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初恋の君へ  作者: ななえ
大学生編
64/127

スタート・ゼロ1

 小さなアパート、小さな部屋。自分の城に帰ってきて香代子はほっとした。こんな大きな失敗をした日は特に。

 少し重い玄関のドアを開いて、何も考えることなく壁に手を沿わせて電気のスイッチに触れた。オレンジがかった照明がぱっと点く。ハンプスを脱いで、靴箱に片づけてから、部屋に上がった。

 この部屋に越してきてから一年。帰宅時の一連の動作はもう体に染みついている。

 白を基調にした八畳の1Kは、よくある学生向けの物件だ。駅のそばではないけれども、大学には近い。まさに香代子の通う国立大の学生をターゲットにした物件で、家賃も安い。毎日自炊をする香代子にとってスーパーが近いのも魅力的だった。

 玄関を入って、右手にキッチン、左手にバス・トイレ。そのまままっすぐ行くと八畳の寝室兼居間がある。玄関の明かりだけを頼りに部屋のドアを開け、壁際のベットに倒れこんだ。今日は久しぶりにいい天気で、昼間存分に布団を干したのでふかふかだ。

 壁掛け時計の秒針が時を刻む音がする。午前二時までのファミレスのバイトをこなしてきたので。今は二時半ぐらいだろうか。明日も九時から講義だ。早くお風呂に入って寝ないと。七時には起きて洗濯とお弁当を作って学校に行きたい。

 そうは思っても、体が動かない。代わりにため息が出る。

 また、バイトをクビになってしまった。もう三回目だ。最初はラーメン屋の深夜のバイト。次は居酒屋の同じく深夜バイト、今回もファミレスの深夜バイトだ。共通点は接客業。自分は客商売にはつくづく向いていないのだと存分に思い知らされた。

 どうしても、香代子はお客に理不尽な要求をされると笑顔でやり過ごすことがでいない。今回は酔客がバイトの女の子にセクハラし始めたというよくあるパターンで、最初は香代子も今までの反省を元におだやかに止めに入った。けれどもなおも客は止めず、それどころか客だということを盾にとって、無理強いし始めたのだ。泣き目になる気の毒なバイトの女の子を前に香代子はキレた。お冷やをぶっかけてお帰り願ったわけである。

 結果、またアルバイトを失うハメになった。

 人間としてはともかく、店員としてはあるまじき行為をしたことはわかっているので落ちこむ。今はアルバイトの採用事情も軒並み厳しい。にも関わらず、こんなことをしでかして、また明日からさっそくバイト探しの日々だ。見つかるまで無収入というつらい現実に、さらに落ちこむ。

 香代子の実家はここから車で一時間半だ。交通の便が悪いので、余分に時間はかかるけれど充分に家から通える。

 なのに一人暮らしをさせてもらっているのは再婚して幸せを満喫している母を思ってのことだ。再婚相手との間に子供も生まれたらしく、仲むつまじいことこの上ない。再婚時、小学生だった弟たちはともかく、どう考えても香代子は義父にとって遠慮してしまう相手だ。それは香代子にとっても同じで、全寮制の立志院を卒業した後も家で暮らそうとは思わなかった。

 自分の勝手で家を出たのだ。一人暮らしにかかる費用ぐらいは自分でまかないたい。暴力に泣かされた実父とは違い、義父は誠実で温厚だ。けれども少し距離があった方がうまくいく家族というものもあると思う。

 体を起こすと、部屋の静けさが身に染みた。昼の目まぐるしさが嘘のようだ。

 新学期が始まり、香代子は二回生になった。履修登録に部活では新入部員の勧誘に忙しい。

 校門から校舎に続く並木道。どうしても探してしまう、彼の姿を。いるはずがないというのに。

 今頃、彼は強豪私大で質の高い練習に励んでいるのだろう。次に会うときは畏怖とともに大学陸上会に君臨する名門大のユニフォームに身を包み、容易には近づけなくなってるはずだ。そここそ彼のいる場所なのだから。

 真夏のインターハイ後、どんなに新聞や陸上雑誌を目を皿にして読んでも由貴也の名前が出てくることはなかった。短距離のシーズンは四月から十月で、それ以後は駅伝などの長距離に移る。冬の間彼の名前を見ないのは当たり前なのだった。

 あのインターハイが夢のように思える。陸上選手として飛躍しつつある彼が、ここまで降りてきてくれた一瞬。指先に伝わる賞状の感触をよく覚えている。彼からもらったインターハイ四位入賞の賞状は立志院に返却してしまったので今はない。それを少し後悔もしている。

 なんだか、何をする気力もなくなってきて香代子はもう一度ベットに横になった。

 インターハイを終えて、由貴也と向き合おうと決めても、どうしていいかわからなかった。もう彼のマネージャーにはなれないし、名門大のジャージは無言の威圧となって由貴也との距離を感じさせる。

 彼の陸上選手としての活躍が見たい。けれども彼を身近に感じたい。相反するふたつの思いはけっきょくひとつの結論にたどり着くのだ。ただ、会いたいと。

 この一年間、彼が今頃どこで何をやっているのかと幾度も考えた。もう頭の中の無表情は見飽きた。実物が見たい。

 頭から追い出そうとしても、なかなか一度落ちてきた思いは消えない。香代子は夢うつつの中で何度も由貴也の顔を浮かべた。

 眠りに落ちる寸前、どこかの大学のジャージを着た由貴也の姿が現れた。

 ねえ、アンタそこでちゃんと笑ってる――?

 香代子の問いかけに答える声はなく、ほどなく眠りの波に身を委ねた。







 陸上部の活動は月・水・金・土の週四で日が暮れる前の十四時半から十六時までになっている。その後は授業に行くもグラウンドに残るのも自由になっている。

 香代子はここでも陸上部唯一のマネージャーであるけれど、高校までと違うのは女子部員がいることだった。男女比は八対二。男子十六名、女子四名だ。

 女子部員が少ないのはこの国立大そのものが男子が多いせいもあるけれども、インカレをしているはす向かいの私立大が理系キャンパスだからなのだった。

「マネージャー、またクビになったってマジで?」

 今日は水曜、快晴で国立大の方のグラウンドで練習だ。これが雨になると私立大の方の屋内競技場に移る。

 水道でスポーツドリンクを作っていると、根本がにやにやとしながらやってきた。からかう気満々の嫌な顔つきだ。

 根本はグレーのジャージを着ており、それは私立大のものだった。根本は奇跡的にはす向かいの私立大に受かり、工学部に通っている。その彼をギロリとねつけた、

「クビなったけど、なにか文句ある? お冷やぶっかけて清々した」

 根本に対して虚勢を張りながら、文句大有りだ、と内心思っていた。香代子は看護学部で、三年時から実習が始まる。それこそアルバイトなど無理だ。それまでにバリバリとバイトをして蓄えを作ってかなければならない。こんなところで職を失っている場合ではないのだ。

「マネージャー最高。いつも期待を裏切らない行動をしてくれてありがとう」

 根本が笑い出すのをこらえながら香代子の肩を叩く。ラーメン屋では食中毒だと偽って慰謝料をとろうとする客に「おとといきやがれ!」と啖呵を切り、次の居酒屋では酔っ払い過ぎて店の備品を破壊した客を店から叩き出した。それは部内で香代子にとってはありがたくない武勇伝となって語られていた。

「根本。何かいいバイト紹介してよ。時給がいいやつ」

「俺んとこだったら人手足りてないから紹介すっけど」

 香代子は「それはちょっと無理かも」と肩を落とす。根本は自販機の補充というアルバイトをしている。やる気と気合いはあっても、香代子は飲料を積んだ小型トラックを運転できない。運転免許自体持っていないのだ。

「俺のガソリンスタンドでよければ聞くけど」

 駅の求人情報紙を片っ端からもらってこなくちゃ、と思っていると、今度は哲士が後ろから顔を出す。哲士は国立大の経済学部に所属している。彼は去年の入学早々から部活の合間をぬってガソリンスタンドでアルバイトをしていた。

「ガソリンスタンドならそんなにトラブルも起こしにくいと思うし、俺もフォローするから」

 なっ、と哲士が微笑む。広いグラウンドと、青い空。このさわやかさの決定版というような景色にこうもマッチする人物はなかなかいない。三回もの接客業の失敗でささくれだっていた香代子にとって哲士は人間って捨てたもんじゃないと思わせてくれる人物だ。

「じゃあ、お願いしていい? でも今度は上手くやるから! 今度こそは、絶対……」

 いってるそばから自信がなくなってくる。本当は接客業ではないバイトをした方がいいのだけれども、それは“逃げ”のようで嫌だった。

「根本。ところであいつはいつになったらくんの」

 哲士が香代子にうなずいて見せた後、根本に話題をふった。

「いや、もうあいつ俺んとこいないんだよ。どこで何してんだか。もう学校始まって一週間じゃん」

 彼らが『あいつ』と表す人物が香代子にはわからなかった。時期的に新入部員か。陸上部も多くの見学者と体験入部者を受け入れていた。

「新入部員?」

 何気なく香代子が尋ねると、根本がにやー、と顔を横に引っ張られたような笑みを浮かべる。嫌な予感が背中をはいずりまわる。香代子はとっさに身を引いた。

「そう。新入部員。超大も――」

 の、と言った根本の語尾に合わせて、カツンと足音が響いた。校舎からグランドまでの石畳がしきつめられた歩道。往来はそこそこあるというのに、その足音だけがやけに耳の奥で反響した。反射的に音の方を向く。

 桜がさわさわと午後の風に揺れていた。花びらが視界をさえぎる。なんだかよく見えない。目で実際に今見ているものが上手く頭の中で処理されない。

 足音が近づいてくる。一歩一歩が幾重にも響く。最後の足音がすぐそばで鳴った。

 香代子は目の前に立つ人物を目を見開いて見つめた。向こうもこちらを見ていた。

「お前やっと来たな。今、何日だと思ってんだ」

 根本の声で夢から覚めたようにはっとする。かたわらで根本がわざとらしく肩をすくめた。根本はなぜこんなにも平然と話しているのか。

「チームジャージ作っといたのがムダになるかと思ったよ」

 哲士も別段驚いたところなく、話しかけている。ふたりが問題にしているのは彼が来るのが遅かったことだけで、ここにいることではない。

 この事態についていけない。強豪校のジャージではなく、紺色のシャツにワークパンツという私服で、彼は――古賀 由貴也はそこに立っていた。

「……なんか、気がついたら学校始まってて」

「気がついたらって、四月ももう半分過てんじゃん。新入生は一日からガイダンスとかあったんだろ?」

「そんなもんあったんですか?」

 こりゃだめだ、という風に根本があきれた顔をする。

「古賀、履修登録は?」

 これまで根本と哲士のやりとりに苦笑していた哲士が不意に真顔になって由貴也に尋ねた。

 履修登録は大学生にとってもっとも大事なイベントと言える。自分がとりたい授業を所定の用紙に書いて教務課に提出するのだ。

「俺、今日初めて学校に来ましたもん」

 由貴也は平然と言ってのける。語学の抽選やら何やらで奔走している学生が多い中、この呑気さは異常だ。

 代わりに根本と哲士が青くなった。

「……部長。そっちの大学、履修登録いつまで?」

「今日の十五時まで」

 履修登録を提出しなければ、どんなにいい成績を残そうとも単位として認定されない。その講義の受講者として数えられてもいないのに、単位を与えられるはずもない。

 今は十五時前。あと締切までたったの十分しかない。大学というのは自由だけれどもその反面自己責任な面が多く、種々の手続きを怠った者に対しての救済処置はない。つまり一年をふいにするので、留年決定なのだ。

「お前、履修登録出しに行け! 今すぐッ!!」

「りしゅうとうろくって何ですか?」

「教務課に聞け!」

「きょうむかって何ですか?」

「いいからさっさと行けー!!」

 火山が噴火したような根本に追いたてられ、由貴也は頼りない足取りで来た道を戻っていく。自分はただただ声が出ず、その後ろ姿を見送るしかなかった。

 一体、何がおきたのか理解できない。根本たちが「あいつはまったく」と言っていたけれど、その声すら遠いものに聞こえる。 

「マネージャー、めっちゃ驚いただろ?」

 根本がいたずらっぽく笑って、こちらの顔をのぞき込んでいた。握った両拳が震える。

「な、ななななな」

「「な?」」

 意味をなさない叫びを重ねる自分を、根本と哲士が声を合わせて先をうながす。

 自分の中で何かが切れた音がした。

「何でいんのよーっ!!」

 間違えなく今までで一番の大音声に、木々に留まっていた鳥は羽ばたき、どこかの犬が呼応して遠吠えを発し、桜の木からは毛虫が落ちた。

 そのにぎやかなる反応に、香代子はこれが現実なのだと悟ったのだった。

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