にしていた。国内の有力選手のほとんどが間近に控えたオリンピックのため、この大会を回避したからだ。よって出場選手は自然といつもよりもマイナーとなった。竜二はその中のひとりだ。
「由貴也!」
竜二は競技場の下から観客席に向かって手を振った。見知った顔はこちらを向き、西日を浴びながら観客席と競技場を隔てる柵まで降りてくる。
サマーゲームは七月下旬に行われるため、日中の暑さを避けて夕方から始まる。日が傾き始めた今、竜二は念入りにアップを行っていた。
「お前、チケット当たったんか」
竜二は観客席まで近寄り、由貴也を見上げた。今日、彼は“同じ側”にいる出場者ではない。向こう側にいる観客だ。
期限つきとはいえ無事に陸上続行が決まった由貴也だったが、あまり戦績は芳しくなかった。県選手権以後もいくつかの大会で足の痙攣を起こし、決勝で棄権したからだ。もちろんサマーゲーム出場も逃している。暑さや体力不足の克服が喫緊の課題になっている。
サマーセーターという私服姿の彼は暑さのせいか下がりそうな目をして口を開く。
「あの人にもらった」
由貴也の指す『あの人』がコーチである華耀子のことだと知り、竜二は「ああ……」と声を漏らした。
サマーゲームの観戦チケットは完全なる抽選制だ。この大会は一般的に知名度が低いが、すべて実績を持つ招待選手というハイレベルな形態から、コアな陸上ファンに人気が高い。チケットはけっこうな倍率と聞くが、あの人はどうやって手に入れたのだろう。
その華耀子は今日もコーチとして竜二に随行しており、競技場の向こうで他のコーチ・監督とにこやかに話している。あの若さで、女ながら華耀子は顔が広い。日本を代表する選手だったというのなら、顔の広さも納得だが、華耀子の経歴はたぶんそうではない。いや、選手だったらしいということだけで、経歴自体もわからない。竜二はもう半年以上華耀子と一緒にいるが、いまだに謎が多い人物なのだった。
けれども、今の竜二にとってそれはささいな問題だった。華耀子を見るだけでにやつく。
「あんなあ、由貴也。聞いてくれや」
そのゆるんだ表情のまま、竜二は由貴也の服を引っ張って距離を近づけた。だが、すぐさまその近さを恥じるように竜二は顔を背ける。
「いやでも、こんな簡単に話してええもんなんかな。これはコーチとオレだけのヒ・ミ――」
「あっそ」
竜二がもったいつけていると、由貴也がいつもと同じ無表情で切って捨て、「じゃあ」とすばやく身をひるがえした。
竜二はあわてて由貴也の首根っこをつかむ。彼の薄情さと逃げ足の早さは相変わらずだ。
「まあまあ、そうは言わずに聞いてくれてもええやん」
竜二が由貴也の首根っこをつかんだまま、顔をよせると由貴也は露骨に嫌そうな顔をした。それを見ないふりをして、この大会は観客と距離が近くていいことだ、としみじみと思うことにした。
「今日な、これ終わったらコーチとメシ食いに行くねん」
「メシ?」
「そうや。でえとっつうやつや!」
うれしさについつい声が大きくなる。選手とプライベートな関係を一切持とうとしない華耀子だけに、昨日竜二は玉砕覚悟で誘ったのだけれども、案外あっさりと「いいわよ。私もあなたに話すことがあるの」とオッケーしてくれた。竜二は天にも昇る気持ちで、今を過ごしている。
由貴也は一瞬何かを言おうとしたが、一度口を閉ざした。
「……まあアンタがそう思うんならデートなんじゃない?」
おざなり極まりない口調で言い放った由貴也が今度こそ軽い目配せをして去っていく。本当にどこまでいっても他人に興味がない男だ。
ご機嫌ななめやな、と竜二は苦笑しながら息をつく。由貴也のそっけなさは今に始まったことではない。なかなか結果を残せない焦燥が彼をそうさせるのかもしれない。
それでも、以前の彼よりずっとよかった。一歩退いたところに立ち、真剣に陸上に取り組んでいるわけではないという姿勢を貫いていた由貴也。その小賢しさが竜二には目についた。
それに比べ、あのように感情をむき出しにするほうが、ずっと見ていて気持ちがよかった。本気で陸上に打ち込むがゆえのいらだちやあせりだ。
態度がぞんざいな以前に、由貴也が竜二のことを好意的に思っていないというのは知っていた。そもそも一緒にスタートラインに立つ身で、手放しにお互いのことが好ましく思っていると言える方がどうかしている。
けれども、由貴也が自分を無視できないことも知っていた。自分は由貴也よりも先んじている。いつか倒さねばいけない存在として視界にとらえているだろう。
その時、竜二は不意に少し離れた場所からの視線を感じ、視線を向けた。
白昼に亡霊でも見たかのように青ざめた顔でこちらを見つめるその人物に、竜二は驚かなかった。
今まで関東圏の大会にしか出場してこなかったが、このサマーゲームは地域を問わず、全国区で戦績の良い選手を集めている。ひとりぐらいは再会するだろうと思っていた。何せ、東西問わず名を轟かす名門校なのだから。
「……まさか、よりによってアンタが来てくれるととはなぁ」
竜二は低く呟く。この日をひとつの目標として生きてきた。そのためにあの地獄から這い上がってきたのだ。
夏の濃い影を身につけて竜二は笑う。昏い笑顔の先にはかつてまさに自分にのしかかり、膝を壊した人物が出場選手として立っていた。
胸の中で由貴也、と呼びかける。抜かせるなら抜かしてみればいい。倒せるなら倒してみればいい。オレはみんなに大事にされ、守られてるお前とは違う。甘ったれのお前とは違う。
自分は一度死んだも同然の選手だ。だからもう、何も恐いことなんてない。何だってしてみせる。
竜二は身をひるがえす。胸の中に渦巻いている熱は、復讐という名のものかもしれなかった。
午後九時、竜二は七位入賞の賞状を脇に抱えながら、財布を開いた。
サマーゲームではトラックアンドフィールドの大会にはめずらしく賞金が出る。そのささやかなる入賞金三千円を大事に財布にしまいながら、所持金額を確かめた。五千円と一万円が一枚ずつ。千円も賞金と合わせて六枚。小銭も充分だ。札入れにはレシートも溜まっていない。竜二はよっしゃ、と財布を閉めた。
バイトをしていない竜二がこんなにも多くの額を持ち歩くことは滅多にない。なおかつ、こんなに細かく紙幣と硬貨を持っているのは、会計でもたつかないためだった。
これから竜二は華耀子と食事に行く。竜二は大会を終え、ランニングウェアから着替えた後、緊張しながら彼女が車を回してくるのを競技場の前で待っていた。
大方の観客と選手が帰ってしまったのか、競技場のある運動公園は静かだった。ナイトゲームであるサマーゲームは、競技終了時刻が二十時という時刻ある。人々が帰路を急ぐのも当然だった。
駐車場の方向を見ながら、一体華耀子の話とは何なのかを考える。竜二はもしや、と考えてしまう。この夜という時間帯といい、このサマーゲームで結果を出した後というタイミングといい、まさかこれは――。
竜二の脳内に目をうるませて、胸の前で腕を組む華耀子が浮かぶ。『私もあなたのことが好きだったの』竜二は泰然と構えてその告白を聞き、ゆったりと微笑む。そして、白い歯を輝かせ、華耀子に手を伸ばす。
「竜二」
甘い妄想は凛としたよく通る声によって、風船が割られるように中断された。自分の世界に浸りきっていた竜二は「いやいや、告白は男らしくオレからやで!」と思わず叫んでしまった。その瞬間、竜二の視界から空想のきらめきは消えた。現実の光景が見えるようになってくる。
「竜二。何やってるのよ」
気がつくと竜二の目の前にはワイン色のセダンが停まっていた。その運転席から“本物”の華耀子がわずかに眉をよせて、顔を出している。
「あ、いや、何でもないんや……」
竜二は叫びとともに振り上げていた拳をそろそろと下ろし、羞恥とともにつくろった。最初からつまずいてしまった。今日は子供っぽさにつながるオーバーリアクションは封じようと思っていたのに。六歳の差は竜二にいくら背伸びをしてもしたりなくさせるのだ。
「乗って。荷物は後部座席にでも置いてちょうだい」
はい、と素直に返事をして、いそいそと竜二は助手席に乗り込んだ。竜二がシートベルトをしめたところで、華耀子が車を静かに発進させる。
「疲れたでしょう。寝てていいわよ。着いたら起こすから」
「あ、いや、大丈夫や」
視線を正面に向けたままで華耀子が言う。カーコロンもステレオもついていない華耀子の車は確かに寝やすそうだったけれども、竜二は疲れを押し殺して答えた。もったいなくて眠れない。いつもは“みんなのコーチ”が竜二のためだけにこんなに近くにいる。その凛とした横顔を、ギアを握るすらっとしたきれいな手を、竜二はこっそり眺めた。
車内にはタイヤの回る音だけが響いている。それが自分たちの間に流れる沈黙をより意識させる。
昨日、どんな会話をしようか考えてきたのに、まったく思い浮かばない。そもそも話しかけては運転の邪魔になるのではないかと思ってしまう。竜二にとって運転する女の人を相手にするのは初めてなのだ。
普段はおしゃべりであるはずの竜二の口はまったく役に立たない。
「そういえば、あなた英会話はどうなっているの」
竜二がとまどってまごついているうちに、華耀子の方から話を振ってきた。もっとも、別段彼女に話題を提供しようという意気込みはないようだ。
「行っとるで。毎週二回」
竜二はその話題に飛びついた。何を話していいかわからなくて困惑する以上に、竜二は人との沈黙が苦手だ。
「そう。やっておいて損はないわ。国際大会に行くときに役立つでしょうから」
前に視線を据えたまま、華耀子が答える。
事の発端は先日、竜二の通う私大で行われた前期の期末試験だ。必修科目である英語があまりにもできない竜二を見かね、華耀子が特訓を施してくれたのだった。結果、何とか単位は取得できたが、華耀子は継続して英語を学習するように勧めてきたのだ。
「じゃあ成果を聞かせてちょうだい」
竜二が「成果?」と返すと、いきなり華耀子が流暢な英語で話しかけてきた。
「コーチっ! ちょっと待ってや」
あわてふためく竜二を華耀子は一瞥し、「Don't speak Japanese」と言ってきた。んな無茶な、と思いながら、何とか頭から習いたての英語を引っ張り出す。
華耀子には言えない。ワンツーマンの英会話教室で、教師の方が竜二の大阪弁をおもしろがり、逆に教えるハメになっているとは。
しばらく中学レベルの問答をしていたが、「Are there any questions from you?」と言われた。『あなたから何か質問はありますか?』と竜二はかろうじで訳す。竜二の胸は否応なしに高鳴った。華耀子に聞きたいことは山のようにあるのだ。恋人はいるか、休日は何をしているのか、仕事の後は? そして竜二のことをどう思っているのか――。けれども残念ながら今の竜二の英語力ではどれも満足に尋ねられそうにない。無難に「Whatdo youdo for a living?」とたどたどしく職業を聞いた。
「I teach sprint」
華耀子は当然ながらそう答え、竜二は次の質問を出すべくない語彙をひねり出そうとする。
「……They're the best thing that ever happened to me」
竜二が質問を絞り出そうとうなっていると、華耀子が独り言のようにつぶやいた。竜二は「ん?」と思わず日本語で聞き返す。華耀子は答えなかった。竜二にヒアリングするだけの能力はなく、結局その言葉はわからずじまいだった。
そのうちに車が目的地に着き、停車した。そこで竜二は後悔とともに気づく。何も考えずに華耀子に着いてきてしまったが、こういうときこそ男がリードすべきではなかっただろうか。竜二の方から誘ったのだから、店ぐらいは率先して選ぶべきではなかったか。
前の彼女と自然消滅してからもう一年くらい経過している。中学一年の時に初めての彼女ができてから、こんなに長く恋人がいない空白あったことなどない。だから女性の扱いが下手になってきているのかもしれないと心配になってきた。
華耀子が選んだ店は個人経営と思しきこじんまりとした店だった。深い色合いの木目を生かした外装を、赤みの強い照明が照らしている。
これからは完璧にエスコートしたるで! と竜二は華耀子より先に意気込んで店舗のドアを開けた。その瞬間、うっとひるむ。ほどよい暗さを保った店内は、ジャズが流れ、大人の雰囲気を醸していたからだ。竜二とは今まで縁のない場所だった。
「竜。進んで」
背後から華耀子に声をかけられ、竜二は自分が入口で立ちすくんでいたことを知る。あわてて店内に足を踏み入れた。
「こんばんは」
華耀子が竜二の後ろから、店の店長らしき人物に声をかけた。彼はシェフ兼店長らしく、白いコック姿がよく似合う中年の男性だった。
そのままふたりは数回言葉を交わし、最後に華耀子が竜二のことを「私のみている選手」と紹介して、席に案内された。
「……よく来るんか、ここ」
椅子に腰下ろし、竜二は尋ねた。華耀子は自身の前に置かれていたナプキンを手にとり、答える。
「ええ。競技場から近いでしょう」
ああなるほど、と納得する。要は競技場で陸上を観戦した帰りにここに寄るということだろう。
こんなおしゃれな店で、渋い店長と知り合いで、華耀子には竜二の想像も及ばない世界を持っているのかと落ち込んだが、彼女のどこまでも“陸上前提”の姿勢は安心するものだった。自分と同族なのだと感じる。
机の上にさりげなくメニューが置いてあるのを見てとり、竜二は広げて華耀子に渡した。背伸びをした照れくささに口の端がひきつりそうになるのをこらえる。
「ありがとう」
華耀子は事もなげにそれを受けとる。彼女は動きのすべてがスマートだ。
その一連の流れを店長が微笑ましげに見ていた。対照的に竜二は途端におもしろくなくなる。自分はもう二十歳になる。そんな子供を見るような目を向けられるいわれはないはずだ。
とはいえ、むっとしたのは一瞬で、すぐに気分が降下する。わかってはいたことだが、華耀子といると、どうしても保護者と子供に見えるのだろう。
「竜二。あなたお酒は?」
激しく浮き沈みしていた竜二にかけられた華耀子の声ではっとする。
「あ、いや、オレ未成年やから」
「ああ、誕生日まだだったのね。ごめんなさい……私も車だから遠慮しておくわ」
そこで華耀子が目配せして店長を呼んだ。遅い時間のためか、竜二たちの他に客はおらず、店長はすぐにやってくる。
「マンガリッツァ豚ロース肉のグリエ グリーンペッパーソース」
その店長に向かって、華耀子は店内にかかるジャズを伴奏にして、歌うかのごとき滑らかさでオーダーする。竜二はそのあまりの長さに目が点になった。またいきなり英語の時間が始まったのかと思った。
あっけにとられているのは竜二だけで、その後も華耀子は長ったらしい料理名を噛むことなく連発し、店長は黙々とそれをメモした。最後に「あなたは?」と聞かれたが、「……お、同じもので」と言うのが精一杯だった。
間もなく料理が運ばれてくる。料理名と同じく、肉を焼いたよくわからないものだったが、おいしそうだった。空腹を強く意識する。
竜二がぎこちなくナイフとフォークを使いながら食べていると、華耀子が水の入ったグラスを口から離し、顔を上げた。シルバーの涼しげなピアスが揺れる。
「――今日を終えて少しは気が済んだの」
グラスの揺れる水面に視線を落とした華耀子の静かな声が胸をつく。何を聞かれているかわかっていた。竜二は自分の表情が強ばるのを感じた。
「……アンタが、アンタだって言ったやん! やられたらやりかえせって――」
感情の奔流に流されないようにうつむき、机の下できつく拳を握る。一月のあの冬の日、膝の怪我から立ち上がることができない竜二に華耀子は言ったのだ。このままで終わっていいのか。悔しくないのか。やられたらやりかえせ、と。
それなのに、華耀子は今日、復讐に目をぎらつかせる竜二を前に、「バカなことをするんじゃないわよ」と戒めた。再び走れるようになっても、竜二が味わった悲しみや苦しみが消えるわけではない。自分の膝に消えない傷を残したらやつらがいまだに憎かった。
「オレは卑怯なことは何もしてへん! 向こうが勝手に自滅しただけやっ」
競技が始まる前からこちらの姿を見て青ざめていた相手は、決勝で隣のレーンに竜二が立ったことで完全に平常心を失った。結果、スタートでフライングをして失格となった。
竜二にわざとぶつかり転倒させ、その上負荷をかけて膝を壊した相手と違い、竜二は直接的には何もやっていない。ただ、決勝で相手の隣のレーンにくるように仕組んだ。決勝の並び順は準決勝の順位による。相手の準決勝のレースの方が先にあったので、それを踏まえて計算し、自分の走りに反映させたのだった。
激昂した自分を恥じるように、竜二は目を伏せた。ずっと日の当たる場所を歩んできた。だから自身の内にある負の感情との付き合い方がわからないのだ。
「……あなたが陸上選手として上になればなるほど、他からの嫉妬は増える。それと上手くつきあいなさい。いちいちとりあってたら身がもたなくなるわ」
それに、と華耀子はつけ加える。
「言っておいたわ。向こうの監督さんに『良い子を譲ってくださってありがとうございます』って」
しれっと華耀子は言ったが、それは嫌み以外の何物でもなかった。竜二は面食らう。
末は日本陸上界を背負って立つ逸材と、鳴り物入りで関西の陸上名門私大に入学した竜二だったが、部員の策謀により膝を壊した。その時、監督は見て見ぬふりをした。そして使い物にならなくなった竜二をいとも簡単に捨てた。後は底まで沈んで、ゆっくりと壊死していくはずだった竜二を救ったのはコーチとしても選手としても実績のない華耀子だった。
竜二の鮮やかなる復活だけでも向こうの監督には耐え難いだろう。名将、名伯楽ともてはやされたにも関わらず、コーチとしてはほんの駆け出しの華耀子に負けたのだ。それをさらに華耀子本人がダメ押しかのごとく直接嫌みを言いに言ったのだから、プライドずたずただろう。
「コーチ、そりゃえげつないんとちゃう?」
「そうかしら」
相変わらず華耀子は悪びれもしない。その姿を見て、竜二は知らず知らずの内に表情がやわらいでいた。
自分の中にある負の感情はどうしても消すことはできないが、それでもあの怪我がすべて悪いとは言い切れない。竜二が膝を壊さなければ、華耀子とは出会えなかった。こうして共にあることなどできなかった。
過去はどうあれ、今の自分はまぎれもなく幸せだった。
「過去のことを許せとは言わないけど、立ち止まっている暇がないのはあなたにもわかるでしょう」
華耀子の声音は先ほどまでとまったく変わらなかったけれども、竜二は姿勢を正す思いで聞いた。たぶんここからが本題だ。
「走り方を変えたらどうかと思うの」
机の上に肘をついて組んだ手を見ている華耀子を前に、竜二の彼女に向ける好意は飛んだ。今、自分が向かい合っている人は純粋にコーチであり、自分は選手だ。そこに男女として何か考える余地はない。
「走り方を変えるって何でや。どこに問題があるっていうんや」
瞬時に陸上選手に切り替わった思考で竜二は応じる。今の竜二は怖いくらい順風満帆だ。シーズン入りから急激に調子を上げた竜二は、すべての大会でメダルをもらうか、入賞するかの土つかず状態だ。この走り方を生かしながら、改善していこうというのなら何の異論もないが、華耀子はそれを根本から変えるという。
「別に今の走りが悪いのではないわ。タイムも好調に延びているし」
「じゃあ何で――」
「膝に負担がかかりすぎるのよ」
華耀子に指摘され、竜二はぐうの音もでなかった。
竜二の用いるストライド走法は広い歩幅が特徴だ。それだけに着地の負荷も大きいため、体力を消耗し、体に負担をかける。膝の古傷にダメージを与える最たるものだった。
「でも、オレの持ち味は広いストライドや。それをなくしたら……」
それをなくしたらどうなるのだろう、と思った。竜二は日本人離れしたストライド――歩幅の広さを持っている。そもそも、“日本人離れ”したところがなければ短距離など走れない。黒人が上位を占める短距離界において、身体的に劣る非ネグロイド系の日本人が活躍するのは困難を極める。“日本人”の型を破らねば世界に通用しないのだ。
「あなた独自の走り方を見つけましょう。今のままではあなたは短命の選手で終わる可能性がある」
竜二は何も言えなかった。華耀子の言っていることはわかる。自分が他の選手よりも怪我のリスクが高いことは痛いほどわかっている。けれども、今が好調なだけに、走り方を変えることにためらいが生じる。陸上選手にとって走り方を変えるというのは、一般人が無意識に行っている呼吸の仕方を変えるに等しいのだ。
「とりあえずよく考えなさい。答えが出たら教えて。あなたの膝の状態を分析しながら二人で走り方を考えましょう」
竜二は無言でうなずく。華耀子は注意深く竜二の様子をうかがいながら、この話を切り出すタイミングを狙っていたのだろう。ためらいや淀みがなかった。
去年の出会ったばかりの頃や、春先の立ち直ったばかりの頃の竜二は、自信というものを喪失していた。その状態では走り方を変えることに伴う、長の戦績の低下に耐えられない。だから今、ある程度の成績を上げ、自分自身に対する信頼と自信を回復した時点でこの提案をしたのだろう。
自分は大事にされている。たとえそれが選手としてであっても、去年一年散々粗略な扱いを受けた竜二にとって涙が出そうなほどうれしいことだった。
「あの、コーチっ……」
この人の側に長くいたい。けれども今、この人の一番役に立つ選手でありたい。前者のためには息の長い選手であることを要し、後者のためには即時に結果を出せる選手であることが必要だった。それは相反することだ。
選手としてのジレンマを解消するために、選手ではない“五十嵐 竜二”個人が声を発する。想いがあふれる。
「コーチっ、オレ……」
アンタのことが好きや。その声は喉を越えなかった。華耀子の視線が竜二の心を縫いとめたからだ。
別段強い視線ではなかった。けれども、一直線に注がれるそれは異様な迫力を有していた。彼女の顔にかかる影が濃さを増した気がする。
「お手洗いにいってくるわ」
その隙に、華耀子はするりとした身のこなしで、席を立つ。残された竜二は心臓のあたりのポロシャツの生地を手で握った。
心臓がいやに大きな音を立てている。深夜、暗闇の中からじっと見られているような華耀子の瞳だった。
これは明確な拒絶――?
竜二は疑問に思う。が、自分のやるべきことを思い出して、あわてて席を立った。早くしないと華耀子がトイレから戻ってくる。
わたわたと立ち上がった竜二は店長に「すんません、先に会計お願いします」と声をかけた。イイ男は先に会計を済ませとくべし、とこの前立ち読みした男性誌に書いてあったのだ。
レジの前に移動して、店長に金額を告げられる。自分が払える額だとほっとし、財布を開けた。
「一括で」
安心したのもつかの間だった。いつの間にか背後にいた華耀子が、竜二が紙幣をのせるよりも早く、クレジットカードをキャッシュトレーに置いたからだ。未成年の竜二が持っていないクレジットカードは銀色の光沢を冷たく放っている。
「竜二。あなたは余計なことを考えなくてもいいの」
ここはオレが、と言う前に、華耀子に先んじて声を出された。オレの男のプライドっつうもんはどうなるんや、と思いながらも、スピーディーに会計は進んでいく。
そこで竜二は気づいた。これはあくまで、どこまでいってもコーチと選手としての行為なのだと。だからこそ華耀子は竜二のプライドを傷つけてでも支払いを拒んだ。
竜二はがっくりと肩を落とす。どうやら自分は、サマーゲームでは結果を出したが、華耀子には完敗したようだった。




