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初恋の君へ  作者: ななえ
番外編
47/127

お菓子より愛してる・後編

 保健室まで頭を真っ白にして歩いた。いつもは適度に人がいる保健室も今日は空っぽだ。先生もどこかに駆り出されているのかいない。薄いカーテンだけが初夏の風に揺れている。

 香代子はスライドドアに手をかけたまま、突っ立っていた。じわじわと意図的に押し込めていた感情が戻ってくる。

 由貴也と釣り合いがとれていないことなど言われなくとも百も承知している。由貴也はあんな性格でも“学院の王子”だ。香代子はそのことを四月からずっと思い知らされ続けている。

 自分の容姿にコンプレックスなど持ったことはなかった。女子だからと甘やかされるのも甘えるのも嫌いで、かわいさよりも有能さをずっと望んできた。けれどこの二ヶ月間、それが崩されそうだった。

 由貴也狙いで入部してきた女子たちは皆、それなりの容姿の持ち主だった。“由貴也親衛隊”と根本に揶揄されていた通りの彼女たちが由貴也に近づくのを見ながら、自分の荒れた手や、骨の太い体を恥じたりした。そして時には彼女たちに自分の平凡な外見や、かわいげのない性格について陰口を叩かれたりもした。

 恋愛がからんだ女子同士のつきあいは難しく、しかも彼女たちの目的は由貴也で、陸上は二の次だった。ここは出会いの場じゃないんだから、やる気がないんなら辞めて、とどれほど言いたかったかわからない。けれど去年言われた言葉が、耳の奥にこびりついていた。

 去年入ったマネージャー志望の女子――早紀は香代子に「男子に囲まれてそんなにうれしいですか?」と吐き捨てて陸上部を辞めていった。去年はなぜそんなことを言われたのかわからなくてずいぶん悩んだけれど、今ならわかる。彼女は哲士が好きだったのだ。どうやら部活というのは恋愛感情が芽生えやすい場所らしい。

 こうも二年立て続けで入部した女子とうまくいかないとなると、自分の方に原因があるのではないかと思う。ずばずばとした物言いをするし、性格がきついとも言われ続けてきた。

 それでも自分は間違っていないという思いはくすぶり続けていた。ここは部活だ。恋愛をしにくるのは競技への、ひいては真剣にやっている部員への冒涜になる。けれど、早紀の言葉が魚の小骨のように、ずっと引っかかっていた。

 それに、香代子はあと少しで引退なのだ。自分がいなくなったら帳簿は、洗濯は、記録は、用具の管理は、タイム測定は、この部を誰が見守っていくのだろう――。

 鼻の奥がつんと痛んで、香代子は奥歯を噛んだ。どうして自分がこんなことで泣かなくてはいけないのだ。間違ってないと思うなら泣くわけにはいかない。涙に負けて相手に謝られることこそ香代子が最も屈辱的だと感じることだった。

 自分は傷ついてなどいない。由貴也を好きな女子たちに冷たくされても、後輩の男子になんと言われようとも決して傷ついていない。恋愛をするために部活をしているわけではないので、彼女たちに嫉妬もしていないはずだ。だから傷つく要素なんてない。

 泣くな泣くなと念じる。何を言われても傷つかない、平気な女。そう思われているならそれで結構だ。それこそ受けてたってやりたいような気分になる。泣いたら負けだ。

「なに突っ立ってんの」

 思いがけない声が響いて、反射的に振り向く。男に戻った由貴也がすぐそばに立っていた。

「アンタ、何してんの! おとなしくしてろって言ったじゃない」

 ついさっきまで泣きそうだったことも忘れて香代子は叫んだ。由貴也の手に巻いたハンカチはもう元の色がわからないくらいに血に染まっている。

「ほら座って。手、消毒しよう」

 由貴也を近くの長椅子に座らせ、香代子はキャビネットの中から脱脂綿と消毒液を取り出した。由貴也の方に向き直ると、開いた窓からさわやかな風が吹き込んで髪をなでていく。由貴也とこうして二人っきりになるのは久しぶりだと思った。

「アンタとこうやって顔をつきあわせるのも久々だね」

 由貴也の手をとって、血に汚れたハンカチをほどきながら、思いがけずおだやかな気持ちが胸に満ちた。今まで由貴也は女子たちにいつも囲まれており、哲士と三人で夕食を摂ることもできなくなっていたのだ。他の誘いはとりつく島もないほどはっきりと断る由貴也だが、夕食だけは彼女たちと一緒に行く。哲士と香代子だと野菜だとか肉だとかを食べさせられるが、彼女たちとなら好きなものを好きなだけ食べさせてもらえるからだ。

 なかば習慣化していた夕食をともに摂ることがなくなって、香代子はやっぱりさみしく思っていた。

「もう女子はいなくなったから、別にこんなこともめずらしくなくなるんじゃない」

 そう気のない様子で言った後、由貴也は消毒を嫌がって手を引っ込めた。

「もう女子はいないって……アンタ真美に何したの!?」

 由貴也の隠した手を引っ張りだし、たっぷりと液をかけた脱脂綿で容赦なく消毒しながら、香代子はまたもやわめいた。由貴也といるときは万事こんな感じで、これでは女子たちに悪口を言われても仕方ないと思う。

「さあ、何だろうね」

 消毒液が染みたのか、由貴也は少しふてくされていて、ひねくれた答えしか返ってこなかった。

「アンタねぇ……真美がいなくなったらマネージャーいなくなっちゃうのっ!」

 由貴也はこの危機的状況をわかっているのだろうか。記録のひとつとれない部員にマネージャーとの兼業は無理だ。それに今は赴任してきた若く熱意のある指導者のもとで、部が勢いにのっているときだ。サポートしてくれるマネージャーはどうしても欲しい。

 香代子は真美に出納帳を書き換えられたとき、やっぱりショックを受けた。今までも小さな反抗はあったけれども、ここまでのことをされるほど自分が嫌われているとは思っていなかった。

 けれども香代子はとっさに真美がしたことを隠蔽してしまった。いくらなんでも看過できない事態だとわかっていても、それでもマネージャーを失うわけにはいかなかった。それに真美はおそらく香代子が引退したらおとなしくなるだろう。

 由貴也は痛かったと言わんばかりに血に染まった脱脂綿見てから香代子に目をやった。

「アンタがこれからもマネージャーやればいいじゃん」

 真美がいなくなったらどうするか、の答えがこれだ。香代子は面食らう。まったくこちらの都合などお構いなしの由貴也だ。

「何言ってんの。私、これから受験なの! 浪人するわけに――」

 いかない、と言いかけて唐突に今まで我慢していたものが、涙腺が決壊した。ぼろぼろと涙がこぼれて止まらない。由貴也はまるでこうなることを予想していたかのように、憎たらしいほど表情を変えずにこちらを見ていた。

 どうしていいかわからなくてとまどっているのは自分の方だ。手で顔を覆って、由貴也に背を向けた。

「……見ないで。向こう行ってて」

 腹立たしかった。今まで何を言われても泣かずにきたのに、由貴也の一言で崩れる自分が悔しかった。

 うれしかったのだ。アンタがマネージャーをやればいい、と言われたことがどうしようもなく沁みたのだ。四月から今まで劣等感ばかりが肥大して、認められることなどなかった。

 由貴也は「アンタは俺の情けないとこ全部見てるのに、その逆は嫌ってフェアじゃなくない?」とわけのわからない持論を持ち出して、後ろに座り続けていた。

 涙を止めようとして、できなかった。不意打ちのような言葉に、今まで塞き止めていたものの栓が外れてしまった。四月からの涙がこんなにたまっているとは思わなかった。

 ただ泣いているのも気まずくて、由貴也の様子をそっとうかがうと、手持ちぶさたなのか手の傷口をまじまじと見て、今にもいじくり出しそうな雰囲気だった。

「ダメ! せっかく消毒したのに」

 自分の顔の無惨な状態も忘れ、気がついたら由貴也の手をつかんでいた。はっとしたときにはもう遅く、由貴也にばっちり顔を見られていた。もうこうなったら泣き顔を隠すよりも由貴也の手当てをする方が先な気がして、乱暴に涙をふいた。

「手、貸して」

 声の湿り気を隠そうとしたら、固い声が出た。不機嫌そうな顔をしていないとまだ涙が出そうだ。

 由貴也は素直に手を差し出してきた。一瞬うっとひるんでしまうようなひどい傷口で、由貴也の強い力の込め具合が知れた。由貴也は怒っていたのだ、それほどに。

「ごめんね」

 思わず謝りの言葉が口をついた。自分の想いのせいで、由貴也に不快感を与えている。

「アンタが私のこと好きじゃないってちゃんとわかってるから」

 部員たちは、特に四月に入ってきた後輩たちは、由貴也も香代子を好きかもしれないと勘違いしているが、由貴也が巴へ向けていた想いを知らないからそう言うのだ。彼の恋はほのかに感じるような生易しいものではない。仮に彼が今現在恋愛をしてるならば、陸上との両立はきっと無理だろう。彼の苛烈さはおそらくすべてを犠牲とすることを残酷に求める。

 由貴也は包帯を巻かれていく手をじっと見て「うん」と答えた。自分でも言った通り、由貴也が香代子を好きでないのは充分にわかっているが、それでも即座に肯定されると悲しいものがある。

 それもしかたないところはある。由貴也はあれこれ詮索されるが大嫌いなのに、自分のせいで先ほどの後輩三人のような下世話な質問をぶつけられなくてはならない。彼お得意の煙に巻く前に一輪挿しを壊すほどにいらついている。隠しているつもりでも、後輩の好奇の的にされるほど、香代子の由貴也に対する恋心は表に出ているのだ。

 包帯を巻き終えると、由貴也が怪我をしていない方の手でポケットを探り始めた。きっとお菓子を探しているのだろう。彼はいつもいたるところにお菓子を忍ばせている。香代子はただ包帯の白が目にしみて、いたたまれなかった。

「先輩」

 呼びかけられて「なに?」と答えた瞬間、絶妙なタイミングで口にチョコを放りこまれた。突拍子のないことに目を丸くする。

 由貴也はその様子を頬杖をついて顔を傾けて見ていた。

「アンタはいつも自分のことより人のことばっかりだよね」

 一瞬あっけにとられて、それから唇がわななく。

 なんだっていうのだ。一体由貴也はなんだっていうのだ。そんなことを言われたらまた泣けてくる。

「なんなのよ、アンタは……」

 張りつめていた体の芯が力を失う。香代子は脱力したように、机に突っ伏した。

 誰も香代子が部のためにあれこれしているとは思わなかった。仮に思ったとしてもマネージャーが部のために尽力するのは当たり前だと感じて誰も香代子の心情など取り合わなかった。

 つらかったのだ、本当はとても。女子の中で孤立している状況も、真美の失敗を全部被る状態も、由貴也と哲士と過ごす時間が失われてしまったことも。女子のごたごたを男子は嫌う。引退前の大事な時期にさしかかっていたこともあり、哲士を煩わせることも偲びなくて香代子は相談できなかった。

 傷ついてなどいない。それでも強がりはしていた。虚勢を誰にも気づいて欲しくないと強く思いながらも、誰かに気づいて欲しかった。

「真美は……あの子はアンタとこれからずっと一緒にやっていくのね」

 ぽろりと涙とともに本音がこぼれ落ちた。

 香代子が由貴也とともにいたのはたった三ヶ月。それに比べ真美はあと一年は由貴也といられる。一年もしたら香代子はこの学校にすらいない。

 五歳も歳下の中学生に対して大人げない。こんなどうしようもないことを言ったって仕方ない。みっともなくてますます顔が上げられない。

「だからアンタがマネージャー続ければいいじゃん」

 由貴也は何度言わせれば気が済むんだ、と言わんばかりの傲慢さだった。

 先ほどと違って受験うんぬんと、すぐには答えられなかった。それどころか引退したくない、と喉まで出かかる。まだ陸上部にいたい。埋められない一歳の差。それにマネージャーの肩書きを失った自分はどうなってしまうのだろう。

 由貴也に口に放りこまれたチョコレートが溶けていく。甘みがじわりと広がる。

「アンタは私がいなくなったらきっとすぐに忘れちゃうんだろうね」

 何言ってるんだろう、忘れて、と言おうとして別の言葉が転げ出た。これは恨み言ではない、あくまで事実で香代子は言いながら笑いそうになる。あまりに由貴也らしい。

「だからアンタがマネージャー続ければ何の問題もないんじゃない?」

 相変わらず香代子の方を曲げさせようとする由貴也に力が抜けた。彼は自分が香代子を覚えてるという発想には至らないようだ。それどころか引退する香代子が悪いという口ぶりである。

 香代子はそんなことはできない、と突っ伏したままで首を振った。三年生の引退、これは絶対に破れないことなのだ。引退して後輩に引き継ぐ、これもまた三年生の大事な仕事だ。

 だから香代子があと少しで部活を去ることは変えられなく、由貴也が部に残ることも変えられない。ふたりでここで部活をやる日はもう二度と来ない。

 由貴也にとって、そばにいなければ何の意味もないだろう。由貴也が香代子や哲士を少しだけ特別扱いするのは、彼が一番つらいときにそばにいたからだ。手を差しのべて、助けたからだ。ときに不安定な由貴也は即時的な助けを必要とする。そのときにそばにいなければ何の意味もない。

 だからきっとそばにいる人にぬくもりを覚えて、由貴也は香代子のことなどすぐに忘れてしまう。

「俺は覚えているなんて言わないから。アンタが引退しなければいい」

 由貴也はどこまでも意固地で、もう泣いている場合ではなくなってきた。顔を上げ、ひねた表情の由貴也の頭を拳を置くようにして軽く叩く。

「わがまま言わないで。これからアンタたちの代なんだからしっかりしてよ」

 おそらく由貴也がこんなだだっ子のようなことを言うのは一時的なものだ。彼はきっと、ひとつの感情を長く温めておけるタイプではない。日々の忙しさに追われて、香代子や哲士の姿は薄くなって消えていく。

「じゃあアンタも潔く引退したら。俺、アンタの言う通りすぐ忘れるから」

 百八十度意見をひるがえした由貴也に、いくらなんでもはあぁ? と言いたくなる。よく見れば由貴也は意地の悪い顔をしていて、香代子がマネージャー続行について首を縦に振らないことへの報復のようだった。

 もぐもぐと香代子の五倍ほどチョコをつめこんだ口をひとしきり動かしてから、由貴也はすねたような子供じみた表情を消した。ただそこにはいつもの無表情が、いや表情がないからこそいつもよりもかえって真剣にすら見える顔があった。

「最近アンタ、シケたツラしかしてないし。そんなの覚えてたって何の意味があるわけ?」

 由貴也に言われて虚を突かれる。最近、心の底から楽しいと思ったのはいつのことだったか。少しずつ減っていく引退までの時間と反比例するように増えていく女子からの陰口。自分が耐えていればいい、と思っていたのに、彼女たちは辞めていってしまった。

 生来笑うより怒る方が多いとはいっても、最近はどうしていいかわからなくて怒る気力もなくなっていた。自分らしくないと言われた気がする。

「じゃあアンタがちゃんとやっていけるようにたくさん怒ってから引退する」

 由貴也を最上級生としてやらせていくのは不安がある。だから半分本気でそう言ってから、胸の中でつけ加えた。だから忘れていいよ、と。

 香代子はずっと由貴也を好きな女子たちに対して負い目があった。彼の一番つらいときに一番近くにいた。彼女たちと自分の違いはそれだけなのだ。

 これから先、そばにもいないのに、ずっと由貴也の少しだけ特別な存在でいたい、というのは自分のエゴだ。だから忘れていい。恩なんか忘れて、借りなんか踏み倒して、まっさらな気持ちで由貴也は今度こそ好ましいと思う女子と寄り添えばいい。

 これから由貴也と一緒に過ごしていける真美がうらやましくて仕方がない。それでも、由貴也が自分がいないことで前のような不安定な彼になってしまうのならば、跡形もなく忘れてしまえばいい。

「たくさん怒るから覚悟しといて」

「好きにしたら。俺も好きにするから」

 そう言って、由貴也は少しだけ笑った気がした。このかすかな笑顔を次に見る女の子は誰なのかな、と思って香代子も微笑んだ。







 遠くからキャンプファイヤーの歓声が聞こえる。哲士はそのにぎやかさに背を向け、走り出した。

 もっとも盛り上がる後夜祭の最中に、学院のはずれをランニングしているのは自分ぐらいのものだろう。哲士は別にバカ騒ぎを嫌い、孤独を愛するというわけではないが、これで最後になる後夜祭より、毎日続けているランニングをとった。最後の大会までもう日がない。毎日のトレーニングを欠かすわけにはいかなかった。

 広大な学院にはランニングコースが設けてある。緑の豊かさを増した草木の中を、一本の舗装された小路が通っている。

 六月の中旬といっても、山奥のこの学院の夜は肌寒い。コースを何周かしてストレッチをしながらクールダウンしていると、体が冷えてきた。ジャージの上を羽織り、そろそろ帰ろうかと立ち上がると、近づいてくる足音を耳がとらえた。

 規則的でリズミカルな足音はただ歩いている人のものではない。もう哲士の耳に馴染んだランニング時の足音だった。

 ここはランニングコースの出発点であり終点だ。哲士のそばに立つ外灯が徐々に大きくなる足音の主を照らす。明かりのもとに姿を現したその人に、哲士は意外な感を受けた。

「古賀……?」

 ロングタイツにTシャツ、ランニング用のスパイクという出で立ちでそこに立つ由貴也は、どう見てもランニングをしていたとしか考えられなかった。由貴也もそうだよ、と言わんばかりの顔で立っていた。

 何も由貴也は陸上部員なのだし、ランニングをすることにおかしなところは何もないはずだ。しかも彼なら後夜祭にも別段興味はないだろう。それでも哲士が意外だと思ってしまったのは、彼がこんな夜にひとりで走るような地道な努力をするとは思っていなかったからだ。

 哲士は丁寧に整理運動をしてクールダウンする由貴也を見ながら、とりあえず近くの自販機で増量缶のスポーツドリンクを二本買った。ランニングコースの終着点を自販機の設置場所に選ぶとは、結構えげつない。ついつい買ってしまう。

 ストレッチが終わってぼけっと芝生に座っている由貴也に缶を投げる。「どうも」と言って由貴也は受け取った。

 今日は耳が腐るほど由貴也はどうしたああしたと人づてに聞いたため、本人と少し話したかった。ちょうどいい。

「お前、今日も相変わらずいろいろやらかしたんだって?」

 哲士は苦笑しながら少し離れたところに腰を下ろした。由貴也は哲士を一瞥しただけで何も言わない。ご機嫌ななめのようだ。最近は哲士にも由貴也の表情の微妙な変化がわかるようになってきた。無表情の中にもいろいろあって、今のようにちらりとでも視線をくれるときはまだマシだった。

「花びんを壁に投げつけて割ったり、小野さん泣かせたり、古賀もなかなか忙しいな」

 怒るのは香代子に任せてあるので、哲士の役割は由貴也から話を聞き出して彼の心情を斟酌することにある。

 由貴也は今度は一瞬も瞳を揺らさなかった。

「仕方ないでしょ。向こうが“そういう”風に尋ねてきたんだから」

 由貴也は哲士が言った二つ目の事柄にだけ答えた。由貴也は真美の恋愛感情を完璧なまでに黙殺し、彼女に一切の期待を抱かせなかった。それどころか“由貴也親衛隊”に対しても向こうが手ごたえを感じさせないほど、彼女たちを空気のように扱った。それは無視ではない。由貴也独特の距離感だった。

 空気のように扱われていれば、由貴也は相手を傷つけないし、恋を否定することもしない。真美はその距離を詰めようとしたのだろう。だから由貴也は牙をむき、おそらく手加減なく真美をはねつけた。

 中学生相手にまったく容赦のないことだが、真美を子供扱いしてはぐらかす方がよっぽど彼女のプライドを傷つけるだろう。

「まあお前には小野さんの相手はまだ早いよ」

 どこまでも偽善者にはならない由貴也に言うと、彼は目をまたたかせ、ゆっくりとこちらに顔を向けた。

「……あの子に俺がじゃなくて?」

 由貴也の声にはわずかな怪訝さが含まれていた。普通に考えれば由貴也の方が四つも歳上で、真美が由貴也を相手にするのには早すぎると言える。けれども哲士は由貴也には真美が早いと言った。

 哲士は由貴也の手に巻かれた包帯に目を向け、少し皮肉っぽく言う。

「怒って物壊すようじゃまだ子供だよ。小野さんは泣きながらお前が壊した物片づけしてたぞ」

 さすがの由貴也もばつの悪そうな顔をした。壊す方と片づける方、どちらが大人かなど言うまでもない。

 それに由貴也は四歳も下の相手を掌中の珠のようには大事にしておけないだろう。道徳とか倫理は彼に通用しない。ただ隣に置いて、彼女が成長するまでおままごとの恋愛につきあうなんて由貴也にできはしない。“少女”の夢を壊さないように常にかっこつけていることも不可能だろう。

「根本みたいな真似はできないよ、お前には」

 二人きりのとき、根本に哲士は聞いたことがある。もし小野さんとつきあえることになったらどうする、と。婉曲に尋ねたが、根本に意図は伝わったようで、彼は意地になったような挑戦的にも見える瞳で『俺はそんなんじゃねえ』と答えた。

「あの人はただ単にドMなだけでしょ」

 由貴也のあまりの言い草に面食らってから微苦笑した。純愛も由貴也にかかるとたたのマゾだ。

 哲士は根本に暗に禁欲生活に耐えられるかどうかを尋ねたのだ。プラトニック以前に中学生相手では歳上のプライドがついてまわって強がらざるえない。由貴也はその精神面の方で真美とつきあえばダメになるだろう。

「アイツがマゾなのは俺も認める」

 話の本旨がずれていくのを承知で、哲士は思わず同調してしまった。根本といえば陸上部では努力家の代名詞だが、気持ちだけが先走り、行き過ぎた自主練でいつもどこかしらの故障を抱えていた。現に今も脛の疲労骨折が疑われており、それがなければ今夜のランニングに彼もいただろう。

 なんとなく話が途切れて哲士は缶に口をつけた。由貴也も黙ってスポーツドリンクを飲んでいた。煌々と頭上の外灯が輝いている。その光が明るければ明るいほど逆にしんみりとした思いが胸をつく。

 きっとこんな夜はもう来ない。引退は目前だ。

「古賀もランニングしてたんだな。知らなかったよ」

 沈みかけた感情を振り払うように、哲士は新しい話題を出した。彼はこういう地道な練習を嫌う。にもかかわらず由貴也のランニングシューズは少しくたびれていて、昨日今日ランニングを始めたのではないことは明白だった。

 由貴也はしばらく押し黙っていた。白い灯りがその横顔を照らす。透き通った白さの中、彼はどこか侵しがたい雰囲気を放っていた。

 由貴也が言葉を発するまで、哲士はその綺麗な顔をそっと見ていた。やがて小さく唇が動く。

「……何か結果を残そうと――」

 思って、と由貴也は言ったのかもしれない。小さなつぶやきにいつもの皮肉の色も無関心さも含まれていなかった。

「なぜ?」

 驚きを隠してただそれだけを尋ねた。由貴也からそんな言葉を聞くとは夢にも思わなかった。由貴也は大会の結果に固執していない。もともとそういうものに関心が薄いのだろう。自分が気分よく走れるかどうかが最大の関心事である由貴也が、大会の栄冠まで必要とするとはどういう風の吹きまわしだ。

 缶から口を離した由貴也は哲士の目と自分の目を合わせてきた。外灯が作る逆光の中、由貴也の瞳だけが光っている。息を飲むような異様な迫力のある双眸におそらくこれは由貴也の根幹にかかわる事柄なのだと、その時悟った。

「俺はもう巴に振られた、あの時の自分には戻りたくないから」

 “巴”その名前を由貴也から聞くのは初めてだった。哲士も香代子も、由貴也が古賀 巴、その人への想いを遂げられなくてひどく傷ついていたことは知っている。由貴也自身も周知のことだと認識はあったはずだ。けれども知っていても、誰も決して口にはしなかった。由貴也の地雷だったからだ。その名前は由貴也が守っていた恋心そのもののようで、必死に守り通そうとする由貴也の頑なさが痛々しかった。

 古賀 巴を失い、由貴也はひどく動揺していた。見ているこちらが不安定になるような姿で、哲士はかつて燃えるような悔しさで由貴也を見つめたのも忘れて彼に手を差しのべた。

 中学時代、哲士は由貴也に一度も勝てなかった。勝ち負け以前に情けなくも彼の足元にも及ばなかったのだ。その由貴也が入部してきた当初、哲士は複雑な思いを抱えていた。その上由貴也にやる気はまったく見えず、才能を腐らせていく彼への腹立たしさと、こんなふざけた選手に負けた自分へのふがいなさを感じていた。

 部に馴染まない由貴也をもてあましていた哲士を変えたのは巴を見たからだった。正確には巴を見つめる由貴也の身を滅ぼすような切実な姿を目の当たりにしたからだ。

 彼が入部して少したった頃、巴が陸上部を訪ねてきた。その時由貴也は哲士とともにグラウンドの端の直線コースにいたが、巴が現れた瞬間、由貴也は覚醒したように彼女だけを見ていた。

 巴の姿を見るためだけにあるような目。巴の声を聞くためだけにあるような耳。巴の名前を言うためにだけにあるような口。巴のためだけに存在するような由貴也そのもの。あの時、由貴也の生は巴のためだけにあった。

 だから哲士は納得し、同情してしまった。こんなにも自分のすべてを巴に対して使っていたら、陸上に裂く余裕はないだろう。そして由貴也はこの恋を失ってどうやって生きていくのだろう、と思ってしまった。哲士にすら風の噂で由貴也の恋愛事情はあらかた伝わっていた。

 由貴也自身がその身の内に抱える危うさを気づいていない状況に、哲士は思わず手を差しのべてしまった。同情すらはねのける彼に、これではさぞ生きにくいだろう、と哲士は憐れみを覚えた。

「……ごめんな」

 あれから三ヶ月。今の由貴也は多分自分の脆さを自覚している。だからこそ巴に振られた直後に戻りたくなくて、無我夢中になれる新たな目標を自分の中に打ち立てようとしているのだ――自分たちがいなくなることによって。

 今の彼があるのは、自分たちがいたからだと思うのは驕りだろうか。彼が自分たちが消えることによって空いたところに“なすべきこと”を作って埋めようとしているように見えるのは、自分の勘違いだろうか。

 由貴也は刹那、なじるような目を向けてきた。手を差しのべるだけ差しのべて、そしていなくなるのか。そう責める声が聞こえるような瞳だった。

 哲士は由貴也を見返した。風は凪ぎ、ただただ外灯の青白い光が由貴也へ静かに降りそそいでいた。

 哲士は息をついて微笑む。ごめんな、ともう一度胸の中でつぶやいた。

 由貴也を部に残していくのは正直不安だ。引退する三年生は例外なく後輩に抱く感情だろうが、とりわけ由貴也の存在は哲士の心残りだった。それでも彼を置いていかなければいけない。引退する予定を曲げてまで由貴也と一緒にいることは、いつか彼に害をもたらすだろう。

 それにこれからの陸上部には新しい風が吹いている。新しい顧問は強力な指導者となり、由貴也の才能を開花させることができる。有力な指導者が着き、急激に強くなる部活というのは多い。

 自分はその指導をあまり受けられなかったことが残念でならない。

 どんなに責めるような視線で見られても、哲士は引退するのを止めるとは言わなかった。どちらも譲らない平行線を崩したのは由貴也の方だった。

 何かを言いかけて、それを努めて彼は飲み込んだ。どうしようもないことだと理解したように。

 哲士は由貴也の友人ではない。あくまで先輩としかいられない。むしろ先輩と後輩だからこそ今の関係が成立したのだ。同級生であったなら、哲士はプライドが邪魔をして由貴也を救おうとなど思わなかったかもしれない。後輩を守る先輩で部長だから彼を助けられた。

 だからこの間柄を維持するために引退は不可避のことなのだ。

「……アンタとマネージャーは相変わらず結束が強くて嫌になる」

 由貴也はじっと地面を見つめ、心底忌々しげにも苦笑にも聞こえる声を発した。

 結束――何のことかと思ったが、由貴也は香代子にも引退するなという態度をとったのだろう。香代子相手なら由貴也は直接口に出したかもしれない。

 由貴也と哲士は先輩後輩という上下関係を持つと同時に、ライバルでもある。どんなに日頃親しく過ごしていようとも、同じレースに立ったならば自分の勝利をもぎとろうとするだろう。そうでなければただの馴れ合いだ。だから弱みを見せることをどこか厭うが、香代子は違う。マネージャーという身分は由貴也の敵にまわる可能性はなく、しかも彼女は女だ。由貴也を甘えさせるには絶好の相手なのだ。

 その彼女でも、引退するなと言われて首を振ることはなかっただろう。

「……古賀は、」

 哲士は思考を切り、はぐらかされることを避けるために由貴也の瞳を捉えた。由貴也は臆することなく見返してくる。

「このまま引退させていいのかよ」

 誰を、とは言わなかった。それでも由貴也なら充分にわかっただろう。

 自分と由貴也は今のままの関係しかなれず、それがベストだとも思っているからこそ引退は避けようがない。由貴也と次に会うときはどこかの競技会かもしれない。

 けれども香代子と由貴也ならそうではない。裏道のような、あるいは正道のようなそういう関係性が残っているはずだ。これから引退して卒業して、薄くなる一方である絆を繋ぎ止めておける唯一の方法――恋人。

 由貴也は眉ひとつ動かさずに哲士を依然として見ていた。

「アンタは好きでもない相手とつきあうわけ?」

 その返事に驚きはなかった。哲士は静かに次の言葉を待つ。

「勘違いしないで。俺はマネージャーのこと好きなわけじゃないから」

 淡々と宣言する由貴也にああやっぱりな、と思った。香代子の悪口を言われて怒ったりするなどの矛盾があっても、由貴也は香代子に恋愛感情は抱いていない――まだ。

 古賀 巴が由貴也の恋愛対象以外の何者でもなかったように、哲士が部長以外の何者でもなかったように、今は香代子もまた由貴也の中でマネージャー以外の何者でもないのだろう。

 恋愛感情と単なる好意の間はあやふやで、特に高校生なら混同してすぐ恋愛の方へ踏み越えようとする。けれど由貴也の場合、その差は他より厚く長いように見える。その上今の彼は恋愛そのものに背を向けている気がした。

 彼の失恋の傷が癒えるのはまだしばらくかかるだろうし、この先、巴に向けたような持てるものすべてを根こそぎ相手への想いとしてしまうような恋愛は由貴也をダメにする。それを彼もわかっているだろう。

 おそらく近い将来由貴也は香代子をかけがえなく思うという予感を哲士は抱いていた。それは香代子を好きである自身の敗北でもあるのだが、由貴也と香代子という組み合わせは不思議と胸にすとんと落ちてくる。

 自分も香代子も生きられるようなそんな想いの向け方を模索し、彼女との関係を安易に“恋”としなかった由貴也。このままいけば遠からず実を結んだだろうふたりの関係も、引退によって中断せざる得ない。中断で済めばいいが、彼らの気持ちは磐石ではなく、このままふたりが交わらずに消えてしまう可能性もある。

 それでも由貴也は無理に間柄を曲げようとせず、引退という別れを決意する。哲士には理解できないびっくりするほどの複雑さと繊細さを由貴也は持ち合わせている。

「難しいよな、お前は」

 そんな風に引退するなという顔をしながら届きそうなところにある恋愛には頑なに手を伸ばさなかった。

「アンタに言われたくない」

 由貴也は即座に言葉を返してきて、哲士はまったくだな、と素直に同意した。普通に考えれば、引退によって由貴也と香代子の接点はなくなる。同じクラスである哲士の方が何倍も優位な状況を得るのに、一も二もなくそのチャンスに飛びつくことができないのはなぜだろう。みすみす恋の成就を逃した由貴也に情けをかける必要はないのに、自分は香代子を奪う気にはなれないのだ。

 まったく損な性分だ、この上なく。

「怪我はするなよ。あんまり無理な練習もするな。でもお前は体力はないからこのままランニングは続けろ。部員とケンカするなよ。顧問の言うことはよく聞いて、小野さんにはほどほどに優しくな」

 もう引退までにこんな夜は訪れないかもしれないので、言いたいことは全部言っておく。これからひとりで走っていく由貴也の姿が見えた。何をどれだけ言っても足りない。本当はまだ哲士も引退したくなかった。

「ねえ、気づいてますか」

 由貴也がゆるゆるとこちらに視線を向け、わずかに瞳を細めた。それは眼光の剣呑さが増したようにも、嘲笑う準備のようにも見えた。

「アンタたちの方が俺を過去に沈めようとしている」

 由貴也の言葉に虚を突かれた。由貴也が言った意味を考えるより前に、彼の強いまなざしが無言で訴えかけてきた。

 ――俺は過去になんかされてやるか。

 一発かまされたような衝撃に、哲士は思わず笑った。これなら大丈夫だ。引退後の香代子と由貴也の仲を気にするなど余計なお世話だろう。

 言うことは言ったとばかりに由貴也はさっさと立ち上がって行ってしまった。闇の中を闊歩するその後ろ姿を見ながら、先ほどの由貴也の言葉を考える。

 薄情は由貴也の十八番で、引退してしまったら自分たちのことなどすぐに忘れてしまうのだと思っていた。自分たちもそれを許した。けれどそう思うこと自体、由貴也にとっては心外だったのだ。見くびるなとぶん殴られた気がした。相手の存在を胸に留めておくことは哲士や香代子だけに許された行為ではなかったのだ。

 これからもきっと自分の人生から由貴也が消えることはないのだろう。どうやら忘れさせてもらえそうにない。

 これから二年近い時を経て、自分の手のひらから脱し、由貴也はきっと次こそ綺麗な顔に似せず凶暴な牙を向いて現れるだろう。本気でかかってくる。それを寂しく思う反面、楽しみに思い、哲士はひとり笑った。

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