スタート・ゼロ2
「マネージャー、落ち着けって」
香代子の絶叫ともいえる大声による反響が収まった後、哲士がなだめるように声をかけてきた。
「だって私大に行ったんじゃなかったの!? 何で部長はっ、根本はそんなに落ち着いてんのよ!」
「だから落ち着けって」
哲士が馬でもあやすように手を振る。哲士の後ろで部員たちがなんだなんだとこちらの様子をうかがっているのが見えて、とりあえず香代子は黙る。由貴也は履修登録をしに教務課に行ったままだった。
「古賀はうちの大学に入学して、陸上部に入部しに来ただけだって。俺たちが知ってんのは春休みに飲んだからだよ」
香代子のさらなる混乱を招かないように哲士は端的に言ったのがわかる。わかるけれど、入学しただけ、と言われてはいそうですかと済ますわけにはいかない。どうしてこの大学に入ったのかが知りたいのだ。
「だってうちの大学体育学部ないじゃん。私大からのスポーツ推薦の話がなかったわけじゃないでしょ」
「あっただろうなあ」
根本が場違いなまでに呑気に相づちを打つ。それが余計に神経を逆なでする。
「それにいつ勉強したのよ! テスト前に鉛筆転がし用の鉛筆作ってたじゃない」
とたんに根本と哲士が「あぁ……」となんともいえない顔をする。高校の頃、テストと大会の日程が重なり、テスト前の部活休業期間がとれなかったことがあった。部室で着替えながら英語の構文をつめこむ部員のかたわら、由貴也はヤマ張りすらせずに鉛筆転がし用の鉛筆を作成するのにいそしんでいた。『鉛筆転がしによる解答の一致度』という論文が書けそうなほどの熱心さだった。
そういうわけで、由貴也が勉強しているところはまったく見たことなく、スポーツ推薦以外の方法で大学に入ってくるとは思わなかったのだ。
「いや、そこはまあ、あいつだって勉強したんじゃねえの?」
根本が頭をかきながら言う。根本を責めたって仕方がないのに止まらない。
「勉強!? 何で? 陸上止める気なの?」
香代子の剣幕に、哲士と根本がたじろぐ。でもふたりだってわかっているはずだ。短距離選手にとってシーズンオフである冬季の練習がいかに大切かを。冬季練習でどれだけやったかが来期につながるのだ。冬季練習を征す者が勝負を征すと言われているほどだった。
インターハイ四位の実績をもってすれば、由貴也は受験勉強などせずに目一杯冬季練習に打ち込めたはずだ。由貴也はそれが許される選手だった。どんな環境でも望むことができた。
それなのに受験勉強で由貴也は今シーズンを棒に振ったも同然となってしまった。それどころかこの大学では由貴也に見合う環境を提供することはできない。ここには自大学開催の競技会も、他大学との定期的な交流戦もない。優秀なコーチも、トレーナーもいない。
「どうしてうちの大学なの。何でスポーツ推薦で進学しなかったのよ!」
困惑だけが身の内を強く支配して、どうして、なぜ以外の言葉が出てこない。握った拳が震えた。
哲士と根本は何も言わない。もっと戸惑った顔で香代子の背後を見ている。なにを見ているのか、と香代子もまた後ろに視線を向けた。
その瞬間、自分でも顔が凍ったのがわかった。そこには由貴也が立っていた。あまりにも近い距離だった。
今の話を聞かれていないはずがない。急激にばつの悪さと後悔がわき上がってくるが、それを抑え込む。これは香代子の本音なのだ。何を隠すことがある。
由貴也、香代子、哲士と根本の間に気まずい沈黙が流れる。香代子が言葉を発するのを待っている気配がする。近くの木々から鳥が羽ばたく音がした。
奥歯を噛んで、肩をいからせてうつむく。胸の中で由貴也を責める。この事態を予想できなかった自分に対してはより強く。
――どうして追っかけて来ちゃったのよ。
地面を睨み付ける香代子の前に、すっとハサミを持った手がつき出された。わけがわからなくて顔を上げる。由貴也がハサミを差し出していた。
「髪切って」
飄々と言われ、面食らう。見れば彼の髪は伸びた毛先が首筋にからみつくほど長く、前髪が目にかかり、秀でた顔の造作を隠していた。全体的にもさっとしたシルエットになっている。そのせいで今、どんな表情を彼がしているのかわからなかった。
このシチュエーションには覚えがあった。古賀 由貴也はいつも唐突に髪切ってと香代子にハサミを差し出すのだ。
何だかもう、わけがわからない。もっと他に言うことがあるんじゃないの、という目の前の由貴也。どうして皆、こうものんびりと構えてられるのか。
爪が食いこむほど拳を握った。
「……私は、アンタは、私大に進学した方がよかったと思ってる」
一語一句押しつけるように由貴也に言い放つ。
走るのに最高の環境、最高のコーチ、最高のバックアップを由貴也は自ら捨てた。陸上選手として取り返しのつかないことをしたのだ。
「そう」
由貴也はただ、怒りもせず悲しみもせずそう言っただけだった。その代わり、目にも止まらない早さでその手が動いた。自らの髪をつかみ、はさみを目一杯開く。あっ、と思ったときには遅かった。春の日射しに鈍く刃が光る。一片のためらいもなく、はさみが閉じられる。刃が合わさり、由貴也の首筋を一閃した。
由貴也の髪は無残に一直線に切られていた。それでもなお彼は髪を切ろうとはさみを開く。そこで香代子は正気に返り、由貴也の腕をつかんだ。
「ダメっ!」
何なのだ、由貴也は一体。久しぶりに会ったせいか彼の感情の振り子がどう揺れているのかさっぱりわからない。
由貴也はあっさりとはさみを離した。それは石畳に落下し、かしゃんと軽い音を立てる。落ちたはさみのまわりには切られたばかりの由貴也の髪が陽光に照らされてつやつやと輝いていた。
髪はまるで呼吸をしているかのように瞬いていて、香代子は目を離すことができない。その内に由貴也がもう一方の手で香代子の手首をつかみ、彼の腕を制止するためにつかんでいた自分の手を外させた。
反射的に彼の顔を見上げたけれど、長い前髪が深い影を作っていて、表情がやはりうかがえない。
「着替えてきます」
由貴也は一瞬前に髪を切ろうとしたことも忘れたかのように、平坦な声を発した。そのまま背を向け、部室の方へ歩いていく。由貴也に触れられた手首がかすかに痛い。
「古賀、カワイソ」
ぽそっと根本が一人言のように発してグラウンドへ出ていく。遠ざかっていく足音を聞きながら、香代子は奥歯にぐっと力をこめた。
「私、間違ったことは言ってない……!」
胸の塊を吐き出すように言う。今からでも香代子は由貴也を強豪私大に転校させたいくらいだ。彼のいるべき本来の場所へ戻したかった。
答える声はなかった。代わりに背後で哲士が動いた気配がして、直後軽く肩を叩かれる。その手はどうしようもなく温かかった。
香代子は動くこともできず、その場にただたたずんでいた。
「今度は流されないんだから!」
香代子は思わず目の前の机を平手で叩いた。振動で机の上の自作弁当が跳ね、向かいに座る根本のラーメンが波立った。ついでに麺をすすっていた根本もむせる。
「マ、ネージャー、なん、なんだよ」
咳き込みながら切れ切れに根本が苦しげに尋ねてくる。目尻に涙が浮かび、顔が赤くなっている。苦しそうな根本の様子もさることながら、自分の行動で昼時の食堂の視線を一身に集めていたことを知る。恥ずかしくて顔から火が出そうだ。根本には小声で「ごめん」と謝る。
「まっ、どうせ古賀のこと考えてたんだろ」
チャーシューに息を吹きかけながら冷ましている根本がさらりと言ってくる。当たっているから憎い。
「ところで根本。何でここにいんのよ」
弁当も半分以上減ったところで言うのもなんだが、香代子は今さらながらに疑問に思った。ここは香代子の国立大の方の食堂だ。普通に考えて入口で根本と行き合い、いっしょに食事をとっている方がおかしいのだ。根本ははす向かいの私大の学生なのだから。
尋ねられた根本は目をかっ広げ、両手を机の縁につき、いきなり身を乗り出してきた。よくぞ聞いてくれました、という様子に香代子は身を引く。
「マジ考えてみろよ。あそこは理学部、農学部、工学部の集まりなんだぜ。見渡すかぎり男、男、男ッ!! むさ苦しさのあまり俺は発狂しそうなんだよ!」
すべての学部学科がここに集まっている国立大とは違い、根本の私大はキャンパスが分散しており、はす向かいは理系キャンパスのみだ。それで授業はしかたなく我慢し、昼休みの間だけ女子のいる国立大に避難しているわけなのだろう。根本の顔が近すぎて、とりあえず「大変だね」と言って、イスにお帰りいただいた。
「で、何が『今度は流されないんだから!』なんだよ」
話を自分の方に戻され、香代子は口に運びかけていた卵焼きを弁当箱に戻した。
「高校の時、同じようなことがあったな、と思っただけ」
「『だけ』にしてはリアクションでけーよ」
リアクションが大きいのはその通りだと思ったので「すみません」と再び謝っておく。
由貴也と出会ったばかりの頃、陸上部に入部すると言った彼に香代子は髪が長すぎるから切ってこいと言ったのだ。そしたら由貴也はその場で切り始め、ざんばらにしてしまった。あまりのみっともなさに香代子がなし崩し的に切って整えるはめになったのだった。
由貴也は昨日あの後、哲士が春休み中に注文しておいた大学陸上部の白いジャージを着て、練習に参加していった。女子部員は由貴也の顔に、男子部員はインターハイ四位の大型新人に遠巻きに注目していた。彼らが近寄らないのは由貴也が直前に髪をいきなり切るという奇行を見せ、その不揃いな髪を放置しているからだった。
そのみっともない髪型は見ていられなかったが、香代子は切り直してやろうとも思わなかった。今回は由貴也に流されてやらないと固く誓っていた。だからそんなことしたってダメなんだから、なのだ。
「俺は古賀がかわいそうだと思うけど」
「え?」
根本が箸の先を思わず聞き返した香代子の方に向けてくる。そういえば彼は昨日去り際にも由貴也がかわいそうと言っていた。
「だってせっかくマネージャーのこと追っかけてやっとここまで来たっつうのに、感動の再会どころか来なければよかったって言われたんだぞ。そりゃあ俺でも怒って髪ぐらい切るね」
「あのねえ、私は専属美容師じゃないの! それに髪切るってわけわかんない怒り方だし」
根本はスポーツ刈りで切るところなどない髪をかく。やれやれといった仕草だった。
「古賀のここ、いっつもゴムつけてんだよ」
根本が筋ばった腕を見せてその手首を指差す。香代子は彼の言いたいことがわからずだから何なの、という視線を向けた。
根本はああもうまったく、と聞き分けのない子供を前にしたようにうなった。
「インターハイのって言えばさすがにわかんだろ?」
根本に言われても、しばらくは何のことだかわからなかった。
――不意に、結んでという声がよみがえってきた。
「女子みてえって言っても、ぼろぼろでもう結べねえじゃんって言ってもはずそうとしねえの」
根本の声が耳の奥で反響する。やわらかい髪の感触をまだ指が覚えている。半年以上前のインターハイで自分は由貴也の長い髪をゴムで結んでやったのだ。
「髪の毛とゴムはあいつなりの願掛けみたいなもんじゃねえの?」
「……何の?」
「マネージャーとつきあえますように、とか?」
ストレートに言われてにわかに顔が熱くなる。由貴也とつきあうなど考えたこともなかった。
「マネージャー、赤くなんなよ。俺まで照れるだろ」
「何でアンタが照れんのよ!」
どことなく居心地の悪そうな根本につっこみを入れ、息をつく。動揺した気持ちを立て直そうと努める。
「わかってんだろ、マネージャー。あいつがどうしてこの大学に進学したかぐらい」
その努力も虚しく、根本に再び深いところを突っ込まれる。話題を変えようとしても無駄に終わりそうだった。
もう開き直るしかない、と香代子は半ばやけになって口を開く。
「わかってる。わかってるから問題なんじゃない!!」
またもや前に机を叩きたくなったが、そこはぐっとこらえた。
「私がいたからこの大学を選んだって自分自身の意思はどこにあるのよ!」
やはりこらえきれず香代子は目の前のテーブルを叩いた。学習したのか根本がすばやくラーメンのどんぶりを持ち上げて避難させる。
「あんじゃん、自分の意思。『マネージャーと一緒がいいからこの大学にした』って立派な理由じゃん」
「どこが。大学は遊びに来る場所じゃないの!」
「そんなに怒んなよ。メンマやっから」とどんぶりを下げた根本が香代子の弁当の蓋にラーメンに入っていたメンマを置く。十中八九香代子の怒りを鎮めようというよりただ根本がメンマが嫌いなだけだ。
「マネージャーはさ、あいつが陸上を捨てたと思ったってんのかもしれねえけど、そんなことないから。古賀は陸上のクラブチームに入ってんだよ」
「クラブチーム?」
さすがにこれには自分自身でも自覚しているやかましさを納めて素直に尋ね返した。
「ここの近くに大きいスポーツクラブがあるじゃん。あそこで今年から陸上クラブができたんだってよ。んで、そこのコーチにスカウトされたわけ」
水泳やフィギュアスケートとは違い、陸上は学校の部活に所属し、そこから活躍していくパターンが主だ。むしろそれしか活躍する道が存在しないといってもよい。クラブは大人の趣味か、就学前の子供のためのものが多い。
「古賀の話からするとかなり本格的な練習をしてる感じだな」
ま、あんまりそういうこと話さねえからわかんねえけど、と根本は付け加えて話を締めくくった。
クラブチームとはあまりに予想外な話だった。そもそも由貴也はクラブチームと部活を両立させるつもりなのだろうか。クラブチームの詳しい実態は知るべくもないけれど、大学の部活だってそう楽ではない。少なくとも異性との出会い目的や、飲み会サークルとは違う。真剣にに競技をしようとしている学生の集まりだ。それなりに練習はキツい。
「クラブがなかったらどうするつもりだったんだろう」
またもや口に運びかけていた卵焼きを戻し、思わずつぶやいてしまった。結局、香代子が一番気になっているところはそこなのだ。
由貴也はクラブチームがなかったら、もしくは香代子が陸上部のない大学に進学していたら、陸上を辞めるつもりだったのか。
由貴也は基本的に受動的だ。最愛の巴がいたから立志院に進学したことといい、彼は自らが強い意思を持って行動することがない。だから唯一、彼が自分の意思で高校で陸上を再開し、ここまで続けてきたことがうれしかった。
その陸上すら、由貴也はあっさりと捨てたかもしれないのだった。
「まあ確かにどうしてたんだろうな。イマイチあいつが陸上に対してどう思ってんのかわかんねえんだよな」
根本の言葉に香代子はただじっと視線を伏せて安っぽい食堂の机を見つめていた。香代子は由貴也がよく考えて陸上から離れるという選択を下したのなら、それはそれで仕方ないとは思っている。けれどもおそらくそうではない。誰かがこうしたから自分はこうする、というのが由貴也である。
何より、自分が由貴也の決断に関わっているのがこわかった。香代子が彼の運命を曲げている。自分がいなければ由貴也は最高の環境で存分に走れたのかもしれないのだ。
香代子が由貴也に腹がたっているのは彼が自らの思考を止めてしまっていること、そして自分の由貴也に対して及ぼす影響の強さへの恐怖の裏返しなのだ。
「それにしてもマネージャーってやっぱさ、女の幸せより古賀のことなんだな」
女の幸せという生々しさすら感じる言葉を苦笑まじりに言われ、照れ隠しに「女の幸せって、演歌じゃないんだから」とつっけんどんに返す。女の幸せ、それはすなわち由貴也に何も考えずに愛されることか。
「だって俺だったら真美ちゃんが何もかも捨てて俺んとこに来てくれたら泣いてよろこぶし」
根本はその場面を妄想、いや想像してしまったのか、感極まって涙が浮かんでいる。考えるだけでこんなに感動できるとはお手軽な男だ。
目尻の涙をそっとぬぐって、顔を上げた根本は一変。思いもよらぬ真面目な表情をしていた。
「目的が何であれ、古賀の努力っていうか、がんばりは認めてやるべきだと俺は思う」
「がんばり?」
「そっ。あいつがインターハイにいったこともそうだし、受験勉強だってそうじゃん。がんばったのは間違えねえんだから。マネージャーが認めてやんなくて誰が認めてやんの?」
いつになく根本からまともなことを言われ、ずっと箸に持って宙に浮いていた卵焼きを口に入れた。口を動かしながら考える。
インターハイ入賞に、国立大合格。この二つを一年で成し遂げるには相当な苦労があったはずだ。由貴也がこの一年間でかなりのがんばりを見せたのは疑いようがない事実だ。それを自分は由貴也の判断の安易さだけを見て頭ごなしに否定した。
「とにかく痴話喧嘩はよそでやってくれよー。俺が虚しくなるだろ」
少しまともなことを言ったと思ったら根本はすぐこうだ。机に上半身をぺたりとつけてごろごろしている。おちゃらけとおとぼけから彼は切って切り離せない。
「痴話喧嘩じゃな……根本、今何時?」
はっと気づいて根本に尋ねる。少し前まで昼休みで混雑のピークにあった食堂からはだいぶ人が空けていた。
根本が腕時計に視線を落とす。
「んーと、一時十分前」
その答えに香代子は即座に弁当をしまう。
「一時からスーパーの昼市に行かなくちゃ。三限入ってないから」
「…………昼市って。恋バナをそんな所帯染みた理由で中断する女子初めてだし」
自分にとってはものすごく重大イベントである昼市だけれども、根本は脱力したように肩を落としていた。
「だって冷凍食品が三割引なんだもの。お弁当のタネにするしかないでしょ。あと洗剤にトイレットペーパーに……」
「わーかった! もういい」
彼の言う通り、どこぞの専業主婦ばりに節約生活を送る香代子を、根本は渋面で見ていた。
「そんなおしゃれしてスーパーかよ」
はああとやるせなさ満載のため息をついた根本に香代子はぎくりとする。すっぴんにぼさぼさの髪、寝坊して服装も適当だった昨日に比べ、今日もパンツスタイルなのは変わらないが、上はブラウスを着て、淡い紫のカーディガンを羽織っていた。
「……だって昼市があるから今年この曜日の三限なくしたんだもの。スーパー行かなきゃ」
「だーもうっ。俺はスーパーに行くなとは言ってねえ! スーパー“だけ”に行くなっつうてんの!!」
しどろもどろで反論した香代子に、今度は根本が机を叩いた。
「同じ学校内だから古賀に会えるかもー、とか思ってんだろ? そんなおしゃれしてるマネージャー、俺見たことねえもん」
わざわざ声色まで変えて芸が細かい根本に「……うるさい」と一応反撃しておく。けれども図星だけに苦しまぎれで、あまり根本に効いているとは思えない。
「素直になれよマネージャー。そんで早くくっつけ。んで俺に真美ちゃんをまわせ」
結局そこか、と今度は香代子が脱力する番だった。根本はいまだに真美への熱烈ラブコールを送っており、その真美もまた由貴也にメロメロだ。根本の行動規準は何でも“真美ちゃん”ありきで、こうも香代子をつつくのは真美に由貴也を諦めさせるためなのだろう。
「はいはい」と適当にいなして香代子は席を立つ。いい加減行かないと昼市に間に合わなくなる。
つまんない意地張るなよー、と根本の言葉を背に、食堂を後にした。
意地とかそういう問題ではないのだ。ただ単に追いかけてきた由貴也に対してどう対応していいかわからないだけだ。彼が来たことを手放しに喜べはしない。
昼市のスーパーの一角で、髪切り用はさみが売っているのを見つけた。香代子は長い間それを見つめた後、かごに入れ、後はなにも考えずにレジに向かったのだった。




