070●フロー編●61.もしもの時は
「では陛下はこの部屋から決して出られませんように。ここは頑丈な扉で守られていますし、食料と水も備えてありますので、下手に動くよりは安全です」
「うん、わかった」
緊急避難用の部屋は広くはないが、小さなベッドがふたつに備蓄庫、トイレも備わっている。
窓もあるが他の部屋に比べて随分小さく、外から丸見えにならない頭の位置にあった。そこにはなにか見慣れない装置がついていていて、シャインは時間が惜しいとでもいうようにその窓に向かっていった。そしてその装置に二枚の鏡をセットし、カシャカシャと鏡の前の板を上げたり下げたりして信号を送っている。これは緊急用にと、シャインが独自に作り上げていたものだ。
「シャインは、なんて?」
ラルスを見上げると、その信号内容を教えてくれる。
「クーデター発生、エルベスの町に伝えよ、至急、ですね」
「エルベス……」
エルベスは、兄のディートフリートがいる町だ。もう王族を離脱しているから大丈夫だろうが、それでも無事だろうかと気になる。
その信号で王都の外へと連絡を終えたシャインは、すぐさまフローリアンの前に戻ってきた。
「エルベスの町に連絡をしました。あそこは王都から遠い分、組織の手に染まっていない者が多くいるはずです。ラルス、あなたはこの部屋にいて陛下たちをお守りしなさい」
「はっ!」
「陛下、私は今から状況を確認して参ります」
「気をつけてくれ。そして父さまと母さまはどうしているのかも確認してきてほしい」
「はっ。おそらく、専属の護衛が同じように別の緊急部屋に誘導していると思われますが、確認して報告いたします」
シャインが口早にそう言って、重い扉を開けて出て行こうとした時。リーゼロッテを抱いたままのツェツィーリアが、ぐいっとシャインの袖を掴んだ。
「あの……イグナーツ様は……イグナーツ様は!」
覚悟を決めているとにっこりと笑っていたはずのツェツィーリアが、声を震わせている。
「彼にはこの王城から出て行くように伝えています。リュートを持った一介の音楽家を、無益に殺すようなことはいくらなんでもしないはずです。申し訳ございません、ツェツィーリア様。急ぎますので失礼いたします」
そういうと、今度こそシャインは部屋から出て行った。すぐさまラルスが鍵を閉めてくれる。
ツェツィーリアの顔は青白くて、リーゼロッテを抱いた指は小刻みに震えている。
「大丈夫だよ、ツェツィー……きっと、うまく逃げ出しているはず……」
「だとよいのですが……」
愛する人の安否がわからず、不安そうなツェツィーリアをぎゅっと抱きしめる。
外の騒ぎはだんだんとひどくなっていて、大きな声が聞こえるたびに不安は増した。
「もしものときは、子どもたちだけでも……」
ツェツィーリアのこぼした言葉に、フローリアンの胸も締め付けられる。
考え得る最悪の事態は、徹底抗戦の構えを貫いた末に、ここにまで侵攻されて全員が殺されてしまうこと。
戦況を見極めて、全面降伏をするタイミングを見誤らなければ、首を落とされるのは王一人ですむはずだとフローリアンは拳を握りしめた。
「大丈夫ですよ、お二人とも」
そんな時、落ち着いた低めの優しい声がフローリアンたちに降りてくる。
見上げると、メイベルティーネを抱っこしたラルスが、にっと笑っていた。
「イグナーツ殿は意外に豪胆な方ですし、シャイン殿も明敏な頭脳を持ってますし、なにも心配いらないですよ」
ラルスの自信満々な顔に、メイベルティーネが「だー」と言いながら、ラルスの顔をぺしぺしと叩いている。フローリアンはツェツィーリアと目を合わせると、ぷっと声を揃えて笑った。
ラルスは苦笑いしながらメイベルティーネを手を取り、抱き直しながらもう一度フローリアンたちの方に目を向ける。
「それに、俺もいますよ。フローリアン様とツェツィーリア様、それにベルとリーゼ様は俺が必ず守ってみせますから」
ラルスの声は、どうしてこうも安心させる力があるのだろうか。
頭の中を支配していた恐怖が、徐々に薄らいでいく。
「うん、そうだね。楽観はできないけど、まだ悲観する段階じゃない。今は……戦況を見守ろう」
フローリアンがそういうと、ラルスはもう一度にっこりと笑ってベルを渡してくれた。
柔らかく温かい愛娘の頬を、己の頬とくっつける。
「大丈夫だからね、ベル」
小さな愛しい命。なにも悪いことをしていないこの子たちを不安にさせてはいけないと、フローリアンはメイベルティーネを優しく抱きしめた。
早く収束することを願いながら。




