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初恋の君へ  作者: ななえ
大学生編
114/127

神さまの手のひら9

「座って。話があるの」

 香代子がそう切り出したのは、哲士の病室から帰ってきた三日後の夕刻のことだった。

 インカレ出場者対象の合宿から戻ってきた由貴也は体を休めるため、クラブで軽い練習を行って香代子の部屋に帰ってきていた。ここ最近は由貴也はまっすぐ香代子の引っ越し後の部屋に帰ってくる。香代子も香代子で由貴也の食事を作って、彼の体調を管理することを自分の役目だと思っていたので、この半同棲状態を受け入れていた。

 シャワーを浴びて、浴室から出てきた由貴也は香代子が思いつめていることを察したのか、何も聞かずにアイボリーのラグの上に腰を下ろした。

「風邪ひいたら大変だから、とりあえず髪ふいて。お腹は空いてない?」

 香代子の問いかけに、由貴也は水をしたたる髪をタオルで大ざっぱにふきながら首を縦に振る。東日本インカレ、世界ジュニア、日本インカレと、由貴也のスケジュールはタイトだ。体調を崩させるわけにはいかない。

 正面から由貴也と向かい合って、決心が揺らぎそうになるのを感じた。最初はこんな風に向かうことはおろか、由貴也はろくに香代子のことを見なかった。何度も由貴也は香代子を遠ざけようとしていたし、牙を剥いたことも一度ではない。それが今は真正面から見てくれるようになった。

 自分の想いを向けた相手が、想いを返してくれる。それが奇跡のように幸せなことだと知ったのは由貴也がいたからだった。それを香代子は自分から手放そうとしている。

 香代子は視線を上げて、由貴也を見た。由貴也の白いなめらかな肌に、赤い日がかかっていた。

「距離をおきたいの」

 自分の声が、黄昏時の部屋に響く。声の余韻が消えた瞬間、秋の肌寒さが強まった気がした。

 距離をおく。付き合っていない自分たちに別れという言葉は使えない。だから香代子は距離をおく、つまり離れるという言葉を使った。

 でも香代子はわかっていた。別れという言葉を使わなくても、由貴也とは一緒にいなくては意味がないこと。距離をおくということが、自分たちにとって致命的になることを香代子はわかっていた。

 由貴也は相変わらず、静かな顔をしていた。由貴也の微細な表情の変化はわかるようになっていたけれど、その表情は無機物のようにまったく動かない。

 十月の初旬だというのに、香代子は細かく震える指先をもう片方の手で握った。どうしてこんなに寒いのだろう。どうしてこんなに暗いのだろう。

「俺と離れて、部長のところに行くってわけ?」

 由貴也の声が、夕暮れの影の中から低く響いた。逆光になった彼の顔はよく見えなくなっていたけれど、その声音はいつもと変わらず平坦で、別段負の感情はこめられていない。それなのに、彼自体が影になったかのような得体の知れなさを受ける。

「部長と向き合いたいと思ってる」

 本能的な恐怖を胸の奥に押し込め、香代子は固い声音で答えた。今まで無視してきた哲士の弱さと、想いに真正面から向き合いたい。そのために、由貴也への想いを残しておくわけにはいかなかった。

「アンタが俺と別れて、部長のところに行ったところで、部長がよろこぶとでも? それって同情じゃん」

「わかってる」

「わかってないじゃん。アンタと部長何年一緒にいると思ってんの。四年も近くにいて恋愛にならないものを力技でどうにかできるとは俺には思えないけど」

 由貴也が言っていることは真理だった。香代子にとって部長はどんなに頼りにしていても、信頼をしていても、一緒にいることに心地よさを感じても、“部長”としての枠を超えない存在だった。彼との付き合いは、仲間としての意識がベースにあって、その上に異性という色が加わることがなかった。

 恋はするものではなく、落ちるものだ。少なくとも香代子にとってそういうものだった。だから自分の意識を操作して、恋心が生まれるかといえば、おそらく無理だろう。それでも香代子は哲士の元に行くと決めた。

「部長じゃなくなった彼と、『緒方 哲士』という存在と改めて向き合いたい」

 自分は部長という肩書の奥にある彼を見てこなかった。彼の想いを踏みつけ、無視して、その上で由貴也と幸せになるだなんて、ずるい。つぶれた哲士を見て見ぬふりをし、自分は由貴也の元でかわいそうだね、なんて口先だけの言葉を吐いて、安全な場所で高みの見物を決め込むのか。それでは今までと同じ繰り返しだった。

「……部長と向き合ったところで、アンタの方に恋愛感情は生まれないかもしれない。そしたらどうするの」

 由貴也は憎らしいほど冷静で、香代子の退路を断つ。

「部長がもういいって言うまでそばにいる」

「もういいって言ったら?」

「それでも――」

 香代子はそこで言葉を切った。次の一言が、自分たちの関係に楔を打ち込むものだと理解して、その重さにしり込みそうになる。それでも、哲士のもとへ行くと決めたなら、自分の甘えを許してはいけなかった。

「もう、ここへは帰ってこない」

 哲士が立ち直り、彼へ恋愛感情を抱けないと結果的にわかったとしても、香代子は由貴也のもとへ帰るつもりはなかった。哲士とダメだったから由貴也とだなんて、あまりにも都合の良すぎる。それに哲士の元へ行くのなら、自分のすべてを彼に使うつもりで行くべきだ。帰れる場所があってはいけない。そんな薄い覚悟はないと同じだ。

 首に垂らしていたタオルを由貴也は抜いて、床に落とした。おもしろくもおもしろくなくもない顔をして、香代子を見てくる。

「つまりアンタは俺じゃなくて部長を選ぶわけだ」

 由貴也の言葉に香代子はうなずく。哲士と向き合いたい。支えたいと綺麗な言葉で自分を納得させたところで、由貴也が言っていることがすべてだ。自分は哲士を選ぶ。

 由貴也は「そう」と拍子抜けするほどあっさりと、香代子の選択を受け入れた。けれども、由貴也が淡白な表情を保っていたのはそこまでだった。一度、あさっての方へ向けられていた由貴也の視線が香代子に戻ってくる。その瞳に香代子が映りこんでいくうちに、彼の表情はがらりと変わった。夢のように美しく、天使のように優しく、冬の月のように冴々と、そしてこの上なく恐ろしく冷たく微笑む。

「バカだね。俺がそれで納得するとでも思った?」

 由貴也の手が伸びてくる。香代子は反射的にそれを避けるべく、立ち上がった。今、この手につかまったら取り返しがつかなくなる。その危機感は、理性が思考を折って作ったものではない。感情の――もっといえば女として避けなくてはいけないと判断したものだった。今の由貴也にからめとられたら、喰われる。香代子は本気でそう思った。

 立ち上がった由貴也に、防波堤を作るように言い放つ。

「納得してもらえないなら、私がここを出てく」

 元から、香代子は由貴也と話をしたら、その足で哲士のところへ向かうつもりだった。決心が鈍らないうちに。

 香代子が踵を返して、玄関へ向かおうとした瞬間、由貴也の拳が鋭く行く手を遮るべく壁に打ち付けられた。部屋全体が揺れて軋む。

 身をすくめている場合ではないと思った時には、由貴也の壁に置かれた手とは別の手で腕をつかまれていた。逃げられない。こういう時ほど由貴也の美貌は凄みをまして、香代子に迫る。西日を受けた一対の瞳が黄金色に輝き、憎悪に近い感情を宿して香代子を見下ろしていた。

 手をつかまれたまま香代子は後ずさるけれど、その前に由貴也に壁に押し付けられた。由貴也の動きは決して乱暴ではないのに、ひとつひとつが威圧感に満ちている。黄昏すら自分の背後に従えて、この場の空気は彼によって支配されていた。

 腕をつかまれ、横には由貴也の拳。背後は壁。足の間に由貴也の膝をねじ込まれ、身体的自由はないに等しくなった香代子だったけれど、この状況に流されるわけにはいかない。声を発するべく、息を吸った。

「離し――」

 離して、と言おうとした語尾が消えた。吐息がかかるような距離で、とびきり邪悪に微笑んだ由貴也の顔を見たのを最後に、香代子の視界は黒く染まる。由貴也と唇が重なっていた。

 香代子は驚きのあまり、拒絶の声を漏らすけれど、くぐもったそれすら飲み込むように口づけは深まる。由貴也につかまれてない方の腕で、必死に彼の体を押しのけようとするけれど、どんどん力が入らなくなっていく。

 それはあまりに愛情表現というにはかけ離れているキスだった。香代子をここへ留めておくためだけになされた行為で、それは牙を剥いて噛みつくことに似ていた。

 唇を離した時、香代子は膝が折れて、その場所に座り込みそうになる。腰が砕けたのは、キスに酔ったからではない。由貴也の強烈な毒気にあてられたからだ。

 ふらついた香代子の腰に腕を回して支えて、由貴也はどこまでも香代子に見せつけるかのようにあでやかに麗しくそこに存在していた。夕日はいつのまにか地平線に隠れ、足元から闇が迫ってくる。視界が利かなくなってきているというのに、由貴也の髪も瞳も唇も艶を帯び、人を惑わす魔物のように人間離れした美しさを放っていた。

「アンタが好きなのは俺だよ」

 直接頭の中から響くように、由貴也の声が甘く、危険に香代子に刻み込まれる。だから、つかまってはいけなかったのに、と酩酊状態に落ちていく中で思う。この人にこんなことをされたら、自分がどうにかならないはずがないのに。

 ここで流されてはいけないと、溺れそうになる中で香代子は必死に抵抗した。言葉で言ったところで、由貴也が離してくれるとは思わない。拳を振り上げ、由貴也の肩口叩いて、この拘束から脱しようと試みる。

 思った以上に自分の打撃は力なく、弱かった。その香代子のささいな抵抗を由貴也は冷ややかに見下ろして、香代子の拳をやすやすと受け止める。元からつかまれている手と、今由貴也の手のひらに包まれた拳が壁に縫いとめられ、香代子はどうしようもなくなった。顔をそらす暇もなく、それすらも拘束の一種のように、ふたたび由貴也の唇が香代子のそれに押し付けられる。彼が香代子のあがらいを完膚なきまでに砕きにきているのはわかっていた。

 気の遠くなるような時間が過ぎたように思えた。実際には数分のことだったのかもしれない。言葉も発する暇もなく、何度も何度もキスを繰り返され、やっと解放された時には自分の体を自分で操れなくなっていた。由貴也に片腕をつかまれたまま、香代子は背中を壁につけてずるずると座り込む。

 ともすれば何にも考えられなくなりそうな思考を、何とか正常な位置に留めて、香代子は思う。きっとこんなにも翻弄されるのは、自分の中の自然な流れに逆らおうとしているからなのだろう。流れに身を委ねれば、楽になるのだろう。

 由貴也が音もなくしゃがみこみ、香代子を抱きとろうと手を伸ばしてくる。身をよじって何とかそれを拒む。

「止めて。もう由貴也とはそういうことできない」

 哲士のところに行くと決めたなら、筋を通して貫かなければならない。たとえ由貴也とこの先二度と触れ合えなくなっても。

 由貴也は香代子の言葉に取り合わなかった。体中の力が抜けた香代子を簡単に抱き上げ、部屋の中に連れて行く。

 ベットに下ろされたと思うと同時に、由貴也が香代子の仰向けに横たわった体の上にまたがった。薄闇の中、香代子に視線を下ろす由貴也は凪いだ顔をしていて、彼から少しの興奮も劣情も感じなかったけれど、香代子の中の何かが警鐘を鳴らしていた。

「嫌。止めて。由貴也! 離してっ」

 自分の叫び声が部屋にこだまする。香代子は由貴也の胸板を思いっきり押して、彼の下から脱しようと試みるけれど、由貴也はそんな抵抗をものともせず、逆に香代子の手は外されて、シーツの上に縫いとめられた。その香代子を映す由貴也の瞳には見る者の背筋を冷たくする軽蔑の色があった。

「アンタは俺のことを支えると言った舌の根も乾かぬうちに、部長のところに行くって言うんだね」

 由貴也の放った言葉に、香代子は凍りついた。自分は由貴也を支えると初夏の県選手権の後に誓った。これは裏切りだった。どう弁解しても許されない背信だった。

「ごめんなさい。ごめんなさい……」

 香代子は繰り返し謝る。その香代子の頭を驚くほど優しい手つきで由貴也はひとつなでた。けれども、彼の微笑は不穏で剣呑で、物騒だった。

「かわいそうだね。俺なんかに愛されて」

 由貴也の繊細で長い指が、香代子の髪を巻きつける。そして、もてあそんだ髪の束を手のひらに納めるように、由貴也は拳を握る。その力の強さが髪を伝わる。

 由貴也が笑みを甘く深め、香代子の耳元に唇を寄せた。

「許さないよ、アンタの裏切りを」

 それは、世界を暗転させるほどの威力を持った言葉だった。とっておきの秘密を教えるように密やかに、溶けるほどに甘く、すべてを許すように優しく、由貴也はささやいた。

 由貴也の唇が香代子の首筋に落ちる。美しい獣が自分を喰らい始めたことを、香代子は理解した。

 その後、由貴也はどんなに止めてと懇願しても、力の限りに抵抗しても、一切の手心なしに香代子を抱いた。どろどろに蕩けきった頭の中で、背徳や自分の定めたモラルの外では、こうなることを心のどこかで望み、喜んでいるのかもしれないという思いを、必死に打ち消していた。









 夜の闇の中、うつ伏せで、白い背中をさらして香代子が寝ている。まぶたは固く閉ざされ、ぐったりと四肢を投げ出し、少しの動く気配もない。由貴也はベットの上で上体を起こして、闇に慣れた目でその姿を見ていた。

 気絶するように眠っている香代子の顔には幾筋もの涙の痕が残っている。それを手のひらでぬぐう。痕が消えたところで、自分のしたことは消えないとわかっていたけれど、無意識のうちに体が動いていた。

 彼女を組み敷いて、無体を強いたのは、香代子の気持ちが由貴也に向いているのだと彼女自身に知らしめるためだった。その想いが哲士にではなく、由貴也にあると刻み込ませて、屈させるために行ったのだ。

 けれども、彼女は気を失う最後の最後まで抵抗した。どんなに執拗に責めようとも、由貴也へ想いが向いていると認めさせ 、哲士のところへ行くという言葉を撤回させることはできなかった。嫌だ嫌だと由貴也を拒む態度は、演技ではなく、哲士への操立てからか本気でなされたものだった。

 彼女の腰のあたりでゆるくたぐまっている掛け布団を引き上げ、香代子のむき出しの背中と肩を覆う。身じろぎひとつしない彼女の隣に身を横たえ、意識のない香代子の頬に、自分の手のひらを当てた。

 病室で哲士に『マネージャーくらい俺にくれよ!』と叫ばれた時から、彼女が自分から離れていく可能性は理解していた。理解はしていたけれど、それまでだった。香代子は迷うかもしれない。悩むかもしれない。それでも最後には由貴也を選択するはずだと高を括っていた。

 懸念が現実になってからあわてて、そしてこのざまだ。自分は香代子に力技で哲士との関係を恋愛に変化させることはできない、と言ったが、由貴也もまた香代子の哲士のそばへ行くという決意を力づくで翻させようとし、できなかった。

 頬に当てていた手のひらを滑らせ、香代子の存在を確かめるように耳、髪とたどって行く。最終的に首の裏に手を差し入れ、今だ昏々と眠っている香代子に口づけた。唇を離して、至近距離で見つめても、ぴくりとも動かない。香代子の体には相当な無理をさせた。疲れきってすぐには目覚めないだろう。

 さっきまで秋の夜気の中にさらされていた彼女の肩や背中は冷え切っていた。温度を戻そうと、由貴也は彼女の体を手でゆるゆるとさする。そのうちに、自分が取り戻したいのは彼女の体温なのか、他のものなのかわからなくなった。

 きっと、香代子は他の誰とでもそれなりにおだやかに日々を過ごしていける人間だ。哲士とでも幸せになれるだろう。むしろ小さな幸せを積み重ねて、かみしめて生きていくというのなら、哲士の方が向いている。それに哲士は彼女の愛を受けるのに相応しい人間だ。おそらく、由貴也よりもずっと。

 頬を寄せて、額をつけて、下りたまぶたに唇を落として、由貴也は香代子を愛した。だがどんなに愛していても、今の由貴也と香代子は気持ちが通じ合っていない。どんなに想っていても、彼女を本当の意味で縛り付けることはできない。由貴也がどんなに言っても、どんなに止めても、朝日が昇れば彼女は哲士の元へ行くだろう。

 行かせたくない。引き留めておきたい。

 由貴也は瞳を閉ざし続ける香代子を抱きしめる。朝なんか来なければいい。一生、香代子が目覚めなければいい。そしたらずっとこの腕の中で抱いていられるのに。ずっとこうやってくっついていられるのに。

 彼女の寝顔を眺めて、時折口づけて、由貴也は一睡もせずに夜を過ごした。秋になり、夜明けはだいぶ遅くなっていたが、それでも由貴也には早く、短すぎる一夜に感じた。

 日が昇る前に、衣服を身に着け、由貴也は香代子の部屋を後にした。結局、香代子は意識を取り戻さなかった。

 自分のマンションに戻り、シャワーを浴びた後は、当座必要と思われるものをスーツケースに詰め込む。ほぼスパイクや練習着などの陸上関連のものが占められたスーツケースを引き、自分のマンションも後にした。

 すべてを浄化するような朝日に照らされながら、まず由貴也が向かったのは哲士の病室だった。二十四時間年中無休の病院と言えども、まだ目覚めておらず、廊下に差し込む朝日だけが存在を主張し、静かだった。

 途中で誰とも会うこともなく、哲士の病室にたどり着く。引き戸は音もなくすべり、何も遮るものなく室内が見渡せた。世の中が活動を始める前の早朝だというのに、哲士はベットの上で体を起こしていた。この人はもう何日もよく眠れていないのかもしれない、と思う。

 哲士の顔が普段の彼からは考えられないようなゆるい動きで由貴也の方を向く。

「古賀? こんな早朝にどうし――」

「香代子はアンタのそばに行くって言った」

 顔にもセリフにも疑問符を張り付けた哲士の言葉をぶった切って、言い放つ。途端に、哲士の表情が驚きに変わる。大きく目を見開いて、由貴也を見ていた。

 哲士に考える時間を与えずに、畳み掛ける。

「でも返してもらうよ。香代子は俺のだから」

 由貴也が不敵に宣言する間、哲士は事態を把握するためか、まばたきを繰り返した。やがて心が落ち着いてきたのか、目を閉じる頻度が減っていく。最後にひとつゆっくりとまぶたを落としたかと思うと、目を開くと同時に、顔も上げてくる。驚きを綺麗に消した瞳には、強い光が宿っていた。

「――でも今、選ばれたのは俺だ」

 由貴也以上に挑戦的に言い放った哲士はもう“みんなの部長”ではなかった。ひとりの男として由貴也の前に在り、同時に敵として存在した。

「マネージャーが俺を選んでくれるなら、誰よりも大事にするよ。古賀には返さない」

 真摯で誠実な哲士の言葉に、由貴也は嘲笑で応えた。

「自分の弱さで香代子の同情を買って得た恋に、何の価値があるっていうの」

 哲士に恩がないわけではない。高一の自分はこの人と香代子の支えがあったから立ち直った。だからこそ、手加減をして戦おうとは思わなかった。

「轢かれそうな子供をかばったアンタの行動を、十人が十人褒めるだろうね。でも俺はアンタを褒め称えたりなんかしない」

 香代子は部長でない哲士と向き合うと言った。由貴也もまた今、部長でない哲士と向き合う。香代子という同じものを求める自分たちは一度、思いっきりぶつからないとどうにもならないだろう。哲士はもう由貴也を守ってくれる部長ではない。哲士もまた、由貴也を守るべき部長ではない。部長だとか、後輩だとか、そういう肩書を取っ払って、哲士と真正面からぶつかる。これが由貴也なりの哲士への向き合い方だった。

「インカレを控えている身でありながら、アンタは自分で自分の体を傷つけた。そんなのは陸上選手じゃない。アンタは結局いい人な自分を捨てられないんだ」

 由貴也は意図的に笑みを深める、哲士の深部まで切り込むように深く深く、鋭く笑みを研いでいく。

「東日本インカレ、日本インカレ、世界ジュニア……アンタが捨てた陸上の世界で俺は活躍してみせるよ」

 そこで由貴也は哲士から目をそらさずに踵だけ返す。もう言うことは言った。最後の一言を残して。

「弱いアンタは黙ってそれを見てるといい」

 哲士の表情を見ずに、由貴也は病室から出た。弱い弱い哲士。そして、優しい哲士。もっとも優しいというのは由貴也にとってバカと同義だ。巴との恋でぼろぼろになった時に、由貴也を見捨てておけばよかったのに。自分のライバルを救って、逆に今その存在に傷つけられている。愚かな哲士。バカな哲士。だが、もうすぐその哲士の元に香代子がやって来てくれるだろう。

 病院を出たその足で、由貴也はクラブに向かった。まっすぐコーチ室に向かう。朝の早いコーチの華耀子はもう出勤してきていて、自分のデスクで新聞を読んでいた。その漆黒の瞳がただならぬ勢いで現れた由貴也に向けられる。

「おはよう、由貴也。早いのね」

 白々しいほどいつも通りの口調で華耀子は言い、新聞を畳んでこちらにやってくる。きっとこの人は由貴也のそばにやってくる間にも、自分の様子を冷静に観察して何かあったことを察しているのだろう。今はその察しの良さが有難い。面倒な説明をしたくはなかった。

「どこか俺を遠征に行かせてください」

 由貴也は華耀子が正面に立つや否や切り出した。理由をすべてすっ飛ばして、要求だけを突きつけたにも関わらず、華耀子はまったく動じずに「どこに行きたいの」と聞いてきた。

「どこへでも。二十四時間陸上に専念できるとこへなら」

 哲士が弱さで香代子の気を引くのなら、自分は強さを武器にする。哲士が到達できない高みに上る。そして、香代子を取り戻してみせる。そのために、自分が持っている陸上という強さを磨く。

 由貴也の求めに、華耀子はただ「わかったわ」と答えた。

 こうして由貴也は香代子が目覚める前にすべてのすべきことを終えた。

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