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初恋の君へ  作者: ななえ
大学生編
102/127

鎖7

 香代子が目を覚ましたのは翌日の早朝だった。

 節々が痛く、顔が熱く、体がだるくて重い。目を開けるのも、息をするのも苦しいけれど、頭もそれなりに働き、何とか動けそうだった。

 上体を起こさず、目だけを動かしてここはどこだろうと思う。見慣れない室内は、まだ新しいようで壁も天井も染みひとつない。濃い色目のフローリングも傷がなく、カーテンが引かれているけれど、朝日が漏れる窓は大きい。少なくとも香代子の部屋ではなかった。

 乾いた服、温かくやわらかい布団。カーテンの隙間から射し込む明るい陽光。体調は最悪で、体の至るところがただ寝ているだけで悲鳴を上げているのに、心は不思議とここにいるのを嫌がっていなかった。

 本当にどこだろう、ここ。そもそも私、階段から落ちて、どうなったんだろう。

 記憶をたぐりよせて、よみがえってきた父親の暴力に、香代子はぎゅっと目をつむった。思い出すだけで、心臓が早い鼓動を打ち、平静でいられなくなる。怖い。飛んでくる拳が、父親から向けられる不埒な意図を含んだまなざしが、どうしようもなく怖い。

 布団に寝かされていても、ここも安全かどうかわからない。早く逃げないと、と香代子は痛む体に鞭を打って起き上がろうとした。

「何やってんの」

 突如としてかかった自分以外の声に驚くよりも先に、香代子はその声の主から起きるのを押し止められていた。見れば、香代子の頭の上には折りたたまれた腕があり、横を向いてみれば胸板と喉仏があり、布団の上には香代子の肩を抱くように、もう一本の腕があった。つまりは添い寝されている状況下にあった。

 その添い寝をして、香代子が上体を起こそうとしたのを阻んだ人物は、まぎれもなく由貴也だった。

「由……貴也。何で……」

 一音一音発声するたびに、口が痛む。きっと口の中を切っているせいだ。

 そう思っていたら、由貴也の片手が、香代子の痛む側の頬に触れた。

「しゃべんなくていいよ」

 香代子の頬に触れたままで由貴也は続ける。

「アパートの前でアンタがぶっ倒れてたから拾ってきた」

 何でもないことのように、どうしてここにいるのか、という疑問に由貴也が答える。香代子の頬に触れている由貴也の手の親指が香代子の唇の端をなでた。その瞬間に香代子は身をすくめてしまう。

 自分のものとは違う、骨ばった大きな手に恐怖をかきたてられる。この手はやろうと思えば香代子をねじ伏せられる手だ。香代子を好き勝手に乱暴に扱える男の手だ。

 同時に、由貴也に対してそう思ってしまった自分に恥じる。由貴也はそんなことをしないのに。暴力を振るった父親と一緒にしてはいけないのに。

 由貴也の手が頬から離れていって、香代子は思わず謝るために口を開こうとする。香代子がごめんと発するのに先んじて「いいから寝てなよ」と由貴也が言ってきた。

「……もう、大丈夫。起きる」

 由貴也にしゃべるなと言われたのも忘れて、そう言って再び起き上がろうとする。

「ダメ」

 由貴也に怪我にさわらないくらいにやんわりと肩を抱かれ、動きを止められた。何だか、添い寝という名の拘束をされている気分になる。そう思った直後、由貴也の顔が近づいてきて、こつんと額が合わさった。

「まだ熱あるじゃん」

 由貴也がしゃべるたびに、吐息がかかるほどに距離が近い。朝なのにカーテンが閉まったままの部屋のわずかな光のもとで見る由貴也は、いつもと変わらないように見えて、やけに神妙そうに見えた。

「寝てなよ」

 さっきから寝ろ寝ろと連呼され、香代子は思う。もしかして、心配してくれているの、と。

 重なっていた額が離れていくと同時に、由貴也の頬についた一筋のひっかき傷が目についた。香代子は思わず手を伸ばす。これは私がやったの、と。階段から落下してどのくらいの時間が経過してるかはわからないけれど、寝ている間、とにかく寒くて苦しかった。逃げなくてはいけない、父親を実家に行かせてはいけないという気持ちが逸り、そういった悪夢ばかりを見ていた。その気持ちのままに夢うつつで暴れたなら、由貴也を傷つけた可能性がある。

「……ほっぺ、痛い?」

 指先で由貴也の頬に触れるか触れないかの距離を保ちながら尋ねると、由貴也は「アンタの怪我ほどは」と答えた。

 いつも通りの平坦な由貴也の言葉なのに、なぜだか涙が出そうになる。父親は香代子の痛みには無頓着だった。だからこそあんなにも躊躇なく暴力を振るうことができた。けれども口を開けば寝ろといい、香代子の怪我の痛みを理解した言動をとる由貴也は父親とは違う。きっと彼の手は、香代子を傷つけるために動きはしない。

 父親のことは香代子の問題であり、由貴也を巻き込んではいけない。そうは思いながらも、香代子は長いためらいの後そっと由貴也にしがみついた。

 由貴也が着ているTシャツをつかんで、その胸板に頭をつける。由貴也の腕の輪の中に深く潜り込んで、目の前をその存在でいっぱいにすると、自分でも驚くほどの量の涙が込み上げてきた。

 由貴也に対して甘えたり頼ったりしてはいけないと思っていた。彼は今、陸上選手として正念場を迎えている。だから、由貴也に陸上以外の負担を与えてはいけない。

 でも頼ってしまう。甘えてしまう。手を伸ばしてしまう。感情が理性を超える。こうして由貴也の存在の影に隠れて安堵して、子供のように泣きじゃくる。本当は由貴也に会いたかった。その体に抱きつきたかった。守ってほしかった。香代子は由貴也のTシャツの胸元を握りこんだ。怪我のせいなのか、熱のせいなのか、彼を巻き込む前に去らなくてはと思っても、由貴也と離れられない。

 由貴也の手がためらいがちに動き、ぎこちなく香代子の頭をなでた。人に優しくするという行動に慣れていない由貴也の手つきは固かったけれども、その手の先から彼なりの懸命の労り方というものを感じて、香代子の涙はますます止まらなくなる。

 香代子は涙とともに、横暴な父親のもとでも、普通の生活を送ろうとしていた自分の気力というものが溶けて流れていくのを感じた。精神の張りがなくなり、怪我の痛みと発熱による体力の消耗が限界に達する。由貴也のおだやかな手のひらを感じながら涙に濡れた目をつぶると、ほどなく眠りに誘われた。

 それは久しぶりの深く安心した眠りだった。







 日がな一日、由貴也の腕の中で香代子は休んだ。由貴也は厭わず、香代子のそばで添い寝をし続け、とにかく香代子を寝かせたがった。由貴也に言われるまでもなく、精神的にも肉体的にもひどく弱っていた香代子は一日のほとんどを寝て過ごした。

 父親に殴られたり、襲われたりという事実に基づく悪夢を繰り返し見たけれど、目が覚めるといつだって由貴也が隣にいた。そのことがとてつもない安堵を香代子にもたらした。

 嫌な夢の恐怖に、由貴也にすりよると、彼は不器用なしぐさで香代子の髪をなでた。その手つきが、いつも香代子が由貴也に与えるなで方にそっくりだと気づいたのは、だいぶ回復した後のことだった。

 生来の丈夫さのおかげで、その翌日には微熱にまで熱も下がり、肩がひどく痛むもののベットの上で体を起こせるまでになった。

 とにかく由貴也はドラッグストアで恐ろしい量のものを買い込んでいた。湿布やコールドスプレー、薬や食べ物など、必要だと思われるものは片っ端から買ったらしい。その中のインスタントのお粥を香代子は何とかすする。固形物は口の中が切れているから、まだ当分食べられそうにない。

「アンタ、しばらくここにいなよ」

 キッチンから戻ってきた由貴也が口を開く。由貴也の手にはプリンがのった器があった。それを香代子に手渡す。食べろということだろう。

「ここにって、でも……」

 とまどいを見せた香代子の問題を解決するように、由貴也がプリンに次いで何かの冊子を香代子に手渡す。それは女性用の衣服と日用品の通信販売カタログだった。

 由貴也は彼自身の携帯とクレジットカードもベットに放る。これで当座の必要なものを買えということだろう。ぬかりがないというか、手際がいいというか、とにもかくにも、香代子は驚いた。それは男性にしては細やかな気づかいといえるものだったからだ。

 香代子は由貴也のここにいろという言葉に逆らえなかった。それは彼がこうして必要なものをそろえるように配慮してくれたからではない。もうその言葉に逆らうだけの気力が残っていなかったからだ。階段から落ちた時に自分の中の何かが切れて、動けなくなってしまった。

 幸いなことに由貴也は何も聞かなかった。だから香代子も何も言わずに、ぼんやりと思考を止めて過ごした。父親が自分に手を出そうとしたなど冷静に考えたくはない。

 もう何も考えたくない。あの部屋にも戻りたくない。香代子はベットボードに背を預け、太腿の上で組んだ自分の手をじっと見ていた。ひとしきり泣いて、微熱があり、怪我をした肩が動かせないものの体はある程度回復した。これから普通の生活に戻るなり、父親と向き合うなり何なりしないといけないのに、自分の中の回線が切れたように何もする気が起きなかった。

 由貴也が身支度を整えて、香代子がいる居間兼寝室に戻ってくる。ジャージを着ているからこれからクラブの練習に行くところなのだろう。にしても由貴也はさっきから意味もなくキッチンと居間を往復している。その由貴也の真意に気づいて、香代子は口を開いた。

「……練習に行っていいよ。大丈夫だから」

 由貴也は香代子を置いて、練習に行っていいものかと悩んでいるのだろう。その彼の背中を押す。

「もうだいぶ体の方もいいし……お風呂借りていい? いないうちに入るから」

 大丈夫と言ってもなおその場を動かない由貴也に、入浴という単語を出して体よく追い払おうとする。お風呂に入るから出てってと言われれば、由貴也でもうなずくしかないだろう。

 けれども由貴也はしぶとかった。そこまで言われてもなお、じっと香代子の顔を凝視している。本当に香代子が口で言うように大丈夫なのか、由貴也の全身全霊を懸けて調べているようにみえた。

「練習に遅れちゃうよ」

 そう言って、ベットから出て、実力行使で由貴也の体を玄関に押していこうとすると、ようやくしぶしぶといった体で出て行った。と思ったら、しばらく経った後、閉まったはずの玄関の扉が開いて、由貴也が無言で何かを突き出してきた。ビニール袋に入ったそれはコンビニスイーツの詰め合わせで、商品棚にあったスイーツすべてを買ってきたのではないかというぐらいの量があった。それを香代子に手渡して由貴也は再び出ていく。

 口を酸っぱくして寝ろ寝ろと言った次は食べろということなのだろう。こんなに人のことに構う由貴也は初めて見たかもしれない。

 せっかく買ってきてくれた由貴也には悪いけれど、今は食欲がなかった。食べるという行為すら億劫で、香代子はコンビニスイーツを冷蔵庫に入れ、風呂を借りた。

 由貴也のTシャツとハーフパンツを着て、居間兼寝室に戻る。カーテンが引きっぱなしで暗かったけれど、開く気にもならない。

 こうなって初めて入った由貴也の部屋は、白い壁と黒い家具が対照的な部屋だった。おそらくベットにもなるだろう黒い皮張りのソファーに、大型テレビ。背の低いベットに、同じく低いテーブル。毛足の短いラグ。モノトーンでまとめてあり、物も少ないせいか生活感がない。それは由貴也が練習以外の時間を香代子の部屋で過ごしていたせいもあるのだろう。

 でももうあの部屋もないに等しい。父親に荒らされ、もみ合ってめちゃくちゃになってしまったあそこは、由貴也と過ごしたおだやかな部屋とは似て非なるものになってしまった。

 由貴也が練習で疲れて帰ってきたときにベットを占領しているわけにはいかないと、香代子はソファー寝そべる。いろいろいじれば背もたれを倒すこともできるのだろうけど、それもせずにただ体を縮めて横たわった。

 タオルケットにくるまって、由貴也が練習に行ってくれてよかったと思う。もう地区インカレが近いから、一日の練習も無駄にできない。

 でも、いないと不安で――そこまで考えて、自分が甘え過ぎているのだと思った。由貴也は昨日一日、香代子の隣に身を横たえていながらも眠っていなかった。体調が急変した時に備えるためなのか、香代子が身じろぎをすると彼はぱっと目を開いてこちらの様子を伺った。その行動が寝起きが悪い由貴也にはありえないほど素早かったから、静かに横たわってはいても、睡眠を摂ってはいなかったのだとわかった。

 自分の抱え込んでいる事情を全部彼に渡してしまって、その影に隠れてしまいたかった。けれども、それでは由貴也に負担がかかりすぎてしまうのがわかっていた。

 だから香代子はじっと由貴也が帰って来るのを待つ。由貴也の香りがするタオルケットは香代子につかの間の安らぎをもたらした。

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