スタート・ゼロ10
危険度が増してきた陽の下で、今日も容赦なく華耀子に限界まで追いこまれた。精根しぼりつくされ、荒い息をついて、竜二と由貴也は練習後のグラウンドに座りこむ。疲れのせいか、ふくらはぎが痛む。男二人をのしても彼女は夕暮れの風に吹かれ、憎らしいくらい涼しげな顔をしていた。
「さて由貴也。その顔のわけを聞かせてもらおうかしら」
肩にかかる髪を払い、相変わらず冷静沈着な声音で華耀子は言う。前ではなく、きっちり練習をこなした後に言うのがまったくもってこのコーチらしい。由貴也の頬は昨日、父親に殴られ、赤く腫れていた。
竜二は今日、由貴也の顔を見るやいなや大騒ぎし、「よっしゃ! ケンカなら任せときっ」と腕まくりをして出ていきそうな勢いだったというのに、華耀子ときたら一瞥すらせず黙殺していた。これも選手のプライベートには踏み込まないという彼女のスタンスかと思っていたのだ。由貴也としては、その姿勢を貫いてくれていた方がありがたかったのだが。
そう思ったのが顔に出ていたのか、華耀子は「何も個人的な興味から聞くわけじゃないわ」とため息をつきそうな態度で言ってきた。
「あなたの親御さんがクラブに見えたの。息子は即刻クラブを辞めさせるってね」
まだ帰宅し、玄関で殴り飛ばされてから一日しかたっていない。さすがに出世街道を突っ走っている人物だけある。父は有言実行で、しかも行動がすばやい。妙に感心してしまった。
「それが単なる親子ゲンカなのか、本気なのか確かめないことにはどうしようもないわ。着替えたらコーチ室に来なさい」
父から見ればまだ小娘だろう華耀子は見くびられ、言いたい放題言われたはずだ。ふたまわりほども歳が離れた男と対峙し、難癖をつけられただろう後でも普段通り指導をし、動揺した様子をおくびにも出さない華耀子には恐れ入る。
華耀子が颯爽と去った途端、血相を変えた竜二に胸ぐらをつかまれ、つめよられた。
「由貴也、お前どういうことやねんっ。説明せい!」
うろたえた声音からは物騒さというものは微塵も感じさせず、襟元を締めつけてくる手も、ただ驚いてそうせずにはいられないといった方がよかった。
由貴也が答えず、竜二の腕を見ていると、彼は自分の暴挙に気づいたのか、苦々しげに手を離した。竜二の拘束がなくなったのをいいことに、由貴也は淡々とロッカールームのある建物へ向かって歩き出す。
「由貴也、待てや!」
竜二がただならぬ様子で追ってくるが、由貴也は構わず歩き続ける。由貴也は極力、こうなった経緯を思い出したくなかった。できればまとめてどこかへ捨ててしまいたい。けれども父親が実力行使に出た以上、華耀子に対する説明責任は免れない。その上で竜二の事細かな追及に答えるなど考えただけでもうんざりした。
竜二が後ろで何かわめいていたが、一切無視していたら、ついにロッカールームに入ったところで彼がキレた。
「由貴也! 聞かれたことにはちゃんと答えっ」
肩をつかまれ、背後のロッカーに体を押しつけられた。鉄製のロッカーに体がぶつかり、派手な音が鳴る。普段の明るさや軽さはなりを潜め、ただ真剣な竜二の顔がそこにある。
この体勢になってしまってはどうしようもない。自分より十センチ近くも高く、加えて体格もいい竜二に由貴也は勝てない。仕方なく口を開いた。
「辞めるよ、陸上」
「なっ……!」
竜二が声の出し方すら忘れたように絶句している。天地がひっくり返ったかのように目を見開き、衝撃を受けている。その隙に、ロッカーと竜二の間から脱することを試みる。だが、我に返った竜二の拳が、由貴也の顔の真横のロッカーを叩いた。部屋の隅から隅まで鈍い乱暴な音が鳴り響く。
「お前、何あっさり言うてんねんっ!」
拳よりももっと乱暴な怒声が由貴也へ全力で向かう。練習前に、由貴也の殴られた痕を見て騒ぎ立てたときとは全く違う、竜二の本気の怒りだった。
「だったらどうすればいいわけ。ヤミ金からでも金借りろっていうわけ。それともアンタが貸してくれんの」
あくまで由貴也は竜二を突き放すように反論する。大学でプロを目指してスポーツを続けることに、莫大な費用がかかるのを知らない竜二ではないだろう。加えて、短距離というのは駅伝の影に隠れ、国内で競技環境の整っている花形スポーツとは言い難い。親からの援助が必須だ。
「俺にはアンタと違って、応援してくれるお優しい家族なんていないんだよ」
由貴也は竜二を嘲って笑う。彼は何も知らない。陸上を人質にとられて巴と結婚させられそうになっていることや、母親の奴隷にさせられかけていることを。陸上を続けるのならば、由貴也の首には縄がつく。
竜二が人を殺しそうな顔で、奥歯を噛んだのがわかった。竜二のまとう熱が膨張していく。そしてはじけた。
「由貴也にとって、陸上はそんなあっさり辞められるようなもんなんかっ! その程度のものやったんか!!」
竜二の激昂に、由貴也は殊更、冷ややかな気分になる。
「今さらアンタからそういう“精神論”を振りかざされるとはね」
竜二の激怒を斜に構えて由貴也は受け流す。まともに向き合っていたらひどく消耗することがわかっていた。
「アンタは根性とかやる気とか、そういうものではどうにもならないことがあるってわかったからここに来たんじゃないの」
由貴也は冷然と言い返す。竜二の言っていることは問題のすげ替えだ。いくら陸上を愛していようと、続けたいと願っても、金銭的な問題や、能力の限界などで競技から離れていく者は少なくない。本人の気持ちなど、厳しい現実は一切構ってくれないのだった。
怪我で戦線を離れ、精神論を廃した華耀子の元へやってきた竜二にはそれがわかっていると思っていた。
「オレは由貴也の全部他人事ですって顔が気に食わないんや。辞めろって言われたらすぐ辞めて、流されてるだけやないか」
竜二のセリフが、由貴也の中の何かに触れた。
――走り続けることは苦しいから。父に陸上を辞めろと言われたとき、自分はどこかでそう思ったのではなかっただろうか。
このまま続けてもものにならないかもしれない。たとえ、プロになれなかったとしても、陸上だけをやってきた自分に他の道はない。潰しがきかないのだ。
それにプロになれたところで、一年以内にその半数は辞めていく。しかもこの国は、スポーツ選手のセカンドキャリアが整っていない。晴れてプロになって活躍しても、ピークが短い陸上選手を辞めた後、ほんの一握りをのぞいては安定した生活を見込めないのだ。
今のうちに先があるかどうかもわからない細く、険しい道を引き返して、安全に舗装された大通りに戻ろうと思った。そこでは皆が歩いている。流れに身を任せればいいだけだ。
きっと、巴と結婚させられそうになっているからと言えば、香代子も陸上を辞めることを許してくれるかもしれないと思ったのだ。
「じゃあ自分の意思で言ってみせようか?」
由貴也は喉の奥で笑って、竜二を睨つけた。
「陸上なんて俺にとってその程度のものだった。しょせんすぐに辞められるようなものだった」
「これで満足?」と、竜二の精神を逆なでするように笑ってみせた。
自分はどうかしている。竜二を挑発してみたところで何もいいことなどないのだ。
それでもどうしても過敏になっている。失いたくなかった。昨夜、彼女の部屋で過ごした穏やかな時間を。陸上を続けると言えば、交換条件で巴との結婚がついてくる。それを回避できたところで、母の傀儡になる他ない。そうしたら、未来永劫あの時間は失われるのだ。陸上と彼女との時間を天秤にかけて、掲げられたのは陸上の方だった。ただそれだけのことなのだ。
「お前は……由貴也は、一体何のために陸上を続けてきたんや」
竜二は、信じたくないものを見ているかのような苦い表情をしていた。彼はどこかで由貴也は、自身と同じく陸上を愛しているのだと思っていたのではないだろうか。何物にも変えがたく、陸上なしでは生きれないと思っていたのではないだろうか。
その幻想を、砕く。
「もう陸上を続ける意味なんてない」
意味――由貴也は昨夜、理解した。陸上をやってきたのは、香代子に認められるためだった。彼女が自分を一人前の男と認め、弱さを理由に由貴也を遠ざけなくするためだった。
それももういいのだ。昨日、自分の弱さをさらけ出しても彼女は自分を受け入れてくれたし、陸上を辞めることは香代子といるために必要なことなのだ。自分は陸上がなくとも十二分に生きていける。誰かを愛し、愛されるというのが、自分の十年にも渡る望みだったように思う。巴に恋し、それが拒絶されてからずっと自覚のないままに飢えていた。
だからもう、それ以外は何もいらない。それだけを守る。
「何で陸上を続ける意味がなくなったんや。由貴也の陸上を続ける意味って何なんや」
堂々巡りだ。竜二が問いかけ、由貴也が核心に触れない答えを返す。だから話が進まない。
由貴也が答えないでいると、竜二がひどく不本意な様子で、由貴也の顔の横の拳を下ろした。
「……部活も辞めんのか」
竜二の終末へ向かうかのような問いに自分は首を振った。大学の部活を続けることは世間一般の学生になってもできることだ。ただ、地方国立大の、環境が整っていない部活ではプロになることは不可能だろうが。
「……そんなに香代子ちゃんのそばがいいんか」
竜二の悄然とした問いかけに、油断したのかもしれない。いや、それが大事だと誇示して、他のものはいらないのだと知らしめるためだったのかもしれないし、再三部活を辞めろと言う竜二を黙らせるいい機会だと思ったのかもしれない。とにかく自分は、初めてまぎれもない“真実”を発した。
「彼女がいなければ、俺は陸上をやってなかったかもね」
今までの問いかけすべてに通じる答えに、竜二が目を見開いたのがわかった。この陸上と自身の人生が同化している男にはわからないだろう。陸上と何かを比べて、陸上を捨てるということが。
「何や、お前……じゃあ香代子ちゃんのために走ってるとでもいうんか」
由貴也は黙って、否定も肯定もしなかった。しかしそれは肯定を導く沈黙だった。
「そんなんアホや! お前の理由は知らんけど、今回も香代子ちゃんのために走るのを辞めるとでもいうんか」
由貴也の答えを待たずに、竜二はさらに激しく言葉を向けてきた。
「お前の意思っつうもんはどこにあるんや!」
「アンタだって、コーチのために走ってるようなもんじゃん」
即座に応戦する。何が悪い、と言いたかった。陸上よりも大事なものがあって何が悪い。陸上を何かを手に入れるための手段に使って何が悪い。不都合になったら捨てて何が悪い。
竜二が華耀子に向ける感情が単なる師弟愛だけだとは言わせない。ありったけの反抗心を込めて、由貴也は竜二を睨みつけた。
「俺とアンタのどこが違うって言うのさ。アンタだってコーチを喜ばせるために走ってんじゃん」
「違うっ……! オレは自分の意思でやってるんや。続けるのも辞めるのもオレの意思や!」
「何言ってんの。コーチの言葉には何も考えないで従うくせに、それでも“自分の意思”でやってんの」
竜二は華耀子の言葉には一も二もなく従う。それをコーチの狗のようだと揶揄してやる。さらにとどめを刺そうと、目を伏せて不敵に笑って見せた。
「俺がいなくなればコーチ独占できるじゃん。よかったね」
最高に竜二の怒りをあおるように微笑んで見せると、由貴也の希望通り、炎が立ち上るように、竜二の体温が急激に上昇したように感じた。
「このひねくれもんがっ!!」
竜二の怒声とともに拳が振り上げられる。想定内のそれを受けてやろうと、突っ立っていた由貴也の瞳に、第三者が写った。竜二の後ろに立ったその人が、彼の腕をつかむ。
「止めなさい、竜二」
過熱したこのロッカールームを一瞬にして正常に戻す声が響いた。平生の色を失っていた竜二の瞳が揺らぐ。
「どんな理由であろうとも、暴力を振るった者には向こう一年間、大会への出場は許可しないつもりよ」
男子ロッカールームに踏み込みながらも華耀子は冷静で、落ち着き払っていた。華耀子の声はやはり竜二にとって効果てきめんのようだ。そのセリフの内容に恐れをなしたというよりも、華耀子の存在そのものに竜二は拳を下ろしたように見えた。
「……すんません」
「謝るくらいなら最初から由貴也の挑発に乗らないでちょうだい」
華耀子はやはり竜二よりも単純ではない。竜二の追及をかわすには、由貴也の顔を見たくないほど怒らせて、遠ざけるのが一番楽だと思った。その意図的な挑発を華耀子は見抜いている。
「だいたい話は聞いていたわ」
竜二へ向いていた華耀子の視線が由貴也に移ってくる。さて、どうしようかと考えた。華耀子とでは由貴也の分が悪い。一切感情的にならない華耀子の追及をかわすのは至難の技だ。不毛な腹の探り合いになる。そして最終的には華耀子は立場が上の者として由貴也を従わせることができるのだ。
「由貴也。今すぐに辞める辞めないの結論を出すのは早すぎるわ。急ぎすぎよ」
背が高い華耀子の瞳は由貴也とそう変わらないところにある。その目が抜群の説得力を持って由貴也を見ていた。
「とりあえずここまで来たのだから、次の県選手権は出ておきなさい。あなたのお父さまとの折衝には私があたるわ」
「……続ける意味は何ですか」
由貴也は反抗心抜きの、純粋な疑問から尋ねた。華耀子が世間一般の風潮に従って、辞めるという選手を形式的に引き留める人物だとは思えなかったからだ。本当に由貴也にとって辞めることが益となるなら、華耀子は「そう」とあっさりクラブを辞することを許すはずだ。その無駄を省く華耀子があえて由貴也を引き留めている以上、由貴也には辞めるべきではない何かがあるのだ。
どこまでも揺らがないまなざしで由貴也を見て、華耀子が口を開く。漏れた呼気からわずかに嘆息の気配を感じた。
「あなたがどうしようもないほど子供だからよ」
竜二の激昂よりも数倍の威力を持って、華耀子の言葉が由貴也を貫いた。感情表現が乏しかった由貴也にとって子供っぽいと言われるのは初めてのことだ。逆は多々あるが。
由貴也は努めて感情を表に出さないように気をつけながら、華耀子の言葉を待つ。
「あなたの“誰かのために”という言葉は、“誰かのせいで”と言っているように聞こえるわ」
華耀子が言っているのはおそらく、先ほど竜二と口論になった香代子のためうんぬんのところだろう。由貴也が陸上を辞めることを香代子のためではなく、香代子のせいにしていると言っているのだ。
「辞めるなら自分の意思で辞めなさい。子供ではないのだったら、自分の行動はすべて最初から最後まで自分で責任を持ちなさい。そこに他人を引き合いに出すのは止めなさい」
「それは単なる綺麗事ではないんですか」
華耀子の静かなる諭しに、由貴也はすぐさま反論した。何かをするために他人への影響を考えない者はいない。純粋に自分のためだけに、他者を巻き込まずに、というのは由貴也にとって綺麗事の上の自己陶酔に感じた。
華耀子は眉ひとつ動かさず、焦点を由貴也に合わせたままだった。自分の言葉は少しも華耀子を揺るがさない。
「あなたの事情は私にはわからないわ。あなたがつきあっている彼女に『私より陸上の方が好きなの』とでも言われたのかもしれないし、彼女が部活の人で、あなたがクラブがあって部活で一緒に過ごせる時間が少ないのに不満を持っていたのかもしれないし」
どんなに考えたところであくまで私の推測の域を出ないわ、と華耀子が徒労にすぎない想像を打ち切る。従姉と結婚させられそうになっているとはいくら華耀子でも考えが及ばないようだ。
「あなたの事情はこの際いいのよ。事情がどんなものであれ、最後に決断するのはあなただというのは変わらないもの」
気持ちよいくらい、華耀子はここ最近、由貴也を翻弄してきた厄介な“事情”を切って捨てた。
「彼女と親御さんの反対と現実と――全部含めて最終的に決断するのはあなただわ。あなたの進むべき道を決めるのはあなただけの権利であって義務よ。そこに彼女は関係ないでしょう」
「じゃあ、俺が純粋に辞めたいと言ったら?」
すべてをひっくり返すような由貴也のセリフに、華耀子はすぐには答えなかった。それは答えあぐねているという困惑の沈黙ではない。間を置くことで次の言葉の威力を増させるようなものに思えた。
「だったら、彼女の存在を匂わすのはなおさら賢いとは言えないわね」
凪いだ湖面のように、彼女の瞳は理知的なままだ。自分のすべてを見透かし、見通しているように思える。
「”誰かのために”という想いは外に出した途端、その人の負担になるの。彼女がまともな人であればあるほど、自分のせいであなたに陸上を辞めさせたことを悔いるでしょうね」
悔いればいい。悔いて、罪の意識を持って由貴也と一生ともにいてくれるならそれでいい。両親にも陸上にも香代子を奪わせない。
射抜くように華耀子を見ながらも、それを口にしないのは外に出して、自分の想いが華耀子と竜二の視線にさらされ、陳腐なものに成り下がるのが嫌だったからだ。自分の内に秘めておかなければ、かつての巴への想いや、今回の陸上のように利用されてしまう。そして今、香代子への想いを気の緩みから言葉という形にしてしまい、それを責められているように――。
「”彼女のために”なんて思っているうちはあなたが本当に辞めたいと考えているとは思えないわ。あなたは辞める言いわけを探しているだけよ」
本気で辞めたいのなら、彼女なんて関係なしに辞めるでしょうから、と言って、華耀子が流れるような動きで身をひるがえす。残像が残りそうなほど余韻のある動作は、彼女がかつて陸上選手であり、今は陸上選手でないことを感じさせる。身のこなしはすばやく切れがいい。けれども、現役選手だったら残像すら残さないはずだ。
彼女は辞めたいと言って、本当に陸上を辞めたひとりなのだ。
「もう少しよく考えるといいわ。県選手権にはエントリーさせておくから」
ここ最近の状況に翻弄され、満身創痍の由貴也とは違う。何を言われてもぶれない、動じない姿がそこにはあった。きびすを返して出ていく華耀子の背中が大きく見える。この場の敗北を由貴也は悟った。
気がつくと、竜二もいなかった。ロッカールームには由貴也ひとりで、空気が重く感じるほど静かだ。
おそらく由貴也は竜二に気遣われたのだ。ひとりになってよく考えろと。自分が殴られそうになった相手から気遣われるような存在だということに、由貴也はこの上なく自身を皮肉りたくなった。
由貴也は汗が冷たくなったTシャツを着たまま、長い間その場に立ち尽くしていた。例えそれが何も責任を負ってくれない無責任な言葉でも、自分の行動は間違っていないと、誰かに言って欲しかった。
「由貴也!」
ガソリンスタンドの深夜帯のバイト後、アパートに帰ってくると、また玄関の前に由貴也が座りこんでいた。昨夜に続き、二晩連続だ。
二十四時間営業のスーパーに寄った後だった香代子は、エコバックを揺らしながら駆け寄る。
「いつからいたの? こんなとこで座ってないで、ちゃんと家に帰って休みなよ」
彼の腕をつかみながら立たせようと引き上げる。由貴也は特に逆らうことなく立ち上がる。
昨日、一晩を明かし、朝食を食べた由貴也は「学校行って、クラブに行く」と言って、香代子の部屋を後にした。結局由貴也は自らの事情を話そうとはせず、香代子も無理に聞き出さなかった。
朝、向かい合って食事をしたときはだいぶ元気になってそうに見えたのだけれど、今はまたぼんやりと焦点が合っていない目をしている。全体的にくすんで見えるのだ。
きっと自分はまた、由貴也を部屋に入れてしまうんだろうな、と悄然とした彼を見て確信に近い思いを抱いた。彼が自分よりずっと小さく見える。
「帰ろ? どこに住んでるの? 送ってってあげるから」
そうは思っても、やはり一応帰宅をうながす。県選手権が近い。明日も練習があるのだろう。きちんとした場所で休息をとった方がいい。
予想通りとはいえ、由貴也は答えなかった。アパートの外廊下を照らす灯りよりもなお白く、薄い雰囲気をまとう彼が、空気がたゆたうように動いた。
その腕が、空気を抱くように香代子の体にまわる。
「―――………」
香代子は冷静だった。それは昨日に引き続き彼と触れあうのが二回目だということもあるし、どこかでこの展開を予測していたからかもしれなかった。
次第に由貴也の香代子を抱く力が強まる。遠慮なく体重をかけてくる。それは体のみならず、心までもこちらへ預けようとしているようで、自分の肩に乗っている由貴也の頭を抱いた。
由貴也に何かあったのは明らかだ。しかも彼はあれこれ仮定をめぐらせ、思い悩むタイプではない。事態がもう彼に直接ダメージを与える形で進んでいるということだ。
花が頭をもたげてしおれているような、子供が怒られてうつむいて肩を落としているような、そんな彼をこうして受け入れることが正しいのかどうか香代子にはわからない。甘やかしなのか、今の由貴也に必要なことなのか。
「……これでいい」
由貴也が体を折って、香代子を押し潰されそうなほどに体を密着させながら、吐息のような言葉を漏らした。
「ここがいい」
それは、由貴也らしないつぶやきで、香代子を驚かせる。自分の心の内を決して誰かに見せようとしない由貴也の、中核に有るような言葉だったからだ。
そして、たぶん由貴也は香代子からの同意を渇望としている。
けれども、香代子はそれに応えなかった。安易に彼に同調できなかった。胸がざわつく。
―――嫌な予感がした。




