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初恋の君へ  作者: ななえ
番外編
48/127

Without Saying

 由貴也は初夏の日射しを受けながら階段に座り、グラウンドにパラパラと散る部員の姿を見ていた。

 三年生がごそっと抜けて、もう汗ばむ季節だというのに、グラウンドはやけに広く寒々しく見えた。昨日までいた人が今日からぱたっと来なくなる。引退とは結構残酷な制度だと思った。

 その空いた部分を埋めるように、二年が主導となった新体制のもとで部員ははりきって部活をしていたが、由貴也はただその様子を静観していた。当たり前だが部長を始めとした役職が一新されても、由貴也はただのヒラ部員のままだった。ただリレーはエース区間の――哲士がいた二走に繰り上がるだろうが。

 そう思うと、全身に力を入れているのも面倒になって、ずるずると上半身を倒した。横倒しの状態で由貴也はコンクリートの階段にじかに横たわっていた。

「古賀先輩、どうしたんですか? 具合でも悪いんですか!?」

 あわてた声をかけられて、目だけを動かすと、心配そうに由貴也を見下ろす真美の姿があった。隣にはなぜか昨日引退したはずの根本の姿もある。

 鋭さを増した太陽が彼らの後ろから射し、ふたりの姿が誰かの面影に重なる。けれどももう一度まばたきをすると、そこには真美と根本がいるだけだった。

「違うよ、真美ちゃん。こいつは部長とマネージャーが引退してしょげてるだけ」

「……アンタ、何しに来たんですか」

 体を起こして尋ねると、いきなり根本の腕が首にまわされた。彼の顔がすぐ横にある。

「お前がさみしがってると思って来てやったんだよ!」

 ぎゅうぎゅうと首を締め付けてくる根本の腕から逃れながら、「アンタの目的は違うでしょうが」と言ってやる。寂しいのは愛しの真美ちゃんと会えなくなった根本の方だ。

「うるさい! お前だってぼけーっとしやがって」

「俺がぼけーっとしていた方がアンタにとってはありがたいんじゃないですか」

 文化祭の一件で完全に真美をあきらめさせたと思っていたのに、誤算もいいところだった。真美はどういう心境の変化かあきらめませんから! と高らかに宣言し、相変わらず由貴也を追いかけ回している。いや、最近猪突猛進さが増した気がして由貴也は毎回撒くのに苦労している。

 真美がぞっこんである状態に、由貴也が下手にどうこうしようとするより、ぼけーっと気を抜いていた方が根本にとってありがたいだろう。

「あーっ、お前は本当にああ言えばこう言う!」

 根本がヒステリーを起こして由貴也の髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。前髪が目にかかって、これから髪伸びてきたらどうしようかと考えた。今まで香代子に切ってもらってたのだ。

 数秒考えてまあいいか、と思考を放棄する。今は考えることさえ面倒くさい。

「お前、ひでえな。ぼんやりしすぎ」

「アンタの気のせいじゃないですか」

 根本の腕から解放されて、由貴也はまた景色を見るように練習風景を見た。かたわらの根本はジャージではなく制服を着ていて、その紺色が目に染みた。

 意図的に目を向けないようにしていた根本がごく近くで息をつく気配がした。

「お前、その状態で走るとケガすっからやる気がないんなら帰れ。他のやつらの邪魔にもなる」

 根本の声は厳しく、今までのじゃれあいとは違った。本気で叱責されてるとわかっていても、由貴也は茶化すために口を開いた。

「アンタは逆にやる気入れ過ぎてケガしますけどね」

 はたっ、と一瞬気味が悪いほどの沈黙が落ちた。皮肉の入れ具合を間違ったらしく、根本の顔が目に見えて赤くなっていく。根本が疲労骨折が元で引退試合で思うような結果を残せなかったのは周知のことだ。その記憶が真新しい内に触れてしまってはただでさえも導線が短い彼が怒らないはずはない。

 何をやっているのだろう、自分は。あまりに迂闊だ。これでは根本にからんでいるだけだ。

 怒りの形相の根本に胸ぐらをつかまれる。真美が悲鳴を上げた。

「てめえ、もう一度言ってみろ!」

 根本の怒声がわんわんと反響する頭の中でさてどうしようか、と呑気に考えていると、いきなり上から小さい何かを頭に投げつけられた。

「って! 何だよ」

 根本にも投げつけられたらしく、彼も顔を歪めて頭に手を当てていた。胸ぐらをつかむ手の力が弱まる。由貴也と根本に渾身の力で投げつけられたそれが足元に転がる。それはビニールに包まれた小さな飴だった。

「アンタたち何やってんのよ!」

 声が雷のごとく降ってきて、上を見上げる。香代子と哲士がすぐそこに建つ校舎の二階から顔をのぞかせていた。

 香代子の手には飴の袋があり、どうやら飴を投げて一触即発の雰囲気を破ったのは彼女のようだ。結構な命中力だと言える。

「古賀 由貴也!」

 由貴也が投げられた飴を拾って開封し、口に入れようとすると、いきなり香代子にフルネームで名指しされた。なぜか香代子は自分をフルネームで呼ぶ。

「アンタはまじめに練習しなさい」

 幼い子を叱るような調子で言われ、素直に返事をする気になれなかった。代わりに根本に投げられた飴までぶんどって口に放り込む。

「あっ、てめえ――!」

 過敏に反応し、また根本が気色ばむ。

「根本もすぐに怒んないで! 大人の態度で接してよ」

「なんで俺が一歩引かないといけねえんだよ!」

「先輩でしょ!」

 ある意味根本の怒りは正しい。根本と由貴也は一歳しか違わないのに香代子はてんで子供扱いだ。しかもわがままで聞き分けのない子供だと思っているに違いない。

「根本」

 声を張り上げぎゃあぎゃあと言い争っていた根本と香代子の間に割り込んだのは、哲士の落ち着き払った声だった。その声ひとつでぴたりとふたりの口が止まる。さすがに元部長は偉大だ。

「お前、小野さん追いかけ回してる場合じゃないだろ。このままじゃ行く大学なくなるぞ」

 ぴきっと音がなりそうなぐらい固く、根本の体が硬直した。根本は成績順にわけられた普通科のクラスの中でD組、つまり理系では最下層に位置している。

 引退した次の日から三年生はすぐさま受験生になる。由貴也のいる英語科ではそうでもないが、普通科では受験一色になっているだろう。

 今までの怒っていたのは幻か、というくらい根本が即座に泣きついてきた。

「古賀ぁ。英語教えてくれよー。お前留学してたんだろ?」

「無理ですよ。今マネージャーに飴投げられた衝撃で全部飛んでいっちゃいましたもん」

「嘘つくなよ。頼むよー」

 腕にしがみついて恥も外聞もなく頼みこむ根本を何とかしてくれ、と哲士に視線を向ける。夏の鋭さを増してきた太陽を背に、哲士が苦笑した。

「古賀。お前はそんなところでぼけっとしてる暇あるのかよ」

 人のよさそうな笑みの下に、見る者が見ればわかる意地の悪い色が見えた。お前、結果を残すって言っただろ? 哲士の表情はそう言っていた。

 何だかんだ言って絶対性格悪いでしょアンタ、と思いながら、由貴也はグラウンドへ一歩踏み出す。由貴也がいる場所は哲士や香代子のいるこちら側ではない。戦うべきはトラックの上だ、これから一年ひとりきりで。

「がんばって走ってよ! これあげるから」

 香代子の声に肩越しに振り向くと、飴が一袋丸ごと落ちてくる。けれど当然ながら由貴也と根本に一撃を加えた際に袋を開けている。空中で開いた口から個々に包装された飴が飛び出し、飴が文字通り雨のように由貴也に降り注いだ。キラキラと初夏の陽に飴玉が輝く。

 予想外の事態だったらしく、香代子はバラバラと由貴也のまわりに落ちた飴を見てあんぐりと口を開けていた。

「……まぬけヅラ」

 口の中でつぶやいて、そっと笑う。

「ご、ごめっ……痛くなかった?」

 動揺してあわてる香代子をよそに、由貴也は地面に落ちた飴を拾い、ポケットに突っ込む。

 ここで痛いと言ったらどうなるのだろう、と考えて打ち消した。自分は哲士の言う通り、こんなことしている暇はない。グランドを見据え、駆け出す。

 引退したとしても、もう二階からグラウンドを見下ろすだけになってしまっても、忘れさせない、決して。

 走路の果てまで駆け抜けて、表彰台の一番高みまで上り詰めて、絶えず自分の評判が耳に届くようにしてやる。

 こうやって自分はひとりきりの一年間を精一杯走っていく。もうあの時のようにはならない。

 由貴也はもう後ろを振り向かなかった。けれども彼らが後ろで笑っていることを知っていた。

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