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初恋の君へ  作者: ななえ
大学生編
121/127

神さまの手のひら16

 哲士は深い青の毛糸を手に取った。毛玉から出る糸は編みかけのカーディガンに繋がっている。完成間近のそれは、香代子が哲士のために作って、置いていってしまったものだった。

 丁寧な編み目を撫でて、それを畳んで紙袋に入れる。これはもう二度と完成することはないだろう。

 秋雨が止んだ外は、空が高く、気持ちのいい秋晴れだった。それに引き換え、部屋の中はがらんと静かだ。ベットサイドの椅子には誰もいない。

 香代子が出て行って三日。哲士の病室は恐ろしい早さで静けさを増していた。哲士はその中でじっと、“やるべきこと”が訪れる時期を待つ。

 香代子と別れたことは、まったく後悔していなかった。どんな風につきあったって、どんな風に接したって、きっと同じ結末が訪れた。だから後はもう、自分にできることをするだけだ。

 ただ、部屋が静かすぎるのだ。あちこちに散らばった香代子の気配が、空気を時おりざわつかせる。どこにも行けない哲士にとって、ここはどこまでも静かな監獄だった。

「緒方さんっ!」

 その痛いほどの静けさを破ったのは闖入者の切羽詰まった声だった。勢いよく扉が開かれ、静寂は跡形もなく霧散する。

 その尋常じゃない勢いに、哲士は目を瞬かせる。そこには息を切らせた志乃が立っていて、哲士に一心に視線を注いでいる。

 久しぶりの志乃だった。来ないとあんなにもきっぱりと言っていた彼女が、なぜ息を弾ませてやってきたのかは謎だが、哲士の心には懐かしさが去来する。

 そんな哲士のおだやかな心の移り変わりとは違って、志乃の心の中では様々な事が行き交っているらしく、ただただ哲士をまじまじと見つめている。

「足が悪くて、うめいているんじゃなかったわけ?」

 彼女の中でどんな答えが出たのかはわからないが、志乃は呆然とつぶやく。哲士は「うめく?」と聞き返した。

「志朗が……緒方さんの足の状態がすごく悪いとか言うから」

 志乃が言うことと、哲士の現状が噛み合っていない。声が小さくなっていく志乃はどうやら志朗に騙されたのだと気づいたらしい。「志朗……っ!」と怒り交じりにつぶやいていた。

 そんな嘘をついてまで、なぜ志朗が志乃をここに来させてくれたのかはわからないが、「とにかく来てくれてありがとう」と哲士は笑う。彼女の登場のおかげで、あの耳に痛い静寂はなくなっていた。

「……本当は来るつもりなんてなかった」

 哲士とは目を合わせようとせず、ばつの悪そうな表情で志乃が言う。

「志朗が『緒方さん元気ない』とか言うから……」

 苦々しい志乃の顔に、哲士は一気に事情を把握した。香代子がこの部屋から去っても、志朗は変わらずここを訪れた。その際に何度か言われたことがある。『何か元気なくねえ?」と。「そんなことないよ」と答え、普段通りのふるまいを心掛けたが、やはり心配させていたらしい。だから姉の志乃の方を遣わせてくれたのだろう。志朗の話を聞いていると、いかに彼が姉を頼りにして、好いているかわかる。その彼にとって無敵の姉を行かせれば、哲士をどうにかしてくれると思ったのだろう。

「帰る。彼女が来たらまずいでしょ」

 志乃は哲士の状態が別に緊迫したものでないと知ると、さっと踵を返した。潔いな、と哲士は何だか彼女がまぶしく見え、目を細めた後に口を開く。

「……彼女とは別れたんだ」

 すっと背筋を伸ばして歩いていく彼女の背中にそんなことを言ったのはなぜだろう。自分は自身のことを話すのが苦手なはずなのに。志乃が足を止めて振り返る。

「あなたの言った通りだった。やっぱりできなかった、略奪愛なんて」

 自嘲気味につぶやいてうつむき気味に笑う。香代子と付き合い始めた哲士に志乃は言った。哲士には略奪愛などできない。似合わない、と。

 本当に言った通りだった。あの時の自分は略奪愛を貫けると思っていた。だが結局自分は、略奪の罪悪感に負け、香代子がまだ由貴也を好きかもしれないという疑念――好きだという真実を無視できるほど強くもなかった。由貴也をそんなに好き、と聞いた時、香代子が自分の身を切り取るように泣いていた姿がまぶたの裏に焼き付いている。

 戸口に向かっていた志乃が、哲士の言葉を聞いてつかつかとものすごい勢いで歩み寄ってきた。その姿に戻ってこなくていいんだ、と哲士は思う。戻ってきて、いちいち哲士に構っていたら、疲れ果ててしまう。弟を養いながら、日々という波の中を泳ぐこの人にこれ以上傾倒してはいけない。そうわかっているのに、志乃はそんな哲士の想いをもろともしなかった。

「余計なこと言ったって後悔してたのに、何でその通りになってんのよ!」

 ベットで上体を起こした哲士のそばに、志乃が怒鳴りながら立つ。何だか、不当に怒られている気がしないでもないが、志乃が体を前に乗り出す勢いで言ってきたので、哲士は迫力に押されて何も言うことができない。

 そのうちにどんどん志乃の顔が曇っていく。だが、雨が降り出しそうなまでに曇ったかと思えば、再びキッと彼女の眉尻が上がった。

「バカ! 私の言葉なんて気にせずに、彼女と幸せになればよかったのに!!」

 本気で志乃が怒っているので、それがありがたくて、少しおかしくて、哲士は笑うことができた。

「あなたのせいじゃない。俺がいろいろ至らなかったから……」

「そんなこと知ってる! あんたが本当は弱いところがある人だっていうことぐらい」

 一気に言い切った志乃の腕が伸びてくる。視界が急に暗くなった。

「ああもう! 何であたしこんなに支離滅裂なことしてんだろう」

 心底忌々しげな志乃の言葉を、哲士は彼女の腕の中で聞いた。今、この瞬間哲士はベットの横に立つ志乃に抱きしめられていた。

 とく、とく、と彼女の心臓の音が聞こえる。あんなにさっきまで静かだったのに。部屋の中に少しずつ音が満ちていく。それで初めて、香代子が去ったこの部屋が空っぽで、それはそのまま自分の心の中のだったということに気づいた。

 志乃の鼓動が触れ合ったところから伝わって、自分の隅々まで行きわたる。その音に合わせて、自分の心もやっと動き出した気がする。生きていく力が溜まっていく気がして、哲士はしばらくその音に耳を傾けていた。

「泣いてもいいよ」

 志乃からそんな言葉が降ってきて、哲士は軽く笑った。

「さすがに泣いたりしないよ」

「今さら。あたしは緒方さんの泣いたところもう見たことあるし、別に驚いたりしないよ」

 そう言われればそうだったと、哲士は羞恥とともに思い出す。雨のグラウンドで『ここから消えてしまいたい』と泣いたのだった。だからもうどうつくろっても自分のメッキははがれてしまっていて、しょうがない気がする。それは無力感とは違って、肩の力が抜けるものだった。

「あたしはこっちの弱い緒方さんが本当の姿だって知ってるよ」

 志乃はまとうメッキももうない哲士を抱きしめ続ける。

 拾う神ありかもしれないな、と哲士は目を閉じて噛みしめるように笑う。それから彼女を遣わせてくれた志朗に感謝する。

 俺は弱いけど、かっこ悪いけど、情けないけど、きっとこれからも歩いていけるだろう、走っていけるだろう。そしてまた人を好きになるだろう。そう思いながら志乃の背中にそっと手を回した








 哲士は自身の病室でゆったりとしたズボンを履き、足のギプスを覆い隠す。それから、上に着ていた寝間着のTシャツを脱いで、普通のシャツに着替えた。買ってきたばかりの薄い水色のシャツは今日の空のようだ。糊がよくきいていて、気持ちまでしゃんとする。

 グレーのパーカーを羽織りながら、サイドテーブルの上のデジタル時計の日付を見る。哲士にとって特別な日を示していた。

 哲士は過去二回病院から脱走したが、それ以外は医師や看護師の言うことをよく聞く模範的な患者だった。脱走して二、三日は家族や病院関係者の監視は厳しいが、それ以後は気が緩むのか、自由が利く。今朝も来院患者に混ざって病院から抜け出した。

 正面玄関の自動ドアから出たところで、哲士は振り返って、褪せた白い外壁を持つ大学病院を見上げた。部屋に書置きを残してきたが、それでも家族や病院のスタッフに迷惑をかけるのは心苦しい。だが、何をおいても今日自分はある場所へ行かなければならなかった。

 一回目の脱走騒ぎの後に親に取り上げられずにすんだキャッシュカードを使ってコンビニのATMからお金を下ろす。裸の紙幣をポケットに入れて、コンビニから出る。ぐずぐずはしていられない。足の不自由な自分には時間がいくらあっても足りない。

 駅行きのバスに乗ると、頬の先から脂汗が垂れてきた。バスの振動が足に響く。まだ目的地の工程の十分の一も済ませていないのに、こんなふうで大丈夫なのか。

 駅について運転手に迷惑そうな顔をされながら苦労してバスを降りる。土曜日の午前中で駅は全体的に空いていたが、松葉杖で人の波の中を歩くのは疲れる。エスカレーターひとつ乗るのにも転倒したらという恐怖と、痛みがつきまとう。

 目的地への切符を買ったところで、もう疲れ果てていた。切符販売機横の壁に寄りかかって息をつく。このままずるずるとここに座り込んでしまえば楽だったが、哲士はそれをせずに顔を上げて前を見据えた。自分は足が壊れても、今日行かなければいけない。自分のしたことの責任を果たさなければいけない。間に合わなくなったらそれこそ一生悔やむだろう。

 切符を握りしめて改札をくぐる。勢い込んで向かった哲士だったが、幅の狭い改札機に松葉杖の先が引っ掛かり、バランスを崩した。やばい、転ぶっ、と目の前が真っ暗になる。

 だが、哲士の体は床に叩きつけられなかった。前傾した哲士を誰かが支えたからだ。

「危なっかしすぎ。そんなんでどこ行くの」

 女性にしては少し低い声が哲士の耳朶を打つ。脇の下に手を入れて、全力で哲士を支えているのは志乃だった。

「何で、ここに……」

 何とか体勢を立て直して、とりあえず改札を抜けて志乃に尋ねる。志乃はしれっと「緒方さんの病室訪ねたら『また脱走した』ってご両親が言ってたんだよ。それであたしも探すの手伝ってたわけ」と言った。

 要は志乃は哲士を当然ながら連れ戻そうとする両親の遣わした人物であり、彼女に見つかった自分はゲームオーバーだ。志乃が両親に連絡する前に何とかしないと、と思うが、何のいい案も思い浮かべない。だからもう正攻法で行くことにした。哲士は志乃を真っ直ぐ見据える。

「手を貸して欲しい。俺はどうしても今日、日本インカレの会場に行かないといけない。だから手を貸して欲しい」

 日本インカレ。哲士が出るはずだった夢の舞台。自分はそこに行かないといけない。無論、走るためではない。だがどうしても、何としても行かなくてはいけないのだ。

 自分と志乃の間に、列車が間もなく到着するというアナウンスが流れる。志乃が迫りくる列車を一瞥する。哲士が乗る予定の電車だった。

「あの電車に乗るんでしょ。早く行くよ」

 志乃の決断早かった。すぐさまホームへ足を向ける。その後につきながら哲士は驚いていた。こんなあっさりと協力してくれるとは思わなかった。何とか志乃の手を借りて予定の電車に乗り込む。

 すぐに志乃は空いている席に哲士を座らせてくれる。

「ちょっと顔色悪いけど大丈夫?」

 志乃が心配して、哲士の顔を覗き込んできたが、それに構わず哲士は「何で」と聞く。

「何で協力してくれるんだ?」

 ロングシートに座った哲士は、吊り革を持ってその正面に立つ志乃に尋ねた。こんな足でインカレ会場に行ったところで、哲士はもう走れるわけでもない。それに哲士の脱走に手を貸したと知れたら、彼女は責められてしまう。あの場面ではほとんどの人間が哲士に病院に戻るように説得するだろう。

 志乃は少しの間答えず、哲士の背後の車窓の外を眺めていた。

「あたし、緒方さんが走ってるの見たことあるよ。事故の後、動画サイトに上がってる地区インカレとかいう大会の映像を見た」

 動画サイトに自分の映った映像が上がっていると言われても、哲士は別段驚かなかった。陸上の花形種目である男子百メートルは、愛好者も多い。ただ、それを志乃が見ていたことは驚いたが。

「一位をとって心から嬉しそうだった緒方さんが陸上を捨てて……今日また大会を観に行きたいって言うのは、何かすごく意味のあることに思えたから。だからあたしは協力する」

 そうだ。今日、日本インカレに行くことは、哲士にとって大きな意味を持つことだった。怪我以降、停滞していた自分が進むためのものでもあった。

「ありがとう」

 頭ごなしに反対せず、自分の気持ちを汲んでくれた志乃に礼を言うと、彼女は少し笑ったように見えた。

 それからターミナル駅で普通列車を降り、新幹線に乗り換える。ずっと松葉杖をついていたので、手のひらの皮がむけ、血が出ていた。松葉杖は腕全体に負担をかける。脇の下も耐え難く痛む。

「痛むの?」

 北に向かう新幹線に乗った後に、志乃が聞いてきた。いや大丈夫、と答えようとして、気がついた時には「痛い」と答えていた。言葉が喉を超えた瞬間から、自分で自分に驚く。自分は志乃に対しては、どうもたがが外れる気がする。

 子供のような哲士に構うことなく、志乃はマメがつぶれて血まみれになった自分の手にハンカチを巻いてくれた。「少し寝てたら? 着いたら起こすから」と声をかけられ、哲士は「ありがとう」といって目を閉じる。正直なところ足が痛んでどうしようもなかったし、足を怪我してからこんな遠出はしたことなく、疲れてもいた。

 新幹線の規則的な振動を感じながら、自分は志乃に甘えているな、と思った。だが、彼女がいなければ、もうどこかで動けなくなっていたかもしれない。

 二時間ほど新幹線に揺られ、東北地方の都市に降り立つ。そこからは志乃が肩を貸してくれた。小柄な彼女に体重をかけるのは申し訳なかったが、松葉杖では一歩進むたびに足ではないどこかが悲鳴を上げる状態だったのでありがたかった。

 日本インカレの開催されているスタジアムに着いた時にはもう昼をとっくに過ぎ、西日が射していた。観客席に上がると、トラックでは今日最後の競技である、男子百メートル走決勝を行っていた。

 走る選手たちを見た時、自分の中に言いつくせぬ何かが湧き上がってくるのを感じた。自分に向かって風が吹いてくる。その風を顔に受けた瞬間、いろいろな記憶が一気によみがえってきた。

 哲士は陸上に生かされてきた。よろこび、楽しみ、生きる力、明日への活力、いじめられていた哲士が教室で得られなかった人間らしい感情は、すべて走路で知った。

 吹く風が優しくて、自分は陸上を捨てたのに、長い時間をかけてここに戻ってきた気がする。自分の中の陸上選手という意識は死んでいなかったのだ。自分の中から吹く風が止まらない。このスタジアムの熱気に胸が騒ぐ。

「緒方さん……?」

 志乃に怪訝そうに呼びかけられて、我に返る。「足が痛いの?」と問いかけられて無言で首を振る。

 改めてトラックの直線コースに目を向けると、百メートル決勝に出る七人の選手がスタートラインに立っていた。その中の黒いユニフォーム姿の選手に哲士は目を奪われる。夕日を受けて、髪を金色に輝かす彼は神々しくすらあり、美しかった。

 そこに立つ由貴也は完璧だった。どこも欠けていない、少しの不安定さも見えない。これがあの精神的にもろかった由貴也なのか、と哲士は目をみはった。香代子の不在は、由貴也を弱くしていない。増々彼を強く輝かす。

 その時、天高く号砲が放たれる。残光を残して、由貴也が立ち上がる。

 彼の側面から赤い日が射して、その輪郭を輝かせていた。他の選手が目に入らない。このレースは由貴也のためだけのレースだ。彼が地面を蹴るたびにその足から光の粒が出る。彼だけがまわりの選手から浮き上がっていた。

 渦巻く歓声を、哲士は観客席の最後列の、一番高くなっているところで聞いた。その由貴也の栄光を称える声の渦の中で、自分はやはり才能以前に由貴也に負けたのだとはっきり悟る。グラウンドに私事を持ち込まず、それどころか彼はさらに強くなっていた。電光掲示板の一番上に由貴也の名前があり、彼は最速の男として、観客の歓喜を一身に受けている。

 その後の表彰式でも由貴也は圧倒的存在感を持つ王者として、表彰台の頂点に君臨する。彼はメダルの金色の輝きを当然のものとして受け止めていた。その堂々たる姿に、自分がこれからやろうと思っていることを迷いなく実行できると安堵する。

 競技終了後のスタジアムの外で、哲士は由貴也が出てくるのを待った。彼は陸上誌や新聞の取材、記念撮影等があるのか、なかなか出てこない。やっと由貴也が姿を現したのは、夕日が完全に地平線に隠れようとしている頃だった。

 ジャージに大きなスポーツバックを肩から下げた由貴也が出てくる。哲士の記憶に残る彼よりも少し髪が伸びていて、眼光は鋭くなっていた。その目が哲士の姿を認識した途端にさらに細くなる。空気が剣呑なものに変わる。

 だが、哲士はにらみ合いをする気はなく。志乃に肩を貸してもらっている方の手とは別の手で、拳を握り、次の瞬間それを由貴也の頬目がけて突き出した。視線は険しくとも、肉体的には何も身構えていなかった由貴也の顔に、哲士の拳はクリーンヒットする。さすがの由貴也もこれには驚き、尻もちをついて哲士を見ていた。ただし、哲士も勢いのあまり前に転び、足の痛みを何とか顔に出さないようにするのが精一杯であった。

「緒方さん!」

 志乃が驚いた声を上げていたが、構わず哲士は前に手をついたまま、由貴也を下から睨みつけて言い放つ。

「マネージャー妊娠したってよ」

 間違えなくお前の子だ、と付け加える。殴られて赤い頬をした由貴也は、束の間幼い表情になって哲士を見上げている。その由貴也を叱咤するように怒鳴りつけた。

「行けっ! さっさとマネージャーのとこ帰れっ!!」

 哲士の怒声に弾かれたように、由貴也がぱっと立ち上がる。そのまま哲士に背を向け、走り出す。その黄金の足を使って瞬く間に競技場から遠ざかっていく。

 その姿を見送ってから、哲士は後ろに手をついて、息を吐いた。空を見上げると、紫紺の空に一番星が輝いている。

 香代子を哲士から解放してから、ずっと彼女の元へ由貴也を返してやりたいと思っていた。自分が歪めてしまった二人の関係を、元に戻したいと思ってきた。そのために今日、由貴也と確実に会えるここに来たのだ。

 多少の脚色はしたが、嘘も方便だと許して欲しい。男としての責任を果たさなかった由貴也に脅しを与えるという意味もあったが、後はふたりが上手くいくことを祈るのみだ。

 夜風が哲士の髪を吹き上げる。その心地よさに一時目を閉じて、そして開いた。

「何だかすごくすっきりしたよ」

 後ろに立つ志乃に向かって笑う。由貴也を香代子の元に行かせて、自分の中には悲しみや切なさよりも安心したという思いの方が強くあった。

 これで自分の恋を本当に終わらせられる。哲士は驚くほど晴れやかな気分の中でそう思った。

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