スタート・ゼロ6
誰にも教えていないはずのマンションの呼び鈴が鳴った。
ピンポーンと昼下がりの部屋に響いた平和な音に、由貴也は眠りを破られる。二連覇をした大会の次の日、由貴也はとにかく疲れて寝ていた。
ベットから起き上がる。防音性に優れた壁を使っているのか、休日の昼間だというのに隣室からは物音ひとつ漏れてこない。クラブに一番近いという理由で選んだマンションはオートロックに、築年数も浅い上、角部屋だ。このへんでは一番階数のあるマンションで、由貴也の部屋は最上階だった。
外はいい天気だというのに、まだカーテンが引きっぱなしで薄暗い部屋を歩く。途中で無造作に放ってあった金メダルを蹴っ飛ばしてしまった。鈍い金メッキの輝きがフローリングの床を滑っていく。
一体誰だと寝起きのよく働かない頭で思いつつ、インターフォンの画面をのぞく。と同時に、玄関が開く音がした。
ドアの鍵は開けっぱなしだったっけ、とのろのろと危機感なく考える。低血圧のせいで思考がめぐらないのだ。
自分の部屋であるかのごとく遠慮なく歩いてくる音がする。由貴也はそれをリビング兼寝室のドアを挟んで聞いていた。
「由貴ちゃん!」
ドアが開かれると同時に飛び込んできた母と黄色い声に、由貴也はたまらずよろめいて、背後のベットに腰を落とした。今まで百メートルしか走ってこなかった由貴也は、今回初めて同一大会内で二百を走ったことにより、とにかく体力を消耗していた。
「由貴ちゃん、優勝おめでとう!」
キンキンと響く金切り声を、頭の中に留まらせないように聞き流しながら、由貴也はただひとりこの住所を知っている人がいたのだと思い出した。由貴也は未成年で、どう考えてもひとりで賃貸契約を結べない。当然親の力を借りたのだった。その関係で母は合鍵も持っている。
「由貴ちゃんかっこよかったわ。これから大会には毎回応援に行くわね」
とりあえず嬉々として抱きついてくる母を引き離しつつ最高に面倒なことになったと思った。由貴也の優勝は母の虚栄心を満たしたらしく、今まで古賀家の行事のある時以外、忘れていた息子の存在を思い出させてしまったようだ。
立志院に帰りたい。あそこは山奥で母を含め下界と隔絶されていた。親に干渉されないという点ではあれ以上のところはなかった。
「ママ、今日は何でも由貴ちゃんの好きなもの作るわ。由貴ちゃん、おはぎ好きよね。買ってきたの」
有無を言わさずパックづめされたおはぎを渡される。何でも作ると言った舌の根も渇かないうちにできあいのものを渡され、あきれはてる。そもそも由貴也がおはぎが好きなのは、古賀家で巴がよく作ってくれたからだ。重要なのは誰が作ってくれたかということで、何を作ってくれたかではない。
「俺、今日疲れてるから」
少女のような無邪気でうっとうしい母のはしゃぎぶりに背を向け、由貴也はもう一度ベットに潜り込む。明日からまた練習なのだ。少しでも体力を回復させなければならない。
このマンションも、クラブの指導料も、決して安くないのはわかっている。だから、“投資”に見合う結果は出してみせる。お望み通り母の“自慢できる息子”でいてやる。
だが、二度とこの人たちの都合で動かされるのは御免だ。高一の冬休み、父親は巴との仲が進展するのを期待していると由貴也の肩を叩いた。事有るごとに両親は由貴也の想いを利用しようとする。今度は自分の内部を踏みにじらせはしない。
「ねえ、由貴ちゃん」
布団をかぶって、壁を向いて寝転がる由貴也に、母はうって変わって固い声をかける。スプリングが軋む音に、ベットに腰かけてきたのがわかった。
「ママね、やっぱり誰か由貴ちゃんのお世話をしてくれる人が必要だと思うの。由貴ちゃんはあまり体も強くないでしょう? ママ、心配なのよ」
由貴ちゃん、由貴ちゃん、由貴ちゃん。自分を呼ぶ甘ったるい声が耳の奥でこだまする。それを断ち切ろうと「一体いつの話してんの?」と返す。由貴也が虚弱体質だったのは幼少期のことだ。
「だって由貴ちゃん、今日だって疲れてるでしょう? やっぱり誰かお世話してくれたら陸上にももっと専念できると思うの」
母は由貴也が剣呑に言葉を返してもまったく気にしていない。とにかく自分の望みを叶えるためにまわりを気にしない人なのだ。嫌な話の流れだ。由貴也はこの話の終着点を知っている。
「だから巴に来てもらえっていうの」
先回りして話の流れを切る。言外に何を馬鹿なことを、という意をこめ、体を起こして笑って見せる。
この人は自分をどうしたいのだろう。一応建前通りに巴が由貴也の世話に来てくれれば、確かに生活環境は表面上は整うかもしれないが、ただそれだけだ。巴の心はずっと昔からそうであったように由貴也のものにはならない。ともに暮らしたところで重ならないものはどこまでいっても交わらない。
そこまで考えて違う、と否定する。そもそも両親が由貴也と巴の仲を進展させ、もっと言えば結婚させたいのは、種々の利権の正当性を主張したいからなのだ。由貴也の家は古賀の分家だ。古賀家は長子相続が慣習となっており、分家や傍流に遺産がまわってくることは一切ない。そこで由貴也を本家の一人娘である巴と婚姻によって婿養子とし、財産分与の権利を得ようとしているのだ。
だから大切なのは肩書きで、当事者の心ではない。母は単純にしとやかで年長者に従順な巴を気に入っているというのもあるのだろうが、たとえ由貴也と巴の心が添わなくとも、あくまで形式さえ整えばそれでいいのだ。
時代錯誤なあの家では、異性がたとえ何事もなく一晩平和に過ごしただけでもえらい騒動になる。ましてや同居など、そこに男女としての実態がなくとも、男としての責任問題に発展しそうだった。
「お祖母さまが許すわけないじゃん、そんなの」
冷静に現状を述べ、とにかく自らの望みにだけ向かう母の道をふさぐ。支配者然として古賀家に長きにわたって君臨してきた祖母に母が敵うはずもない。そもそも母が巴を嫁として得たいのは、祖母の手元で養育された巴をもらい受けることで、祖母の意を得たいからかもしれない。けれども祖母は私欲に走る人間ではないので、当然母や父などの利己的な分家の介入を退けようとするだろう。
「あのね、由貴ちゃん……」
母の声のトーンが変わる。古賀家の内情などどうでもいい由貴也は、まだ何かあるのかとうんざりしてきた。困惑、といったように母は顔を曇らせていた。
「お父さまがね、あまり由貴ちゃんが陸上をするのに賛成じゃないっておっしゃるの」
そちらの方向から来るとは予想外だったので、内心驚く。陸上まで話が波及するとは思っていなかったからだ。
「スポーツ選手は将来がよくわからないし、プロになれる人数も少ないのでしょう? 趣味で続けるならともかく、陸上一本でやるのは許さないって言うのよ」
確かに駅伝で並々ならぬ宣伝効果が得られる長距離とは違い、短距離でプロとして身を立てていくのは難しい。大学で精一杯やったところで、その先がないかもしれない。
けれどもそれは、プロ選手を目指すのが暗黙の了解となっているスポーツクラブに所属している由貴也にとって今さらの話だった。由貴也がクラブに入る時、それら諸々のことは華耀子が丁寧に母に説明し、了解を得たはずだった。父は相変わらず海外出張でいなかったが、特に反対はしていなかったと思う。そもそも父は巴との婚姻という利用価値以外のところで自分を見ていたことがなく、由貴也はこれ幸いと亭主関白で家長至上主義な父の目がないことをいいことに好き勝手やってきたのだった。
「陸上を辞めさせて、それで俺にどうしろっていうの。そしたら巴と暮らす意味もないよね?」
「ママは由貴ちゃんの味方よ!」
即座に熱っぽく言い放った母に、途端に空気が粘り気を持って重くなった気がした。
「だからお父さまを納得させられるようにがんばって、また優勝して……そのために誰かお世話をしてくれる人が必要だと言っているのよ」
いつの間にか母は寄り添うように座っていて、その腕がそっと由貴也の肩を捕らえるように抱いた。細い指が絡みつくように由貴也の腕をすべる。
脅しだ、これは。陸上を続けたければ巴と暮らせと今、暗に言われている。
由貴也に関心がない父にあることないこと吹き込んだのは母だろう。家の中のすべての決定権を持つ父に由貴也が陸上を続けることを快く思わない情況を作り出したのだ。親からの金銭的援助がなければ由貴也が陸上を続けていくのは到底不可能なことを母はわかっている。
「ねえ、由貴ちゃん」
ねっとりとした声で、母が由貴也に答えを迫る。カーテンで光が遮られている部屋の暗さがやけに目についた。
「……帰って」
由貴也はたまらず、母の体を引き離した。
「由貴ちゃ――」
「帰って。アンタが出てかないんなら俺が出てく」
一秒たりとももう同じ空気を吸っていたくない。由貴也がベットから立ち上がったところで、後ろから母がすがりついてきた。
「由貴ちゃん、怒らないで! あの人は海外出張ばかりで、文ちゃんは留学でしょう。ママにはもう由貴ちゃんしかいないのよ!!」
父は海外出張、文弥――兄は留学で、母はあの広い家に一人っきりだ。
「それで? 俺に何を望むわけ?」
顔を背中にすりつけ、腕を胴に回してくる母を睥睨し、言い放つ。
「ただ、ママは由貴ちゃんのことを思って……」
陳腐な台詞が、由貴也の背中を越える前に嗚咽に変わる。母は由貴也に抱きついたまま、すすり泣き始めた。
日が射さない部屋に、女の泣き声が陰気に響く。後ろからまわされた手によって深淵に引きずりこまれていくように思えた。
母の手は、由貴也の枷だ。今まで巴以外、何も執着しなかった由貴也を縛るものはなかった。いつでもどこにでもすぐにすべてを捨てて逃げられた。けれども今、陸上を人質にとられて動けない。
今、この瞬間思い浮かべる顔が多すぎる。そして由貴也が“その中”にいるには走るしかないのだ。
部屋の隅で、金メッキのメダルが安っぽく光る。その輝きは何のためにあるのだろう、と由貴也は思った。
どうしてこんなに何もかも上手くいかないのだろう――。
「香代子ちゃん」
ゴールデンウィークが過ぎて、大学の授業の出席率もぐんと減り、廊下を歩く人影もまばらになった。二限を終えて、昼を食べようと食堂に向かってキャンパス内を歩いていると、竜二と行き合った。
竜二は赤いチェックのシャツに、黒いインナーと白いTシャツを合わせ、ベージュのワークパンツを履いている。当たり前だけれども、ジャージやランニングウェアではない。おしゃれに命を懸けているような普通の大学生をしていた。
「香代子ちゃんも今日授業か? オレもや」
竜二は五月の陽光の中、屈託なく笑う。金色の髪と相まって、人懐っこい大型犬のイメージを香代子に抱かせる。彼と会うのは大会後に話して以来だけれども、あの時けっこう会話したせいだろうか。それとも由貴也を奮い立たせる相手として香代子を認めたらのか、初対面の時のような刺々しさがなくなっていた。
「そうだけど……そっちも?」
竜二がはす向かいの私大の学生であるのは、前に哲士に聞いたことがある。けれども、自己責任という名目の下、規律のゆるい大学において竜二がまじめに授業に出席するようなタイプだとは思っていなかったのだ。
そう思っていたのが伝わったのか、竜二が「香代子ちゃん、オレが授業に出てるなんて意外って顔してるで」とすかさず指摘された。見透かされて「別にそんなこと思ってないけど」と狼狽する。
「とりつくろわんでもええでー」と笑ってから竜二はつと、表情を改め、わずかにかがんできた。
「……実はなぁ、ここだけの話、オレ裏口入学なんや」
口の横に手を当て、香代子の耳元でトーンをおとして竜二はささやく。
「裏口ぃ!?、どうやってっ?」
初めて見る裏口入学者に、香代子は素直に驚く。竜二に「声でかいねん」とたしなめられる。
「コーチが押しこんだんや。だから大会がないときはあの人の顔潰さんようにまじめに出席せなあかんのや」
『コーチ』と言われ、先日の大会の様子が思い起こされる。凛とした美しさを持った人だった。それ以前に、海千山千の監督たちの中で、その人はずば抜けて若かったにも関わらず、堂々としたものだった。彼女を侮る視線も多くあっただろうに、その中で竜二の二冠や由貴也の二連覇など、教え子たちは輝かしい成績を上げた。
とびきり綺麗で、その上由貴也を導く力を持った人。香代子の力が及ばない、陸上という領域に直接踏み込める人。
「……コーチってどんな人?」
気がついたらそんな問いかけをしていた。香代子ははっと口をつぐむけれど、もう出てしまった言葉は戻せない。これでは明らかに嫉妬して、相手を探っているみたいだ。
竜二は数回目をまたたかせた後、体の力を抜くように笑う。何だか微笑ましいものでも見るような笑い方が気に食わない。
「香代子ちゃんが心配することなんっにもあらへんよ。オレがいるうちはそんなことには死んでもさせへん!」
拳をにぎって、勢いよく言いきった竜二に、今度は香代子が目をまたたかせる番だった。この力の入った言いようといい、先ほどのあの人の顔潰さんように、というセリフといい、なんとなく竜二が彼女に対してコーチ以上のものを抱いているように感じる。根拠も何もない“女のカン”というやつだ。
「コーチのこと、好きなの?」
ついそう尋ねると、竜二は間髪容れずに答えた。
「好きや!」
うわっ、と思わず体を退きそうになった。竜二があまりに迷いなく、まるで中学生のような笑顔で答えるから、聞いているこちらが照れてしまいそうになる。急に明るいところに出たかのようにまぶしくて、目をすがめそうになる。
「だから香代子ちゃんは安心してええよ」
自信満々の竜二に香代子は小さく笑ってしまう。少し見ただけでもあのコーチが女性として隙がなく、難攻不落であるのは見てとれた。いつか竜二の想いがあの相当難しそうな女性に届くといいと思う。
「そや。由貴也の髪、オレが切ったんや。かっこようなったやろ?」
自信満々のついでにさらに威張っておこうというように、竜二が胸を張って言ってきた。とたんに、表情が固まったのが自分でもわかった。
由貴也が部活に顔を出した初日、無茶苦茶に切った髪は誰にも手をつけられず、放置されていた。香代子はそれに安堵していた。潔癖症気味の由貴也に触れられるのは自分だけだと傲慢にも思っていたからだ。
けれども大会の時、由貴也の髪は短くきれいにカットされていた。頭頂部は重く、けれども耳まわりはスッキリとした流行の髪型は由貴也を一気に垢抜けさせていた。
自分が切るよりもずっと上手なカットに、それよりも由貴也が香代子以外に触れるのを許さなかった髪を、他の誰かに切らせたことがショックで、大会の時、顔を反らしてしまった。
勝手だと自分でもわかっている。すべては自分が蒔いた種であるのに。
「由貴也にどんなヘアスタイルが似合うかどうかマジメに考えたんやでー。オレ、陸上選手引退したら美容師か服屋の店長になりたいねん」
竜二が何か言っているけれど、あまり頭に留まらない。香代子を含め、巴以外は誰一人として呼ばない呼称を竜二は使う。『由貴也』と。竜二は由貴也に踏み込んでいく。そして由貴也もそれを許している。
竜二がいたら、香代子などもう必要ないのではないか。それどころか竜二は由貴也に走りの面でもいい影響を与えられる。大会での由貴也はまたさらに速くなっていた。
嫌な考えが止まらない。
「マネージャー!」
後ろから呼び止められてはっとする。とりあえず、声の方向を向いた。
「部長……!」
声に驚きが含まれる。ちょうど哲士が香代子たちが立ち話をしていた歩道の先から歩いてくるところだった。
哲士は早足でこちらに歩み寄り、香代子と竜二の間に立ちふさがるように割り込んだ。普段では考えられないほどの強引な行動だった。
さすがの竜二もいきなり哲士に剣呑な態度をとられ、面食らっていた。けれども、すぐに合点がいったように苦笑する。
「そんなこわい顔せんでも、今回は香代子ちゃんのこといじめてないで」
力を抜けや、言わんばかりに竜二は哲士の肩を気安げに叩くけれども、哲士の顔は相変わらず険しい。自分はきっと哲士が来てくれる寸前まで顔を曇らせていたのだろう。だからきっとそれを見かけた哲士がこうして来てくれたのだ。
自分からも弁解しなくては、と思うのに声が出ない。彼との初対面の時はともかく、今回竜二は悪くないのだ。それでも内心もう竜二と話したくないと思ってしまう。哲士の存在がありがたく、竜二にこのまま去って欲しいと願ってしまう。
竜二がそんな香代子の思いを知るはずもなく、哲士に十年来の友人のように警戒心なく笑いかける。
「今度、そっちの部活行ってええか? オレ、この前の大会でアンタが走るとこ見てから一対一で走ってみたいと思ってたんや」
「いつでも」
「おおきに」
あくまで友好的な竜二と、低く応じる哲士。その温度差を気にすることなく竜二は親しげに「ほなな、香代子ちゃん」と手を振ってきた。
香代子の望み通りに、竜二はいったんはきびすを返して去っていこうとしたけれども、思い返したように顔だけで振り返って香代子を見た。
「今日は由貴也も学校来てんで。そんな顔してんぐらいやったら会ってけばええやろ。なあ部長さん?」
前半は香代子に言って、最後は挑発なのか竜二は哲士に向かってにっこりと笑って見せる。
「由貴也が部活に執着するわけがようわかったわ。香代子ちゃん、アンタ罪作りな女やなー」
「罪づくっ……!」
思いもよらないことを言われ、言葉が詰まり、顔に熱が集まってくる。いくらなんでも香代子にだって竜二の言わんとしていることがわかる。
この一年、哲士は香代子のそばにチームメイトとして居続けた。“男”としての顔を表に出したことはなかった。香代子も意図的にその部分を考えないようにしていた。
それを竜二は香代子に突きつけてきた。まだ哲士は自分のことが好きだと、そして香代子が彼を振り回していると言ってきた。
そっと哲士の顔を見上げると、依然として彼は固い表情をしていた。
「オレは別に由貴也の恋路を邪魔するつもりはないで……走るのに支障がない限りはな」
けらけらと竜二は笑って、今度こそ足を踏み出す。その後ろ姿が、最初とはまったく違って見える。どこにでもいるただの大学生のものではなくなっていた。
香代子ははっきりと悟る。竜二は私生活を過ごすための顔と、陸上選手としての顔を持っている。最後、走るのに支障がない限りは――の一言はひやりとするような鋭さが含まれていた。おそらく陸上選手としての側面がそうさせたのだろう。
竜二が今日、気さくに香代子と接していたのは“私生活”の方の彼が表に出ていたからだ。陸上抜きならば、竜二は快活で気持ちのいい、付き合いやすい人物なのかもしれない。けれども、陸上選手としての彼はきっと由貴也にマイナスの影響を与える香代子が嫌いだ。
新緑が揺れる石畳の歩道の先に竜二が完全に消え、前に立っている哲士の存在感が一層濃くなる。一体全体これからどうすればいいのだろう。意識して妙なことをしでかしてしまいそうで、香代子は顔が上げられなかった。
「……あいつに何もされてない?」
そっと、先程までの竜二に対する厳しさが嘘のように、哲士が尋ねてきた。あまりにその声が普段通りすぎたから、気がついたときには顔を上げていた。
何もなかったような哲士の表情にほっとする。竜二の連れてきた波乱を忘れさせる。香代子は哲士の想いを深く考えて結論を出すのが怖いのだ。そして、哲士はそれを許してくれる。哲士が何も言ってこないことをいいことに、彼の気持ちを黙殺している。
哲士は香代子のこわばりをほどくかのように笑う。全部わかっていて、否定も肯定もしないただそのままにしておくような笑顔だった。
お互いに決定打を出さないまま、視線を合わせていた。
「何かあったら、相談して」
「……うん。いろいろとありがとう」
お互いに歯切れの悪い会話をして、別れる。哲士の歩いていく姿を、風に揺れる木々が隠す。
バランスが崩れている。立志院にいた頃のように屈託なく笑えない。複雑にそれぞれの思いが絡む。それをほどく手だてが見つからない。
どうしようもないやるせなさを抱え、香代子は哲士の背中を長い間見ていた。




