神さまの手のひら8
哲士の入院している病院のロビーに香代子が足を踏み入れると、見慣れた後ろ姿が、待合室の隅のソファーに背を丸めて座っていた。
白い壁に、ブルーグリーンのソファー。木目の受付カウンターは目に優しく、待合室は全体的にフレッシュな雰囲気がただよっていた。だけれど、その人の背中は元気がなく、ロビーの片隅に取り残されていた。香代子はそっと歩み寄り、その肩に手を置く。
「根本」
声をかけると、びくりと彼の肩が竦むように震えた。一拍の間があって、その顔が後ろにいる香代子の方に向く。いつもはあっけらかんとしている彼は何とも言えない表情で、香代子の姿を瞳に映して認めた後、また正面に顔を戻した。それは、猫背になって下がっている視線と相まって、香代子から目をそらしたようにも見えた。
「マネージャー……部長の見舞いに来たのかよ」
受付の患者を呼ぶアナウンスにまぎれてしまいそうに弱い根本の声に、香代子は「うん」と答える。根本の足元にはたくさんの雑誌が入った紙袋が置いてあった。香代子は知っていた。その紙袋の中身が陸上雑誌で、それを渡したくて根本はここに来たのであろうことを。
香代子はその場をいったん離れて、ロビーの端に設置されている自販機で紙コップに入っている温かいコーヒーと紅茶を買った。それを手に根本の元へ戻り、コーヒーの方を根本に差し出す。根本が無言でそれを受け取ったのを確認して、香代子は彼の隣に座った。しばらく無言でふたりで湯気の立つそれぞれの飲み物をすする。
「……部長が顔見せてほしいって言ってたよ」
アナウンスの音、前に座る患者たちの話し声、暇つぶしにつけられているテレビの音。しばらくそういった音に身を委ねた後に、香代子は会話の糸口としてその言葉を口にした。根本が病院まできたものの、哲士の病室を訪ねるのを躊躇してここにいたのだろうことはわかったからだ。
根本は部長という単語を聞くと、一段さらに表情を暗くしたように見えた。根本が哲士の病室に行けずにここにいるのは、この前哲士がかばった少年とその姉を責めてしまったことに気が咎めているからだろう。香代子もその場に居合わせたけれど、あの時の根本の剣幕はすごかった。あの日の帰路、根本はずっと押し黙って、険しい顔をしていた。彼がとてつもない自責の念にかられているのがかたわらにいる香代子にも伝わってくるほどだった。
でも、たぶん、根本が哲士を気軽に訪ねていけない理由はそれだけではない。そしてそれは、香代子が胸に抱く重苦しい気持ちと同種であることもわかっていた。
「俺さ、部長に合わせる顔もねえし、またあの部長がかばったガキとばったり会っちまうのもヤだし……」
根本がクリーム色の床に視線を落としたままで言う。今、彼は哲士の代わりに部長代行として部をまとめている。部にいるときは普段の彼と何ら変わりなく明るく振る舞っているけれど、ここにいる根本はこちらが真面目に話しているのがバカバカしくなるほどの陽気さの欠片もない。それに、と言葉を継ぐ根本の瞳が揺れた。
「何かヤなんだよ、今の部長を見るのが。全然覇気っつうの? そんなもんがなくて……それに、見ろよ、これ」
根本が差し出してきた一通の封筒を受け取る。そこには白い地に、目に痛いほどの黒で『退部届』と書いてあった。香代子はそれを見た瞬間、弾かれたように顔を上げ、根本の顔を穴が開くほど強く見つめた。
「まさかこれ……」
「そのまさかだよ。俺んとこに郵送されてきた。部長からの退部届だよ」
香代子は今度は封筒の方を凝視した。香代子が数日前に見舞いに行った時も、哲士は部を辞め、大学は休学すると言っていた。けれども香代子はそれを信じたくなくて、今になっても信じたくなくて、この封筒が哲士が送ったものではないと確信を持ちたくて、その証拠を目を皿にして探していた。その望みは、封筒の裏にしっかりした字で記された『緒方 哲士』の名前に打ち砕かれる。
「部長が、こんなに簡単に陸上を辞めるって言うなんて、俺は信じられねえんだよ。そんな部長らしくねえって言いたくなるんだよ」
「でも、根本……」
「わかってるよ、俺だって! 今の部長に陸上を続けろって言うことがどんだけ酷かっていうのはわかってるよ!」
いらだち、憤り、やるせなさ、そういうものを含んで声を荒げた根本は、周囲の怪訝そうな視線に気づいたのか、再び声を抑え、「悪い」とばつの悪そうな顔で謝った。
「でも、こんなあっさり辞めるって言うなんて、部長らしくねえよ。何か嫌なんだよ。見てらんねえんだよ。もっとあがいてもいいんじゃねえって思っちまうんだよ」
根本が修行僧のような厳しさで、じっと床を見ながら言った言葉に、香代子は同意してしまう。今の哲士を見ていると、別人のように見える。香代子がこの前、根本から預かった雑誌類と、小魚を持って哲士の病室を訪れた時、彼はいつも通り、口調はおだやかで、ものわかりもよく、大人びた態度で振舞い、根本を気にする様子すら見せた。それは一見、いつもの哲士と変わらないように見えたけれど、何かが違った。今の哲士とは、向かい合って話していると虚しくなる。不安になる。まるで彼から魂が――闘志が抜けてしまったかのようだった。そんな哲士は哲士じゃないと叫びたくなる。
根本もそう思っているから、哲士に陸上雑誌を見せて、もう一度陸上に対する闘争心を思い出して欲しいと思っているのだろう。香代子も内心では空虚さを感じる哲士の姿にショックを受けていたけれど、それをストレートに表に出すことはしなかった。
「轢かれそうになってる小学生をかばうなんて、誰にでもできることじゃないよ。そういうことができる部長はすごく部長らしいと思うよ」
香代子は、哲士が空疎な存在になってしまったことを否定するように言った。
「それに、足がああなって、すぐに陸上を続けるとか辞めるとかじっくり考えられるわけないよ」
香代子の言葉に、根本は明らかにほっとした顔をした。「そうだよな」とつぶやく。それは彼自身に言い聞かせているように聞こえた。そうしないといけないほど、香代子の言葉には説得力がないのだ。陸上選手として再起不能になったことを考えると、哲士の受けた精神的な衝撃はすさまじいものがあったことは当然想像できたけれど、哲士からは事故のショックに留まらない根本的なものまで消えてしまったように思える。――彼から吹く風を感じなくなった。
香代子にとって、陸上選手は風だった。由貴也からは重力無視のどこまでも軽やかな無色透明の風を、根本からは他を蹴散らして進んでいくような旋風を、竜二からは目も開けていられない突風を感じていた。
哲士の風は青かった。海のような、空のような青い風だ。でも今はその風すら感じない。
香代子や根本にとってもっとも怖いことは、哲士が怪我のために陸上を辞めることではない。哲士が陸上を心の底から嫌になって辞めることだ。自分たちの共通項は陸上が好きだということで、その陸上を嫌われることは自分たちにとって自己を否定されるようなものなのだ。
たとえ競技人として最前線に立つことができなくとも、哲士に陸上を続けて欲しい、愛してほしい。根本も思っていることを香代子はわかっているけれど、口には出さなかった。身勝手すぎる願いだと知っていたからだ。
「マネージャー、部長のことどう思ってんだよ」
押し黙っていた根本から唐突に問いかけられて、香代子は「えっ?」とまぬけな声を出してしまった。
「俺さ……」
香代子の聞き返しに構うことなく、話を進めようとした根本だったけれど、いつも単純明快な彼にしてはめずらしく言いよどむ様子を見せた。しばらく根本は口を引き結んで岩のようにじっと無言でいたけれど、ついに意を決したように沈黙を破った。
「部長が言ってんの聞いたんだよ。『俺は勝負から逃げた。インカレに出るのが怖かった』って言ってんのを聞いたんだよ」
根本のセリフがにわかには信じられなくて、香代子は目を見開く。
「部長に謝ろうと思って、病室を訪ねたらいなくてさ、まさかと思って大学のグラウンドに行ったんだよ……怪我してあせって、無理に練習しようとしてるんじゃないかと思って」
そしたら、と根本は続ける。
「やっぱりグラウンドにいてさ。何でかそこにいたあのガキのねーちゃんに言ってたんだよ。『インカレに出なくて済む。もう走らなくて済む。負けなくて済む』ってな……雨だからよく聞こえなかったけどな」
「な、んで……?」
香代子は愕然としながら尋ねた。哲士はインカレに出れることを喜んでいたのではないのか。だってあんなにもバイトのシフトを減らして練習に励んでいたのに。そう思うと根本の聞き間違えではないかと思って、「それ、本当のことなの?」と聞いてしまった。
根本は不意に笑った。その笑みは今まで見たことのないほどに暗く、顔の半分が影に覆われているように見えた。影の見えない半分からのぞく瞳は不気味なほどに光り、これがあの根本かとぞっとするほどだった。
「マネージャーは部長が古賀にインカレで勝てると思ったことある?」
得体のしれないほどの闇の中から発せられた問いは重く、低かった。香代子はその異様な迫力に呑まれて答えられない。いや、答えられないのは、根本の問いに答えられる言葉を持っていないからだ。哲士と由貴也。どちらもインカレに出る以上、等しく応援するけれども、哲士が決勝のレーンに立つビジョンを香代子は今まで抱いていなかった。由貴也が表情台の上に立っている光景は浮かぶというのに。それは無意識に彼らの力を計って比べた残酷な想像だった。
「そういうことじゃねえの」
根本の声音は香代子を突き放すように冷たかった。
「部長は自分が古賀に勝てないって知ってたんだよ。しかもそれは努力不足からじゃない」
今や香代子と根本の間には壁が存在していた。根本は完全に選手としての視点からものを語っている。
「短距離走は選ばれた者だけが走る競技だな。努力の入る余地のない種目なわけ。それは中距離の俺から見るとすっげー理不尽で残酷でさ」
根本は再び笑った。今度はすごみのない、力ない笑みだった。
「部長は才能がないわけじゃない。十秒ランナーだからな」
根本が言うように、百メートル走者にとって、十秒というのは特別な言葉だ。十秒台は才能がなければ到達できない領域だ。
「ただその先――十秒台の半ばを出すにはさらに才能が必要だ。努力も確かに死ぬほど必要だけど、その先はそれだけじゃダメなんだよ」
根本のセリフの語尾が震えた。床に雫が音もなく落ちる。根本は静かに涙を流していた。
「俺は部長に、逃げんな、もう一度戦えって言いたい。でも、戦ってどうなる? 今回負けて、悔しさをばねに練習したら勝てんのか? そうじゃないだろ。今までは死ぬ気で練習すれば勝てたかもしれねえけど、こっからはそうじゃないだろ。みんな努力してんだ。その上で才能が必要なんだ。俺はどうやっても勝てない相手に立ち向かっていって、ぼろぼろになれとはどうしても言えねえよ」
根本は顔を覆って、小刻みに肩を震わせて泣いた。嗚咽を懸命にこらえているのがわかった。
「……俺らは才能や素質ってものを見ないようにして走ってんだ。だってこいつにはどうしたって一生勝てないって知ったら苦しくて走ってられないからな。自分にも何か神さまから与えられたものがあると信じて走るしかないだろ」
だから、と根本は泣き笑いのような表情で続けた。
「生まれながらの差っつうのを直視したらダメなんだよ。神さまは不公平だって思ったら、もう後は苦しくなる一方になっちまう。バカだよ、部長は……」
言葉を発せずに、うなだれて、ただ泣くのみとなった根本の背に腕を回して、香代子は彼に寄り添っていた。
「あんな……あんな部長は初めて見た。ここから消えたいっつうて泣いてた。俺はどうしたらいいかわかんなくて……あんな部長は見たくなくて……」
切れ切れに語る根本の受けた衝撃を香代子はあくまで想像することしかできない。香代子だって、哲士がそんな風にもろく崩れる姿など想像できないのだ。哲士は自分たちの指標だ。苦しい時に、見上げられる存在だった。哲士についていけば大丈夫と絶対の信頼を抱き、迷いなく返してくれる瞳に安堵した。
けれども、香代子は思う。彼が持つ、人に清涼感を抱かせる風は、もしかしたら人に寄り添っておだやかに吹くのを好んでいたのかもしれない。速く、強く吹くだけが風ではないのだ。
「……私は――私たちは、部長は弱いところなんてないんだと思ってた。でも、部長に心がないわけじゃない。私たちが部長の弱さを今まで無視してきたから、部長はたぶん私たちには何も弱音を言えないんだと思う」
“見たくない” 根本の言ったその言葉が、自分たちの本心なのだ。部長の弱いところは見たくない。だって不安になるから。部長が強くないと、自分たちのよりどころがなくて不安になるから。そうして、哲士の心は自分たちと違うように最初からできていると思い込み、彼にも弱さや脆さがあるという当たり前のことをわざと失念した。だから哲士は何年もつきあった自分たちではなく、出会ってひと月も経っていないあの少年の姉に内心を吐露したのだ。そうするしかなかったのだ。
根本は涙をぬぐいもせずに、呆然と虚空を見ていた。そのまま口だけが動く。
「部長は……、事故に遭えば、“強いまま”でいられると思ったのかもしれない。俺らの抱く強い部長の姿を壊さずにいられると思ったのかもしれない。インカレが嫌だ、怖いって結局言えなくて……俺たちのために強い部長でいることを選んで……」
根本の顔がくしゃりと崩れる。彼はそこでついに激しく体を震わせて慟哭した。
「部長を追い込んだのは俺らだったのかもしれない……っ!」
根本の男としての最後の意地なのか、彼は声を押し殺していた。けれども、彼の手に持っている紙コップのコーヒーの水面が激しく揺れる。湯気もたたないそれを香代子は根本の肩を抱きながらじっと見ていた。忙しそうに通り過ぎる医師や看護師、具合の悪そうな患者すら何事かとこちらを見たけれど、香代子は構わなかった。触れたところから伝わる根本の体の振動が止むまでそのままでいた。
やがて、根本は重い動きで伏せていた顔を上げた。表情がごそっと抜けてしまったような顔で彼は腰を上げ、香代子の腕の中から抜ける。
「俺、今日は帰るわ。マネージャーは部長に会ってって」
立ち上がった根本は張りのない声でそう言った。決してこちらを向こうとしなかった。
「マネージャーはさ、わかってるんだろ? 部長がマネージャーのこと好きだって」
背を向けたまま放たれた根本の言葉に、香代子は答えられない。自分の哲士の恋心を見ないようにしていた自分の態度は、彼の弱さを無視したことと重なって思えたからだ。自分は哲士と向き合うことを根本的に避けている。
「部長を助けてくれよ。古賀は陸上があるから、もうひとりでやっていけるだろ? だったら、今度は部長を救ってやってくれよ」
背を向けたまま、両の拳をにぎって言う根本の肩は細かく震えていた。
「部長を受け入れてくれよ。部長が好きなのはずっと前からマネージャーひとりなんだよ」
哲士と香代子と根本。ずっと三人でチームメイトとしておだやかに過ごしてきた関係が崩れる。
「勝手なこと言ってるのはわかってる。でも頼む……」
頼む、と肩を落として繰り返した根本の言葉の語尾が待合室の雑音に消える。
「私……」
私、そんなたいそうな存在じゃない。人ひとりを救えるような人間じゃない。でも部長を放っておくの。また見ないふりをするの――?
喉に張り付いたまま、声が出ない。
結局、香代子は何も言うことができなかった。根本との間には、むなしく院内アナウンスが響き渡っていった。
根本が帰った後、今度は香代子が長く待合室の椅子で座りこみ、看護士に具合が悪いのかと声をかけられるほどぼんやりしていた。待合室から診察を待つ人が空いた頃、やっと腰を上げる。
哲士に対し、どういう態度をとっていいかまだ決めかねていた。自分は由貴也が好きだ。けれど、哲士をこのままの状態にしておけるかといわれると無理だ。
「部長」
香代子は努めて明るい声と表情で、哲士の病室に顔を出した。
窓の外を見ていた哲士の顔がゆっくりとこちらを向く。朱色の光を後ろから浴びて哲士の輪郭を縁取る。その中で哲士が淡く、薄く微笑んだ。その笑みは儚くて、消えてしまいそうで、香代子は思わず、哲士に駆け寄っていた。
――ここから消えたいって言って泣いてた。
根本の言葉が脳裏によみがえる。今の哲士は消えてなくなってしまいそうだ。存在自体が希薄で、手を伸ばしても、彼に触れることができなそうだ。
香代子の無意識に伸ばした手は、哲士のあごの先に触れた。
「マネージャー、何を……」
「ここからいなくならないで。消えてしまわないでよ!」
困惑気味の哲士の言葉を遮って、香代子は叫んだ。
「そんな風に無理して笑わないで!」
気が付くと、自分の頬に涙が伝っていた。こんな風に泣いてはだめだ。こんなことを言ってはいけなかった。これでは哲士の隠してきた弱さを指摘したようなものだ。彼のプライドを守らなくてはいけなかった。足をつぶしてまで保とうとした“彼の強さ”を尊重しなければいけなかった。今の哲士はギリギリのところで自分を保っていたのだから。
哲士は時を止めたように表情を止めていた。香代子を見たまま動かない瞳に、彼の中で静かに何かが崩壊していくのがわかった。彼は長い間、子供に返ったような顔で、香代子に視線をそそぎ続けていた。
やがて、日が翳るように哲士は視線を下ろして苦笑した。その顔はすべてを察し、すべてを達観し、同時にすべてを諦観していた。
「……俺はもう部長でいる必要はないのか」
冗談めかして哲士が力なく笑って見せる。彼は香代子が哲士が車の前に身を投げ出した原因をわかっていることを理解したのだ。そして香代子は哲士にとって、“部長”という単語が、“強さ”と同義であると知った。
哲士の心を守らなければいけなかった。同時に、哲士の心をここに引き留めたかった。演じているその強さだけを見れば、彼の心を保てるかもしれない。けれども永遠に哲士は自分たちの前で弱さをさらけ出させず、無理をし続けていく。彼の足が治ったところで、それでは今までと何も変わらない。
哲士は小さく笑い声を漏らす。その声も、表情も、姿も、存在も、今までの彼とは違った。香代子の知っている“頼れる部長”ではなかった。
「……俺はいつだってマネージャーの理想の男でありたかったよ。『真面目で堅実で誠実な人がいい』って言ったの覚えてる?』
香代子は哲士の問いに首を振った。哲士は香代子の反応を予想していたようにかすかに笑って、視線を掛け布団の上で組んだ彼の手の上に下ろした。
「真面目で堅実で誠実な人間になって、インカレで活躍して、そうじゃないとマネージャーに告白できないとずっと思ってた」
哲士のつぶやきには悔しさだとか羞恥だとかは含まれていなかった。ただただ黄昏のようなもの哀しさが彼の中にはあって、それは怒りや慟哭よりも深く、彼の心を蝕んでいくようだった。
哲士の視線がゆっくりと上がって、香代子に向く。目があった瞬間、輪郭がなく、あいまいだった彼の存在がはっきりとした。哲士の鋭さを増した目に射抜かれた瞬間、体が傾いていた。
哲士に手を引っ張られたと理解すると同時に、香代子は片膝をベットの上についていた。体を支えようとシーツの上についた手は、伸びてきた哲士の腕にさらわれる。
外界からの音が遮断される。自分の中から一切の音がなくなったようだ。香代子の神経はすべて哲士に向く。今、この瞬間、香代子は哲士の腕の中にいた。
「……マネージャーがそばにいてくれるなら、俺は絶対に立ち直ってみせるから」
離して、と言おうとした声は、哲士の言葉に先んじられる。絞り出すようなか細く、苦しい声だった。
「こんなやり方は汚いってわかってる。でももう狡くなる以外にどうしたらいいかわからない」
声を発するたびに、哲士の喉が震える音すら聞こえるほど密着して、香代子はその言葉を聞いていた。ずっと正しくありたいと願い、現にそうしてきた哲士が、最後にどうしようもなくなってこの手段をとったのが香代子にはわかっていた。正しいことは苦しい。正しいことは報われないし、正しいことは身をすり減らす。狡さを得て、哲士は香代子を自分のそばに留めようとする。ボロボロの自分を見せつけて、香代子がいればこの状態から脱してみせると言う。
――部長を受け入れてくれよ。部長を救ってくれよ。
根本の声が、香代子を責め、惑わすように胸の中で響いた。哲士は香代子を望んでいる。自分は誰かを救えるようなたいそうな人間ではない。けれども、腕の中に納めた香代子をすがりつくように掻き抱くこの人を自分は突き放すことができない。哲士の言う『そばにいて欲しい』という言葉が、マネージャーや友人としてという意味ではないと香代子は正しくわかっていた。
哲士の腕がいっそう強く香代子を抱く。
「好きだ」
夕暮れに落ちるその言葉を、香代子は絶望とともに聞いた。こうなることは心のどこかでわかっていたのに。そして、この切れる寸前の糸のようなこの声と言葉を聞いたなら、自分がまともでいられるはずもないのに。
この人の抱擁を自分はもう拒めない。香代子は哲士の背に手を回す。
この結末は、この病室に来た時から決まっていたのだと、今この瞬間、香代子は確信を抱いていた。




