スタート・ゼロ13
斜陽がスタジアムを煌々と輝かす。百メートル決勝にふさわしい美しさだった。
赤い地面からの照り返しがまぶしい。由貴也は目を細める。
『百メートル男子決勝に出場する選手を紹介いたします』
アナウンスが流れ、レーンに並ぶ八人の選手に観客の視線を向けさせた。その注目に、いっそうスタートラインにたたずむ選手たちの熱気が高まった気がする。
昼と夕暮れの狭間の時刻。やっと決勝が始まる。とにかく長かった。
他の選手のスピードを肌で感じ、ある程度は予想していたが、由貴也は準決勝の各組二着プラス二人のおこぼれに入っていた。辛くも決勝に進出し、薄皮一枚で由貴也の陸上選手のキャリアはつながったのだ。
それを確かめてから、由貴也は人目につかないところで時間を潰した。香代子にも巴にも両親にも会わないようにしなければならない。それ以上に動けなくて、由貴也はぐったりと芝の上に横たわっていた。
思考が熱さに支配されている今の状況はありがたかった。いや、意図的に自分自身でそうしたのかもしれない。
コーチの華耀子に無理にエントリーさせられた県選手権だったが、しようと思えば予選でわざと敗退することもできたはずだ。それをしなかったのは、なけなしの陸上選手としての本能ゆえなのかもしれない。
もう、そういうものを取り払ってしまいたかった。何も考えたくない。陸上選手としての自分を殺してしまいたい。勝ち負けの世界も、親に飼い殺しにされるのも、自分の性に合わない。
最後に自分の名前がコールされて、選手紹介が終わった。さすがに決勝までくれば、県内での名だたる面々が並んでいる。その中でいて、真ん中のレーンで抜群の存在感を放っているのは竜二だ。そこは予選トップ通過者に与えられるコースであり、竜二自身もさも当然のようにそこに堂々と立っている。
対する由貴也は一番端のレーンだ。各組二着に入れずに、タイムで拾われた由貴也のような決勝進出者は、端のレーンが割り当てられるのだ。百メートルは直線コースなので、インコース・アウトコースによるカーブの傾斜を気にする必要がない。それでもこの観客席に近いコースは由貴也の好むところではなかった。
由貴也よりも二つ内側のコースに哲士がいる。彼はきっと、由貴也が自身の今の状況を話したら、勝ちを譲ってくれるだろう。由貴也の事情を知っていてなお、全力でこちらを下そうとする竜二とは違う。その甘さが由貴也には心地よかった。同時に、高校時代を思い出して懐かしくもある。世界が部活のみだったあの頃。
『位置について』
その号令に、会場の空気が一気に高まったのが感じられた。選手たちのまとう雰囲気が鋭くとがる。由貴也は何も考えずに、スターティングブロックに足をかけた。
『それなりの結果を出せ』と言ってきた父親はおそらく、優勝以外では満足しないだろう。万全の態勢でも難しいのに、今の体調では破竹の勢いの竜二を破るのは厳しい。始まる前からすでに荒い息をついている由貴也に、隣のレーンの選手がちらりと視線を向けてくる。
息をするたびに視界の両側が黒く狭まる。最高に気分が悪い。だがこの状況こそ、陸上選手である自分が死に瀕しているように思える。
竜二は由貴也のことを『こちら側の人間』と評したが、陸上選手である自分の顔を由貴也は知らない。由貴也が身の内にある陸上選手である自分に目を向けるとき、“彼”はいつも背を向けていて、その姿は逆光に没しているのだった。
その“彼”が背を向けているうちに、殺してしまおうと思うのだ。自分のありとあらゆるものが麻痺して、罪悪感も葛藤もないうちに、背後から首を絞めに行く。
『用意』
スタータがピストルを持った腕を上げる。銃口がわずかに赤みを帯びた陽に反射して光る。
陸上選手としての自分が生きていては困るのだ。自分に拒絶されて傷ついた香代子の顔が浮かぶ。母のべたつく笑みや、巴のこちらを案ずる顔がフラッシュのように浮かんでは消える。陸上選手である自分が消えて、ただの“古賀 由貴也”になってしまえば、すべてわずらわしいことを脱ぎ捨ててしまえる。温度も色も、悲しみも喜びも感じない場所で、彼女とふたりでいられればそれでよかった。それには陸上選手の自分はたまらなく邪魔なのだ。
空高く、号砲が放たれた。目の奥に、背を向ける自分の姿が明滅し、動き出す。
目の前を、クラブの黒地に赤ラインのユニフォームを着た自分が走っていく。迷いのない足取りで走っていく“陸上選手の自分”を追いかけそうになる。その衝動を抑え込んだ。
由貴也はただ、その後ろ姿を見送ればいいのだ。たらたらと走っていればいい。全力で走り、ゴールしたところで、自分に何が待っているというのか。母の過度な干渉と束縛。巴の残り香。香代子を傷つけざる得ない自分と、勝ち続けなければいけない現実。だから今日、今、この瞬間、自分から陸上を切り離して捨てるのだ。
由貴也は願う。前を走る自分が振り返らないことを。ゴールしてしまえば、二度ともう“陸上選手の自分”と“古賀 由貴也”は混ざり合わない。両者は乖離して、実体のない陸上選手としての自分は消える。
走り続けているのに、やけに百メートルが長く感じた。由貴也には他の選手は見えず、クラブのユニフォームを着て前を走る自分の姿だけが見える。その足どりは軽やかだ。
夜を走っている気分だ。由貴也は音のない闇の中にいる。前を走る“陸上選手としての自分”だけに月明かりは差す。
余計なことを考えるなと、自身を叱咤する。“陸上選手としての自分”など現実にはいない。自身が見せた幻影だ。それなのに、自分はこんなにも“彼”に恐れをなしている。
思考の蓋に手をかけてはいけない。自分を殺さなくては。考えてはいけない。勝利の喜びも、好敵手の存在に否応なく昂る心も。そういうものは全部、香代子の存在で塗りつぶしてしまえばいい。自分は陸上よりも彼女をとったのだから。
だから思ってはいけない。前を走る“陸上選手の自分”をうらやましいなどと。そういう風にまだ走りたいなどと――。
“彼”を思ったのは一瞬だった。しかし、由貴也の一欠片の思いだけで、彼が足を止める。ゴール付近で走るのを止めた“彼”は、刹那の間の後、体をこちらへ向けてくる。逆光の暗さが晴れていく。
由貴也は思わず身を乗り出す。自分は知っている。“陸上選手の自分”の顔を、もうわかっている。それは――……。
由貴也が答えに到達するよりも早く、地面のくぼみに足をとられたように沈んだ。膝が折れる。
ここは陸上競技場のコースだ。少しの段差などあるはずもない。事態が飲み込めないまま、由貴也は熱を吸った熱い地面に倒れた。
起き上がることもできないまま、呆然と地面に横たわる。体に力が入らないことを理解したと同時に、足に耐えがたい痛みが襲った。
「――っ!!」
息ができない。体を折って、痛みの根源を手で押さえる。横を誰かが駆け抜けていくのがわかったが、どうすることもできない。
足にとてつもない負荷がかかっているように感じる。小刻みにふくらはぎがが震える。そこは前々から違和感を感じていた箇所だった。
……――オレなあ、たぶん陸上選手としてはあんま息の長い方じゃないと思うねん。
不意に竜二の声が自身の奥底から響いてきた。大きな怪我をした竜二。いつまた怪我が再発して、走れなくなるかわからないと彼は言う。
自分も走れなくなる? 由貴也は無意識のうちに自分に問いかける。
この足の痛みが、陸上選手である由貴也を殺すかもしれない。自分も竜二と同じようになるかもしれない。
戦慄した。竜二の言ったことの真の怖さが今、身をもって由貴也に迫る。食い縛った歯の間から漏れる声は、痛みのせいではない。恐怖ゆえだ。
走れなくなること。それは陸上選手にとって生きながら死ぬも同じだ。前を走る陸上選手の自分の顔とは、由貴也にとっての“理想の自分”であった。由貴也はそれからずっと目を背けてきた。
暑さに押し込めて、考えないようにして、思考が鈍感になっている内に捨ててしまおうとしていた。陸上を捨てるという本当の意味を今、痛みとともに由貴也は実感する。陸上をひいては走ることを愛していたわけではなかった。むしろそれに付随する面倒な事を思って、疎ましく思っていたはずだ。しかし、それを凌駕するほどに走れなくなるかもしれないという事態は由貴也に圧倒的な恐怖をもたらす。自分が自分でなくなるような恐ろしさだ。曖昧だった“陸上選手である自分を捨てること”の真実が、頭を殴られたような衝撃とともにはっきりとする。
頭は勝手に回りだし、いろいろなことを考えるが、ただひとつはっきりしている事があった。自分は、陸上を捨てるのに失敗したのだ。
不変の事実として由貴也は悟る。いつのまにか陸上と自分は融和して、どちらかを切りはなそうとするならば、もう一方も死ぬのだろう。由貴也にとって、それは静かな絶望だった。
「古賀っ!」
隣の隣で走る足音が止まった。他の選手が猛然とゴール目指して走っていく中、だたひとり誰かがこちらへ向かってくる。その行動の全貌を、由貴也はすぐに察した。
とてつもなくバカがすることだ。どうして足を止めてしまったのか。由貴也など放っておいて、ゴールに向かうべきだったのに。本当に愚かで甘くて――優しいのだ。
「大丈夫かっ!? どこやった」
勝負そっちのけでそばに膝をつく人物を由貴也はぼやける視界で見上げる。赤い陽が彼を後ろから染める。哲士だった。
準決勝で竜二と張り合うぐらいだったのだから、哲士の調子はよかったはずだ。けれども全日本という大舞台につながるこの県選手権の決勝を放棄してまで倒れた後輩へと哲士は駆けつけた。勝負を第一に考えられず、非情になれない彼をどうしようもなく心地よく思ってしまう。
優しく、甘く、誰も傷つけず、誰にも傷つけられない世界。巴への恋を失って、受け入れられた部活で、香代子と哲士の側で、由貴也は自分の世界を完結させてしまいたかった。いろいろ言ったところでしょせん自分は外の世界に出るのが怖いだけなのだ。
「由貴也ーっ!」
遠くから自分を呼ぶ声とともに、地面が規則的に揺れる。それは誰かがこちらへ走って向かってきているからだった。
「由貴也っ! 膝かハムかっ!?」
哲士と違い、きちんとゴールしてきたらしい竜二が駆けつけ、息を弾ませながらどこを怪我したのかと聞いてくる。痛みはもう細く断続的なものに変わっていたが、視点が定まらず、口をきこうものなら吐きそうだった。
「五十嵐。そっち持ってくれ。とにかく運ぼう」
「あ、ああ。了解や」
担架が来るより早く、哲士と竜二に脇を抱えられる。足がつかずに進むという感覚が気持ち悪い。
衆人環視の中でスタジアム観客席下の空間へ運ばれる。そこにはスタッフルームや、医務室があるはずだった。
外気が遮られ、ひんやりとした空気に包まれる。目を開けることができなくとも、どうやらスタジアム下の通路にいるのだろうと察する。
「……腕、離して」
自分から出た声はかすれていたが、それでも哲士は気づいた。竜二と言葉を交わし、ほどなく二人の腕は離れていった。運ばれる振動に耐えきれなくなっていた由貴也は、動かない固い壁を求めて手を伸ばす。しかし汗で濡れた手は触れた壁を滑る。体勢が崩れる。
自分の体が落下していく感覚の中、由貴也はそのまま意識を失った。
香代子は由貴也を探していた。
由貴也の考えていることは、香代子にはよくわからない。けれども、香代子は由貴也が嘘をついているかどうかを見抜くことには自信があった。
由貴也は奔放に生きているだけあって正直なのだ。遠慮のない物言いをするし、まわりのことは基本的にお構いなしだ。だから根本的に嘘をつく必要が生じない。
その由貴也が会いたくない、顔を見たくない、と言った。たぶん嘘なのだろう。由貴也ならばまず、負の言葉を発したことによる面倒を想定して、わざわざ口に出さないはずだ。自分の思ったことを、黙したまま実行するのが由貴也の由貴也たる所以だ。
驚いたし、傷つきもしたが、よくよく考えてみると、今日の由貴也はおかしい。いや、最近ずっとおかしい。自分が避けられているのも、その辺りが原因なのかもしれない。
そんなことよりも、香代子は根本から聞いた由貴也の体調の方が気になった。根本いわく、由貴也は熱中症を起こしていると言うのだ。
香代子は準決勝後に姿をくらました由貴也を探していた。ジャージのズボンのポケットにはそれぞれ五百のスポーツドリンクを入れ、手には保冷剤の入ったバックを持ち、首から濡れたタオルを下げていた。由貴也を見つけ次第処置を施すためだ。
けれども由貴也は見つからなかった。なりふりかまわず母親が子供を呼ぶように名前を叫んで探そうかとも考える。香代子が本気でそうしようと息を大きく吸い込んだ時、放送が流れた。
『百メートル男子決勝に出場する選手を紹介いたします』
今日の会場であるスタジアムは、広大な運動公園内に併設されている。香代子はその隅から隅まで探しまわっていたので、百メートル決勝の選手の召集アナウンスは聞こえなかったのだ。
香代子はあわてて人をかき分けながらスタジアムの観客席に上る。選手でない香代子はスタジアムの下には下りれないのだ。
観客席の一番上で、灼熱の太陽にあぶられながら、百メートルの直線トラックに目をやる。ちょうど選手の紹介が終わって、『位置について』の号令がかかったところだった。
スターティングブロックに足をかけ、頭を下げていても香代子にはわかる。一番観客席側の選手が由貴也だ。
一番端のコースにいる由貴也を見るのはひさしぶりだった。予選通過タイムが良い順に選手は中央のレーンから振り分けられていくので、由貴也はここ最近は真ん中か、その両脇のどちらかにいたのだった。今回のコースの位置からも由貴也の調子がよくないことがうかがえる。
『用意』
出走前の一瞬、スタジアムは水を打ったように静かになった。香代子はただ、由貴也だけに視線を向け続ける。胸の鼓動がうるさく、耳障りだ。
静寂を小気味のいいピストル音が破った。途端に爆発的な歓声がスタジアムにこだまする。その声も、香代子には聞こえなかった。息をつめて由貴也を目に映し続けていた。
立ち上がりが明らかに遅い。スタート勝負の由貴也が下手を打った。
走るたびに由貴也は悪い方向へ向かっているような気がした。フォームが崩れて、バラバラになっていく。彼をつなぎとめている糸がどんどん切れていくように感じる。
香代子はただ遠くから見ているほかなかった。胸の前で手を組んで祈ってみたところで、コース上の由貴也には何の影響も及ぼさない。ここにいる香代子はどうしようもなく無力だ。
順位などもうどうでもいい。今はただ、何事もなく決勝戦が終わってくれればいい。そう思ったのも束の間、一心に見つめる先の由貴也の膝から下の力が抜けた。
スローモーションのように、由貴也の体が傾いでいく。まるで彼の立っていた地面が割れたみたいだ。
由貴也が熱した地面に倒れ、痛みに足を抱えてうめくまで香代子はただじっと見ていた。
「由貴也っ!」
自分の口から発せられた悲鳴のような声で、我に返る。その時にはもう体が動いていた。一段飛ばしで観客席の階段を駆け下り、こちらと向こうを隔てる手すりにしがみつく。
選手の異常事態に、香代子と同じように柵に手をかけ、見物しようとする人が殺到する。その野次馬に押されながらも、香代子はその中で一番身を乗り出して由貴也を見ていた。
「由貴也! 由貴也っ!!」
届かないとわかっていても、地面に伏して、痛みを感じている由貴也に向けて叫ばずにはいられなかった。何もできないやるせなさが声に喉を越えさせる。
「あぶねーよ! 落ちたらどうすんだっ」
気がついたら根本が隣にいて、香代子の胴に腕を回し、拘束するベルトのように動きを制された。
「いいから離してよっ」
邪魔をする根本が心底憎くて、香代子は根本を怒鳴りつけた。観客席は一段高くなったところに存在する。その段差は人の背丈ほどにもなるけれども、香代子はそんなことを気にしている余裕はなかった。
「落ち着けよ、マネージャー」
「だって、足、怪我してっ」
「だからってマネージャーが落ちて怪我したらどうしようもねえだろっ!」
間近で大喝され、耳の奥でその声が反響する。それで目が覚めた。気づけば体が半分以上手すりから乗り出し、危ういバランスの中にいた。その事実に気づいて、ぐらりと揺れた体を、また根本に支えられる。
「……ありがと」
礼を言うと、いつになく厳しい顔で、けれども少し照れくさそうに根本が「ん」と答えた。
「行こうぜ」
「え? 行くって……」
根本に腕を引かれ、香代子は困惑ぎみに尋ねる。その台詞を受けて、根本は呆れたような苛立ったような表情になった。
「行くって、古賀のとこに決まってんだろ」
根本に言われて見ると、グラウンドにざわめいた雰囲気だけを残し、由貴也たちはいなくなっていた。香代子は無言でうなずき、根本とともにその場を後にした。




