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初恋の君へ  作者: ななえ
大学生編
108/127

神さまの手のひら3

 九月中旬の日曜、哲士は新幹線を使い、地元から遠く離れた競技場に来ていた。

 全日本ジュニア選手権。この大会の結果を見届けるために哲士は地区インカレを控えていながらひとりではるばるやってきたのだった。

 今年は東北地方の県で開催のため、こちらは季節が関東よりも一月くらい進んでいる気がする。空には層状の雲が広がり、すっかり秋の空気を出している。哲士は競技場に行くバスの中でそんなことを考えていた。

 全日本ジュニア選手権は、名前に“ジュニア”がつく通り、十八歳以下に出場権を与えた大会になっている。もちろん、次の誕生日で二十歳になる哲士に出場権はない。だが、この大会は哲士の運命を左右する大会なのだった。由貴也が出場するからだ。

 近づいてきた競技場を車窓から眺めつつ、思いをめぐらす。哲士が日本インカレに出場するには、まずは哲士自身が地区インカレか、東日本インカレで優勝し、出場資格Cを手にしなくてはいけない。だが、優勝しても哲士は日本インカレには出場できない。同一チーム内に日本インカレ参加標準記録Bを突破し、出場資格Bを持つ由貴也がいるからだ。出場資格B・Cでは、当然Bが優先される。

 その状況を打開するための唯一の方法、それが由貴也が参加標準記録Aを突破し、出場資格Aを手にすることだった。

 出場資格Aを持つ選手がいる場合、保持出場資格B、Cに関わらず、同一チーム内からもうひとりインカレ本選に出場できる。同一チーム内B・Cという組み合わせは不可能だが、A・Cという組み合わせならば、日本インカレ出場は可能なのだ。

 由貴也のベストタイムは去年のインターハイの十秒五二。参加標準記録Aは十秒五〇。破るのは不可能ではなかった。そして、インカレ本選の出場資格として使える正式タイムは九月中旬の大会まで――由貴也の場合、今日までなのだった。

 バスから下りると、風を感じた。これはスタートからゴールに吹く風――追い風だ。追い風も過ぎると『追い風参考記録』となり、正式な記録として使えないが、今日はそうなるかならないかのぎりぎりの風速を保っていそうだ。短距離においては風も重要な要素だ。追い風が強ければいいタイムが出やすい。そう考えると、今日は追い風参考記録となるリスクはあるものの、絶好の日和だった。

 競技場のまわりには、十八歳以下の若い選手がわらわらとたむろしている。彼らは大体高校生か、大学一年生だ。大学に入ってからは、大学生対象の大会か、学生・実業団混合の一般の部に出場することが多かったので、彼らの完成していない体つきは何とも華奢に見える。哲士も成長期を迎えたのは中学の終わりからと、決して早い方ではなかったが、成人を間近に控えた今では体型の変化に走りが煩わされることはなくなった。

 観客席に上がると、所々出場選手の応援団がいる他はまばらだった。哲士はスタンド席の端に腰かける。

 ちょうど開会式が終わった時間を見計らって来たので、トラックの中は忙しく関係者たちが行き交っている。この後すぐに由貴也の出場種目である男子百メートル走が始まる。

 トラックの隅に由貴也が見えた。赤いラインが入った黒地のユニフォームは部活のものではなく、クラブのもので、それを示すようにかたわらには若いクラブの女性コーチが控えている。哲士はそれを複雑な気分で眺めた。

 コーチによる専門的な指導。そしてクラブの充実した施設とバックアップ。それが彼の大学進学に合わせて降ってきたのは運が良いとしか言いようがない。いや、上へ登っていくアスリートというのは、そういう運の良さも兼ね備えている。思い返せば立志院時代、彼が高二に上がる時に、体育大学卒の陸上経験者が教師として赴任し、それまで指導者不在だった陸上部の顧問となるなど、由貴也はとにかく恵まれていた。

 運も実力のうち。もちろん並々ならぬ努力もあったとわかっているが、由貴也を見ているとそう思わされる。

 哲士はずっと由貴也の背中を見てきた。由貴也と哲士の中学は近くにあり、良く練習試合などで一緒になった。

 最初は女子かと見間違うほどの顔だけしか特筆すべきことはなかったのに、いつのまにか哲士をスタート時に置き去りにし、彼は彼方へ走り去った。全身全霊を懸けて陸上をやってきたというのに、哲士はいとも簡単に由貴也に抜かされた。彼はまたたく間に県のトップクラスまで登りつめ、県の中学記録保持者になった。

 彼には時々、びっくりするぐらい綺麗な中学生の女の子が応援に来ていて、それが立志院の中等部の制服をまとった彼の従姉・古賀 巴だと知ったのは後々のことだった。

 才能がものをいう短距離走の世界にあって、彼は陸上の女神に愛されていたし、あの整った顔立ちではクラスで哲士のように虐げられるということもなかっただろう。従姉の巴と並ぶと、そこだけ別世界のようだった。

 中学生の哲士は、由貴也の存在を許すことがどうしてもできなかった。容姿にも恵まれ、足の速さも持ち合わせ、由貴也の理解者然とした美しい従姉と独自の雰囲気を作り出す彼を認めてしまったら、何一つとして持っていない自分の存在を不公平だと思ってしまうから。

 ――どうして、どうして陸上の才能だけでも自分にくれなかったのだろう。あいつは、陸上の才能がなくたって、明日を生きていける。けれど哲士は陸上がなければ、あのクラスの中で何を支えに生きていけばいいのだろう。

『全日本ジュニア選手権、男子百メートルの部、予選を開始します』

 現実のアナウンスが追憶から哲士を引き戻す。哲士は苦笑した。中学生の頃、火にあぶられるように由貴也に嫉妬した自分が、いまは彼の先輩としてあるだなんて。あの頃は想像もしなかった。

 グラウンドでは選手紹介のアナウンスがなされていた。陸上は高校野球などに比べればメジャーとは言えないが、それなりに熱心な選手の追っかけがいる。ここにいるのは若く、日本の陸上界を背負って立つような逸材ばかりだ。これから注目して応援していくには格好の選手ばかりだった。

『百二十五番、古賀 由貴也くん』

 由貴也の名前がコールされ、スタンドの大きなディスプレイにその顔が写し出された瞬間、ひときわ大きな黄色い歓声が上がった。女性ファンでなくとも、おおと声を漏らしたくなるような由貴也の顔だ。いつもは眠そうにまぶたが半分下がっているのに、今は完全に開いている。顔つきが明らかに違うのだ。眉が上がり、口が引き結ばれ、視線は遠くを見すえて光っている。全体的に鋭利な雰囲気を醸し出していた。

 哲士は思う。由貴也の普段の省エネのような生命力のなさは、走るときのために力を温存しているからではないかと。そんな馬鹿げたことを思ってしまうくらい、今日の由貴也は気合いが入っていた。

『用意』

 そんなことを思っている内に、号令がかかる。腰をあげた選手たちを、哲士は俯瞰した。

 号砲が鳴る。哲士の心臓もひとつ大きく鼓動を打った。

 速い。由貴也はどこにも空気抵抗を受けていないように、風と一体化して上体を起こす。肉眼でもはっきりわかるぐらい、この時点で由貴也は他の選手よりも半身リードしていた。

 哲士は競技者の目で冷静に由貴也を分析する。トップスピードを維持できる時間が長くなった。由貴也は爆発的なスタートを切る前半逃げ切り型だが、スタミナが全体的に不足しているので、中盤にトップスピードにのっても、それを維持できなかったのだ。それが今回、後ろから迫ってきた後半追い込み型の選手に抜かされずに、ゴールまで飛び込んだ。

 由貴也は一位で予選を通過した。電工掲示板のタイム速報は十秒五五。予選だということもあって、全体的に抑え気味の選手が多い中、このタイムは決勝並みに速い。

 もしかして、由貴也は予選から全力でいっている――?

 力のある選手は普通、決勝にピークを持ってくるため、予選は七、八割方の力で流すのだ。観客席の哲士の疑問に、赤いトラックの上で汗をぬぐう由貴也は当然ながら答えず、視線もよこさない。

 その時、アナウンスが『ただいまのレースは、風速二メートル毎秒を越えたため、追い風参考記録となります』と告げた。

 次の準決勝でも由貴也は十秒五二をマークしたが、ほんのわずかに風速プラス二メートル毎秒を越えたため、またもや追い風参考記録になった。

 追い風参考記録でも、選手の順位づけはなされるので、粛々と大会は進んでいく。哲士にとっての今日の敵は風で、こればかりは祈ることしかできない。たとえ次の決勝で由貴也が十秒四台を出し、日本インカレの参加標準記録Aを破ったとしても、追い風参考記録となってしまっては何の意味もない。その時点で哲士の日本インカレ出場は断たれる。

 哲士は部長でも何でもないただひとりの競技者として自分の感情をこめて全日本ジュニア選手権を観戦した。ずっと部を率いてきた哲士は大会に来ても何かと気を配ることが多く、いつも観戦どころではない。しかし今日は一人きりの静けさの中、部長という顔を取り払って競技に見入っていた。

 競技場にはためく旗の影が長く伸びる夕刻、最後の競技として男子百メートル走決勝が始まる。

 スタートラインに立つ由貴也を見て、哲士は成長したな、としみじみと思っていた。由貴也といえば、体力がない選手の代名詞のようになっていて、予選、準決勝と走ると、決勝の時にはもう疲れてげっそりとしていた。それを避けようとして、予選、準決勝で力を温存しすぎると、肝心の決勝でエンジンがかかりきらず、不完全燃焼で終わってしまう。彼は根本的なスタミナ不足に加えて、体力の配分も下手だったのだ。

 それが今日は朝見た顔と寸分違わず、気合いの入ったままの顔をさらしている。前は着られているようだった黒地に赤のラインが入ったシンプルながらも派手なクラブのユニフォームも、今は彼の存在感を増す小道具として作用している。赤い地面に黒いウェアは良く映えた。

『全日本ジュニア選手権、男子百メートルの部、出場選手を紹介いたします』

 ファンファーレとともに、アナウンスが流れる。第一レーンの選手から流れるように紹介が進んでいく。

 第四レーンの由貴也の名前が呼ばれた時、予選の時のような歓声は起こらなかった。ただ夕日の中で立っているだけなのに、由貴也は騒がしさを受け付けない異様な迫力を醸し出していた。一分の隙もなく整えられた彼の集中を乱すかのようで、誰も声を上げられない。

 決勝は準決勝通過タイムが良い順に真ん中から並ぶ。中心のレーンにいるもうひとりは坂井 達哉という高校三年生の天才スプリンターだった。

 西では向かうところ敵なしだった当時高校三年だった五十嵐 竜二を全国では万年二位にならしめたのが、弱冠高校一年の坂井だった。竜二のふたつ名『西の五十嵐』は『東の坂井』とワンセットで語られるものとなっている。そして後に坂井の連勝を受け形骸化した。坂井の存在は“東”に留まるものではなかったからだ。

 由貴也高校三年のインターハイで坂井は二連覇と高校生新記録を樹立した。続いて今年、周囲の期待を裏切らず、前人未到のインターハイ三連覇を達成し、この全日本ジュニア選手権も優勝を持っていこうとしている。

 坂井自体は、至って普通の男子だった。ぺたんと垂れた髪に、細い瞳を持つ、どちらかといえば地味な高校生だ。教室にいてもたぶん誰も気にかけない。

 だが、レーンに立つ彼はやはりただ者ではない。そのたたずまいはどこまでも静かだった。まばたきもせず、彼のまわりだけ時が止まったようだ。たとえ今、未曾有の大災害がここで起こっても、まったく動じなそうだった。

 どこまでも揺るがない、メンタルの強さ。誰も彼が負ける可能性を考えないほどにその姿は安心感と確信とともにあった。

 それでも哲士は信じる。由貴也の勝利を。

『位置について』

 由貴也と坂井は目を合わせずにスターティングブロックに足を置く。まるで隣り合っていながらも、お互いが存在していないような振る舞いだ。

『用意』

 静寂。そして――。

 風が起こる。ピストル音すら霞ませるような風圧が、選手から発せられたようだ。哲士が目をすがめ、再び見開いた頃には、レースは半分を越えていた。

 後半追い込み型の坂井が由貴也に肉薄する。後半の伸びが期待できない由貴也は追いつかれたら終わりだ。ついにふたりが並ぶ。

 哲士はやはり今回もいつもの由貴也のレース展開になってしまうのか、と奥歯を噛む。が、由貴也はなかなか坂井の先行を許さなかった。

 哲士は目を見開く。由貴也が序盤ならともかく、レースの終盤でここまでの粘りを見せるとは思わなかった。それに彼にはここまで粘る体力もなかった。

 横から見ると、ほぼ体が重なりあった状態で、由貴也と坂井はゴールに入っていく。ゴール横の風速板には風速プラス一・九の表示が出ていた。ぎりぎり追い風参考記録とならなくて済んだ。

 競技場がざわめきに包まれている。観客は皆、タイム速報が出るのを期待とともに待っている。哲士も体感として、今のレースが速かったことはわかっていた。

 次の瞬間、競技場は観客の少なさからは想像もできないような歓声に包まれた。風速板の隣に置かれた速報板が刻んだ一位のタイムは十秒四九。

 どっちだ――?

 競技場の中にいるすべての人が思っている問いかけを、哲士もまたなぞる。一位は由貴也か坂井か。

 電工掲示板に順位はまだでない。おそらくフィニッシュ写真を解析しているのだろう。この写真は百分の一秒までコマ割りできる。

 競技場内は徐々に騒がしくなってきた。あまりにもタイムが出るまでが通常に比べて長すぎる。哲士は息を詰めて待った。十秒四九。もし一位が由貴也なら、哲士のインカレへの道は繋がれる。いまだに真っ黒の電光掲示板はまだ答えを出さない。

 がちがちに強ばっていた体をほぐすように目を閉じて息を吸って吐くと、競技場が割れんばかりの観客の声に揺れた。結果が出たのだ。哲士はゆっくりと目を開ける。

 オレンジの点は、電光掲示板の一番上に『坂井 達哉』の文字を形作った。一位は坂井だった。

 由貴也はと視線を滑らせ、坂井の下を見ると、彼の名前があった。哲士は目を見開く。由貴也の名前横に表示されていた順位もまた一位だった。タイムも十秒四九だ。

 同着――!!

 タイムを争う競技である以上、同時にゴールするということもあり得なくはない。ただ、公式記録には百分の一秒までしか載らないが、実際にはタイム計測器は千分の一秒まで計れる。にもかかわらず、由貴也たちは天文学的な確率である同着をしてみせたのだ。

 哲士は額に手を当てて、まったくやっぱり古賀はやってくれる、と自分の手の下で笑った。まさか同時にゴールするとは。だが、これで哲士のインカレ出場への道は開かれたのだ。

 誰かの視線を感じて、顔から手をはずし、競技場のトラックを見下ろすと、由貴也が一直線にこちらを見ていた。それはまぎれもなく観客席のただ一点――哲士に向けられたものだった。

 由貴也には今日見に来るとは伝えていない。けれども、彼の目は一直線に哲士を射抜き、語っていた。インカレへの道は作った、と。

 由貴也はなすべきことをやった。ならば次は自分の番だ。

 哲士は由貴也の視線に応えるようにいささか挑戦的に笑み、無言で競技場を後にする。もはや自分たちの間に言葉は必要なかった。

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