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初恋の君へ  作者: ななえ
番外編
56/127

天気雨

本編・番外編読了推奨。由貴也高三、夏。インターハイ本選。

 由貴也はこのインターハイにおいて“おこぼれ”の選手だった。

 インターハイが自県開催のため、出場選手の枠が増えた。そこに百メートルで滑り込んだのが由貴也だった。

 全国を狙えると言われてシーズンに入った春。出だしの新聞社主催の県内大会で優勝したものの、関東、国体と立て続けに全国への切符を逃した。由貴也は高校入学から一年もの間をスポーツ選手としては棒に振っている。当然ながら積み重ねてきた練習量が少なく、一年のブランクに今になって足を引っ張られたのだ。

 背水の陣で臨んだインターハイ予選では何とか本選に駒を進めたがその直後、過労に近い状態で倒れた。ちなみに三年前の中学の時、県タイムの記録更新者として関東で走ったときも、同じパターンだった。夏場に弱い由貴也は勝ち進むことで増えた大会数によって回復が追いつかず、だいたい最後の大会がおろそかになるのだ。

 今回も疲れの沼に身を横たえながら、このまま眠ってしまいたいと思っていた。中学の時はそのまま眠ってしまったから関東の惨敗につながったのだ。体は起きていても心が眠っていた。起きる意味も見当たらなかった。

 けれども、今回は――。

 インターハイ百メートル決勝を告げるファンファーレが鳴る。

 由貴也は出走前のわずかな一時に天を仰ぐ。夏の空は見えず、どしゃぶりの雨だった。

 ――百メートルはスプリントの王なんだ。

 不意に脳裏に顧問の言葉が浮かぶ。

 ――短距離は才能や素質がものをいう。特にショート・スプリントはな。

 指導者がこんなことを言ってはいけないけれど、と苦笑する。インターハイ本選への出場を決めた後、顧問とどのように本番まで調整していくか話し合っていたときのことだった。窓に目をやると、抜けるような夏の真っ青な空が広がっていたことをよく覚えている。

 筋肉には速筋と遅筋があり、短距離走者に必要なのは瞬発力などを司る速筋の方だ。ふたつの筋肉の割合は生まれつきであり、後天的には変えられない。ちなみに長距離に必要な遅筋は訓練次第で速筋を遅筋に近いものへ変えられる。この差がスプリンターに才能が不可欠であると言われる由縁だった。

『お前のスタートの感のよさ、フォームのよさは天性のものだよ』

 由貴也と十も変わらない若い顧問はそう言って歯を見せて笑った。お前、一年前より背も伸びたし、と期待をにじませたまなざしが由貴也をとらえた。競技者と指導者の顔が垣間見える。

 由貴也はずっと、足の回転数を重視するピッチ走法をとってきた。キレのあるスタート、前半追い上げ型がこの走法の特徴だ。しかし現代の陸上ではピッチ走法はまれで、歩幅の広さを重視するストライド走法が多く用いられている。厳密には住みわけされておらず、併用する選手が多い。

 ピッチ走法には限界があり、そこに突き当たるとストライド走法で歩幅を広げてタイムを短縮していくしかない。ピッチ走法の爆発的スタート前半逃げ切り型の由貴也であったが、後半追い上げ型のストライド走法も用いることに決めた。この走法は足の長さが必要なため、ある程度の身長の高さが求められ、加えてピッチ走法よりも体力を使う。一年前の由貴也では顧問に打診されてもおそらく使わない走法だっただろう。もっともこの一年間、ストライド走法を使うにあたって死ぬほどのウエイトトレーニングをしたが。

 ――お前、ここまで来たんだ。スプリントの王様になれよ。

 締めくくりにそう言われ、由貴也は適当にうなずいた。とにかくその時はたまった疲労に口を動かすのも面倒で、意識にももやがかかっていた。寝ているか、練習しているかのどちらかの生活をしていたのだと記憶している。半分寝かかっていた。

 スプリントの王なんて、インターハイなんて別にどうでもよかった。それよりもどうしたら、いつになったら見に来てくれるのか、そんなことを考えていた。

 走法を変えたのも、その結果大会で記録を残すのも、別に自分の身に帰する栄誉を欲したわけではない。最初はどんな大会でも優勝すればいいのだと思っていた。その次は県大会で勝ち抜けばいいのだと思った。ベストを更新して、関東大会出場を決めて、地元紙に小さく名前が載った。それでもまだ足りないらしかった。

 ここで負けたら引退だったインターハイ予選。それでも香代子は見には来なかった。本選への出場を決めて、陸上雑誌の特集でインタビューもされた。面倒な取材を受けたのは自分の名前を彼女のもとへ届かせるためだったが、もうこれ以上の手だてが見つからなかった。

 気がついたらそういうものを軽視していた由貴也は香代子のアドレスも番号も通っている大学も知らず、どうしようもなかった。離れていく彼女を引き留めるすべがないのだ。

 結果、心身ともに戦うことに、待つことに疲れ果て、インターハイ本選前にして倒れたのだ。

『全国高等学校総合体育大会、百メートル男子の部、決勝に出場する選手を紹介いたします』

 アナウンスで現実に引き戻される。この季節にはめずらしい、本降りのぬるい真夏の雨が、レーンに並ぶ八人の選手を平等に濡らした。

 雨は一般的に番狂わせを起こしやすいと言われている。雨が降ったらチャンスだというのは陸上をやる者にとって共通の認識だった。それでも由貴也は今の今までそんなことを考えたこともない。雨だとモチベーションが下がり、なにより体力がなく、体重が軽い由貴也は悪天候にともなう風に直に影響を受ける。それ以上に由貴也は番狂わせを起こ“される”側だったのだ。

 予選第八組二着にて通過。準決勝第二組三着、タイムにて決勝の六人プラス二人の内に入る。由貴也の今日の結果はあまり良くはない。“おこぼれ”の選手だったことを考えると、決勝に残れただけでも快挙に近い。

『第八レーン、百七番、古賀 由貴也くん。立志院高等学校』

 自分の名前がコールされ、手を上げてスタンドに頭を下げる。いつもは形式上の、おざなりなお辞儀だが今日は違う。顔を上げ、視界を覆う前髪から垂れる雨水をやり過ごし、そして見る。ただひとりの姿を。

 情けない付録のような“おこぼれ”の選手にまでなって求めたのは今、この瞬間だった。客席の真ん中、その双眸が由貴也だけを見ている。この一年間、そのまなざしだけを望んでいた。

 いつだって長い間染みついたように巴と手をつないでいた幼い頃が由貴也の胸の中で一番尊い記憶として存在し続けていたのに、もうそうではなくなっていた。目に浮かぶのは赤茶色のタータン舗装のグラウンド。練習中、百メートルを走り終わってふと水道の方を向くと彼女の後ろ姿があって――。そんな『日常のワンシーン』とでもタイトルがつきそうな陳腐で滑稽で平凡でドラマ性もない、そんな路傍の石のような一場面をこの一年で繰り返し思い出した。

 いつ逆転していたのだろう。由貴也の原点とも言える巴の面影と。劇的な変化ではなかった。静かに降り積もり、いつの間にか思い出が重みを増していた。

 それはかつての火のように、溶けて一心同体になるような欲望ではなかった。由貴也自身でも知らないうちに、潮が満ちるかのごとく感情が溜まっていたのだ。

『位置について』

 選手の紹介が終わり、正面のテレビカメラが退く。歓声や拍手が止んで、後にはとがった空気だけが流れた。

 由貴也は客席から目を外す。予選から全力疾走で流すことができなかった由貴也は、もう余力がない。決勝に残るような選手は少なくとも予選は後半を流して体力の温存をはかるのだ。

 体は疲れている。それでも――。

 番狂わせを起こそうと、台風の目になって起こしてやろうと、生まれて初めて思った。

『用意』

 アンタが認めてくれるためには優勝すればいいのか、スプリントの王とやらになればいいのか。対等だと思わせるには勝つしかないのか。

 そこですべての雑念を払う。ただ今の自分を見てもらえばいい。一年前とは違う、今の姿を。

 雨が地面につけた腕をつたい、うつむけた顔の前髪から滴がたれた。スタート直前、雨の音だけが競技場に響く。風は、無風。

 号砲がレースの始まりを高らかに告げた。

 覚醒したように由貴也は飛び出す。地面を蹴る足に水滴が飛ぶより早く踏み出す。

 この百メートルのわずかな間に、スプリンターはすべてをかけて走るのだ。

 スタートは上々。雨で視覚も聴覚も制限されていて、残りの七人の存在は感じない。それでも、ランナーに必要な感覚だけを研ぎ澄まし、走る。

 ひとりきりで走っていた。この一年間、ずっと。いつも先回りして人の気持ちを推し量っていたのに、どうしたら彼女を引き留められるのかわからなかった。

 後ろから足音が聞こえる。後半、他のランナーに食われるのはいつものことで、由貴也はあせらずストライド走法への移行を意識する。歩幅をなめらかに伸ばす。

 雨で前は見えない。それでもゴールの先に雨雲の切れ間から日が射すのが見えた。

 やっとここまで来た、という感慨がにわかにわき上がってきた。あの光の中へ、あと少し。

 ゴールに飛び込んで、音や光や温度が戻ってくる。百メートルを過ぎてブレーキをかけつつ歩きながら、やっと体が走ることだけに意識を使っていたスプリンターから人間に戻ってくる。割れそうな歓声が耳をついた。

 いったい自分はどんな走りをしたのだろう。何着かすらもわからない。

 観客席の声がひときわ大きくなり、渦となって競技場を包む。一位のタイム速報が出たのだ。

 風速プラス〇・一。十秒二九。電光掲示板にオレンジのドットで映し出された優勝タイムは大会記録だった。ここ何年かで最速の決勝戦だっただろう。番号は八十五、由貴也ではない。

 息をつかせる間もなく、黒い画面がひっくり返り、二位以下のタイムを知らせる。十秒三五、十秒四九、十秒五二――百七番。由貴也のタイムだった。

 一瞬雨音が遠ざかり、それから寄り添うように戻ってくる。第四位。自己ベスト更新。

 見ていてくれただろうか。スプリントの王ではなくても、輝くメダルを勝ち取れなくとも、これが由貴也の会心のレースだ。

 俺はアンタを引き留めるのではなく、アンタに追いつけたのだろうか。

 戦いの終わりとともに雨が弱まり、雲が切れた青空から霧雨が降る。日に輝くそれは祝福の雨だった。






「この雨だっつうのに、すごいレースだったな、まったく」

 哲士の隣に座る根本がバサリとビニールのレインコートを脱いだ。一日中降り続いた雨はやっと最終競技である百メートル男子決勝を終えたところで止み、表彰台を夕日が照らした。

「本当にな。いつも三本目でバテていた古賀が決勝でタイム更新だからな」

 哲士の言葉で香代子は観客席からグラウンドを見やる。由貴也がちょうど賞状をもらっているところだった。

「アイツ、去年の優勝タイムとそう変わんねえじゃん」

「去年はかなり暑かったからな。タイムも伸びづらいんだろ」

「今年だって雨じゃん。やっぱそれでこの速さは異常だよなー」

 根本と哲士がパンフレットを見ながら口々に感想を言い合う。当たり前のように由貴也の速さを受け入れているふたりに香代子だけがついていけない。

 インターハイ史上に残る最速のレースを由貴也は第四位で終えた。鳥肌のたつようなレースだった。

 卒業以来、もっと前の自身の引退から香代子は由貴也の走るところを見ていない。彼がその資質から上へ昇っていくことはわかってはいても、間近で実際に見ると体が震えた。

 努力が大嫌いな由貴也でも、才能だけでここまで来たとは思えない。頼りなかった体の線がしなやかに弾力の富んだものになり、決勝に進んだ他の選手と比べても遜色なかった。

 コアな陸上ファンたちの決勝戦進出者を予想する下馬評にすら由貴也の名前はなかった。それどころか、このインターハイ出場者のヒエラルキーからも外れた存在だった。“いないはずの選手”が旋風を巻き起こし、決勝の一レーンを勝ち取った。良くも悪くもあるがままの流れに逆らおうとしなかった由貴也の逆流を上るような一日だった。

『以上を持ちまして全国高等学校総合体育大会、陸上の部、第二日目の全日程を終了いたします』

 各所のスピーカーから大会の終了を宣言する放送が流れる。それは観客の退場をうながす声となり、人が動き始める。香代子たちもとりあえず立ち上がり、端によった。

「アイツに会ってこうぜ。せっかく来たんだし」

 根本の提案に哲士が気軽に「そうしよう」と応じる。それならばあせって外に出る必要もない。香代子たちは人の波を避け、人ごみをやり過ごしていた。

「あ、古賀、人に囲まれてるじゃん。あれってスカウトマンってやつじゃねえ?」

 根本の言葉で、選手の記念撮影やらインタビューやらで相変わらず忙しいグラウンドに目をやると、由貴也が真夏だというのにスーツで身を固めた大人たちに囲まれていた。スカウトマン――大学のスポーツ特待生の勧誘だ。

「インターハイの決勝に出るような選手はもうある程度いく大学決めているからな。古賀は予想外の選手ってとこかな」

 哲士が言うように他の選手に比べて由貴也に勧誘の人数が多いのはそういうわけなのだろう。ある程度実績があり、早々にスカウトマンの目にとまっていた他の選手と違い、由貴也はインターハイ初出場だ。ノーマークだったのだろう。

「いいなあ、アイツ。受験勉強せずに大学行けるじゃん」

 大学受験で死ぬほど苦労している根本が心底うらやましそうにつぶやく。特待生には特待生の大変な苦労が待っている。香代子と哲士は苦笑した。

 立派な姿だった。自他ともに認める有望な陸上選手としての古賀 由貴也がそこにはあった。

「なんか、こっち来んじゃん? アイツ」

 根本が言うまでもなく、由貴也はスカウトマンを一顧だにせず、一直線に歩いてくる。あまりにも迷いのない足どりに彼に群がる人々が気圧されていた。

 なんでもよかった。気がつくと香代子は走り出していて、人の波に逆らって客席の最前列へ向かう。観客と選手が一番近くで会える場所。

 最前列の手すりに指をかけ、身を乗り出した。由貴也がもどかしいほどゆっくりとこちらへ歩いてくる。彼の周囲からもう人ははがれ落ちていなかった。

 由貴也が香代子の目の前まで来て足を止める。観客席は彼の背ほどの高さがあって、自然と由貴也を見下げる形になる。その距離がもどかしかった。

「やっとアンタの方から来た」

 開口一番、試合の疲れも見せず、いつもの無表情で由貴也は言った。

 その言葉に香代子はなんだか泣きそうになる。インターハイ入賞という輝かしい栄光を持ち、陸上選手として未来を歩む彼が、その姿を観客として見る自分が――……。

「アンタの方が遠いよ!」

 これから未来永劫由貴也は選手であるし、香代子は観客であり続ける。

 西日を横顔に受け、平然としている由貴也が憎らしくすらある。由貴也に自分がいなければダメだなんて思い上がりもいいところだ。香代子の預かり知らぬ、こんなシビアな世界で由貴也は生きていたのだ。とてつもない光量を放つ彼がどうしようもなくまぶしかった。

 由貴也は目を伏せる。残照でできた濃い影は、過去を顧みるような憂いがあった。

「……俺にとってはずっと、アンタの方が遠かった」

 長い間の思いを吐露するような言葉に、香代子の心は崩された。

 由貴也が顔を上げ、ゆるやかな動きで手を伸ばした。ランニングシャツから伸びたしなやかな腕が賞状を香代子へ突きつける。

 決勝の前、出走の前にこちらを見た時のような目をしていた。香代子が目をそらすことを許さないような、永遠に由貴也だけを目にとめておくのを強要するようなまなざしだった。

 由貴也は問いかけている。香代子の覚悟を、安全圏から距離を詰めることを、関係を変えることを、この腕の先で問いかけている。

 自分はどうあがいてもマネージャーで一生由貴也の陸上選手としての本質的な部分は理解しえないかもしれない。遠くの観客席で彼を見ているだけかもしれない。それでも、一緒に走ることはなくともこの腕の先でつながっていればいい、と思った。

 香代子は手を伸ばして賞状を受けとる。

「……入賞おめでとう」

 小さく言祝ぐ。そしてつけ加える。ずいぶん遠回りして、ここまで戻ってきた気がする。

「おかえり」

 雨は止み、今までとは違った風が吹いていた。

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